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追憶~俺には、生きる『権利』がない

 直哉に宣戦布告した少年の生活は、次の日から一変した。

「おぉ、実力テスト、やっぱナオくんが一位か」

「ねえ、でも2位がユイじゃないって……」

 校内の実力テストの順位が、校内の掲示板に張り出されるその最前線に、少年と直哉がいた。

「――ちぇ、結構頑張ったのに」

「受験勉強毎日やってる俺に、ブランクありのお前が簡単に追いつけるか。20点差まで来ただけでもすげぇよ」

「3月までにこの差か……」

「本気で完全勝利狙いかよ」

「ああ、ぼっちで暇人の時間の多さなら、すぐに埋まるさ」

 少年と直哉は、お互いに顔を見合わせて笑いあった。

「次の体育の授業、マラソンだからな、そこでも勝負だ」

「勘弁してくれよ――俺は運動不足で最近太ってきたってのに」

 そんな二人の様子を、結衣は離れて、微笑ましく見守っていた。

「――ねえ、ユイ」

 そんな結衣の下に、クラスの女子達が何人か集まってきた。

「どしたの?」

「なんか最近、あの二人、変じゃない?」

「ナオとハルのこと?」

「最近、今まで以上にいつも一緒だし」

「そうそう、小笠原くんって、ちょっとクールだったのに、最近はいつも楽しそうに笑ってるし」

「神子柴も――あんな笑う奴だっけ? おかげで腐っている女子は大喜びだけど」

「あはは……」

 結衣は苦笑いを浮かべた。

「まあ最近、テンション高すぎだよね、あの二人」

「で、この娘なんだけど」

 女子の一人は、グループの一人の女子を、結衣の前に出した。

「この娘、神子柴のことが気になる、って言いだしちゃって」

「え?」

「……」

 その小さな少女は、まだ逡巡しているように、口を真一文字につぐんでいた。

 校内一の嫌われ者と称され、生徒会副会長在任時は、憎まれごとばかりしていたために、人気は皆無の少年のことを話すのが、気が引けているのだろう。

「でも――今回も推薦決まっているのに学年2位だし」

「この前小笠原くんとサッカーやってたけど、スポーツも割とできるみたいだし」

「――まぐれじゃなかったのね、神子柴の実力って」

「あはっ!」

 結衣は目を輝かせた。

「そうなの! そうなんだよ! ハルもナオと同じくらいすごいんだって」

 少年はまだ気がついてはいないが。

 直哉と結衣を賭けて本気で立ち上がった頃から、校内でも少年の評価はにわかに変わり始めていた。

 少年にとっても、日々の鍛錬にも身が入り、少年の人生で最も充実期を迎えていた。

 だが……



 担任の白崎に職員室に呼ばれた少年は、白崎の机の前で背を正していた。

「出願願書を渡してもう半月だぞ……期限は今月いっぱいだが、さすがに早期に出さないと印象も悪くなる」

 白崎は苦い顔をした。

「ご両親との最終的な三者面談が不可能であれば、出願書類に親の署名と捺印――これを早期に揃えることはできないのか?」

 そう、少年は今、問題を抱えていた。

 推薦入試に向けての出願書類に、両親の署名捺印が揃わず、三者面談を希望し、推薦入試の最終調整をしたい中学校との折り合いもついていない。

 出願手続きが、そこで止まっているのである。

 11月初旬――今年中に合格が決まる推薦入試にとって、今月ですべての用意をしなければならないが、少年は両親と連絡が取れていないのであった。

 父親は遠方にいるから無理――母親はメールも返信なし、電話もすぐに留守電になり、生活費は置かれているから、テーブルの上に学校からもらった出願書類を置いて、目を通してくれ、と置手紙を残していても、何もされていない状態だ。

 少年はもう、1か月以上母親と会えていなかった。1週間会わないことはそれほど珍しくないが、これだけ長い間、姿を見ていない、声も聞いていないのは初めてのことであった。

「――すみません」

 少年は頭を下げた。

「電話もつながらないのか?」

「多分、この時間は寝てることが多いんだと思いますが」

「――職場の連絡先は?」

「――わかりません」

「……」

 白崎は溜め息をついた。

 少年の過去の境遇を面談で聞いた白崎は、その状態で両親のことをある程度察したのだろう。

 だが――少年に外傷もないし、明確な虐待と裏付けられる事実もないために、外部の人間が口出しできる問題ではない。

 白崎は、自分の無力を嘆いた。


 少年の両親は共働きで、どちらも正社員だった。

 特に父親は土木作業の現場監督クラスだから、収入もかなりのものである。子供を都立高校に行かせるくらいの生活の余裕はあるはずであった。

 少年もそれくらいのことは、外部の声で知っていた。

 だが――

 少年は今日も帰ると、テーブルの上には500円。

 そして――

 同じテーブルの上に置いてある出願書類には、今日も何も署名されていない。

「……」

 少年は母親の携帯に電話を掛けるが、やはりすぐに留守電になってしまう。

「――何でだよ……」

 少年は自分の部屋の、もう何年も使い古した布団に倒れこんだ。


 少年はこの日以来、毎日のように白崎に職員室に呼び出された。

 少年の家庭事情を詳しく聞きはしなかったが、白崎はそれにただならぬものを感じたのか、少年の話を毎日聞くように努めていた。本人が駄目なら、親族を経由して、両親と連絡を取れ、それでも無理なら警察に捜索願を出せ、と、少年に知恵も与えた。

 だが、少年は5日後に、両親と再会することになる。


 11月15日――もう神代高校の他校の推薦希望者はほぼ全員出願を終えており、白崎が毎日のように神代高校に謝罪の電話を入れている頃であった。

 少年は、両親と会える可能性を極力高めるために、授業が終われば、まっすぐ家に帰るよう白崎から指示されていることもあり、4時前には帰宅をしていたが。

 この日は珍しく、母親の靴が下駄箱にあった。

 少年は母親の靴を見つけたときに、ほっと胸を撫で下ろした。これでようやく、問題が解決する――そう思って、まずは一安心した。

 だが――

 その母の靴の横に、ずいぶん履き潰された見慣れないスニーカーがあった。泥まみれのそれは、ひどく年季の入った代物であった。

 客人か? 少年は首を傾げながら、リビングに向かった。

 リビングには、スーツを着た母親と、これまた随分と着古した、企業のロゴの入ったジャケットを着た男が並んで座っていた。

 母親は、長年夜型の生活をしているせいか、肌の色つやが悪いが、それを化粧で直し、高級なヘアサロンやショップで自分を着飾っているような女性だ。

 男は、単身赴任のせいか肥満気味だが、肉体労働をしているからか、体の筋肉――特に上半身はすごい。肩口が盛り上がっているのがジャケット下のインナー越しに見えた。髪の毛はほぼ坊主で、浅黒い肌をした大男で、中肉中背の少年とはあまり似ていなかった。

「母さん――父さん」

「座りなさい」

 母親は少年に無機質な声で言った。一か月何度も連絡を入れても無視し、出願書類を無視し続けたことなど、なかったことのように。

「……」

 横にいる父親のその少年を見る目も、数年振りに会った息子への戸惑いの目ではない。もうまるっきり、他人を見る目――目の前の少年に、父さん、と言われることに気持ち悪さを感じているような目だった。

「……」

 沈黙。

 少年には、話したいことが沢山あった。

 自分が都内一の高校の推薦枠に選ばれたこと――その願書にサインをしてほしいこと――

 いや、それよりも。

 今まで直哉と結衣に比べて、劣っている自分に心を痛めた両親に償いたかった。

 これからはもっと誇りの息子と呼ばれるように頑張る――だから……

 一言、褒めてほしかった。

 少年は、その言葉が両親からほしかったのだった。

「ひ――久し振りだね。父さん」

「あんたに話があるの」

 だが、母親のその無機質な言葉は、少年のその淡い希望を、粉々に打ち砕いた。

「私とこの人は、離婚することにしたの」

「……」

 少年は、その点に関しては、別に驚きはしなかった。

 誰がどう見ても、この二人の関係が崩壊していることは明らかだったし。

 それで二人が幸せであれば、それでいい。

 そう、思っていた。

「それでね、この人は、今一緒に暮らしている女が妊娠――そして、私も今、妊娠しているのよ。今の彼氏とのね」

「え……」

「これから私達も、お互い今付き合っている人と籍を入れる――元々あんたが15歳になって中学を卒業したら、離婚することになっていたから、どちらの子かなんて話も起こらない」

「……」

 何故自分が15歳になったら離婚するって決まっている?

 少年はその事情がまだ分かっていなかったが。

「それでね、私達はこれからお互い、新しい家族ができて、そこで子供が産まれるの。そこで何かと入り用になるわけなの。そして――私もこっちの人の連れも、連れ子と一緒に住むのは嫌だって言ってるの」

「……」

「なんでね――私もこの人も、あんたの高校の学費は出せない――あんた、高校は諦めてほしいの」

「はぁ?」

 少年は立ち上がった。

 横にいた父親は、煙草に火を点けた。既に目の前には、二人が吸った煙草が山のようにもみ消された灰皿が置かれている。

「悪く思わないでくれ。俺もお前と長年住んでねぇし、親父だっていう自覚がいまいちなくてな――家裁に行っても、おそらく親権は俺のところには来ねぇし。で、こいつもこのとおりだ」

「……」

「まあ、要するに――お互い、お前の親権はいらない、って意見なんだよ。そいつを長いこと話し合っているんだが――話は平行線でな」

「……」

 家裁――親権――

 そんな話を、母親から一度も聞かされていない少年は、まだ目の前の現実が理解できていなかった。

「――つまり、どういうことなんだ……」

 少年は状況が分からなかったが、なんとなくの嫌な予感だけは感じ、震えた声で二人に聞いた。

「これから私達の親族に当たって、あんたの親権を預かってもらえる場所を探してみる――それに全部断られたら、あんたには施設に入ってもらうってことね」

「し、施設?」

「そこで働き口を探したら、あとは好きに生きていい、ってことだ」

「ちょ、ちょっと待ってくれよ!」

 少年は声を荒げた。

「なんだよそれ――俺、何も聞いてない。推薦の話だって、もう学校で動いてるんだ。あんたたち、収入は俺一人高校に行かせるくらい、どうってことないくらいあるんだろ?」

 少年はみっともなくまくしたてるが、もう頭の中ではどうしようもないことはわかっている。

 少年はこの時、自分の足元が崩れていく音――落下して、足元が完全に浮いている感覚――そんな、体をふらつかせる感覚に支配され、酷い眩暈が襲っていた。

「あー五月蠅いわねぇ!」

 母親は金切り声を上げて、少年の頬に平手打ちを放った。

「……」

 母親に叩かれるのは初めてではないが、少年はこの時、頬の痛みと共に感じた。

 彼女の――自分に対する憎しみを。

 母親は、息を荒げていた。

 少年に、明らかな憎しみを滾らせた目をして、母親は目を血走らせていた。

「あんたさえいなければ――私の人生はもっと早くやり直せたの」

「……」

「あんたを生む直前に、この人が浮気をしているのを知って――私はすぐにでも離婚したかった。なのに家裁がそれを認めなかった! お子さんが生まれるのだから、まだまだお子さんのために、幸せな家庭を作ろうとする努力はできませんか? とか……でも、生まれてきたのは、直哉くんや結衣ちゃんとは違う、出来損ないのあんただった……」

「……」

「それからも、何度も離婚したいって家裁に駆け込んだわ。でもね――その度にあんたの存在が、邪魔をした。お子さんが義務教育を終えるまでは、見守るのが親の務めだ何とかって……」

「この子はあなたの子供じゃない。この子はあなたしか頼れる人がいない。こんな可愛いお子さんじゃない。直哉くん達と同じ、可愛い子供ですよ――そんなことを周りの人間は天使のような顔して言っていたけどね――内心は私達を馬鹿にしていたのよ。出来損ないを産んだ母親だって」

「……」

「あんたのその顔を見る度に、私は自分の人生に、あんたがいなかったらって、考えてた……あんたが直哉くんくらい出来が良ければ、私ももっと、早いうちに人生をやり直せたかもって……」

「……」

「もううんざりなのよ! あんたのその顔を見るたびにイライラするわ――あんたさえ生まなければ、私は女として、もっと早く人生をやり直せたのに!」

「……」

 ヒステリックな声で、後半は涙を流して嗚咽交じりに話す母親は、少年にとって、実に身勝手過ぎる理屈を吐いた。

 少年は何も言い返せなかった。

 自分が直哉達に劣っている――そのことで受けた迫害の辛さを、自分も知っていたからである。

 だが――

 母親の、そこ以外の部分だけは、納得のいく話じゃない……

「俺が生まれる前のあんたたちのことなんか知るかよ! そんなの逆恨みじゃねぇかよ!」

 少年も、学校で自分に危害を加える人間に対しても声を荒げなかったが、さすがに今回は激高した。

 自分がこれから変わろうとしている矢先――直哉や結衣に対して、自分はまだやることがあるのだ。

 こんなところで、終わってしまうわけには……

「その通り、逆恨みさ。俺達は、最低の両親だろう」

 隣で静観していた父親は言った。

「だがな――そのために俺達は15年待ったんだ。お前の今までの人生と同じだけの時間を無駄にした。もう止まれねぇんだ」

「……」

「俺もはっきり言うが――お前が邪魔なんだ。お前に恨まれても関係ない。俺自身も、お前に対して何の愛情も持てないんだ。長いこと一緒に住んでねぇし、お前の親父だって自覚は持てない」

「……」

「そんな俺達に、お前の両親を名乗る資格なんてない――もうできることといえば、お前に恨ませてやることしかない。お前が俺達を恨むことで、ああはなるまい、と思って、この先まっとうに生きてくれるのであれば、俺達が中途半端な親をするよりも、ずっといいのさ」

 父親は、そんな自嘲交じりに、持論を展開した。

 だが、その言葉が終わった時。

 父親の顔には、少年の渾身の拳が、反応もできないような速さで頬骨に入っていた。

 父親の巨体は椅子ごと倒れ、投げ出されるようにフローリングに叩き付けられた。

「テメェ何しやがる!」

 さっきまで落ち着き払って少年に無関心の態度をとっていた父親は、鼻血を垂らして激高した。

「俺に恨ませてやる、とさっき言っただろ――その癖して、殴られる覚悟もできてないのかよ」

 少年の体も、怒りに震えていた。

「結局、詭弁なんだろ――大した覚悟もなく子供を作って、ここまで状況を悪化させたのを他人のせいにして、責任を負いたくないんだろ――俺に恨ませてやるのが親の責任とか――殴られる覚悟もなかった奴に、俺の恨みを一生背負う覚悟なんて語ってほしくねぇんだよ!」

 少年は思った。

 俺には、思想も、愛も、食事も、親のぬくもりも、何もないのだと思っていた。

 だが、そうじゃない。

 俺には――生きる『権利』がそもそもなかった。

 俺はただ、生かさなければならないという『義務』によって生かされていただけで。

 『義務』以上のものは、何も与えられなかった。

 毎日ろくな食事をとれないあの生活も、『穀潰し』の自分には勿体ない。

 両親は、ただ家裁に言われたから、仕方なく俺を『飼っていた』だけだ。

 そして、その『義務』が終了した少年は。

 もう、生きる権利がない……

 両親の詭弁に隠された、その腐った臭いを漂わせた本音。

 それが、両親の最後の教えになるだろうそれは。

 ――俺に迷惑がかからないように、死ね、だ。


 だが――それにだって誰も手を貸してはくれない。

 少年は思った。

 神は、右にいる者に祝福を与え、左にいる者には地獄の業火を与えた。

 救いのある人は方舟に乗せ、救う価値がない者は、下界で洪水に洗い流され――

 だが、自分は祝福も与えられなければ、殺すこともしてもらえなかった。

 救うことにも、殺すことにも値しない。

 それが俺。

 俺は――初めから生きてなんかいなかった。

 神は――俺の命をはじめから見捨てていた、と。

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