私は、お役に立てたのでしょうか
「最低だよそいつら……そんな奴等が神様なんて、ふざけんな!」
「あ、あの……」
「お前は、俺のことを知ってしまって、申し訳ないっていうだけで、消えるかもしれないのに追いかけてきたんだろ? そんな体になっても、ココロのために財布の場所を聞いてくれたんだろ? すげぇよ。天界だかで偉そうにしている奴等よりも、ずっと強いよ……今にも消えそうなことが分かってて、外に出てココロを助けたお前の方が、ずっと神様らしいよ」
「……」
「お前は出来損ないなんかじゃねぇよ。少なくともお前は今日、ココロを救ったんだ。あの子が最後に笑ってたのは、お前がやったことだよ」
初春は柄にもなく、この少女に敬意を抱いていた。
自分が死ぬかもしれない状況で――それが分かっているのにそれをやった目の前の少女に。
「……っ」
目の前の、まだ体のぼやけた少女は、初春の昂った目を見つめたまま、静かに涙を流していた。
「な……」
自分とは別の生き物であることを認識しながらも、少女の見た目は自分とほぼ同い年くらいの――それも、かなり整った顔立ちの女の子である。そんな女の子が自分の目の前で泣き出したことの意味が分からず、初春は面食らった。
「――どうした?」
「私――きょう……お役に立てたのでしょうか……」
感情を抑えられないほどの嗚咽の中で、声を絞り出すように、少女は言った。
「――ずっと、夢だったんです。私も――立派な神様になって……誰かの力になって……そんなことを、ずっと言ってほしくて……」
「……」
「そんなこと――言ってもらえたの――生まれて初めてで……」
やっとの思いでその言葉を絞り出した少女は、テーブルに突っ伏して、子供のように思い切り泣いた。
「うわぁあああああーん……」
「……」
その涙を見て――初春は酷く心の奥が渦巻く。
人間なんてのは、どうしようもなく醜い生き物と思っている俺だけど。
目の前のこいつは、そんな人間に対して、本気で力になりたいと思っていて。
こいつの世界は、この家の中だけで――それだけの存在になっても。
この世界に、ほぼ生きる意味を全否定されても、その夢を抱き続けていた。
「……」
素直に、すごいと思った。
自分の今までの経験でいえば、人間はこういう奴を馬鹿だと影で笑うだろう。
だが――柄にもなく、思ってしまった。
こんな優しい奴が神様なら……
こんな優しい奴となら――俺も、友達になれるだろうか……
そう思った。
俺は誰かの悪意によって、人生を滅茶苦茶にされて。
人間を憎んで。
俺は何故、こいつがこんなに優しくなれるのか、理解できない。
そんな中で、俺も……
「はは……」
自分の馬鹿さ加減に、初春は笑った。
散々人を信じて、自分から歩み寄ろうともして、それが何度も裏切られて、この様になっているってのに。
俺は、自分以上の馬鹿を見て、安心したかったのかな……
それとも……
初春の笑い声を聞いて、少女は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
初春は立ち上がって、少女の前に紙コップを出した。
「悪いな、客人用のカップなんてねぇから、それで」
初春も、インスタントコーヒーを淹れたマグカップを手に持って、そのまま縁側に出る。
3月の夜風は、春の匂いを運ぶ――
初春がこの家を借りる時に、一番気に入ったのが、この縁側と、二階の自分の部屋のベランダから見える、神庭町の景色であった。
周りに建物のないこの家の空に浮かぶ月や星は、空が群青に見えるほどに明るく輝いていて、褐色のコーヒーに、月を浮かべることができる。
その景色を自分の部屋のベランダで見ながら、図書館で借りた本を読むのが、初春のこの家での微かな楽しみでもあった。
「……」
少女はまだ温かい紙コップを手に取って、少年について、居間に出ていく。
「――お前、すごいな」
初春は縁側から言った。
「え?」
「そんな状態でも、夢があってさ」
「……」
「俺は、何もないからな……これからしたいことも、すべきことも、何もないから」
「そんな――私なんて」
今まで褒められ慣れてない少女は困惑する。
「……」
初春と少女は、今、期せずとも、同じことを考えていた。
「お前は、いつかその天界に帰りたいのか?」
カップのコーヒーに浮かんだ月を見ながら、初春は訊いた。
「どうでしょうか――私は一度追い出された身ですから。もう戻れるかはわかりませんが……」
「……」
「でも――私は立派な神様になりたいんです。ずっと夢だったんです。私の力で、みんなを笑顔にできるような――そんな神様に」
「――そうか」
コーヒーを一すすりして、初春はカップを縁側に置いた。
「――お前がこの家の外に出られるようになるには、どうすればいい?」
「――私達は、人間の記憶に留まれるように、徳を積むのです。徳を重ね、人の信仰を集め、多くの人の記憶に留まることで、私達はこの現世に、姿を留めることができるのです」
「……」
溜息。
「――手伝ってやろうか?」
「え?」
「お前が、この家から出られるように――あの月の向こうへ、帰れるように」
初春は空の月を見る。
「――ほ、本当ですか?」
少女は縁側の少年の方へ駆け寄る。
「俺は天界のことも、神のことも何もわからんが、それでよければな」
「……」
少女には、まだ理解できていなかった。
目の前の少年が、自分の身の上を聞いて、何故声を荒げて怒ったのか。
そして――
「――何で私に、そんなことを言ってくれるんですか?」
この少女も、今までの道のりに、誰かに神として扱われたことはなかった。
何故この少年は、自分にこんなことを言ってくれるのか……
少女の心は、今、激しく喜びが満たしていたが……
同時に、自分にこんなことを言ってくれることが、まだ受け入れがたく、信じられなかった。
「――どうせすることもないからな。お前を手伝いながら、俺もやりたいことを探す――悪いが暇つぶしだ」
初春は答えた。
――だが、初春もこの時は、同様に逡巡していた。
自分は今、この世の最下層――自分の生活も覚束ない、他人のことを構う余裕がない。
そんな自分が、他人の世話を焼くなど、自分の知っている人間達は、自分を嘲笑するだろう。
お前が他人の世話を焼いている場合か。
つい先刻、あのファミレスのバイト達にも言われたことだ。
それを知っているのに、少女にこんなことを衝動的に言った自分を、愚かしく思っていた。
「それに――俺は、お前を見殺しにしたくない」
「え?」
「今、こうして目の前で消えそうになっているお前を見捨てたくねぇ。俺も今まで人間に、俺の命をゴミみたいに扱われたからな……今目の前で苦しんでいる奴は、絶対に見捨てねぇ」
「……」
その言葉を言った初春は、脳裏に、結衣に貰った言葉を思い浮かべていた。
急ぐなよ、またとどまるな、我が心……
俺は今、何もかもを失った。
だが、そんな俺にも一つだけ思うことがある。
美学とか、プライドとか、そんな綺麗なものじゃない。
「俺は、自分の嫌いな人間と同じことを、どんな奴にもしたくねぇ」
その思いは実に愚かしいと思うが。
それが自分の今、唯一持つもの。
唯一、確かなものだ。
「――それじゃダメか?」
縁側に座ったまま、初春は少女の方を振り向いた。
「――ひっく」
「……」
初春は呆れたように顔を弛緩させた。
目の前の少女は、ついさっき落ち着けたばかりの顔をまたぐしゃぐしゃにして、目から滝のような涙を溢れさせていた。
「あ――ありがとう――ありがとう、ございます……神子柴様」
涙を着物の袖で拭いながら、少女は必死に笑顔を作って、縁側で初春に跪いた。
「神様なんだろ。俺なんかに頭を下げるなよ。俺も下げられ慣れてないんで、困るし」
初春は少女の下げた頭に手をやった。この家で大分体が定着した少女には、確かにさらさらとした髪の毛の感触が、今度はちゃんとあった。
「それに――俺は様なんて付けられるような大層な身分じゃねぇ。人間の世界じゃ、最下層だぜ……」
少女は顔を上げた。
「――ハルでいいよ。俺のことは」
「……」
少女の顔が、ぱっと明るくなる。
「は、はい! これからよろしくお願い致します! ハル様!」
「――なぁ、人の話、聞いてた?」
さっきから思っていたけれど――
こいつも何だかアホの子っぽいな……
――まあいいか。捉え方によっては礼儀正しいのだろう。
そんな律義者だからこそ、俺のことを知ってしまったことを謝りに来たのだろうし。
それがこいつのいいところなのだろう。
「――で? お前の名前はなんていうんだ?」
初春は訊いた。
「わ、私ですか?」
少女は当惑した。
「私には――名前なんてありません。高天原では神を名乗る資格を認められて、出雲の神議で名を持つことを許されるものですから」
「……」
初春は思った。
力がない奴は、名前を持つことも許されないシステムか。
そんなクソッタレ共が神様じゃ、人間がクズ揃いなのも当然か……
「だが、呼ぶ時に名前がないのは不便だな」
少年はコーヒーを一口飲みながら、思考を巡らせた。
「――よし、じゃあ、俺はお前を、ネネって呼ぶことにする」
「ネネ?」
「ああ、お前、『声』だか何だかよくわからんが、俺には聞こえない音が聞こえるんだろ? お前が神様になるには、その力から始まるからな……だから、音を二つ重ねて、音々……それがお前の名前だ」
「音々……」
少女は、自分が初めてもらった名前を反芻する。
少女は高天原では、二人称は『おい』や『お前』――
三人称に至っては『あれ』とさえ言われる存在であった。
師匠の紫龍でさえ、その倣いに従い、自分を『お前』としか呼ばなかった。
それが今、自分のことを、唯一無二の言葉で、呼んでくれる人がいる……
「あ、あの……」
「ん?」
「私――きょう、こんなに幸せなことが続いて、いいのでしょうか……」
「は?」
「初めて褒めてもらえて――私を神様と認めてくれた人がいて――名前までもらえてしまうなんて」
「……」
「ありがとうございます、ハル様」
「……」
その、また再び泣きそうな顔で、それでも笑顔でいる音々の顔を見ていると。
初春は、子供の頃の自分を何故か思い出す。
小さい頃の初春も、よく周りの子供にいじめられ、勉強ができないことで怒られ、一人泣いていた。
当時の初春は気弱で、そんな相手に復讐することなど考えられない性格だったが。
いつも直哉と結衣が、そうして立ち止まる自分を待っていてくれた。
自分を待っていてくれる人がいた。
だから自分も、何度でも立ち上がらなければと思った。
「……」
その頃の思いが、他者が自分を踏みにじることでいつの間にかねじ曲がり。
果ては自分の人生さえ、他者の妨害により歪んだ。
だが――
目の前のこいつは、その当時の俺と同じなのだ。
いまだにその最初の思いを曲げずに、純粋なまでにそれを求め続けている。
それを失った俺には、それが酷く眩しかった。
そこを歪めた自分が酷く脆弱に思えた。
「……」
これは慚愧か、悔恨か、自己の正当化か。
いずれにせよ、前向きな理由ではない。
だが――初春は本気で思った。
俺は、こいつの思いを踏みにじりたくない。
俺が人間にされ続けたことを、こいつにするような奴を、許したくない。
その思いを交錯させているうちに、玄関の扉が開く音がした。
「お師匠様」
音々はその音を聞いて、玄関へと向かっていったが。
「お、お師匠様?」
音々が少し大きな声を出したのを聞いて、初春も縁側から立ち上がり、玄関の前へ出た。
そこには、袈裟を捲り上げた左腕から血を流し、そこかしこが土に汚れた、紫龍が立っていた。持っている錫杖には、青紫色の液体がついている。
「その傷は……」
「――儂もなまったもんだ。子供の悲しみに弾かれて、アヤカシが取りつこうとしておったのでな……まさかあの程度の鬼に傷をもらうとは」
「……」
「もしかしてお師匠様、私の後を追って……」
「――ふん」
憮然とした表情で、男は玄関に腰を下ろした。




