捨てる神あれば、拾う神あり
「薬を!」
「いらん、この程度、霊力で治癒できる」
踵を返す音々を、紫龍が制した。
「……」
初春はその紫龍の傷を負った姿を、ただ見ていた。
「あんた――ココロを助けてくれたのか?」
「ふん」
紫龍は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「……」
沈黙。
「――さっきは悪かった」
やがて、初春に背を向けたまま、紫龍は言った。
「神とは理不尽な生き物でな――お前の人生が最初から祝福のないものになっていたことに関しては、お詫びの仕様もない」
「……」
「儂は戦神じゃからな、福の神ではない。だからお前の人生を照らすことはできんが――せめてその人生に何かが見つかるまでは、ここにおればいい……」
「――おっさんのツンデレをもらってもな」
初春は一笑した。
「何?」
紫龍は振り向く。
「あんた、意外と面倒見がいいんだな」
「は?」
「俺も悪かった――あんたらの事情もよく知らずに、当たるようなことをしちまって」
初春は頭を下げた。
「しばらくこの家にいさせてもらう。この家で、あいつが神様になるのを手伝わせてもらうよ」
「何?」
「名前も決まったんだ――あいつは今日から音々だ」
「……」
紫龍は少年のその様子をまじまじと伺った。
「――お前、儂ら神やアヤカシと付き合うつもりであれば、お前も身の回りに気を付けることじゃ」
「え?」
「お前、さっき仕事場で同僚に包丁を構えておったじゃろう――あの時のお前からは、酷い空気が流れていた――あの空気と、お前の会ったあの子供の悲しみが惹かれあって、お前達二人を食おうとするアヤカシが集まっていた」
「……」
アヤカシ、か……
「そしてそいつも同じ――」
紫龍は音々の方に目をやった。
「天界生まれの者は、アヤカシにとっては極上の食い物――力の多寡に関わらずな。そいつには自分の身を守る力がない。そいつが外を出歩いたら、すぐに匂いでアヤカシに狙われる」
初春は音々の方を振り向くと、音々も頷いた。
「お前、ずっと観察していたが――どうも危なっかしい。時折酷く瘴気の混ざった空気を垂れ流している……」
「……」
「そんなお前が、餌同然のそいつと一緒にいれば、お前もいつか、アヤカシに食われるぞ」
「……」
この時の初春は、紫龍の言っていることの意味を、上手く消化できずにいた。
「ここにいるのは構わん――だが、お前はそれでも、儂らの方に首を突っ込むのか?」
「……」
初春は言葉を練った。
「――分からん」
「何?」
「――俺には何もないんだ。理想の生き方も、これからやりたいことも――将来の希望も、ない――昔からそうだったんだ。俺は自分の意志を持つことを許されなかった。つい最近までは、そんな俺でも、周りのお人好しに迷惑をかけないようにとか――それなりには思うところもあったが、もうそれもなくなった」
「……」
「だが――こいつの事情を知ってしまったからな。それを知っているのに、見て見ぬふりをするのは、寝覚めが悪い。俺も同じことをされているからな。自分の正当化のために、他人を見捨てることはしたくない」
「……」
「一度そう決めた以上、放り出すことはしないさ」
「――そうか」
紫龍はそう言って、袈裟を捲り上げると、紫龍の腕からは、血はほとんど止まっていたが、肌が青紫色に変色し、その変色した痣が、小さく肌を蠢いていた。
紫龍はペットボトルに入った水を痣にかけた。しゅうっという炭酸のような音がすると、小さく水蒸気のような煙を上げて、痣の色が次第に薄くなっていった。
「その傷は」
「こいつは穢れだ。アヤカシの類が使う。体を内部から腐らせ、心を侵食する。儂らのような彼岸の者であれば、これを浄化するのは簡単なんだが」
「なら安心だ。俺は人間じゃないから」
「何?」
初春の言葉に紫龍が首を傾げた。
折節、家の外に小さな旋風が起こる音がすると、縁側の戸が開いて、先日も家に押し寄せた没落神や妖怪が大挙して押し寄せてきた。
「し、紫龍殿! その傷は?」
一つ目の頭の大きな妖怪が、声を上げた。
「大事ない。騒ぐでない」
紫龍は玄関から立ち上がり、居間の方に歩を進めた。足取りはしっかりしており、本当にもう傷の方は大したことはないようだった。
「紫龍殿に手傷を負わせるとは――そこまでのアヤカシが現れたのですか」
「……」
狼狽する客人達の姿を見ながら、初春は紫龍の方を見た。
「あんたって、マジにすごい神様だったんだな。手傷一つでそこまで驚かれるとは」
「おや」
先日も来た、神が蛇のようにうねった、着物姿の女がキセルを燻らせながら、少年を見た。
「坊や、まだこの家にいたのかい」
「は?」
「今までこの家に住んでいた人間達は、私達の姿を見てすぐ逃げ出したからねぇ」
「そりゃそうだろう。他人が金払っている家に勝手に上がり込んで、騒いで飲み食いしているほうが非常識だ。働かずに人間に受け入れられると思うことがまず間違いだ」
そう言って、初春は後ろにいる音々の方を見た。
「そんなようじゃ、こいつにもすぐに抜かれるぜ」
「え?」
「俺、こいつが神様になるのを手伝うことにしたから。見てろよ。お前達、すぐにこいつに頭が上がらなくなるからな」
「は、ハル様、そんな……」
音々は狼狽した。確かにここにいる者達は、信仰を失い、土地を離れてはいるが、それでもかつては名のあった神ばかりで、とても今の音々が敵うような相手ではなかった。
「これからこいつの名前は音々だ。お前達にも覚えてもらおう」
「な、何だと?」
「神議で定められていない神など聞いたことがない!」
女の後ろにいる神達は荒ぶったように不快感をあらわにした。
「ふふ――そうかい」
女はキセルを燻らせて、少年の目を覗き込んだ。
「確かにその娘には何の力もない落ちこぼれさ。でも、私達天界の人間に協力する人間を邪険にしたら、神の名折れってもんさね」
女はそう言って、音々に歩み寄った。
「音々か、いい名前をもらったじゃないか。頑張るんだよ」
「は、はい!」
音々はしゃんと背筋を伸ばして微笑んだ。
「坊や、名前は?」
「――神子柴初春」
「へぇ、名前に神を宿しているじゃないか。気に入ったよ」
「……」
「しばらくこの家にいるのかい?」
「そうなるな」
「そうかい――まあ私らも似たようなもんさね。悪さをする気はないし、ゆっくりすればいい」
「――って、ここは俺が家賃払うんだけど」
「なら、坊やも宴会に参加するかい?」
「え?」
「これから長い付き合いになる――なに、人間が食えないものはないからね」
「……」
――それから初春は、居間で行われる神や妖怪の宴の末席に加わった。
琴や三線を弾いて歌を歌ったり、チンチロリンや丁半をしたり、どこからか持ち込んだ酒を飲んだり、遅くまで騒いでいた。
初春はもう普段は寝ている時間なので、しばらくは神達と話をしたりしていたが、やがて部屋の隅でうとうとと微睡んでしまった。
睡魔の中で初春は妙な気持ちの中に、心は漂っていた。
自分の住む家が、こんなに賑やかだったことは、人生で一度もなかった。
喧噪や雑音を好まない初春ではあったが。
つい先日まで両親や親族の罵倒の渦中にいた初春にとって、この穏やかな喧騒は、不思議と嫌な感じではなかった。
そして――
周りにいる神や妖怪達の声を聞きながら、改めて思った。
俺は、この町で生きていく。
ナオ――ユイ。
お前達と同じ道を歩むことはできなくなったが。
せめて、考えてみるよ。
俺の人生ってやつを。
お前達の与えてくれた時間を、俺は無駄にしてしまったが。
とりあえず、この町で生きてみるさ。
俺なりに……
次の日、初春はバイト先のピークタイムが終わると、店長室に呼び出された。
ストレスのたまる仕事だからか、店長室の灰皿は吸い殻でいっぱいだ。というよりも、元々ハンバーグなどを焼く厨房に近い。そんな肉から立ち上った油と、ヤニの脂が合わさって、部屋の壁紙が真っ茶色になっている。
「仕事を真面目にやっているのは分かるんだが――同僚に包丁を突き付けるのはさすがにまずいんじゃないのか?」
店長は呆れたような声で言った。
「その話を聞いて、パートの人達も君に怯えているぞ。さすがにそんなことをされると、君をここで仕事をさせるのをどうしようか、ということになってくるんだが」
「はぁ」
勝手に喧嘩を売って、奴隷にしてやる、とまで言っておいて、反抗されたらすぐに被害者面して周りにチクるか……
初春の人生には、こういう奴が今までも沢山いたから、今更驚きはしないが。
結局人間の生き方に、正しいとか、美しいとか、優しいなんてのは必要ないんだ。
結局は醜くても、我を通した奴が得をする。
人をどんな手を使っても叩き潰して、被害者と加害者の顔をすぐに切り替えられる。
そんな奴が勝つんだ。
「……」
しかし、どうするかな。
この仕事を首になったら、間違いなく困るな。
こいつらに嫌われるのはどうでもいいが、生活をする術がなくなる。
相手もそれが分かってやったんだろうな。
だから自分が最後には必ず勝つってことが分かるから、あれだけ最初から強気に暴言を吐く。
そして、俺が仕事を奪われるのは、奴らにとっちゃ遊び半分のいたぶりなんだろうが、俺にとっては『死ね』ってことと同じなんだけど。
俺が死ぬのは、人間にとって罪じゃないんだ。
俺が奴等の奴隷になったり、痛めつけられたり、職を失ってのたれ死ぬのは罪じゃなくて、威嚇で包丁を首にあてがったことは罪。
それが人間の美しく優しい世界って奴だ。
俺はこの、障害者をいじめて、中卒を奴隷にしようとした優しい職場の人柱になる。
素晴らし過ぎて笑いが出るぜ、人間様の世界ってのは。
「……」
少年は思った。
こう言う奴等を見ていると、自分の人生を考えようとすることが酷く馬鹿馬鹿しくなってくる。
別にそんなことを進んでしたいわけじゃないが、俺は自分を虐げた人間への恨みを一旦飲み込んで、復讐という行為を行わないと思ったが。
そうして人間に温情をかけたことがアホらしくなってくる。
どうせ死ぬなら、思い上がった奴等を今度こそ殺してやろうか……
そんなことを考え出した頃。
店長室のドアがノックされた。
どうぞ、と店長が言うと、入ってきたのは、昨日少年が家まで送ったココロの姉――あの少女が入ってきた。
「ああ、秋葉さんか。どうした?」
少年を一度脇に置いて、店長は少女に微笑んだ。
「これを渡しに来ました」
少女はそう言って、店長に封筒を差し出した。
その封筒には、『辞表』と書かれていた。
「え? え? 何で?」
「昨日の皆さんを見ていて、この職場で働くのが嫌になったんです」
「……」
「障害者をいじめて、それを止めた人に暴言を吐いて、集団でそうした人を職場から追い出そうとする――そんな人達のやる仕事で、昨日みたいに私が代わりに謝ったりするのを考えたら、嫌だな、と思ったんです」
「……」
「この人をそんな理由で辞めさせるなら、私も辞めます。昨日この人がいなかったら、仕事が回らなかったのは明らかだし、そんな人を切って、ふざけて仕事をしていた人をかばう、障害者をいじめる職場なんて、私も嫌ですから」
「……」
自分の隣に立った少女のその言葉を聞いて、少年は一瞬思考が宙に浮いた。
呆気に取られて、この職場で暴れてやろうと思った気持ちが雲散霧消してしまった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
店長は明らかに狼狽した。
この少女は見た目は少し派手だし、物覚えは多少良くないが、素直でビジュアルも可愛く、壊滅的なこの店のディナータイムのクルーの中では、戦力になりおおせているのである。そしてそれは少年も同じである。
気弱な店長は、戦力である少年を手放したくなかったが、クルーの数の圧力に押されてそれを承諾したが、少女までそれを見て愛想をつかされてはいかんともしがたい。
元々全く役に立っていないクルーのために、戦力を二人も削いでいいものか、と、この時店長は考え出した。
そんな店長の懊悩に追い打ちをかけるように、店長室の固定電話が鳴った。
店長はこんな時にと小さな舌打ちをした後に、受話器を取った。
「もしもし」
『あ―、もしもし、儂――じゃなくて俺は、おたくで働いている皿洗いの親だがね』
「はい?」
『おたく、うちの息子に日頃から随分なことをしてくれてたんだねぇ。殴ったり蹴ったりもしていたんだって? うちの息子が話してくれたよ。昨日自分を助けてくれた人がいたことを嬉しそうに息子が話していたんでね。こっちも初めて知ったよ』
「あ、いや、そんな」
『おたくってのはそういう会社なのかい? さすがにそういうことを知ってしまうと、こっちも出るとこ出るよ?』
「ちょ、ちょっと待ってください」
『うちの息子をかばっている人を、今辞めさせようとしているんだってねぇ。そんなことをするような会社なら、こっちもおたくで息子がやられたこと、色んな所に話してもいいんだよ』
「ま、また改めてお話をさせて……」
『あぁ?』
「も、申し訳ありません……」
平謝りをし続け、やがて店長は電話を置いた。
「はぁ……」
店長はげっそりとして、机に突っ伏した。
障害者いじめを日常的に行ったことが、裁判所やマスコミにリークされたら、間違いなくこの店は終わり、自分の職も危うくなるのである。
「店長」
初春はその電話の内容を聞かなかったので分からなかったが、様子で非常にまずいことが起こったのは分かったので、声をかけた。
「――いや、なんかもう、何でもいいや――この話は終わりにしよう……もうしないでくれればそれでいい……」
店長はそう言って、二人に部屋を出ていくように、手で促した。
初春と少女はそれを見て、静かに部屋を出て行った。
「はぁ」
ドアを閉めると、初春は溜め息をついた。
「良かったね」
少女は言った。
「――俺を助けてくれたの?」
「余計なお世話だった?」
「いや――助かった。でも何で?」
「だって――あなたの方が全体的に正しいと思ったし――それに、あなたをやめさせて、私も障害者をいじめるような人と思われるのも嫌だったし。昨日ココロを助けてくれた借りもあるし」
「……」
「まあ、なんていうか――す、捨てる神あれば、拾う神あり、ってやつだよ」
少女は初春を助けたことを、上手く言語化できず、何とかうまいことを言おうとした。
少女もこの職場に来たのはつい最近だが、ここの人間が障害者クルーをいじめていることを見ていて、嫌な思いをしていたのだけれど、怖くて誰にも注意はできなかった。
それを見て、何も言わずに率先的に異議を唱え、止めに入ったこの少年を、素直にすごいと思った。仕事ぶりも含めて、この少年に敬意を示したかったのである。
「――ふ」
初春は笑った。
「ここでも神様とか――何か自分の常識が揺らぐな」
「?」
少女は初春の呟いた意味が分からなかったが、初春はすぐに少女の方に正対して、頭を下げた。
「その言葉が本当なら、君は神様なのかね」
「え? いや、そんなつもりは」
「いや、今日に限っちゃ、俺にとっちゃ神のご加護だった。ありがとう、えっと……」
「秋葉です。秋葉紅葉です」
「――俺は神子柴初春」
「神子柴くん――だから『ハルくん』か」
「え?」
「ココロがあなたのこと、嬉しそうに話してたの。また遊んでほしいって」
「なあ、ココロって、名前なのか?」
「そうだよ、秋葉心」
「……」
そうか――名前だったのか、ココロって。
「でも――これからはあまり無茶しちゃダメだよ」
「――ああ」
初春は返事をした。
「――ありがとう」
少年は改めて、お礼の言葉が口をついた。
誰かに自分を助けてもらうなんて、少年は直哉と結衣以外にはされたことがなくて。
それを上手く消化できなかったが。
その言語化できない感情の中に。
まだ未熟な感謝と喜びがあったのである。
「そうだ。お礼ならこれから私の賄いも作ってくださいよ」
紅葉は微笑んで初春に言った。
「神子柴くんのオムライス、美味しそうだったし」
「――分かったよ。ご注文があれば作らせてもらう」
「楽しみだなぁ」
紅葉は控室に戻る初春の後をつけながら笑った。
そんな中で。
少年はまた新たに、この町での生活に思いを馳せた。
ナオ――ユイ――この町で、何とかやっていけそうな気がしたよ。
俺がお前達に頑張れなんて言えた義理じゃないけれど……
俺、頑張るよ。
まだ、頑張れそうな気がするよ……
初春は、空を見上げた。
そんなファミレスの上空――少年の見上げた空の背後に。
使い古した携帯電話のフリップを閉じる紫龍と、紫龍を背に乗せる大きな山犬の姿があった。
「紫龍殿が人間に情けをかけるとは珍しい」
山犬が上を向いて紫龍に言った。
「――娘があいつを気に入ってしまったようじゃからな。ほんの気まぐれさ」
「あの小僧、面白い存在というわけですか」
「帰るぞ」
紫龍は山犬の横腹を軽く蹴って、家路へと向かわせた




