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なくしてから、分かることってのがあるんだな

 少年は目を細める。

 目の前に現れた少女は、本当におぼろげにしか見えないのである。

 まるで陽炎のように――水面に映る反射のように、ゆらゆらとした輪郭が見えるのだが。

 その体は、半分は透明なのである。

 彼女の体の向こうに、後ろの景色が見えるほどだった。

「あはは……」

 少女は力なく笑う。

 その声は、水中で外の声を聞いているようにくぐもり――こんなに近くにいるのに、不自然に小さなものだった。

「……」

 その姿は、本当に目を凝らさないと、今にも消えてしまいそうで……今目の前に存在しているのに、その気配もどんどん薄くなる。

 一瞬で、少年も感じ取った。

 目の前のこの少女は、今、とても危険な状態にあると。

「――驚かせちゃったみたいですね」

 少女は言った。

「でも――大丈夫です。家に帰れば――段々元に戻っていきますから」

「――家に?」

 少年は家路を見上げた。

「――なら、すぐに帰ろう。それから話を聞く」

 そう言って、少年は少女の手を取ろうとした。

 普段は他人に触れることなど決してしない少年だったが――目の前の少女の気配の薄さが、少年を逸らせた。

 だが――

 少女の手首を握った時、指の隙間に一瞬少女が収まったが、それがすぐに脇に流れていくように、空を切った。

「――え?」

 微かだが、感触があった。

 だが――感触がある――幻でないはずの少女の体を触ることができなかった。

 まるで、水を掴むように――

 少女の体は、今、水のように実体がない……

 驚いている少年を見て、少女はその場にしゃがみ、舗装もされていない山道に落ちている石ころを持つ仕草を見せた。

 だが、やはりその小さな手は、石をすり抜けて、手に取ることができない……

「――この状態になると、もう私はものを持つこともできないんです――でも、大丈夫ですから」

「……」



 家に帰ると、少年は少女をキッチンのテーブルに座るように指示した。

 時計はもう11時になろうとしている時間だった。

「あのおっさん、家にいないようだな……」

 少年は家に他の気配を感じないのを確認する。

「腹減ったな……」

 少年はファミレスで賄いを3時に食べてから、何も口に入れていなかった。バイト前に炊飯器をセットしているので、簡単な料理をしてバイト帰りに、期限切れの食材をもらって料理するのが日課だった。

「とりあえず、飯作りながらでいいか?」

 少女に訊くと、こくりと頷いた。

 冷蔵庫には、スーパーで少し買った食材と、ファミレスでもらった食材が残っている。

「オニスラ、キャベスラとバラ肉と……」

 少年はそれらを取り出して、フライパンを温める。

「お前も食うか? 生姜焼き」

「この体だと、お箸を持つこともできないので」

 少女は言った。

「それに私達は、食べることは嗜好品の一つですから。食べなくても死ぬことはありません」

「つまらなそうだが、便利なことだな」

 フライパンに油を敷く。

「――言うの遅れたけど、ありがとな」

 少年は背後の少女に言った。

「あんな植木に入り込んだ所の財布、あんなに暗いんじゃ、いつ見つかるかわからなかった」

「いえ……」

 十分温まった油に、豚バラ肉を投入する。

「でも、何ですぐにあんな所にあるって分かったんだ?」

「――私には、ものの『声』を聞く力があるんです」

「『声』?」

少年は振り向いた。

少女の体は、まだうっすらと輪郭がぼやけてはいるが、体の向こうの景色が見えるほどの透明度ではなくなっていた。

「人間の伝承だと、つくも神というのを、ご存知ですか?」

「――それって確か、ものを99年使うと、ものに魂が宿るっていう……」

「そうです。実際には99年も使うことはないですが――人間が大切に使っていたものには、その思念が物に移って、小さなアヤカシを物に憑かせるんです。私はそんな小さなアヤカシの声が聞こえるんです」

「へぇ」

 少年は、火の通った豚肉にオニオンスライスを投入し、軽く火を通したら、醤油と砂糖、味醂、チューブの生姜を混ぜたたれを投入した。ジュワッとフライパンが音を立てる。

「ココロは、あの財布を短い期間で、大事にしていたんだな」

「お姉さんの最初のバイト代で買ってくれたものって、思い出に残るものだったって、声が聞こえました」

「……」

 あのホールに出ている女の子――少年と同い年だったか。いい姉をしているんだな、と思った。

 軽く一煮立ちさせたら火を止めて、色の変わりかけたキャベツの千切りを皿に乗せて、その脇に生姜焼きを乗せる。

 炊飯器に炊かれたコメを茶碗によそい、少年の夕食が完成した。

 少女の向かいの椅子に腰かけ、少年はいただきます、と手を合わせた。

「前から思ってたんですけど、いつも生活の手際がいいですよね」

 少女が目の前の生姜焼きを見ながら言った。

「そうか?」

 少年は生姜焼きに箸を伸ばした。調理時間は5分に満たないが、簡単で美味い。おまけに白米と調味料以外はタダだ。

「実は私も、あなたに謝らなければならないんです」

 少女はまだ実体化が完了していない手をテーブルに突いて、頭を下げた。

「――すみません。あなたの持ってきた荷物から、あなたのこれまでのことを聞いてしまいました」

「……」

 沈黙。

神子柴(みこしば)――初春(はつはる)様、ですよね」

「――お前に名乗ったことはなかったはずだがな」

 初春は首を傾げた。

「――直哉様と、結衣様とのことも、聞いてしまったんです……」

「……」

 初春は箸を止めた。

「――そんなことも分かるのか……すげぇな」

「――すみません」

「別に構わない。隠すような話でもない」

 自嘲を交えて、初春は言った。

「馬鹿な男が身の丈に合わないことをしたってだけの話さ」

「……」

 沈黙。

「とても大切なお友達だったんですね」

「今は――もう分からんがな……」

 少年は俯いた。

「あいつらが俺のそばにいなければ――俺の母親は、あそこまで劣等感に苦しまずに済んだのかもしれないし、俺自身も周りにここまで侮蔑されることもなかったのかもしれない……この数カ月、そんなことも考えていた」

「……」

「だが――なくしてから、分かることってのがあるんだな」

「……」

「自分がこんなにも、ユイのことを好きだったなんて――こんなにも、ナオに嫉妬していたなんて……」

 声が震えるが、初春の目には涙が出ない。

 この町に来る決断をするまでに、何度も泣いてしまったから。

「俺――本当にユイの事だけは、ナオにも渡したくないって、こんなに思ってたんだな――そのために、本気でナオと勝負がしてみたかった。あいつらと同じ道を行く――神高に行くままの俺で……」

 少年は、この町に来る決断をする間、二人に対して様々な感情を戦わせていた。

 母親の言うとおり、自分が直哉に大きく劣っていたことは、彼女を酷く傷つけただろうことは、少年にもわかった。

 あいつが目の前にいて、俺は災難に会い続けた、と思ってしまうこともあった。

 だが――

 もうそんなことはどうでもいいと思えていた。

 自分はその枠組みの中から出たかった。

 あいつらにとって誇れる人間になりたい。

 本当の強さを知りたい。

 中学校生活の最後に出会ったその思いが、長年比較された苦しさを脇に追いやって。

 初春に、深い悔恨だけを残した。

 結衣に対する気持ち――これが自分の初恋で。

 これからの人生、結衣以上に想うことのできる人間が現れるだろうか。

 そう思えるほどの、熱い彼女への気持ちが、感情の稚拙な初春の胸に、激しい痛みを与えていた。

「必死で、あのお二人を祝福できる道を、今でもお探しなんですね」

 少女が優しい声で言った。

「あなたはぶっきらぼうですが、本当はとても優しい方だと、あなたの持ち物が口を揃えて語っていました。あなたの持ち物は、とても強い心がこもっていて、あなたのことを沢山教えてくれました」

「……」

「あなたが施設に入らずに、苦労をしてでも見知らぬこの町に暮らすと自分で言いだしたのも、最後に自分で責任を取ると、きつい口調で啖呵を切ったのも――自分のために親族が無駄に争うことはないと気を遣ってのことだということもね」

「――そんなつもりはない。もう二度と会わない奴の心配なんて」

「心配じゃなくて――後腐れを消したかったんでしょう?」

 少女は言った。

「今でも――誰かを傷つけたり、恨んだり――そんな枠組みの世界以外の場所に行きたいと、思っていらっしゃるんですね」

「……」

 沈黙。

「本当にお前って、神様だったんだな」

 初春は箸をまた伸ばし始める。

「あいつらのことまで知っているなら、本当にお前、声だかわからんが、情報を得る力があるみたいだな」

「……」

 少女は俯いた。

「何だ?」

「でも――これだけなんです」

「ん?」

「私ができることは、そんなアヤカシの声が聞こえること――それだけなんです」

「……」

「神様の見習いは、初めは高天原と呼ばれる天界で一堂に集められて、適性に応じて通力や鬼道を身に着けるために修行をするのですが――私はその中でも、何もできない落ちこぼれで……」

「……」

「私――びっくりするほど何にもできなかったんです……土地を清めることも、アヤカシを退治することも、商売のために、人を招き入れることも……私には、神としての適性や才能が、全くないって言われました……こうして微弱なアヤカシと遊べるしか脳がない、ただの役立たずだって……」

「……」

「私それで、高天原を追放されちゃったんです……神になる資格なし、という判断が下って――神力を持たないものは、ここにいる資格はないって、下界へ……」

「……」

 沈黙。

「そこで私は、あてもなく下界を彷徨っていたんですが、その時に、この町で、かつて強大な力を持っていたという戦神の紫龍様が隠棲しているとの噂を聞いて、この町に来たんです」

「紫龍――あのおっさんか?」

「はい、お師匠様はすごいんですよ。かつては地獄との戦争でもご活躍なされた、最強の武神様です」

「……」

 嬉々とした笑顔で語る少女のテンションに、初春は首を傾げた。

 ――どう見ても自堕落なおっさんにしか見えなかったぞ。俺に最初やっていた嫌がらせとか、みみっちいものばかりだったし。

「お師匠様に、事情を話したら、俺の身の回りの世話を焼くなら、ここにいていいと仰っていただけで……」

「は? お前、それであいつの世話を本気で焼いているってわけか?」

 初春は箸を置いた。

「一生そうして、召使いをやるってのか?」

「そういうことじゃないんです」

 少女は沈んだ声で言った。

「私達高天原で生まれた者は、人間の記憶の中に生きる存在――だから、人間の記憶に留まれない者は、消えてしまうんです……」

「え?」

「でも――優れた神様の庇護になると、その神様から、最低限存在を留められるだけの神力を分けてもらえます――その間に修行をして、神力を高めることもできますから」

「――じゃあ、お前がさっき体が透明になっていたのは……」

「――はい、この家の中には、お師匠様の神力によって、常に微弱な結界が張ってありますので、私はこの家の中でなら、その結界の力で実態を留められるんです。でも――ひとたびこの家から出てしまうと、私は神として、人間の誰の記憶にも留まっていないので――すぐにああして、体が実態を留められなくなるんです……実態を留められるのは、せいぜい一時間くらいで……」

「……」

 少年は、酷く逡巡した。

「それ――最終的にはどうなるんだ?」

 答えは分かっていたが、少年は訊いた。

「実態を留められなくなった神は、跡形もなく消滅――つまり、最初からいなかったことになるんです――人間でいう、死ぬ、というのに、ちょっと似てますね」

「……」

 人間との違い――その言葉の意味は、少年はすぐに察することができた。

 神は、消える時にはすべての人間の記憶から消える……

 それは、神は死ぬときには、例外なくひとりぼっちだということ。

 死んだ後に、誰の記憶にも留まれない。

 初めからいなかったことと同じ――痕跡も残らない。

 力なく淡々と、それを語る少女の話を聞いて、初春は思った。

「――お前が天界から追い出されってのは――お前にとっては、『死ね』って言われたのと同じじゃねぇか……」

「え?」

「馬鹿じゃねぇの……馬っ鹿じゃねぇの!? そいつら!」

 少年は立ち上がった。


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