生きることと、楽しむことの権利は、誰にでもあるさ
初春の住んでいる家は、麓とはいっても、少し坂を上ったところにあり、家の裏手はもうすぐに山林が広がっている。
山と言っても、標高300メートルくらいの小さなもので、初春はこの山を登ったことはまだなかった。
みっしりと茂った山林の太い根が、山道にむき出しに走っていて、ごつごつした山道は、家に来ていた神達が、松明や提灯を持っていたので、明るくて歩きやすかった。山を少し上ると、初春の部屋のベランダから見えるのと同じ、神庭町の夜の明かりと、堤防の向こうの海と、岬の灯台の明かりが、右手の木々の間から見えた。
家に集まっていた神達のうち、半分はそのまま空を飛んで山に飛んで行ってしまったが、半分は山道を歩いている。どうやら空を飛ぶ手段のないのは主に妖怪に多いらしい。
「ん?」
山林の方に入った頃に初春は辺りを見回すと、自分達が来たのとは別の道から、松明の炎を頼りに歩いてくる影が、いくつか確認できた。
「これ、いわゆる百鬼夜行ってやつか? 俺は餌にでもされるのか?」
「坊や、その割にあまり怖がってないね」
着物の女は、恐らく空を飛べるだろうに、初春達についてきていた。とはいっても、まるで丸太のような白い大蛇の背中に寝そべってだ。
「まあ、食われてもあまり大差のない命だからな」
そう言いながら初春は、隣にいる音々の顔を窺った。
「大丈夫か? お前、外に出て」
「ちょっとの間なら平気です。比翼様がお守りもくれましたし……」
「比翼?」
「あたしの事さ、そういえば自己紹介がまだだったね。これでも縁結びの神なんだよ」
「……」
「どうしたんだい?」
「――いや、別に」
初春は思った。
この蛇のような髪の毛に、色白の顔、でかい白蛇に乗って煙管をふかす――
確かに美人だが、その反面で不気味さ満載のこの女が、どう考えても縁結びとまったく関連性がないと感じるのは俺だけか? 縁結びって、ハートの矢を持った全裸の子供とか、金髪碧眼の女神とか、そういうのじゃないのか?
「音々も、ここに来るのは初めてだったかい?」
「水を汲みに来たことはあります。でも夜にここに来るのは初めてですから、楽しみです」
そういう音々の顔は、これから何か楽しいことがあるかのように緩んでいた。
――話をしていると、向かう先の道に篝火が焚かれ、昼間のように目の前が明るくなっているのが見えた。
先程から山道を登っていた神や妖怪達が、ここに集結しているのだった。
「ここは……」
道の先は、初春の数倍はありそうな体の妖怪やらでごった返しており、前が見えなかった。初春はそんな妖怪達の間をすり抜けて、人込みの最前列に来た。
目の前には、直径30メートルほどの、大きな円形の湖があった。湖の水は澄んでおり、その上空は木々が覆っておらず、鏡のような水面に、今日の満月がゆらゆらと反射していた。
「この山の湧水が流れ込んでいる湖です。人間の排出した混ぜ物がない水なので、私達にとっては貴重な水なんですよ」
隣を追いかけてきた音々が言った。
「お前が俺に渡していた水って……」
「この湧水ですよ。ちゃんと飲める水です」
「……」
マジかよ……東京でこんな雨水も溜まる水なんて飲めたもんじゃないぞ。
非常にカルチャーショック……
そんなげんなりした気分でいると。
周りにいた妖怪達が途端色めきだしたのを感じ、初春は上空を見上げた。
上を見ると、湖の上空に、紫龍の乗っていた山犬がやってきたのである。そこから飛び降りた紫龍がふわりとその水面の上に立つと、湖の周りを囲む連中達はこぞって声を上げた。
「……」
あのおっさん、水の上に立ってる……
「まあお前達も待ちくたびれているようじゃからな。さっさと始めるぞ」
紫龍がそう言うと、周りの連中もしんと静まり返った。
「ふぅぅぅ……」
紫龍は腰を落として両拳を握り締めると、今まで鏡のように無風だった水面に小さくさざ波が浮き始める。
波が渦上になって、紫龍の足元を中心に回り始めると、紫龍は右拳を月にかざす。
満月の柔らかな光が、紫龍の右拳を包むと、紫龍はそのまま、白い光に包まれた右拳を、水面に向かって振り下ろした。
渦の中心に拳が撃ち込まれると、湖から水柱が立ち、紫龍の姿が見えなくなった。
うおおおお、と、周りの連中が嬌声を上げる。
「な、なんだこれ?」
「坊や、その水柱の飛沫の匂いを嗅いでごらん」
比翼がそう言うので、初春は少し前に出て、水柱の立った辺りの匂いを嗅いでみる。
「ん……」
何だこの匂い――果物のような、甘い香りだけど……何か、むせるというか……
飛沫の収まった湖の岸にしゃがみ込み、初春は水を指先で触り、指先を舐めてみた。
「これ――酒?」
「そうだよ」
比翼が頷いた。
「さあ、なくなりゃせんから順番じゃ。みんな一列に並んで、持ってきた徳利を出せ」
紫龍が水面から歩いて岸につくと、周りにいた神々がこぞって紫龍の前に一列に並びだした。
よく見ると、湖の周りに来た者は、皆一様に白い徳利を下げていた。
「……」
ただの湧水が、酒になってる……
「あれがお師匠様の神力……すごい」
音々も初めて見たらしく、目を丸くしている。
「満月の夜に、豊穣を祝福する満月の力を借りて行う術さ。これだけの水を一気に酒に変え、味を均一化するのは、紫龍殿ほどの神力がなきゃできない――まあ本来は五穀豊穣を司る恵比寿とかの術だから、紫龍殿が使うと少し荒っぽいけどね」
「……」
「いやぁありがたい、この満月の夜だけが今の楽しみでなぁ」
「酒を供える人間も少なくなった今の世で、酒が飲めるのは何とも贅沢よ」
周りにいる神々の声が聞こえる。列に並んでいる連中の顔は、まるでこれから景品付きのくじ引きでも引くのを待つように、皆嬉しそうな顔をしていた。
「――あのおっさんは、満月の夜はいつも?」
初春は比翼に訊いた。
「ああ、ああして供物を供えられることの減った神や、大人しい妖怪に楽しみを与えるために、満月の夜にこの術をかけに、この湖に来るんだ。この湖は、満月の光が当たらなくなればただの水に戻るけど、あの徳利に入れておけば、酒は水に戻らない――この徳利いっぱいに酒を汲んで、次の満月の夜までの楽しみにするのさ」
「……」
池のほとりで、初春はしゃがみ込んだまま膝を抱え、列の先頭で徳利を持って、湖の酒を汲んで渡す紫龍を見ていた。
「あまりお気に召さないようだね」
その後ろについた比翼は言う。
「あいつら――神を名乗る割には、今は働けてないんだろ? そんな奴等に供物が来ないからって、こういうのは、何か……」
「おや、坊やだって音々を助けようとしているじゃないか。この娘に関しては、過去の実績すらない。生まれてこの方、一度も働いたことのない娘だよ。そんなこの娘に、坊やは『ぷりん』なんてものを買っていたじゃないか」
比翼は煙管をふかしながら、隣に立っている音々の背を叩いた。
「……」
何でこんなにイライラするのか、自分でも制御できない今の気持ちが、初春には酷く不快に感じられた。
初春は昔から、実力もないのに主張の多い奴が嫌いだった。
それは、自分には許されないものだったから。
直哉と結衣の邪魔をするな――それ以外のことを誰も自分に認めてもらえなかった初春は、何も……
思想も、ぬくもりも与えられずに、人間に地べたに這いつくばらされるようにして生きてきたのだ。
そうして最後には、そんな人間達に、自分の人生の可能性さえ潰された。
そんな俺が――何故、音々を助けるなんてことを……
「どんなに駄目な奴でも、生きることと、楽しむことの権利は、誰にでもあるさ」
比翼が言った。
「確かにここにいる連中は、もう力なんてほとんど残ってなくて、いずれは消える――音々ほど弱いわけではないけどね。坊やから見たら、働きもしないで酒ばかり喰らっている、存在価値のない連中に見えるかもしれない――でもね、生きる価値がない、なんて奴が仮にこの世にいたとしてもね。生きている以上、この世に楽しいことがないのはあんまりってもんさ。紫龍殿は、きっと賽の河原でそれを学んできたんだろうさ――坊やはきっと、それをもう知ってたんだろうよ。自分じゃ気付いてないのかもしれないけどね」
「……」
初春の脳裏に、何となく、紫龍の見てきたもののイメージが浮かぶ。
夜も更け、月の光もないような河原で、寝ずに石を積み続ける子供。
確かに、あんまりな光景だとは思う。
だけど……
「勿論、音々にだって、坊やにだってあるさ。この世を楽しむ権利がね。特に坊やは、もっと笑った方がいいね。楽しいこともそれじゃ逃げちまうってもんさ」
「……」
その比翼の言葉を聞いた時。
初春は四つん這いになって池のほとりに這いつくばり、酒になった湖に顔を頭から突っ込んだ。
「は、ハル様?」
音々がびっくりして、初春の許に駆け寄って、初春の顔を湖から上げさせた。
「はあ……はあ……」
思い切り酒を飲み干した初春の顔は、一瞬だったけれど酒に酔って真っ赤になっていた。初春は酒を飲んだのは、これが初めてであった。
「うあああああああああああああっ!」
這いつくばったまま、初春は大声を上げた。
列に並んでいた妖怪達が、ぎょっとして初春の方を見た。
「俺だって笑いたかったよ! でも――誰も許してくれなかったんだよ! 何で俺には笑うことも、生きることも許されないんだよ! 俺は人間じゃないのかよ!」
夜空の満月に、その声は虚しく反響する。
「俺にだって、ささやかな幸せがあったんだよ! それを掴むために努力もしたんだよ! なのに、何で恵まれてる奴が俺から奪うんだよ! 何で俺には何もないんだよ! ふざけんなよぉっ!」
「……」
顔を紅潮させ、首の血管が浮き出るほど渾身の思いの叫びに、傍にいた音々は思わず震えた。
「何で――何で、俺には……」
そう消えるようなか細い声で呟くと、初春はそのまま這いつくばった腕が肘から崩れて、そのまま眠ってしまった。
紫龍が部屋のベッドの上に初春を寝かしつける頃には、時計はもう夜中の2時を過ぎていた。
「酒を飲んだことがないのに、一気に飲んで頭がふらついたのじゃろう。術で腹の酒を水に戻したから、今はただ眠っているだけじゃ」
紫龍はベッドの横で心配そうに初春に付き添う音々に言った。
「しかし、これで分かったか?」
「……」
「この小僧に、お前を助けて神にしたところで、自分に得はない――なのに何故、お前を助ける、などと言ったのか」
「――何となくですけど」
音々は頷いた。
「お師匠様、言ってましたよね。今のハル様は、雪山で遭難していて、もうハル様自身、自分が遭難しているって分かってて、そんな時に闇雲に動くのは死を早めるだけだって知識も持っているくらいには頭がいい――そんな状態だって」
「そうじゃな。加えて言えばこの小僧は、その雪山に、自分を助けに来る者が来ないことも知っている。実の親や親族に見捨てられたのじゃからな。いわば『詰み』じゃ」
「……」
「その『詰み』の状態で、この小僧が何をしようとしているか……それはな、死ぬのを先延ばしにしないことと、出来る限り死ぬまでに何も考えずにころりと死ぬことじゃよ。死ぬのをただ待つというのは、辛いものじゃからな」
「――はい」
音々は頷いた。
「ハル様、言ってましたもんね。自分にはもう『とりあえず』何かすることしかすることがない、って。そうやって何かしながら、何も考えないように、自分を疲れさせて……」
「そう、そしてこういう風に、ぶっ倒れて眠る――余計なことを考える余裕もなくなるくらいに疲れきりたいだけなのじゃ。まあ、思想に乏しいこの小僧の事じゃ、本人は明確には理解しておらんじゃろう。単純に自然とそういう道を選んだ、というだけじゃろうが」
紫龍は音々の頭を撫でた。
「お前を手伝う、なんて言ったのも、要はそのためさ――自分をすり減らすためなら、何でもよかった――それが真実じゃろう」
「……」
「だから――あまり浮かれていちゃいかんぞ。この小僧はお前が思うよりも、ずっと目を離しちゃいかん場所におるからな」
そう言って、紫龍は初春の部屋を出て行った。
部屋に、音々だけが残される。
「……」
小さな寝息を立てて、初春は眠っている。常に表情がないが、寝ている時も表情がない。赤かった顔も、普段の初春の顔色に戻っていた。
初春の部屋は、初春と話すようになってから、入るのは初めてだった。音々は部屋を見回すと、小さなちゃぶ台の上に、今日図書館で借りてきた本が置かれていた。
『日本の神百選』『出雲大社に八百万の神』など、全部神様に関する本ばかりだった。
「ちゃんと図書館で調べてくれたんだ……」
音々はその本を手にとって、初春の寝顔を見る。そして音々は、初春の額に手をやって、そのまま指で額から、薄い頬をなぞった。
「ハル様――ハル様にとっては私のことは、単なる気慰みなのかもしれませんけど……でも、私のことを神様らしいって言ってくれて――すごく……すごく嬉しかったんですよ?」
ひとりごとになるが、音々は初春の方を見ながら言う。
「だから――私はハル様の笑える場所を探してあげたいです。今は足手まといかもしれないけれど……いつか、私だって……」
居間に紫龍が降りると、そこには比翼が座って待っていた。
「坊やは大丈夫かい?」
「ちゃんと腹の酒を水にすぐ戻したからな。今は疲れて寝ているだけじゃ」
「そう」
紫龍も、自分の専門外の大規模な術を使い、疲労困憊だった。ふーっと息を吐いて、腰を下ろした。
「で? 紫龍殿から見て、今日の坊やはどうだった?」
比翼が訊いた。
「紫龍殿が自分から人間に勝負を挑むなんて、ここ数十年なかったからね。おまけに、あの坊や、防戦一方とは言え、紫龍殿と十合以上打ち合えた。今までの相手なら、3合もやったら紫龍殿は当て身一つで終わりにしたはずなのに。あの子に目をかけているようじゃないか」
「……」
紫龍は煙管の灰を落とした。
「比翼、お主はあの小僧を気に入ったようじゃな」
「ああ、少し愛想がないのが欠点だが、筋の通ったいい子じゃないか。あの娘もすっかり懐いちまってるし、今まで来た人間と違って、あの子なら大歓迎さね。紫龍殿から見て、坊やはどうなんだい?」
「まあ、その通りじゃな。あの小僧、相当鍛錬を積んでおる。戦いの天才というわけじゃない。あれは反復で体に染み込ませた動きじゃ。努力の虫なのは分かる。度胸もいい」
比翼は頷いた。
「じゃが――あの小僧には戦いの才能がない」
「え?」
「あの小僧は、本当に相手を叩きのめすために、鍛錬をしてきたわけではない――ただ自分の助かる確率を上げるためだけに、鍛錬をした。あいつの戦いは、生存確率の計算じゃ。生存確率が百になれば、相手に追撃もしないし、生存確率が零になったら、あの小僧は自分が傷つくのを仕方ないと享受しておる」
「――つまり、どういうことだい?」
「あの小僧は、本来は戦闘の適性が全くない――本来は人も殴れないような気弱な子供じゃったろう。その痛みやうしろめたさから逃れるために、戦闘中に一切の思想を捨てておる――善悪も、正否もない――ただ自分の生存確率を上げることだけを考えるだけの『無』に自分を追いやっておる」
「『無』か……」
「あれだけの『無』で戦うことができてしまう――そんな奴は、少し魔が差しただけで、簡単にその一線を越える……あの小僧、本当にあれは、人を斬れるな。人間が相手なら、相手に対するためらいもない。必要だと感じたら、本当にあれは殺るな」
「そうかい……」
比翼が溜息をついた。
「でも、あの坊やにも、ささやかな幸せがあるとか言っていた。きっと、その頃の思い出が、今の坊やを、魔が差すギリギリに留めているんだろうね」
「ああ、じゃが、時が経てば、思い出というのは脆いものじゃからな……」
「その思いが風化したら、あの坊や、怒りや憎しみ、あるいは好奇心か――些細なことで、魔が差しかねない、か……あの坊やの人間への恨みは本物のようだからね」
沈黙。
「それを抑えているその思い出というのは、あの坊やにとって、本当に大事なものだったんだろうね」




