お前が何故、儂らの姿が見えたのか
「潔いのう」
初春がこんなにあっさりと諦めたことが、紫龍は少し意外だった。
「負けた時に痛い目にあうことを考えてない奴は、実に醜い――人間を見て俺が学んだことの一つだ。負けを認めたらじたばたしねぇよ」
初春は満月の浮かぶ空を仰いだ。
残念無念――と言う気も起きないほどの惨敗である。悔しいという感情もわかないほど、圧倒的な実力差があった。
「しかし、いくつか疑問がある」
「――何だい?」
「最後竹刀を捨てて、攻勢に出たが、あの手を打つのはもう少し粘ってからとは思わなかったのか?」
「――いや、あんた、ほとんど足さばきだけで俺の攻撃をいなしてた。ありゃ、手も使われたら、どれだけ粘っても、俺があんたに決定打を入れることはできないだろう」
「何じゃ、ばれておったのか」
紫龍は頷いた。
「だが、一度儂に左手を使わせたお前の攻撃は見事じゃった。戦いにおける状況判断の速さに、臨機応変の対応、思い切りの良さ――お前、でかい口を叩くだけのことはある。相当強い。そして、これからもっと強くなる」
「――そいつはどうも」
初春は思った。強くなったところで、俺のクソみたいな人生が変わるわけじゃないけど。
「しかし、お前は一対一の戦い方を知らなさすぎるな。お前は一対多数を想定しての戦闘に慣れ過ぎている。それも多勢を組んでいることで、覚悟を決めていない雑兵相手のな」
「……」
「お前の戦闘の哲学は間違ってはいない。無駄な手数を狙わず、一撃一倒を狙う――だが、実力と覚悟が備わっている実力者も同じことを考えている故に、そういう連中には、いくら速くても、一撃で致命傷を与えることはできん……お前はなかなかの腕だが、そんな強い奴との戦闘経験が少なすぎる。だからお前は、たった数秒で手詰まりになった」
「……」
全く正しい、眠くなるほど正しい。
初春自身も知っている。
自分がこれまで殴ってきた連中というのは、本当につまらない人間ばかりだった。
そんな奴等の言葉で自分が汚されるような世界とは、まったく別のところに行きたくて――数か月前には、その道がはっきりと見えていたのだ。
それが……
「……」
紫龍も、そんな初春に同情した。
この小僧が、本当は戦いなど好きではない、自分から進んで人を傷つけるような子供ではないことは、紫龍もこの戦いを経て、よく分かったのである。
それが、戦闘になると、容赦なく目や急所を狙えるほどに残酷になれてしまう。
そこまでになったのは、人間に数えきれないほどの痛みを課されたせいなのだろう。
そして――
「もうひとつ、訊きたい」
「――何だい?」
「お前、儂を本気で殺す気で来たのか?」
「――いや」
「何?」
「あんたは俺に戦いを挑んだがね――あんたができる限り、俺を殴らないようにしていたのは分かったからな。それを知ったら――殺気が乗らなかった――うん、乗らなかったな」
「……」
「なんて言うか――頭をクリアにした、って感じだな。あんたを殴るってことの結果とか、そういうものをとりあえず考えるのをやめて、殴った――そんな感じだな」
「……」
そう、あの聖人のように澄んだ、意図の読めない目――
あれは、殺気や信念で人を傷つける人間の目ではない。
あれはただ単に、相手を傷つけるという結果から目を背けた目だ。
単純に鍛錬の結果をぶつけるだけ――思考を捨てて、ただ反射と防衛本能のみで体を動かす――ミサイルの自動追尾のように、信念で動いたわけではない。決まった行動を取っただけ。
「撃っていいのは、撃たれる覚悟のある奴だけ――そんなことを言った奴がいるがね、俺は出来る限りそんな奴も撃ちたくない。俺が躊躇いなく撃ちたいのは、撃たれる覚悟もないのに人を撃つ奴だけだ」
「それをしなければ、人間でも撃たないか」
「ああ――しかし残念ながら、俺を攻撃した奴でそんな人間は見た事がないがね」
紫龍は縁側に置いていた、自分の煙管を手に取った。
「ふーっ」
煙管の煙を吐いて、紫龍は錫杖の飾りをカランと鳴らした。
その音を聞いて、山の向こうから、大きな山犬がやってきて、初春と紫龍の間に降り立った。
「お前が何故、すぐに儂らの姿が見えたのか、何となくわかった気がする」
「……」
「お前は、自分が人間であるということの誇りがないのだな。自分が人間であるということを、心の底から憎んでいる……人間というものに、目を背けているのだな。だから儂らのような、人間の住む世界とは違う場所にいる者が見えたのじゃろう」
「……」
「俺は人間じゃない――以前お前はそう言っていた。お前は人間を恨んでいるのではない。人間に生まれた自分を恨んでいるのだろう」
「……」
「――まあいい、儂は戦神――人の正義を語る神ではないのでな。比翼、儂は先に行く。お前達も後から来い。
そう言って、紫龍は山犬の背にまたがり、軽く横腹を蹴ると、山犬が元来た山の向こうへと飛んで行ってしまった。
「……」
紫龍は山犬の背に乗り、満月の輝く夜空を疾駆しながら、自分の左手を見た。
「ハル様……」
「ふーっ……」
傍らに駆け寄った音々の横で、初春は胡坐をかいたまま、大きく息を吐いて、そのまま庭に大の字に倒れ込んだ。
「とんでもねぇ……ありゃ勝てんわ」
初春は心の底から降参の声を上げた。
「最後の回り込み――あれはあまりにも速過ぎだ。俺も反応速度には自信があったんだが」
「でも、すごいです、ハル様」
「そうさ、紫龍殿と3合も打ち合える使い手はそういない――真剣の勝負なら、紫龍殿に手傷を負わせてた。坊やもやるじゃないか」
「少し見直したぞ、小僧」
「貴様、音々殿の護衛ができるかもしれんな」
今まで初春を軽んじていた神々達も、その戦いぶりに、初春を認めるのだった。
「あのおっさん、本当にあんた達、慕ってるんだな」
初春は意外そうに言った。
「俺はあのおっさんの魅力は分からんが――強いことだけは分かった。だが、あのおっさん、何でこんな町で、こんな家に居座るようなことしてるんだよ。あのおっさんの強さなら、高天原ってところで、一流の神の仲間入りもできるんじゃないのか?」
初春は紫龍の異常な強さに触れて、その疑問に行き着く。
「他の戦神ってのは、あのおっさんよりはるかに強いのか? 毘沙門や摩利支天みたいなのは」
「そうじゃない。紫龍殿は今でも最強の戦神だよ」
着物の女が言った。
「お師匠様は、若い頃は非常に血気盛んだったそうです。数々の戦場で暴威を振るい、数えきれないほどの屍を生みながら、傷一つ負わない戦神でした」
「……」
「ですがお師匠様は、あまりに好戦的過ぎた故に、自分の力を磨き、試すことだけを求めるあまり、依頼次第で無益な人斬りや、神殺しも請けてしまい、それを重ねた結果、高天原から罰を受けたのです」
「罰?」
「ハル様、賽の河原という場所をご存知ですか?」
「――それって確か、三途の川のほとりにあるっていう……」
「そうです。親に先立って死んだ子供の不孝を償わせる場所――死んだ子供の霊は、そこで天国にも地獄にも行けず、河原の石を積み上げて、天国に行けるという約束の数まで積むのです。ですがそれも、もう少しまで積み上げると、見張りの鬼が崩してしまうんです」
「……」
「その永遠に続く苦行に、子供達は『父に逢いたい』『母に逢いたい』と泣き叫ぶ……その悲しみが、いずれ子供を鬼に変える……紫龍殿に命じられた罰は、賽の河原で鬼になった子供を斬る――いわば河原の護衛をすることだったのさ。紫龍殿はその役目を数百年続けたんだ」
「ですが、ある日お師匠様は、賽の河原を逃げ出したそうです――長年子供を斬り続け、お師匠様はきっとそれが耐えられなくなったのでしょう。それ以来、高天原とも袂を分かって、この神庭町でひっそりと生きることを選んだのです。私とお師匠様が出会ったのも、お師匠様が賽の河原を逃げ出したのがきっかけです――それ以来お師匠様は、アヤカシを斬ることを少しやる以外、剣を取ることをしなくなりました。お師匠様は、子供を鬼にするまで苦しめた高天原の決まりが許せなかったのでしょう」
「……」
にしをむいては ちちこいし
ひがしをむいては ははこいし……
夜風に乗って、そんな歌が、初春の耳にも届くようであった。
「紫龍殿が袈裟を着て、錫杖を持つようになったのは、その頃からさ。御仏を信じない戦神の紫龍殿も、賽の河原で色々思うところがあったんだろうね。まあ、私達は何も聞いたことはないけどね」
「……」
罪もない、助けを請い、泣き叫ぶ子供を、苦痛を与えた後に斬る――
それを何百年も。
人を斬ったことのない、人間を憎む初春であったが。
自分を救うわけでもない神に、その子供達が安らかに眠れたことを、祈りたい気分であった。
だが、その祈りの結果も分かっている。
あのおっさんは、子供達の魂が安らかに眠れなかったからこそ、天界の出世の道を捨てて、こんなところにいるのだろう。
「そんなおっさんだから、天界から離れたお前等が慕うってわけか」
「まあ、それだけじゃないけどね」
着物の女が、裾を抑えながら縁側から立ち上がる。
初春がその女の視線が空を向いていることを知り、後ろを振り向くと。
夜空の向こう――この町の様々なところから、小さな蛍火のようなものや、大きな影がこぞってこの家の方へ向かってくるのが見えた。
その蛍火や影は、この町に住む神やアヤカシが、自分の隠れ家から出てくる姿であった。この家の庭は広いが、まるでトラックのように大きな体躯をした者もいる。家の中も含めて、一気に周りが異形の者ばかりになった。
「何故人間がここにいるのだ!」
「紫龍殿は?」
来たばかりの神々達が、初春を見るなり不機嫌そうに騒ぎ出した。
「その坊やに手を出すんじゃないよ。紫龍殿と10合以上打ち合えた強い子だ。紫龍殿も目をかけてる子だからね」
着物の女が空気を震わすような声で、騒ぐ神々を一喝した。
「紫龍殿はもう山に向かった。先に準備をしているのだろうよ」
「準備?」
初春は訳も分からず首を傾げた。
「お前達何でこんなに今日は集まってるんだ?」
「満月の夜の、月一度の催しです」
音々が言った。
「丁度いい。短い時間だけ、音々と坊やも来るといい。面白いものを見せてあげるよ」




