あいつに何の得がある?
「はあ……はあ……」
神子柴初春の朝は早い。
毎日5時半に起きて、顔を洗うと、ストレッチをして、朝のランニングから始まる。
まだ慣れない神庭町の土地勘をつけるために、コースを定めず、気になった路地に入る。慌ただしい散歩のようなジョギングである。
東京だとこの時間にも早朝ランナーや犬の散歩、既に通勤する社会人にもすれ違うが、この町にはほとんどそのようなことがない。少年の家は他の家とは離れた、山の麓にあるので、人の通りが元々少ないのである。
だが、どんなに途中のコースを変えても、家の帰りにある、約200メートル続く緩やかな坂道は逃れようがない。この坂が、東京でもほぼ毎日走っていた少年の足にもかなり堪えるものであった。家は山の麓とはいえ、その山の前に行くまでに緩やかな坂になっており、海抜80メートルまで登る。
既に約5キロを走っており、負荷がかかった後のこの坂道は、初春も毎日歯を食いしばって登っていた。
ようやく山道の先に家の屋根が見えると、初春はペースを落として、最後のクールダウンに入る。
大体家に帰るのが6時半前――それからは呼吸を整えると、家の広い庭の草むしりを毎日30分ほど、少しずつ行っているのだが。
庭の見える一本道に差し掛かると、既に自分の家の庭にしゃがみ込んでいる人影が見えた。
「あ、ハル様、お帰りなさい!」
そこには音々がおり、既にしゃがんだ音々の傍らには、草の山が積まれていた。
「はあ……はあ……」
呼吸を整える初春。
「お水をどうぞ。これ、この山の中に湧いている清水なんで、冷えてて美味しいですよ」
音々は初春に水の入ったペットボトルを差し出した。
「……」
色々と思うところはあるが、初春はとりあえず喉が渇いていたので、音々の差し出したペットボトルの水をあおった。
「――美味いな、これ」
「よかった」
音々はニコニコ顔になる。
「いつも草むしりしてますよね。私もお手伝いさせていただきます!」
音々は、着ている小紋の袖を捲り上げて、拳を握り締めた。
「――お前、外に出て大丈夫なのか?」
「この家の庭先までは、お師匠様の結界がありますので、ここなら外でも大丈夫です」
「――そうか。なら、お願いするかな」
「はい!」
音々は変わらずニコニコ笑う。
初春はペットボトルを縁側に置いて、腰を下ろして血流と筋肉を落ち着かせる。
この町に来てからほぼ毎日、朝のランニングの後に少しずつ草むしりをしてはいるのだが、大家がもう最低でも5年はほったらかしにしているのだろう。この広い庭では、一人での作業では、まだ半分も雑草が片付いていない。小枝や石などのゴミも多く、なかなか作業が捗っていなかった。
「夏草がまた生える前に、根から抜かないと大変ですね」
初春の横に座った音々が、片付いていない庭を見渡した。
「ああ、でも、お前が手伝ってくれるなら、4月中には終わるかもな」
「はい、私、頑張ります!」
「……」
7時まで草むしりをすると、初春は泥を落とすためにシャワーを浴びる。この家は家族向けのためか、バランス釜ではない追い炊き機能付きの風呂があったが、一人で風呂を沸かすのも勿体ないので、初春はあまり風呂を利用していなかった。専らバイトのない日の夜限定の贅沢である。
初春もまだ一人暮らしを始めて、初めてのバイト代ももらっていない。生活費がどれほどになるか、ひと月のマンスリーの生活である程度把握したが、それでもまだ探り探りの段階であった。
下に短パンを履き、上に何も着ない状態で風呂を出ながらタオルで髪を拭く。
「ハル様、朝食もできてますよ」
小紋の上に割烹着を着た音々が台所から初春に言った。
「そんなことまで……」
初春は戸惑ったが、家の中に味噌の香りが漂っているのに気づく。
――家で味噌汁を飲むなんて、最後にしたのはいつだったか、記憶を反芻した。
キッチンのテーブルにつく。
「……」
目の前の献立は、アサリの味噌汁に梅干しと沢庵、ほうれん草のおひたし。
そして、何か見慣れないものの混ぜられたご飯。
それだけである。
「この飯――何が入ってるんだ?」
「かて飯ですよ。芋がらと粟と大根の葉です」
「……」
「あ、あの、何か変だったでしょうか?」
初春が目をぱちくりさせたのを見て、音々は不安になる。
「――いや、なんか教科書で見た、江戸時代の食事みたいでな」
「え? 今は食事とはこんなものではないのですか?」
「……」
初春は首を傾げながら、音々の姿を見た。
黒く長い髪を後ろでポニーテールに結び、額を出したその少女は、少年とほぼ同世代にしか見えないのだが……
「――なあ、お前って今、何歳なの?」
「え? 私――もうずっと長いこと外界に出ていないですし、そもそも天界に年齢の定義は……」
「――じゃあ、高天原――だっけ? お前がそこから下界とかを見ていたのだとしたら――その頃に見たものって」
「うーんと……天保の時代に飢饉があって……それから贅沢禁止令が……」
「――ああ、もういい」
初春は言葉を制した。
「……」
――複雑な気分である。見た目は普通に可愛らしいのであるが。
実年齢は大変なことになっている目の前の美少女。
「え? え? あ、あの、すみません。私ずっと家から長い間出てなくて……」
「……」
初春は思った。
この飯を見ても、この少女がどれだけ浮世離れしているかは何となくわかる。
それは、もう長いこと家の外に出られなかったからなのである。
こいつにとって、世界とはずっと、誰かに庇護された結界の中だけでしかなく。
そんな中で、気まぐれであれ、そんな自分に協力すると言った俺に会って、こんなにも舞い上がっていて。
「……」
初春は茶碗を取って、自分にとって未知の飯をかき込んだ。
「は、ハル様、無理に食べなくても……」
「……」
確かに独特の味ではある。味噌汁も試しに飲んでみるが、江戸時代の風習なのか、酷く味噌が薄い……
だが……
「まあ、全然問題ねぇよ」
初春はお茶に手を伸ばした。
「おかずがこれだけある食事なんて、むしろ久々に食べたくらいだ」
「……」
音々が逡巡している間に、初春は音々の作った朝食を、米粒ひとつ残らず平らげた。
「ご馳走様」
初春は音々の方を見た。
「……」
「――別にこんなこと、しなくたっていいぜ。お前を手伝うことは、ちゃんとやるさ」
気を遣われ慣れてない初春はそう言った。
「――むしろお前が俺に、色々教えてくれ。俺は神様の事なんて、何も知らないからな」
初春が手で、音々を向かいの椅子に促す。音々はそれを見て、向かいの席に座った。
「とりあえず目標が欲しいよな。お前も、何かあった方が頑張れるだろう」
「――はい。でも、難しいですよね、そういうのを作るって」
「……」
「――ハル様、人間とは、どのようなことで自分を奮い立たせるものなのでしょうか?」
「……」
沈黙。
「――まあ、年頃の女子とかなら、甘いものを食べに行くとか……」
不意に初春は、結衣のことを脳裏に思い浮かべた。
昔から結衣は甘いものが好きだった。いつも甘いミルクティーを好んで飲み、甘いものを食べるといつも機嫌がよかった。
「ケーキとか、プリンとか」
「け……えき? ぷ……ぷりん? あの、それはどのようなものなのでしょう」
「……」
元々初春は人と話さないので、語彙が貧弱である。知っているはずのケーキやプリンのことをどう説明すればいいのか考えたが、すぐに諦めた。
「――よし、じゃあ今日バイト帰りに、プリンを買ってこよう」
説明するのが面倒で、そう提案したが。
言ってから思う。俺はもしかしたら、生まれて初めてプリンを食べる者の反応に興味があったのかもしれない、と。
「いいんですか?」
「ああ、でも、一番安いやつだけどな」
折節、居間の畳に大の字に寝転がっていた紫龍が目をこすって起き上がり、台所に顔を出す。
「あ、お師匠様、おはようございます」
音々は紫龍にお辞儀をした。
「お師匠様、質問なのですが、お師匠様は、ぷりんというものを召し上がったことはおありでしょうか」
「ぷりん?」
「ハル様が教えてくれたのです。本日そのぷりんを買ってもらえるのです。今夜はご馳走なのです」
「……」
どうやら音々は、プリンをとんでもなく豪奢な食事と勘違いしているようであった。
このままだとえらいハードルが上がりそうだと思い、初春は立ち上がる。
「俺はもうバイトに行くよ。帰ったら、お前が神様になるための作戦会議でもしよう」
「はい! お気をつけて」
鞄を下げて、玄関で靴を履き替え、行ってきます、といって、初春は家を出、庭に止めてある自転車に乗って、坂を駆け下りていった。
玄関先で振り返りもしない初春に手を振る音々。やがて初春の自転車が見えなくなると、再び台所に戻った。
「――お前、浮かれておるな」
台所では紫龍が飯に味噌汁をかけて、ぐちゃぐちゃと箸でかき回して口に流し込んでいた。
「だって私、名前もできたし、神様になるために、ハル様が協力をしてくれるっていうんですもの。頑張らないと」
音々は鼻息を荒げた。
「ハル様って、ぶっきらぼうですけど、優しいですよね。私が作ったご飯も、ちゃんと全部食べてくれたし……」
「……」
「お師匠様も、私を音々って呼んでくれると嬉しいんですが……」
「――まあいい、お前が気に入っているのなら、儂は神議などにはこだわらんからな」
紫龍は茶碗を置いた。
「音々よ、貴様はあの小僧が本気でお前に協力してくれると思っているのか?」
「え? そうじゃないのですか?」
「違う」
紫龍は飯をかき込むと、食後のキセルを取り出した。
「まったく、お前はよっぽどあいつに褒められて舞い上がっていたのだな。考えてもみろ、仮にお前が高天原に認められて、天界に帰れるような身分になったところで、あの小僧に何の得がある?」
「――それは」
「お前だってこの家で今まで何度か見ただろう? あいつの心が、酷い瘴気をまき散らしていることがあるのを」
「……」
「あの小僧は、お前が思っているよりも、はるかに無理をしておる。自分の人生に何の展望も見えずに、立て直す術もなくこの町に来た――例えるなら、あいつは雪山で遭難したに等しい。そして、もう自分が遭難したことを自覚していて、そんな時に闇雲に動き回ることは危険であるということも自覚している――」
「……」
「あの小僧も、お前を助けたところで自分の人生が救われるわけでないことは分かっているのだ。それでもあいつはお前を助けると言った。そして、それは恐らく本心なのだろう……お前は、小僧の取った行動の意味が分かるか?」
「その意味……」
音々は考えを巡らせた。紫龍はキセルを吸う。
「――分からないです」
音々はかぶりを振る。
「そうですよね。ハル様が優しいから、そんなことを言ってくれたのかと思ったのですが……そんなわけないですよね。それだけのわけがない……」
「――あの小僧、お前が思っているよりも、ずっとまずいところにおるぞ。お前も神の端くれを名乗るのであれば、お前が小僧に助けられるのでなく、あの小僧のことを助けてやることだな」
「……」
「それと――お前、あいつに人間のことを聞かない方がいいぞ」
紫龍は言った。
「お前、さっきあの小僧に、自分を奮い立たせる術を聞いていたが……沈黙しておったじゃろう――それはな、あの小僧にもそんなものが今までの人生でなかったからじゃよ。そんな奴にそんなことを訊くのは、知らぬうちに心を削ることにもなりかねん。あいつの瘴気がますます強くなりかねんから、注意することじゃ」
「……」
「もしかしたらあの小僧も、お前を通して、そんなものを探したいのかもしれんな。お前も、あの小僧といる時は、あの小僧に訊いてばかりでなく、あいつと同じ視点に立つことじゃ」
紫龍は立ち上がると、縁側に出て、持っている錫杖を庭に打ち付け、輪をカランと鳴らした。
その音を聞いて、家の裏手にある山の向こうから、山犬が飛んでくる。
「どちらへ?」
「何、お前に協力すると言った以上、あいつも神やアヤカシに目をつけられることになるじゃろう。しばらく見張ってやろう。お前も協力者が早々にアヤカシに食われでもしたら、寝覚めが悪いじゃろうからな」
紫龍は山犬の背に飛び乗った。
「もうお前も、この家を飛び出す無茶をするなよ。お前はアヤカシにとっては、もう調理された無抵抗のご馳走そのものなのじゃからな」
そう言い残すと、山犬は地面を蹴って空を飛び、青空に浮かぶ雲をジャンプ台にするように町の方へと飛んで行ってしまった。
「……」
誰もいなくなった家。
音々はとたとたと二階の階段を上り、初春の部屋の前に立ち尽くした。
「……」
音々は耳を澄ませ、初春の今の心の向かう先を、部屋の向こうのアヤカシに訊いた。
「ハル様――どうして私を助けるなんて言ったんだろう……」




