世の中には、想像を絶するような奴がいる
「わぁ!」
秋葉紅葉は手を叩いた。
「似合う似合う! コック服もいいけど、それもいいよ」
「……」
初春はバイト先のバックヤードで、初のホール用の制服を紅葉にお披露目した。
白の半袖ワイシャツに、黒のパンツと短い前掛け。まだ新品の制服は、対極の色を互いに引き立たせる。
「神子柴くん、細身だもんね、細身の男子はやっぱりこういう格好じゃないと」
「――俺、どう考えても客商売は向いてないと思うんだが」
「まあ、仕方ないね。キッチンクルーが警戒しちゃってるし」
今日から初春は、バイト先のファミレスでホールに出る。
ランチタイムにはキッチンにも入っていたが、ディナータイムのキッチンクルーは、やはりわだかまりが残っており、初春と働きづらいというので、紅葉の提案で、ディナータイムは、店長がキッチンに入って、初春がホールに出ることになった。
今日は日曜日、紅葉もランチタイムに入るということで、初春のコーチを務めることになった。
初春はランチタイムのキッチン業務を終え、休憩を挟んでホールユニフォームに着替えた。現在は午後3時で、アイドルタイムに入っている。まずは暇な時間からのスタートである。
「……」
何であの連中が被害者面だよ。俺があいつらと働きたくない、って言い分は無視か。
――まあ、秋葉のおかげでとりあえずシフトを減らされずに済んだわけだし、しょうがないか。
「これからは私がちゃんと仕事を教えてあげるからね」
紅葉は得意げに、その豊満な胸を張った。
「じゃあまずは卓番を覚えて……ハンディの打ち方も」
「いいよ。それは昨日マニュアルをひたすら読んできたから」
「あ――そうなの……」
「とりあえずやってみて、分からないことがあったら訊くよ。その時は頼む」
そう言って、初春は軽く体の関節を回し、ホールに出て行った。
「……」
紅葉はそんな初春の様子を料理提供台の影からじっと見た。
少しボサボサだけど、額を出して、サイドを短く揃え、トップに少しボリュームを残した短髪、丸顔だけど薄い頬骨に、男子としては色白の肌。紅葉も今日初めて知ったが、白のシャツに着替えた初春の腕は、血管が浮き出て、筋張っていて、袖口の筋肉が小さく隆起している。体は全体的に細身で、引き締まっていて、薄着になって見ると、ずっと精悍な印象になった。
入口が開いて、還暦を超えた普段着の女性3人組が入ってきた。こんな田舎町でたまり場も少ないから、こういう年代のお客様がこの時間、よく暇つぶしにお喋りに来るのである。
「いらっしゃいませ。3名様ですか」
きびきびと動いて、すぐにお客様を迎える初春。
だけど、本人の言うとおり、本当に愛想がない。業務的な、低温度の対応。
ピッピッと音がして、料理提供台の上にある機械から、初春のハンディで打ったお客様の注文が、感熱紙にプリントされて流れてくる。
「すご……」
ぶっつけ本番で、オーダー取れちゃってるよ……キッチンで作ってたから、メニュー全部覚えてるとはいっても。
出てきた感熱紙を、透明の小さなバインダーに挟んで、提供台に吊るす。ちゃんと今日登録したばかりのナンバーに、『神子柴初春』と付いている。
初春はもう、空いているテーブルの片付けをはじめている。
「……」
紅葉は首を傾げる。
初めて初春を見た時、紅葉の抱いた印象は、あまりいいものではなかった。
だが、その真面目な仕事ぶりや、障害者のいじめを見逃せない点。
そして――妹の心を放っておかずに、財布を一緒に探してあげるような初春を見て。
何か、危なっかしい、放っておけない――そんな気分にさせられて、彼をこの職場でまた働かせてあげたいと思い、世話を焼いたのだけれど。
――全然、手のかからない人だな……
そんな初春は、欠伸を噛み殺しながら、テーブルをダスターで拭いて回る。
昨日、家でもらったホールのマニュアルを復習して、2時間くらいそれを読んでいて、少し夜更かししたのだ。
初春は黙々と作業をしながら、少しうんざりしていた。
――はぁ、人間と関わるのは嫌いだから、キッチンを希望したんだが……
顔を上げ、バックヤードにいる紅葉に、一応仕事のチェックをしてもらおうと踵を返す。
「!」
しかし、店を一瞥し、ぎょっとなる。
店の入り口に、紫龍と、彼の乗っていた巨大な山犬が立っているのである。紫龍はともかく、山犬は全長が3メートルはありそうなほどの巨体で、かがんで無理やりに店内に入り込んだという感じだ。
初春は脱兎の如く、入り口のレジ前に走った。
「おっさん、あんた……」
「何じゃ血相変えて」
「何しに来た。そのでかい犬を早く店の外に……」
「だが、客は誰も騒いでおらんじゃろう?」
「え……」
そう言われて、初春は店内を再び見渡す。
確かに、まるでトラクターのような巨大な獣がいるというのに、アイドルタイムとは言え、ちらほらいる客達は誰一人、驚いたり、恐怖したりする者はいない。
「神子柴くん」
初春が声の方を振り向くと、彼の様子が変だと思った紅葉が、彼を追ってきていた。
「どうしたの? お客さんもいないのに」
「え……」
その紅葉の言葉に、初春は目の前にいる紫龍の方を見る。
「……」
確かに紫龍は、自分や音々の姿は人間にはすぐには見えないと言っていたが。
割とあっさり見えてしまった初春は、それを他人で確認したことがないため、胡散臭いとさえ思っていた。
本当に見えないのかよ……
「――いや、何でもない」
「そう? でもすごいよ、もうオーダー取れちゃったなんて」
「あぁ……」
「じゃあ、次の仕事。さっき取ったオーダーを運ばないとね」
「あぁ」
初春は、紫龍の方を振り返りながら、紅葉の後をついていく。
口だけ動かして、初春は紫龍に「帰れ」と告げた。
「しかし、自信なくすなぁ」
バックヤードに来ると、紅葉が言った。
「私もまだここに来て1か月だけど、ドジばかりしてたのに、神子柴くんはすぐに仕事覚えちゃいそう……」
「そりゃ、ここで過ごす時間が段違いなんだ。仕方ないさ」
初春は、店長が作った料理をトレイに乗せる。
「――神子柴くんって、頭いいよね」
「……」
不意に言われた紅葉の言葉に、初春は手を止める。
「結構ホールの仕事も難しいのに、初日からこんなに……」
「どうかね」
初春が、紅葉の言葉を遮った。
「俺の知っている化け物なら、この程度のマニュアル、一日で全部ものにするどころか、接客で常連の名前と好物まで覚えちまうだろうな」
「化け物?」
「ああ――世の中には、想像を絶するような奴がいる……それに比べたら、な」
そう言って、初春は料理を載せたトレイを持って、先程のお客のところへ行く。
客のところに向かいながら、初春は思った。
俺が頭がいい、なんて、生まれてはじめて言われたな……
まだこの神庭町に来てひと月も経っていないが、あの化け物と張り合おうとしていた時期が、随分と遠い昔に感じてしまう……
とんでもねぇことをしていたな、俺は。
結局、直哉との勝負は俺の不戦敗か……
二人は、恐らく問題なく神高に入っただろうけれど……
結衣は、もう直哉と付き合ってるのだろうか。
もう神高も、入学式が終わったのかな……
「……」
そんなことを思う初春の背を、紅葉も見守っていた。
まだ初春のことを、何も知らないけれど。
東京にいたという彼が、何故この町に来たのか。何故一人暮らしなどしているのか。
不思議なことは色々ある。
そして、また一つ、彼に対する不思議なことが増えた。
何故彼は、学校に行っていないのだろう……
――その少女は、人と話すのが昔から苦手だった。
同世代の友達が恋愛やファッションに夢中な中、少女は昔から本が好きで、そんな話に関わろうとはしなかった。
小さな頃から本の世界に傾聴しているうちに、自分の同年代の少女の考えていることが分からなくなってしまった。
そんな同年代の級友達に、少女は昔から地味で根暗で、変わった娘だと言われていた。
でも、仕方がないじゃないか。
それが好きなのだ。
だが、少女はいつしか、自分に後ろ指を指す人間が怖くなり。
そんな人間に反論をすることにも怯え。
ますます本の世界に傾倒していった。
今日も少女は、学校帰りに神庭町の町立図書館に通っている。
図書館と言っても、ほとんどが近隣や、他県のボランティアによって寄贈された本で本棚を埋めている、新刊の入れ替えのほとんどない施設で、町内の高校生の行く学校の選択肢も少ないため、受験生もほとんど利用しない、地元民にもあまり重用されていない施設だった。施設自体も、もう40年近く経っているもので、読書室の壁には落書きも多く、机や椅子も年季のある傷が目立っている。
そんな古い施設だが、少女はこの場所が好きだった。
学校にも図書室はあるが、同世代のいない、静かなこの場所は落ち着く。
今日も読書室にいるのは10人にも満たない。俳句の季語を探しているおばあさんや、行政書士の勉強をしている40代くらいのおじさん。どれもこの施設の常連だった。
そんな場所に、ここひと月ほど、毎日のように来る人がいる。
40席ほどある読書室の一番奥の席に座る少女は、その少年が今日も入ってくるのを確認する。
この人は、いつも5時頃にこの図書館に来ては、参考書を開いて勉強をし、大体2日おきに一冊本を返却し、閉館になる直前に、借りる本を探す。
その繰り返しだ。
短髪で細身の、ちょっとスポーツマンっぽい風貌で、年齢は多分自分と同じくらい。でも、一度も制服を着ているところを見たことがない……
このあたりの中学校に通っていれば、学校で一度は見たことがあるはずだけど――
少年はスリングのついた小さめの鞄を置く。
少女が何故、その少年が気になっているかというと。
勿論、同世代なのに、このあたりで見たことのない男の子だな、というのもあるけれど。
いつも勉強をしている少年の顔が、酷く辛そうに見えるからであった。
遠くから見ていても、上の空なのが分かる。何とか自分を奮い立たせようと、必死に無理をしている感じに見える。
なのに、毎日ここに来ては、勉強をしていくのである。
だけど。
今日のその少年は、席に鞄を置くや否や、いつもなら参考書を開いてペンを握るのに、今日はすぐに席を離れて、本を探しに行った。
少しして戻ってきた少年は、どこから持ってきたのか、古くて分厚い本を何冊か持ってきて、それをおもむろに開いて、流し読むようにその本に目を通した。
「……」
何か調べものだろうか。少女はそんなことを考えながら、自分の読書の合間にちらちらと、少年の方を窺った。
「……」
とりあえずメジャーな宗教における神の概念や、日本の神話や民話を取り扱う本を一通り目を通してみたが。
どれも人間の勝手なご都合で作られた、都合のいい妄想のようにしか思えないのは、俺が神に救われたことがないからか。
本を見ながら、そんなことを初春は考えていた。
「……」
考えながら、初春は自嘲する。
しかし、俺は何をやっているんだろうな……
初めは、高卒認定を取って、3年後に直哉や結衣と同じ国立大学に行って、3年前にできなかった勝負の決着を、直哉に挑みに行く。
それがこの町に来て、最初にやろうと思ったことだったから、毎日図書館に通って、独学で勉強を始めた。
だが――
そうしようと思えば思うほど、初春の心は、金ヤスリをこすりつけられるように、冷たい痛みを募らせる。
初春はこの5年間、凡才なりに必死の努力を重ねてきた。泣き虫でひ弱だった初春は、剣道もジークンドーも今ではかなりの使い手に成長している。学業だって、中の中だった成績を、都内一の高校に推薦される程度にまで引き上げた。
その努力は、初春を結局救わなかった。
そのひとつの事実――ひとつの現実が、初春に、無駄な努力はやめろ、と、どうしようもないほどに訴えてくる……
こんな所での独学の努力では、3年後にあの二人はさらに遠い所へと行ってしまっていることを、初春はよくわかっていた。
それに自分には、もう身内がいない。大学に行くまでの資金をため、また東京で暮らせるようになるまで、あと何年かかる……
その頃には、きっと直哉も結衣も、俺との思い出など、風化してしまっており、自分達の生き方を見つけているのだろう。
今や生きる思想も、権利も失った俺など、どうやってのこのこあいつらに会いに行けばいい……
それがこの一か月でよくわかった。
「……」
はじめは自分の人生をかけてやろうと思った勉強が。
今ではやればやる程、無駄な努力だと思えて来て。
――だから今、こうして勉強から離れて、神のことなどを調べていることに、初春自身は少しの安らぎを感じてしまっている……
信じる者も、追いかける者もない人生とは、酷く虚しかった。




