お前達に興味がないからだよ
不動産屋で申込を済ませた少年が家に戻ったのは、午後の4時を回った頃だった。もう管理のやる気もない大家に確認を取り、リフォームをしない代わりにもう勝手に使ってもいいという許可も下りたのは、ホテル代もない少年にとっては幸運だった。
家は小高い山の麓にぽつんと建っている一軒家で正式な区画はないのだが、セダン3台は余裕で置けそうな庭に、一階の居間の縁側には物干し台がある。
一階の居間は和室で8畳、畳は長いこと張り替えていないようで、少し古めかしいうえに何故か人が荒らした跡もあり、不動産屋が張替えをすると言ったが初期費用が安い方がいいという理由で少年が断っていた。
ガスは入居者の立ち会いで開けるために今日は使えないが、電気と水道が使えるということで、少年は不動産屋近くのコンビニで食事を少し買い込んでいた。
少年は2階に上って、2階のフローリングの部屋の隅に鞄を置いて、窓を開いた。
少年はこの家を借りる際に一番気に入ったのが、この部屋の日当たりとバルコニーからの景色だった。
冬の早い夕暮れはもう神庭町の景色を全てオレンジ色に染め上げ、太陽が神庭町の彼方の海の向こうに沈みかけて海面をオレンジ色に輝かせていた。
少年はそんな景色を見て大きく息を吸い込んで部屋に戻り、コンビニで買ったゴミ袋を取り出し下の居間に降りた。
「とりあえず、今日は掃除だな……」
一階の居間は古い畳に酒や食べかすが所々こぼれており、強力な掃除機でも欲しいところであったが、とりあえずゴミを払いのけて畳の上をコロコロで綺麗にするだけでも一苦労だったが、少年は黙々と掃除を続けた。
居間は奥の襖を開けると縁側に出る。引き戸式の雨戸を開けると埃が空気中を無数に舞うのが見えるほど縁側は埃だらけだった。少年の靴下にふかふかした感触が伝わるほどだった。
ガラスのはまった木製の引き戸を開くと8畳ほどのキッチンがある。キッチンにはおそらくいわくつき物件のものを持っていきたくなかったのであろう前入居者が置いていった4人掛けのテーブルと椅子がついているご丁寧さである。しかしそのテーブルの上も、冷蔵庫もないのに缶ビールの空き缶やスーパーで買ったお惣菜のパック、菓子パンのビニール袋がぐちゃぐちゃに乗っている。
「はぁ……」
ようやく居間をある程度綺麗にし終わった頃には時計はもう夜7時を回っており、カーテンもない窓の外はもう真っ暗になっていた。少年はいまだ広がるゴミの荒野にうんざりした溜息を洩らした。
テレビもなければ家の前を通る車もない。少年にとってここまで静かな空間にいるということは、人生で初めてだったかもしれない。
男と少女は、廊下の襖の陰からそんな少年の様子をじっと見つめていた。
「久し振りにこの部屋がこんなにきれいになりましたね」
少女は小さな声で少し嬉しそうにそう呟いた。
「ふん、あんな小僧にこの家を踏み荒らされるのは気に入らんな」
「きれいにしてくれてるのに……」
「やかましい。この家は儂が先に見つけたのじゃ。次の手じゃ」
「お師匠様、単純に驚かせて面白がっているだけじゃ……」
男は心配そうな少女をよそに、居間に置いてあったゴミ袋をキッチンを掃除していた少年の頭の上で、逆さにひっくり返した。
食べかすをこぼしながらゴミがどさどさと少年の頭にかぶる。
「……」
少年は一瞬体を硬直させたが、一度後ろを振り向いてあたりを見回した。
「……」
しかし少年はまたしばらくして体をかがめて、また散らかったゴミを片付け始めた。
「な、何……」
「全然動じないですね、あの人」
「な、なんという奴じゃ。今までの人間はちょっとこんなことをすればすぐに気味悪がって逃げ出したというのに……」
その後も男は少年の背中越しで蛇口を一気にひねったり電気を消したりと、少年に散々ちょっかいを出し続けたが、少年はその度にあたりを少し見回してはそれを元に戻し、黙々と掃除をするだけであった。
そんなことをしている間に、少年はゴミ袋5袋にも及ぶ大掃除を終え、ようやく一階の居間と台所の大掃除を終えていた。もう時間は、夜の11時を回っていた。
「はぁ……」
少年はようやく人心地をつけ、埃にまみれた靴下を脱いで2階の部屋にある鞄から部屋着を取り出して着替えた。
本当ならシャワーを浴びて汗と埃を流したかったが、生憎ガスが通っていないために水しか出ない。ガス会社が3日経っても栓を開けに来なかったら銭湯に行こうか。
一階の居間で畳の上に胡坐をかき、先に買っておいたコンビニ弁当を取り出し、蓋を開けた。
まだちゃぶ台も座布団も電化製品もない2DKは、電子的な音は何もない。ただでさえ広大な部屋が、ずっと広く感じる。
冷たい豚の生姜焼きに箸を伸ばす少年を前に、男は酷く苦々しい表情をしていた。
「お師匠様、折角こんなにお部屋を綺麗にしてくれたんだから、もうやめましょうよ」
「こいつは何なんじゃ。儂らの姿が見えてないのに、こんなことが起こるなら、どんなに鈍くても、少しはおののくのが普通じゃろう」
「まあ、そうですけど……」
「こいつは阿呆ではないのか? 変なことが起きても、それが理解できていないのかもしれんな……」
「全部聞こえてるよ」
少年は不意に強い口調でそう言って、箸を弁当箱の上に置いた。
その視線が自分達を捉えていたことに、男と少女は一瞬体をびくりとさせた。
「さっきからあんた達が、俺に嫌がらせをしているのもわかってるよ」
確かに視線も声も、二人に向けられている。
「わ、私達のことが見えるんですか? 声も聞こえるんですか?」
「最初は見えなかった。だが昼にここに来て扇子を頭に投げつけられた時に、確かに家の中に何かいるような気配と声が聞こえた気がした。それから掃除をしながら気配を感じていたら、最初はあんた達の話し声が少しずつだけど聞こえるようになった。その声を頼りに目を凝らしていたら段々あんた達の姿がもやもや見えるようになった。今ははっきり見えている。袈裟を着たおっさんと、着物を着た女だ」
「声……」
「この家に来た人間も、この家の儂らの通力に触れているうちに儂らの姿が徐々に見えるようになっていったが――餓鬼である分そのような刺激に対する感性が敏感だったのか……」
男はそう呟きながら腕組みをして考えを巡らせていたが。
「どうでもいいから出ていけ」
少年は胡坐をかいたまま箸で玄関の方を指差した。
「契約でこの家は俺の家になったんだ。お前達の家じゃない」
「ふん、人間の間での約束事など知らんわ。この家は儂が目をつけて住んでおる家なのじゃ。儂は神なのじゃぞ」
「……」
少年は男のその言葉を聞いて、眉を細め、眉間に皺を潜めた。
「――ごめん、何を言っているのか理解できてなかった」
少年は鋭い視線を男に向けた。
「――神だって?」
「ああ」
「いい歳して、本気で言っているわけ?」
「実際儂とこいつは、お前が昼にこの家に来た時から、ここにずっといた。それが最初は見えなかったじゃろう」
「……」
「まあ、お前のような小僧にも姿を捉えられてしまうのは、儂もすっかり鈍ってしまったということなのじゃろうが」
「この神庭町は、まだ昔の風習や、手つかずの山林が残っていて、神々や妖にとってはとても過ごしやすい場所なんです」
隣の少女が老人をフォローするように口を開いた。
「最近は人間も、どんどん昔の街並みを壊してしまって――その土地を追われる土地神様や妖も、この家の裏にある山林に流れてくる方も多くて……お師匠様はこの家で、そんな方々の寄り処のようなことをしていらっしゃるんです」
「――成程、この散らかりようはそういうわけか」
少年はあまり興味なさげに頷いた。
その折。
少年達のいる今の縁側につなぐ襖がひとりでに開いた。
縁側には、一つ目の、頭だけが達磨のように大きな老人のような姿をした者、髪の毛が蛇のようにうねり、真っ白な装束を着、これまた蛇のように目の釣り上がった女や、頭から二つ角を生やした、二足歩行の牛の姿をした者などがいた。縁側の後ろには、まるで象のような大きさの、真っ白な毛並みの狼のような姿の生き物と、これまた大きな、背中のたてがみと尻尾に赤い炎を宿した巨大な馬がいた。
「に、人間?」
先頭にいた白装束の女が汚らわしいものでも見るような声を上げた。
「おお、お前達か。なに、こいつは今日この家に上がり込んできた者じゃ。小僧だというのに、もう儂らの姿が見えているらしい」
「……」
「妖怪だか神だか知らないが――居場所のない奴等が、ここで酒を飲み喰らってるってわけだ」
「生意気そうな餓鬼ですねぇ」
前列にいた、一つ目の妖怪が、老人に苦々しく言った。
「――あぁ、そう」
少年はそう言いながらため息をつき、弁当箱の残りのご飯とおかずを口にかき込むと、弁当箱と割り箸を、片付けの際に使ったゴミ袋の中に捨てて、畳の上に足を伸ばして座り、部屋の壁に背中を預けた。
「あ、あの」
再びおずおずと少女が少年に声をかける。
「……」
少年は少女に鋭い視線を向ける。
「うぅ……」
少女は少年の物言わぬ迫力に気おされた。
「あの――何で私達の姿が見えていたのに、ずっと黙っていたんですか?」
「お前達に興味がないからだよ」
「……」
「正直お前達がこの家にいることは面倒臭ぇ以外の感想はない――相手にしないことでそのうち黙ってくれるならそれが一番いいと思って黙っていた――だが、神だか何だか知らねぇがお前達がこの家で今までここに住んでいた人達に悪さをしていたから、俺は法外に安い値段でこの家に住めるわけだしな。元々法外に安い部屋であれば、どんなにボロボロの家でも受け入れるつもりだったんだ。家の悪条件がお前達に変わっただけだ」
少年はそう言って自分の鞄からダウンジャケットを取り出してそれを着込み、鞄を肩に吊り下げて立ち上がった。
「勝手にすればいい。少なくとも俺はお前達に何の興味もねぇ――だからお前達も俺に一切関与しないでもらおう――言いたいのはそれだけだ」
そう言って少年は二人の返事も待たずにそのまま二階に上がった。この家にはまだ布団もない――少年は今日は衣服を着込んで、寒さをしのぎながら、とりあえずの睡眠をとって、一夜を過ごすつもりなのだ。
「随分と変わった坊やだね。私達の姿を見ても少しも驚かないなんて」
白装束の女がキセルを咥えながら言った。
「ふん――生意気な餓鬼じゃ。世の中を少しは知っていると思っているような自惚れも甚だしい」
「……」
少女は苦々しい顔で、下げていた徳利に入っている日本酒をぐいと強くあおった男の横で、少年の上って行った階段の方をじっと見ていた。
「やっぱり、違う『声』が……」
男はやってきた異形の者達と飲み明かし、少女もその宴の隅に参加して夜明けまで騒ぎ続けた。
日が昇る前には異形の者達は裏山の自分の住処に戻り、鯨飲して畳の上で大鼾をかく男の横で少女もうとうとと微睡んでいるのだった。
だが、少女は睡眠をとろうと思った矢先に、庭の外でする物音により目を開けるのであった。
ぶつっ、ぶつっ、という小さな音が、外からずっと聞こえている。
居間の和室には縁側に出る襖がある。少女はその襖を少し開けて庭の外をのぞいた。
窓の外では、少年がしゃがみ込んで黙々と草むしりをしていた。
時計を見るとまだ6時半――だが、少年はもう1時間はこうして草むしりをしていたのだろう。土が見える地面の上には、少年がむしった冬の枯れ草がみっしり詰まったゴミ袋が二袋置かれていた。
「……」
少年は軍手を付けた両手でしゃがんだ状態で草の茎をつかんでは、力任せに根こそぎ引き抜いている。ちぎっては捨て、ちぎっては捨て、山になればゴミ袋に入れる。それを黙々と繰り返していた。
だが少年のむしるペースが速くても、庭とも土地ともつかない広大な一軒家の敷地にはまだまだうっそうとした草地が広がっていた。ゴミ袋が50袋はいりそうなほどこの庭は広い。
「……」
少女は少年の昨日の言葉がずっと気になっていた。
『お前達に興味がない』
そう言った時の少年の口調は酷く疲れていたような声をしていたが。
それ以上に多くの理不尽に対する強い怒りを含んでいた。
その翌日にはこうして朝早く起きて、草むしりをしている……
「……」
少女は耳を澄ませ、体を乗り出して音に集中する……
その時。
ばきっ、という音がして、襖が少女の体重で外れ縁側に少女の体ごと倒れて落ちた。
「きゃあああああっ!」
少女は縁側に穴を開けて、前のめりに縁側につんのめった。
少女の声と襖が倒れる音を聞いて、少年は草むしりの手を止める。
「痛たたた……」
少女は擦りむいた額を抑えながら顔を上げる。
その視線の先には、うんざりした表情で少女を睨む少年がいた。
「――余計な仕事を増やさないでくれないか。俺には襖を直す金もないんだ」
「ご、ごめんなさい……」
少女はばっと立ち上がって、倒れた襖を起こした。
「昨日言ったはずだ。俺はお前達に干渉しない。だから俺に一切迷惑をかけるな、とな。なのに昨日も一晩中騒いでいてほとんど寝られなかったぞ。その上、人が折角片付けた居間を一晩で派手に散らかしてそのままか? 神だか何だか知らんが最低限の礼儀も知らないのか」
怒鳴るわけでもない静かな口調だが、明らかな怒りを孕んで少年は言った。
そう吐き捨てると、少年はまたしゃがみ込んで黙々と草むしりの続きを始めるのだった。
「……」
返す言葉もない――少女はしょんぼりと俯いた。
でも――私はこの家を出たら……