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お前は死合うつもりで来い

 その言葉を聞いて、居間に上がり込んでいた神や妖怪がびくりと怯えた。

「し、紫龍殿が、こんな人間の小僧と?」

「いくらなんでも、最強の戦神だった紫龍殿と、ただの人間の小僧なんて!」

 まるで紫龍の剣が穢れるとばかりに否定的な声を上げた。

「なに、儂の獲物はこの錫杖じゃ。要は遊びじゃ」

 紫龍は自分が持っている、檜で出来た錫杖を初春に向けた。白木の錫杖は非常に細身で、一撃でも本気で当てたら、そのまま折れてしまいそうな代物だ。地面に設置する杖の先は丸く、ゴム製のクッションがついている。武器としての能力はゼロに等しい。

「お前のその、ジークンドーとかいう格闘技に興味がある。お前、先日儂に蹴りを入れたが、儂が酒が入って油断していたとはいえ、なかなかのもんじゃったからな。じゃが、一撃貰ったことで、儂の戦神の本能が疼くんじゃよ。今度はお前の剣にも興味がある」

「……」

 初春は竹刀を取る。

「は、ハル様」

 居間に出てきた音々が、心配そうな声を上げる。

「ただし、一つ条件を出したい」

 紫龍は錫杖で再び初春を指す。

「儂は基本的に自発的な攻撃はせんが――お前は死合うつもりでかかってこい」

 その紫龍の言葉に、後ろの神々は再びざわめいた。

 それをよそに、紫龍は初春の動きを観察する。

 紫龍がこんな条件を初春につけたのは、初春の心を見極めるためである。

 初春は音々に対し、非常に面倒見がいい。仕事の勤務態度も上々である。

 だが――ファミレスの同僚に向けた殺気に、人間を憎む心――

 非常に優しく生真面目な性質と、それに相反する激しい怒りが、この少年の心で今せめぎあっていることを、紫龍は見抜いていた。

 本当にこいつは、憎しみで人を殺すのか――紫龍はそれを見極めたかった。

「……」

 初春は構えていた竹刀を下ろして、鍔元を左手に持ち、右手で額に手をやった。

「どうした? お前、レストランで同僚に殺気を放っていたじゃろう。実際に殺しをやるのは怖いか?」

「いや、そういうのじゃなく」

初春は静かな口調で言った。

「あんた、戦神ってことは、多分人斬りもしたことがあるんだろ? 当然俺は人を殺したことはないし、実際の殺しを知らない。それに――別におっさんも俺に喧嘩を売りたいわけじゃないだろう。俺もおっさんに、人間ほど個人的な恨みもないし――やってはみるが、恨みがない相手と戦ったことはないんで、殺気が乗るかどうかも分からん――それでよければ、ってだけだ」

「……」

 紫龍のまったく予想していなかった答えであった。

 力むわけでもなく、言い訳で逃げるわけでもなく、いなすわけでもない。

 単純に戦う理由がないゆえに、殺気が乗るかどうかを心配しているだけ。

「戦うことに、あまり乗り気ではないようじゃな」

「あんた、俺を戦闘狂だと勘違いしてないか? 俺は別に今までの人生で、自分から喧嘩を売ったことなんて一度もないんだよ。だが、他の人間共が一方的に絡んできては、俺の全てを否定し、攻撃してきたからな――だから自己防衛のために、こんなことが上手くなっちまったってだけなのさ」

「そう言う割には、戦闘を回避しようとはしないんだな」

「人間に教わったよ。こっちがやめてくれと言っても、こちらを弱いと思っている相手は、絶対にやめてくれないし、中途半端に一度引かせても、遅かれ早かれ喧嘩を売ってくるし、こっちの準備が整ってないところを狙う。結局どの局面で受けても大差ないし、戦闘の回避なんて無駄だから、売られた喧嘩はその場で100%買うことにしている。結果を出してしまうのが、結局一番早く戦いが終わる」

「……」

「だが坊や、相手は選んだ方がいいよ」

 縁側に出ている着物の女が煙管を燻らせた。

「紫龍殿は強い。そんな理由で100%喧嘩を買っていい相手じゃないよ」

「それじゃ俺の嫌いな人間そのものじゃねぇか」

 吐き捨てるように初春は言った。

「無傷で勝てる弱い相手だけを選んで喧嘩を売って力を振りかざし、強者には逃げの一手で常に自身の安全を確保しながら、愉悦を欲する……俺は人間嫌いだが、それなりにプライドを持って人間嫌いをやってるんだ。無傷で済むと思って力を振りかざす――そんな人間みたいなことは、死んでもしたくねぇ」

「……」

「だから、受けるさ。それで叩きのめされるなら、それはそれだ」

 そう言って、初春は構えを取った。

 紫龍の立つ場所からおよそ4~5メートルの間合い。両足を一列に、紫龍の方に、前に来る右足のつま先を向けて構え、右手を前に出し、竹刀を持つ左手は肘を上げて、地面と平行に構えた。

「防具はいいのか? 欲しいなら儂の術で用意してやるが」

「いらない。人間との戦いで、そんな親切なものが用意してあったことはないし、死合うってのはそういうことだと自分なりに解釈しているから」

「……」

「は、ハル様、お師匠様相手に無茶です……」

 音々は心の不安が徐々に大きくなる。

 紫龍は錫杖を正眼に構え、静かに息を吐いた。

 初春の構えは独特である。剣術の居合の型に似ているが、剣を後ろの手に持っている。

 突き主体でこちらの目や内臓を狙って、致命傷を狙うつもりか。奴は初めての『殺し』をそう解釈し、死合用に構えを変えたのか。紫龍はそう分析する。

 しかし……

 紫龍は初春のその構えと、初春の目に視線が行く。

 上手く力の抜けた、いい構えだ。しかも、あの目――酷く静かで、狙いが読みにくい。少なくとも、戦いの前の昂りや恐怖、そんなものをまるで感じない。

 まるで、感情のスイッチが切れているようであった。

 善悪、好悪、正否、真偽、虚実、逡巡――そんなものをひとまず脇に置いている、聖人のような目だった。

「儂はできる限り攻撃はせん。かかってこい」

「基本的に自分から仕掛けるのは苦手だが――分かった。音々、適当に合図を頼む」

「は、はい!」

 音々は背を正す。

 今まで初春を否定的に見ていた周りの神々達も、初春のその引かない姿勢に、茶化す者は既に誰もいなくなり、固唾を飲んでその行方を見守った。

「はじめっ!」

 音々の少し怯えたような号令に、初春は突進する。

 まずは突きを入れてみて、こちらの動きの癖を見るつもりか……紫龍は反射的にそう思った。

 だが。

 初春は紫龍と少し距離を詰めると、2メートルの場所――蹴りの射程外から一気に上段に向けて蹴りを放った。

 初春達の立っている家の庭は、ここ半月、初春が早朝に草むしりを続けていたため、土が掘り返されていて、柔らかい。柔らかい土が蹴りの勢いで跳ね上がり、紫龍の目に向かって土や砂利が跳ね飛ばされた。

「む!」

 紫龍も土が跳ね上がった瞬間にそれを見抜き、体を避けながら、少し目をつぶって、視界をまず防いだ。

 その隙を初春は見逃さず、最初の攻撃。

 しかしその攻撃は竹刀の突きではなく、初春が前に構えていた、右拳の縦拳である。狙いは紫龍の読み通り、紫龍の目であった。紫龍は右手を錫杖から離して、拳が来る前に初春の肩に手を出して、拳の軌道をずらして避けた。

「……」

 だが初春は、右の縦拳をいなされながら、左足で中段蹴りを放ち、紫龍の脇腹を狙った。

 紫龍は後ろに飛んでかわす。再び間合いができるが、初春はその間合いをすぐに詰めに来る。

 初春は最初の構えをほとんど崩さず、竹刀の剣先を小さく鋭く動かしながら、人間の胃のある部分に一突きを放つが、それは紫龍の読み通り、錫杖を使って、軌道を反らすが、初春にとって竹刀はフェイク。

 初春は錫杖に竹刀を払われながら、紫龍の視界が腹回りに来るのを誘い、顔面にそのまま右足でノーステップの蹴りを放った。紫龍はその蹴りをスウェイでかわす。

 息つく間もなく今度は竹刀でもう一度腹を突きにくる。スウェイで視界が空に浮いたところに、下段狙い――紫龍はその自分の隙を察した。

「く」

 竹刀には刃がない。紫龍は左拳で竹刀の剣先を叩いて、その剣を防いだ。

「う」

 初春も、その左拳のはじきの衝撃がきつく、元々軽量の部類に入る体がよろめき、攻撃の流れが止まる。

 互いに距離を取ることを選択。また、4~5メートルの距離を取って、仕切り直しになる。

 その間、わずか10秒の攻防。紫龍の戦いを見たことのある神達ですら、速さについていけない攻防であった。

「……お師匠様、すごい。ハル様の攻撃は、すごく速かったのに、全部防いだ」

「いや、紫龍殿もびっくりしているはずさ。紫龍殿が人間相手に左手を使ったのなんて、大人の剣士でもそういなかったからね。あの坊や、神力を使えない人間にしては、十分強いよ」

「……」

 着物の女の言うとおり、紫龍は少し肝を冷やしていた。

 あの構え――本命は竹刀の突きではない。あの竹刀は、目と内臓を狙うということをにおわせ、こちらの視界と警戒を向けさせるもので、本命は格闘の方だった。

 刃もない、軽い竹刀で与えられるダメージよりも、徒手格闘の方が錫杖を持つ自分よりも手数が増えて、命中率が高いと踏んだか。あの竹刀は、目くらましと、同じ理屈で飛んでくるこの錫杖の攻撃をいなすための、防御用――盾としての意味合い。

 あの縦拳は、いわばカウンターを防止する攻防一体。パンチを出しながら、顔面に来る攻撃を肘でガードでき、拳をすぐに引いて、防御の型を取れる。

 ――そして、何より恐ろしいのは。

 さっきから、攻撃の際に掛け声の一つも出さずに、ためらいの欠片もなく、相手の目や急所を狙う、殺しをしたことがないというのが嘘に思えるほどの、その静かな闘争本能。

 その静かな構えや、感情の読めない目も相まって、攻撃の意図が読みにくい――非常にやりにくい。

 戦士というよりは、本当に相手を刈る目的に特化した戦闘。

 ――暗殺者のような拳だ。

 何とか反射でいなせはしたが、これ以上拳速が速くなれば、もらうことも覚悟せねばな……

「……」

 しかし同時に、初春も戸惑っていた。

 マジかよ――あのおっさん、人間の反射神経じゃないぞ。

 最初の目つぶしで体勢を崩して、10秒ほどの間に5撃、目つぶし狙いを入れれば6撃放ったのに、全部いなされた。

 しかも俺に攻撃せずに。

攻撃に転じた方が防御しやすかったはずなのに――そんな手加減を優先して、だ。

 6秒以内に一人一殺が、ジークンドーの理念――だが、10秒かかって一人を落とせないことはあっても、一撃も有効打が決まってないなんて、本格的にジークンドーを始めて以来一度もない……

 このおっさん――冗談抜きに強い……このおっさんが攻撃を混ぜてきたら、俺は……

「く」

 俺の戦いの哲学では、一撃ごとにどんどんこちらに有利な状況を引き込まなければならない。無駄な手数を使えば使うほど、数に押し切られることになる。

 だが、このおっさんに、さっきの攻防でも有効打が決まらないとなると……

 ――くそっ、無駄な手数を増やして、数打てば当たる戦法は、俺の戦術じゃ付け焼き刃――この状況を変えるとは思えない。

 たった10秒で、何だこの手詰まり感は……

「……」

 ほう、この小僧、もう儂に今までの戦法で攻撃が当たらないことを既に認識したか。

 状況判断が速い。相当戦いの場数と、その想定の訓練をしている。

 となると、次の小僧の行動は……

「くっ」

 紫龍がその答えに行きついたとほぼ同時に。

 初春は竹刀を捨て、武器を持たずに紫龍に再度突進した。

 殺傷能力のない武器を防具として使うことをやめ、攻撃主体に切り替えてパターンを増やす。

 それを選択するのも、追い詰められてというよりも、それしかもうない、これで負けたら仕方ないと割り切ったような、その落ち着いた目。

 ――正解だ。その判断は百点満点。

 初春の拳のコンビネーションは、竹刀を持っていた時よりもずっと速い。だが、紫龍はその速さにもついてくる。

 ――そうかよ、なら足技で崩してやる。

 今度は中段蹴りの高さで上げた右足を一瞬止めて、上段蹴りに移行しながら、体を捻ってそのまま左回し蹴りで次は下段を狙うと見せかけて、中段へとつま先を向ける。

 だが紫龍は上段蹴りが来ることを、既にわずかの攻防で初春の思考パターンを読んでおり、上段蹴りを小さなしゃがみで紙一重でかわすと、初春の背後に回り込む。

「うっ」

 その瞬間、初めて初春は戦いの中で動揺をあらわにした目を見せた。

 回し蹴りの体勢に入っていた初春は、完全に無防備の状態のまま、紫龍に眼前に回り込まれた。

 紫龍はそんな無防備な初春の、誰もいない方向へ回し蹴りを放っている体勢の脇に、錫杖を水平に薙いだ。

 細い錫杖の威力とは思えない重い一撃が、まるでバットでボールをかっ飛ばすように、初春の体を弾き飛ばした。初春の体は5メートルも吹き飛び、受け身を取りはしたが、地面に転がり、泥だらけになって這いつくばった。

「ハル様!」

 音々が初春の許に駆け寄る。

「すまんな、攻撃はしない約束だったが……お前を攻撃無しで止めるのは、なかなか骨が折れそうじゃったからな」

「う……」

 初春はすぐに立ち上がる。

「もうやめろ、お前はかなりの腕じゃが、儂には勝てん」

「ああ、それはよくわかったよ。俺の負けだってことは」

 初春はその場に胡坐をかいた。

「煮るなり焼くなり、好きにすればいいさ」


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