追憶~ここではない、どこかへ
12月に入ると、少年の母親は住んでいた団地を引き払い、少年は近隣の親戚の家を、二日ごとにたらい回しになる生活を送った。
両親の実家はそれぞれ亀戸と明大前――電車賃も渡されなかった少年は、この東京の東西真逆の家を、自転車で片道1時間半かけて移動するような状態で、もう学生服すら余計な荷物――二つの家と方向の違う千川の学校に通うような状態ではなかった。
冬の風は冷たく、移動の度に運ぶ荷物は最低限の服だけだが、それでも酷く嵩張る。息を切らして自転車をこぎ、喉が渇けば公園の水飲み場で喉を潤し、携帯の充電が切れればファーストフード店のトイレで充電し、何も注文せずに休憩するような有様である。
だが、東京の路上駐輪は厳しい。
そうして休憩している時に、警官がやってきては、何も言わずに自転車を撤去していくのである。
一度撤去されたら、それを回収するのに国に数千円を払わなくてはいけない。少年は少し自転車から離れた時に、警察官が自分の自転車に近づいた時には、必死でそれを止めた。
「君ねぇ、社会のルールは守ってもらわないと」
警官はどこで会う奴もみんなそんなことを言った。
「……」
少年は思った。
俺は今、乞食同然の生活をしている。もう自転車を一度取られたら、引き取る金もないし、親族にも頼めない。
何でこれ以上何も持っていない俺から、何もかも奪おうとする?
何故強者からでなく、弱者から搾取する?
これが社会のルール? 厳しい大人の社会?
何故関わりたくもない人間が、俺の周りに寄ってきて、初対面でこうして奪いに来る?
どいつもこいつも聖者のような素振りで勝手に来て、挨拶もなく奪う。
この警官も、どうせこいつは逆らえない、俺が力で守られているといった顔で、平気で自転車を俺から奪い、返してほしければ金を払えと言う。
触らなくたって神は祟る。
生きているだけで、それは既に罪だ。
――そうして辿り着いた親族の家では、どうやら両親のお願いもほとんど身勝手な言い分だったらしい。少年は完全な厄介者で、年に一度会うか会わないかの親族から、徹底的に疎まれた。
食事と寝床を与えられる以外は、少年は非常に素直に、かつ謙虚に努めてはいた。食後の洗い物も、掃除も率先して勤め、風呂は一番最後をもらうことを徹底した。
親族達も、最初のうちはそれなりにニコニコしていたが、そのうちずっと居座られるのか、ということを考えるようになったのか、連日少年の両親に催促の電話を入れるようになった。
「あんたのガキでしょ! 何とかしなさいよ!」
そんな声も、少年の耳に届く。
「いつまでもこんなにいい加減なことばかりして、可哀想だと思わないの?」
そんなことを言う親族もいたが。
少年は別に、自分が憐れんでもらっているわけでなく、単にその親族が、自分を早く追い出したいからそんなことを言っていることも分かっていた。
人間ってのは、自分のために、そうして他人を心配する振りをする。
よく少年は「そんな暗い生き方して楽しい?」と、学校で同級生に訊かれたことが何度もある。
だが、その言葉は、相手が真に自分の心配をしていたことは一度もないことを知っていた。
単に、そうして相手の人生を憐れむことで、自分の優位性を固定しようとして言った言葉だ。
そうした自分をダシにしたような言い方で、自身の利益につなげる物言いは、少年の最も嫌うところであった。
電話越しにだけでなく、親族もそんな言葉を少年に毎日投げつけた。
「早く住む場所が決まるといいわね」
「もうすぐこういう状況も終わるから」
それは全て「もう私とは関係ないから」という言葉と同義であることに気付いているのか、気づいていないのか――
連日の長距離移動や、明日住む場所の保証も足元から揺らいでいる現状は、少年の心身を急速に蝕み続けた。冬の木枯らしが、少年の心にも届くように、生気を枯らし続けていった。
そして、父親の仕事がひと段落ついて、東京に帰ってくる、年の瀬に近い時期に、家族親族顔を合わせての話し合いが行われることになった。
大晦日の夜、少年の両親と父方、母方の親族は、明大前の母親の実家に集まり、居間である和室に顔を揃えた。両親の兄弟も顔を揃え、両者の親族のほとんどが集まった。
少年はもうこの一か月の生活に非常に疲弊しており、和室の隅の襖に寄りかかって、暗鬱とその様子を見ていた。
もうこの状況になると、少年にも分かっていた。
ほぼ施設に預けられることが、既定路線だろう、と。多分親族もそういうつもりでここに来ているだろうと。
そしてそれを、殺されないだけありがたいと思え、というような顔で受けざるを得ない。
それが自分の現状であることを。
「……」
話し合いは、もう長年離婚の準備を知っていた親族に、両親から改めての離婚報告、そして互いに再婚が決まっていることの報告から始まった。
さすがに互いの親族に不倫した上での再婚相手を連れてこられなかったのか、それとも親権をどうするか迫られた時に、「相手とも相談しないと」という逃げ場を作るためか、いずれにせよ両親は再婚相手とは同席しなかった。
少年としては、もう修羅場でもなんでもどうとでもなれ、という心情だったので、ちょっと残念だった。
そして一通り両親に対する罵声が親族から飛んだ後、両親が既に財産分与等、夫婦間の話し合いは概ね解決しているという報告があった。さすがに15年待ち望んだ離婚である。もう互いに喧嘩をするエネルギーもない、関わり合いを早く消したい、という心情が、妙に落ち着いた両親の顔がまざまざと語っていた。
そして残る問題が、少年の親権だけ、という話題に入る。
どちらも再婚相手が一緒に住みたくない、という理屈は、そんな気もないくせに、俺は一緒に住んでもいいんだけど、の逃げ道を残しているようで、少年は酷く癇に障った。
当然親族からも身勝手だと罵声が飛んだが、母親は以前に少年に見せたようなヒステリックな声を上げて、少年がいたせいで、自分は15年も無駄な時を過ごしたという理屈をのたまった。
――成程、この一か月、少年を預ける親族にも、このようなごり押しで頼んだとしたら、自分が厄介者になるのも当然だと、少年は溜め息をついた。
「うちにだって息子と娘がいるのよ。これから受験で……」
「その子、何か何考えてるかわからないのよね。うちの家族と上手くやれるかしら」
「もう俺も、15歳の子供とは一緒に住めんぞ。歳で……」
「うちみたいなお金のないところよりも、もっと余裕があるところがあるでしょう?」
一通り、親族達の近況や心情が並べられ、誰一人、当然少年の親権を預かろう、という者は現れなかった。当然高校の学費も出ない状況。
「じゃあ、やっぱり中学卒業したら、働いてもらうしかないわね」
その結論が出るのは、あっという間だった。
「ああ、施設に入って、どこかで働いてもらうしかないじゃろう」
「仕方ないわね」
「そうそう、このまま長引かせても、可哀想だし……」
その結論も、あっという間に出た。初めから示し合わせたかのように。
「……」
少年は思った。
よく、残虐非道な行為に及んだ人間に対する罵倒として
『あなたは人間じゃない』
『人の道を外れた行為』
なんてことを言う奴がいるが。
――これが人間だよ。
まるで人間を、犬猫を保健所に送るような手続きで捨てることに、何の疑問も持っていない。
今回の場合、少年に対する結論は既に出ているのだ。
『死ね』という結論。
もしくは『死んでくれないかな』という願望。
そしてそれを、自分がいかに関与せずにそうなってくれるかを望んでいる。
毒薬を、オブラートひと箱分で包んで、それを誰が少年に渡すか、で揉めている、といった感じ。
「……」
少年は就職面接で、思考が他責的だと言われた。
辛いのはお前だけじゃない。社会に出ている奴は、みんな同じように苦労している。それが分からない奴に、社会に出る資格はない……
だが……
本当に辛いことを知っている人間ばかりなのだろうか、この世界は。
例えば、学校で酷いいじめを受けて、今にも死んでしまおうと思っているような子供が、自分と同じようないじめを受けている同じ境遇の子供を見て、追い打ちをかけるだろうか。
本当に辛い思いをしたのなら、みんなもっと優しいはずだろう。
なのに俺は今、まるで犬猫を保健所に送るような手続きで、人間にゴミみたいに弄ばれている。
――本当は、誰も大した苦労なんてしてないんだろ。
もしくは、『辛いのはお前だけじゃない』と言っている奴だって、内心では『俺の方がお前よりも辛い思いをしている』と思っている。
だから、人間は優しくない。
本当の辛さや痛みを知っている奴がいないから、他人の痛みが分からない。
「……」
この状況を、いつまでも他人のせいと嘆いていても、半端者だと、ろくな痛みを知らない、社会の主流の人間から、数の暴力に等しい攻撃対象にされ。
自分のせいだと認めてしまうのも、訳が分からないまま自身の生涯の全否定を他人に強要され、責任を一人背負って貧乏くじを引いた挙句に隷属する行為だ。
どちらも敗北へとつながっている。
そんな二択を強要されるのが弱者で。
そして、そんな身を切るような痛みのどちらかを選択したって。
人間が、自分に優しくしてくれるわけじゃない。
また新しい難癖が飛んで、隷属する口実を探されるだけ。
認めても、目を背けても、待つのは蟻地獄のような、さらなる落とし穴でしかない。
だとしたら、俺は……
「――はあぁあ」
わざとらしく大きな声で、今まで黙っていた少年が溜息をついた。
両親親族が、一斉に少年の方を見る。
「あんたらってさ――神様にでもなったつもりなの?」
少年は言った。
「まるで人を、犬猫を保健所に送るような手続きで、施設に預けることを決めて――しかも、働いてもらうにしても、リクルートスーツ一式、ネクタイ一本の餞別もない時点で、俺がまともな定職に就けるかどうかなんて関係ない。もうその後のことはどうでもいいってわけだ」
「……」
「俺にとっては、死ね、って言われてるのと同じなんだけど――あんたら、他人の生き死にも自分で決められんの? さっきから俺に、死ね、って言ってんの、「仕方ない」とか言ってるけど――15の誕生日を前に、人生滅茶苦茶になった俺としては、そこを誤魔化してほしくないんだけど」
「はぁ? アンタ何様なの?」
親族がいきり立って少年に怒鳴りつける。
「誰のせいでこんな話し合いしてると思ってるのよ!」
「あんたのことをみんな考えて……」
「クソがっ!」
少年の大喝が、親族の言葉を止めた。
「クズッ! クズッ!!! クズッ!!!!!」
叫ぶ少年の目には、涙が溢れた。
叫びながら少年の脳裏には。
直哉と結衣の笑顔があった。
その笑顔が、自分の中で、酷く遠くに行ってしまう感覚があった。
自分の中の弱った鎖が、それを離してしまったこと――それが少年に、酷い虚無を連れてきた。
「お前達、一人残らずクズだよ――俺より全員、力があるはずなのに、弱者に優しくすることもできずに、詭弁を吐いて人を殺す――しかも人の人生滅茶苦茶にして、俺に恨まれることも気に入らない? 聖者みたいな顔して、「仕方ない」だと? どこまで身勝手なんだ! お前達は!」
「……」
両親も親族も、少年の幼年時代の姿を知っている。
昔から出来が悪く、大人達に怒られては、しばらく泣きわめいていたけれど、すぐに静かになって、怯えたように存在感を消す――そんな子供だった少年が、初めて身内にキレた。
その怒りは、何かの反論をこれ以上付け加えたら、下手したら大暴れをしかねないほどの怒りである――洒落にならないことを察した両親親族は、ぴたりと黙り込んだ。
「――もういい」
少年は呆れ果てたように言った。
「施設に入れるために用意する金の5分の1でいい。それを手切れ金として俺に寄越せ。それで一人で生きてやる――新しい家を借りるのと、仕事に就くための同意――それ以上の親権はこれ以上何も求めないと念書を書いてもいい」
「……」
「だから――これで終わりにしてくれ。俺ももう、人間なんかと一緒にいるのは沢山だから……」
「……」
「人間は――優しくないから嫌いなんだ。もう関わりたくない――どうせ殺されたも同じ人生なら、一人で生きてやる――あんた達にとっても、一番安く上がるなら、それでいいだろ」
結局、少年のその提案が、両親親族にとって最も被害が少ないという理由で、話し合いは終了した。
親族の新年の団欒を壊さないようにと、少年の配慮で、少年は新年を故郷に程近い池袋駅の地下街と、北口にある公園で過ごした。
3が日が明けると、最後の両親の選別として、一カ月のマンスリーマンションの滞在が許され、そこに少年の荷物が全て運び込まれた。
その間に安いアパートと、ある程度の仕事の目途を立てようとしたが。
「……」
東京の物価は高い。
親族からの手切れ金も大した額じゃないし、23区内では最低限のワンルームが5万円近くする。
アルバイトも、賃金は高いが、人が多くてシフトに入れない。
これではいつ生活が破綻してもおかしくなかった。
立派な啖呵を切ったはいいが、自分に東京で生活できる力がないことは、元々500円の生活費の重さを知っていた少年はすぐに察した。
それに……
同じ東京にいて。
少年も着れるはずだった制服を、直哉と結衣が着て、高校に行って。
二人が恋仲になったのを見て……
自分は、素直に祝福できるだろうか……
あいつらさえ、憎んでしまわないだろうか……
そう考えてしまう自分が、許せなかった。
住む家や、バイトを探しながら家を出ると。
学校や会社に向かう他の人間と幾度となくすれ違う……
その度に、自分だけがけじめの外にいて。
酷い自己嫌悪にも襲われた。
「――どこかに、行きたい……」
少年は思いを口にした。
「ここではない、どこかへ……」
自分の心が淀みを感じ、どこかに流れることを望んだ。
少年がそれを感じた時に、結衣のことを思い浮かべて。
その時に、妙に泣けたことがおかしかった。
『一人で東京を出る?』
「ええ。もう出席日数も足りてるし、学校には行きません――卒業証書は、新居が決まり次第住所を連絡するので、郵送してもらえれば」
「……」
電話の向こうの白崎は、その考えに至った少年の心情を察し、何も言えなかった。
「先生」
そんな白崎の心情を察し、少年が口を開いた。
「進路指導の時に先生に言われた通り――行く場所も、やりたいことも、なーんにもなくなって――だから、自分の居心地のいいポジションってのを、探すことにします」
『……』
「俺、あまり人の言葉に感銘を受けないタイプなんですけど――その言葉は、しばらく心に刻みます――俺のために、色々してくれて、ありがとうございました」
電話の向こうで、少年は頭を深く下げた。
「迷惑ついでに、もう一つ、いいですか?」
『あ、ああ……』
「ナオとユイに――すまなかった、って、伝えていただけませんか」
『――お別れ、言ってないのか?』
『……』
『新学期前、あの二人も随分心配していたぞ。お前が全く学校に来なくなって、俺のところに連絡がないか、毎日のように来ていた』
「――受験前だってのに」
少年は二人のお人好し加減に笑った。
「受験前の2人に悪いし――俺も、今はあいつらに八つ当たりしないって自信もないし……」
言いながら、涙が溢れた。
直哉との勝負――結衣への想い。
それをすべて捨てること。
今まで大した思い出もない少年の人生で、初めて感じた心残りだった。
『――分かった。俺から伝えておく』
「ありがとうございました」
『でもな、神子柴』
「……」
『今のお前に、月並みな励ましなんて、何の意味もないだろうが――あの二人を恨むような奴にはなるな。気持ちの整理をつけるのはいいが、あいつらの事だけは整理しちゃいけないぞ』
――背景は今までの少年の部屋に戻り、窓の外からは木枯らしの吹く音が聞こえ出した。
「……」「……」
その少年の過去を知った男と少女は、沈黙した。
それは、先程神を憎んだ少年の心情に対して、何の文句も、同情も、お詫びもできないという心情――神を名乗る二人にとっては、酷く陰鬱な気分にさせられるものであった。
「……」
少女は、少年の竹刀を持ったまま、大粒の涙を流した。
「お、おい……」
「――あの人も、私と同じなんです……」
「……」
「もう、行き場もなくて、ひとりぼっちで……」
そう言って、少女は着物の裾を持って、立ち上がった。
「――私、あの方に謝らなくちゃ……」
「探しに行くのか?」
男は目を見開いた。
「馬鹿、お前はこの家を出たら……」
「でも! 何もできない私は、それしかできないから――そうしたいんです」
「……」
「このまま何もしないで、神様なんて言ってられませんから」
そう言って、少女は部屋を出、家を飛び出していった。
「……」
男は溜め息をついて、持っている錫杖を肩に乗せた。




