俺如きが考える問題ではない
結衣と音々が初春の記憶の中を漂っている頃。
初春の家の居間では、カチカチと直哉がマウスを操作する音と、時折すごい勢いでキーボードを打ち込む音が絶えず響いていた。
「……」
紅葉達はその直哉の仕事ぶりに舌を巻いていた。
「すご……もうポスターができてる」
初春のパソコンに入っていた、無料のチラシ作成ツールを使っての作業だったが、明日の宣伝に使うためのチラシの出来栄えは、美術教師でグラフィックデザインの経験もある夏帆も唸る程だった。
その上で直哉は、今後の自分のスケジュール表も作っていた。
「とりあえずハルが治るまでは、あいつのバイトに俺が代打で出られるように頼んでみよう——あの熱じゃ、明日も動けないだろうから」
直哉はとりあえず1週間は東京に帰らず、初春の所に滞在するつもりのようだ。
初春のバイトに穴が空く部分をカバーしつつ、音々の仕事を最大限手伝うため、一週間の自分のスケジュールを、初春のバイトのシフトを見ながらぎっしりと入れてくれたのだった。
それを自宅に電話を入れて断りを入れていたが、受話器越しから大反対の声を上げる直哉の両親の声が、紅葉達にも聞こえていた。
「大丈夫だったんですか? ご両親は」
「まあ、納得はしていないようだったけれどね。でもそれは大した問題じゃない。あいつが少しでもこの町で生きやすいように、何かしてやらなきゃ……今回の件で、あいつにでかい借りも出来ちゃったからね」
直哉は雪菜に笑顔を見せたが、内心は穏やかではない。
直哉の両親も、結衣の両親同様に、初春のことをよく思っていない。
初春のために、自分の優秀な息子が悪影響を受けることを、常に危惧していた。
「でも、あいつが何をしたって言うんだろうな——あいつの評判が悪いのには、やはりあいつの両親の影響がでかいよ。子供の頃はそんなことは分からなかったけど、今になってそういうことが分かるようになった」
「……」
紫龍に聞いただけでも、初春の家庭環境が酷かったのは察している3人は黙り込んだ。
「しかし、ありがとう。3人のおかげでこの町に来てからのハルのことが少しわかったよ」
直哉はポスターを作る間、紅葉達から初春がこの町に来てからの出来事をBGMのように聞きながら作業をしていた。
「皆さんがこの家にいる神様や妖怪が見えるようになったり、ハルがこの家で、音々さんたちと関わって生きていることを知ったのは、つい先日のことだったんですね。それを知ったきっかけとして、柳さん達はハルに一度記憶を消されたことがあると」
「正確には、消したのはハルくんじゃなく、あの和尚さんみたいだけどね」
「その術は、忘れたいと思った瞬間に記憶に蓋をするけれど、忘れたくないと本人が思うと、記憶の蓋ができなくなるから、今のふたりに同じ術はかからない……ん? あれ? てことは……」
直哉は何かに気づく。
「——ま、そういうことらしいんだよね。ふたりともその術を破った時のことを黙秘しているけれど、その説明だけで普通気付くよね……ハルくんだけがその説明を聞いても、その乙女心に気づいていないってわけ」
「……」
直哉は肩をすくめた。直哉もその説明を聞いただけで、この二人の思いがすぐに察することができたのだが。
「——いや、でもそうでもないと思うな」
直哉は言った。
「ハルは二人のこと——勿論葉月先生もですけど、結構気にかけていると思う。東京でのハルの人との関わり方を見ている俺からしたら、ありえない光景だからな」
「だといいんだけどね……」
夏帆は紅葉と雪菜の方に目をやってから、天井を見る。
「そろそろ終わる頃かな——見てない私が言うのもなんだけど、ハルくんの思い出なんて、きっとショックだろうね」
「あの——小笠原くんは、神子柴くんが時には、その……暴力を振るうことがあったのを知っていたけれど、日下部さんはよく知らなかったんですよね」
雪菜が訊いた。
「ああ、ハルに絡んでくる奴の中には、ユイの近くにいることが気に入らないって奴もいたからね。そういう事情を知ると、ユイが責任を感じるだろうって、口止めされていたし、あいつはユイが生徒会の副会長に誘うまでは、なるべくユイを避けていたからね。女の子を巻き込むわけにはいかないって。俺に関しては、ハルの鍛錬相手もしてたし、男同士だったから少しは知っているよ。と言っても、俺も喧嘩の場に巻き込まれはしなかったから、あいつと一緒に戦ったことはないし、あいつがどんな思いをしていたかは、察するものがあるという程度かな……」
「……」
紅葉と雪菜は、初春が倒れる前に、結衣に傅く初春の姿を思い出す。
「俺もハルが人に暴力を振るうことも厭わなくなったことは悲しいけどね。でもそうじゃないと酷い目にあっていたハルのことを思うと、責められるところもないし、止めてやれなかった俺も悪いと思っている——でも、ユイは今、俺も知らないようなハルの内情を見ているんだとしたら、ショックは俺の比じゃないだろうな……」
そう直哉が呟いた時、居間の掃き出し窓から覗く庭に、紫龍を乗せた雷牙がゆっくりと着地したのが見えた。
初春を痛めつけていた鬼灯町の野球チームの連中を、気絶したまま神庭町の公園にでも捨て置いてから、山の浄化の確認をしに一度山に戻った紫龍が帰ってきたのだった。
玄関から紫龍が入ってくる。
「お、お帰りなさい」
無骨な紫龍相手に紅葉や雪菜はいまだに他人行儀が抜けない。緊張しながらそう言った。
「何じゃ、こんな時分にまだ帰っていなかったのか」
紫龍は首を傾げながら言った。
「——娘と小僧は、今はあの香を使っておるのか……」
居間の直哉達を一瞥すると、紫龍はそう呟いて、居間に入らずに2階に上がっていった。
初春の部屋のドアを開けると。
『起憶の香』の効果が明けたばかりの結衣が、高熱で眠っている初春の横で泣き崩れており。
音々もその横で初春を見て、ボロボロと涙をこぼし。
比翼がそんな二人にかける言葉もないという顔で、煙管をふかしていた。
「紫龍殿」
「まあ、こうなるじゃろうな……」
そう言って、紫龍が一歩、二歩、結衣の前に歩を進め、手を伸ばしかけた時。
「駄目だ!」
後ろからどたどたと音がして、一人の男が階段を駆け上がり、紫龍と結衣の前に立ちふさがり、紫龍の伸ばした右手首を掴んだ。
直哉であった。
泣き崩れていた結衣も、びっくりして顔を上げる。
「あんた——何故今までここにいなかったのに、ハルとユイが香を使ったと知っていた!」
脱兎の如く駆けた直哉にびっくりした紅葉達も、後から追いかけ、初春の部屋の前に来る。
「あんた——今、ユイの記憶を消すつもりだったな!」
「え……」
「……」
紫龍と比翼は沈黙する。
「ハルの記憶にユイを呼び寄せれば、ユイは自分を責めるに決まっている――ショックを受けさせ、忘れたいと思わせるような精神状態に近づければ、記憶を消せる。さっき柳さん達が教えてくれたよ」
「——紫龍殿」
もう駄目だよ、と言わんばかりに比翼がかぶりを振った。
「昨日までの散漫なおぬしなら、儂の失言も気づかなかっただろうに……どうやらおぬしを見誤ったようじゃな」
「あんたら、最初からこれが目的だったな! ユイだけじゃなく、出来れば柳さん達の記憶も、もう一度消すつもりだったんだ! ハルの酷い記憶に引きずり込んで、ショックを与えて!」
「そ、そんな……」
紅葉達もショックを受ける。
「——否定はしないさ、先生の機転のおかげで、そっちの3人は坊やの記憶には行かなかったけどね」
比翼が諦めたような、力のない抑揚で白状した。
「何でこんなことを!」
「そこの小僧に頼まれたんじゃ。いざとなればそこの娘の記憶を消してくれ、とな」
「え?」
——時は少し遡り。
居間からほぼ1日前の、本日の深夜2時。
「う」
居間に横になっていた初春と音々が、同時に目を覚ます。
居間には『起憶の香』の残り香がある。
「どうだった?」
「すげぇなこれ。本当にこの香であんなに打席での感じを再現できるとは」
初春は一夜漬けの特訓のために、この香を用いていたのだった。
鬼灯町の野球チームの前日練習を監視、観察していた音々の記憶に、初春が入り込み、記憶の中の投手の球筋を飽きる程見たのである。
これを初春は明け方までやっており、ほぼ不眠不休で今日の試合に臨んだ。試合の前には、もう目を閉じても相手の球筋が浮かんでくる程だった。
「しかし、体は寝ているというのに、あまり疲れが取れた感じがしないな」
「そりゃ、精神が張り詰めていたからね。気疲れ、ってやつについては、起きた時よりも消耗が早いよ」
「そんなもんか——寝て起きたら、ばっちり学習済みみたいなのを期待したけど」
この下準備のおかげで、初春は鬼灯町に対して圧倒的なボールカット術ができ、大いに苦しめることができたわけだが。
「この香、便利だな……」
初春はそう言いながら小休止をしていたが。
「——なあ、比翼、おっさん。今日の夜、もう一度この香を貸してくれないか?」
「ん?」
「おや、坊やが誰かの記憶を覗きたいなんてことがあるのかい?」
比翼が笑って言った。
「さてはあの、坊やを追ってきた娘の記憶が気になっているのかい? 駄目だよ、あまり女の子の記憶なんてのぞくものじゃない」
「俺が見るんじゃない。ユイに俺の記憶を見せるんだ」
「何?」
「俺は今日、寝ずに試合を2試合やって、しかも割と派手に振舞うし、試合で大分精神力を消耗する——そして、恐らく勝っても負けても俺は相手のチームに絡まれると思う。そこで自分を助けるために術を使ったら、そこで俺はもう精力を全部使い果たすだろう——明日の今頃の時間、俺は多分前後不覚にぶっ倒れている——その状態の俺に対して、この香を使うことを、お前達が誘導するんだ」
「——それで、どうするんだい?」
「俺の予定通りに行くなら、俺は試合終了の頃には道化になる。その道化を、ナオにぶちのめさせて、俺は二つの町の感情を荒らした愚者に、ナオはその愚者を裁いたヒーローになる。それでユイの目がナオに向くようにする——それで俺の記憶を見せて、こんな俺よりもナオの方がいい、と思わせられればそれでいいんだが――もしそうならなかった時は」
初春は紫龍の方を見た。
「——おっさん、ユイは俺が中学で日常的に誰かに暴力を振るっていたことを知らない。それをちゃんと映像で見せれば、ショックを受けると思うから、その隙を突いて、ユイの俺に関する記憶を消してくれ」
「……」
元々は、結衣を軽蔑させるため、自分が結衣が思うような優しい人間ではない、外道であることを強調するための用意だったが。
もし結衣が自分のことをそれでも信じるのであれば、ということを考えての二段構えの作戦だった。
「は、ハル様――いいんですか? 結衣様のことをずっと、心から案じていたのに」
音々もびっくりして訊いた。
「もう手段は選べないし—―それがやっぱり一番丸く収まると思うよ」
初春は庭に出て、深夜の夜空を見上げた。
「あいつらは東京に帰った時に、俺っていう存在が記憶にあるだけでぎくしゃくしちまう。二人共前に進めなくなるなら、俺のことなど忘れた方がいい……両親だって、もうこれ以上俺といたら、あいつら喧嘩になるだろうし」
「で、でも」
「いいんだ。二人のことを考えたら、それが一番いい」
初春はもう、十分考えた、だから何も言うな、という意思をその気だるげな受け答えで示した。
「出来ることなら、秋葉達も誘い出してほしいんだが」
「それでまた、あの娘達の記憶を消すのかい?」
「——ああ、出来ればそうしてやりたい」
沈黙。
「——まあ、私はあの娘達よりも、坊やの方が付き合いも長いし、町の神々や妖怪のために骨を折ってくれた坊やに借りもある。坊やの頼みなら聞いてやりたい気も吝かじゃないがねぇ」
比翼は少し考えてからそう前置きして。
「いいのかい? あの娘達、もうそれは駄目だって釘を刺していたじゃないか。ばれたらまた坊や、怒られるよ」
「——今度はもうへまをしない。ちゃんと3人から俺が遠ざかろう。それであいつらの記憶は戻らない。ばれなければいいし、ばれても俺は怒られ慣れているからいいよ」
「むむむ——そうは言ってもねぇ。そうするのは音々じゃないが、それ以外の方法を考えた後にしてはどうだい? 一方的に相手から記憶を奪うなんて、あまり正しいやり方とは思えないよ」
「正しいか間違いかなんて、俺如きが考える問題ではない」
初春は言った。
「そんなことは、もっと高尚で素晴らしい人間様が考えりゃいいんだ。俺みたいな弱者の唱える正義など、ただの世の中の恨みに歪曲されるだけだ。俺如きはただ、その日をただ凌ぐことだけ考えていればいいんだ」
縁側に腰を下ろした初春は、自分の顔を両手で覆い、周りから見えなくするようにして言った。
「元々――俺がそんなことを考える必要はねぇ——考えるのも面倒くせぇ。全部が全部、上手くはできねぇよ……」
「……」
もうこの姿を見たあたりから、初春の精神力は大分すり減っていることを、音々や紫龍たちは分かっていた。
結衣がこの町に来てから、ずっとできることを探して、試行錯誤して。
慣れないことをして
「まあ、仕方がないのではないか?」
それを見ていた紫龍が言った。
「少なくともこいつは、あのふたりのために骨を折るのだ。骨を折ったお前がその後二人に何かを強制しても、その資格はあるだろう。お前を責められまい」——
「——あんなにもう、こんなことはしたらダメだって言ったのに……」
「こいつ——最初から俺達の記憶を消すつもりで、自分を餌に……」
「ハルくん——やっぱり油断もスキもない。ハルくん絡みで行動を誘導される場合、必ず何かある、か……」
各々が初春に目を向ける。
結衣も直哉も、紅葉も雪菜も夏帆も、初春に対して言いたいことは山ほどあったが。
高熱を出して苦しそうな表情で寝息を立てる初春を見ていると、何もできなくなってしまう。
「自分の体がこうなると分かっていて、こうなったらばれても私達が責められないと思って考えたんだとしたら、すごい子よね」
「神子柴くんならあり得るかも……」
皆、初春に対しての警戒を強めたが。
「ユイ」
直哉は結衣の横に立ち、結衣の目を切れ長の瞳で覗き込んだ。
「ユイ、お前の見たものがどんなに恐ろしいものだったか、俺には分からないが——多分ハルのことだ。記憶の中のこととはいえ、ハルはお前に嘘はつかない。お前の見たものは本当なんだろう。怖かっただろうけれど——頼む、ハルのことを忘れようなんて望まないでくれ」
その直哉の目には、涙が浮かんでいた。
「お願いだ。ハルを――俺達の素晴らしい幼馴染のことを、忘れないでくれ」
直哉にとっても、結衣を自分のものにするためには、結衣に初春のことを忘れてもらえる方がいいのだが。
それでも直哉は、結衣にそう言わずにはいられなかった。
初春の努力の原因が、自分達だということを知っていたからだ。
「お前がハルを忘れたら、あれだけ頑張ってきたハルの思いが無になっちまう——今なら俺、ハルの気持ちが少しわかるんだ。ハルは……」
「——大丈夫よ、ナオ」
そう言って、結衣は涙を拭いた跡の残った顔を上げて、紫龍の方を見た。
「ごめんなさい、でももう貴方の術は効かないと思います。私はもう、ハルのことで目を背けない……」
結衣はそう言って、眠っている初春を見る。
「このままじゃ――何も返せないまま、終われないよ。サクライさんに会って、ハルを助ける糸口も掴んだ。まだまだハルにできることはあるはずだから」
「そうか……」
紫龍は力なく頷き、部屋を出た。
「帰り支度ができたのなら、詫びに家まで送ってやる。準備ができたら降りてくるんじゃな」
紫龍はそう言って、居間に降りていった。
「紫龍殿——本当はあまり記憶を消すのに乗り気じゃなかったのかもね」
比翼は言った。
「まあ、私達がへましてしまったんだから、目が覚めた坊やをあまり責めないでやっておくれよ。まあ記憶を消したとしても、坊やがへまをして、またあんた達の記憶は戻ったんじゃないかと思うけどね。坊やは甘さが出るから」
「——むむむ」
紅葉や雪菜は渋い顔をした。
「あれほどもう、私達の記憶を消しちゃだめだって言ったのに……」
「そう責めてやりなさんな。坊や、混乱しているんだよ」
比翼は言った。
「元々坊やは、幸せになるために行動するということをしたことがないし、自分にとっての幸せを考えたこともなかったんだ。それがあんた達と関わることで、自分の考えたことのないことを考えるようになってしまった。一人じゃ答えの出ないことを、坊やは必死で考えている——」
比翼の言葉に皆押し黙る。
ここにいる全員が、初春に対して、状況を打破することを期待し、依存していた。
初春の図抜けた行動力と人間観察力は、確かに状況を良くも悪くも変化をさせる力があり。
いつしかそれに期待している自分に、皆多かれ少なかれ、自覚があった。
「まあでも、今回の件を見ると、私はあんた達を坊やに関わらせて良かったと思うけどね」
「何故ですか?」
「今日の件にしたって、普段の坊やなら、ただの人間にここまで傷つけられる前に終わっていたさ。坊やの気圧による破壊を叩き込めば、人間なんてあっという間に片が付く。紫龍殿が捨ててきた連中だって、坊やがその気になりゃ、今頃血みどろで糞漏らしてただろうさ。なのに坊やはその手を使わず、わざわざ回りくどい手を使ったのは――多分、あんた達の前で手を血に染めることを躊躇ったんじゃないのかね」
「……」
「少なくともそれは、最初にあった頃の坊やにはなかった行動だ。坊や、確実に何か変わり始めている。でも、慣れないことをしてもう坊やの対処が追い付かなくなっちまった——疲れちゃったのさ」
音々も最初は取り乱したが、最後の初春の、結衣への振る舞いを見て分かった。
元々並の人間相手なら、触れただけでほぼ相手を戦闘不能にできる初春が、何故自分を餌にしてまで、流砂の罠にこだわったのか。
「まして、一番大切な人ふたりを、どちらか、あるいは両方を必ず傷つける選択の当事者になっちまった。その状況になったら、坊やなら自分を傷つけて丸く収めることを選ぶさ。坊やは自分が生きることに、消極的だからね」
紫龍については分からないが、比翼については、この娘達の記憶を消さずに済んだことで、少しほっとしているのは確かだった。
「もう、あんた達を自分の手で悲しませたり、失望させたくないんだよ。だからあんた達の記憶を消したがっている」
「で、でも、それでいいんでしょうか」
雪菜が顔を上げた。
「神子柴くん——私達のことはともかく、日下部さんのことは本当に大切に想っているのに」
「あんたを忘れるよりも、あんたを傷つける方が嫌だったんだろ? あんたがどうでもよくないから、あんたよりも自分が傷つく方法を選んだ」
比翼は煙管に火を点ける。
「長生きしない子だよ。貧乏くじばっかり引いてね」
「神子柴くん……」
再び酷いことをされかけた紅葉達だが。
それを怒る毒気も削がれてしまう。
この人はこの人なりに、私達のため、幼馴染のため、この町のために必死だったことは分かるから。
とても優しい人だって、伝わるから……
結衣がそんな、他人のために必死になり、自分のことは後回しにし、弱い人に寄り添い脱落者を生まないために、自分を犠牲にする。
そんな初春の心に惹かれているのが、痛いほどわかる。
そんなこの人に、酷いと思うことをされても。
悲しみよりももっと多く、好きが積もっていく……
「ハル――このままでいいから聞いて」
結衣はもう意識もない初春の、熱を帯びた額に手を当て、少し伸びた初春の髪を撫でた。
「さっきね、サクライさんとシオリさんに言われたの。ハルはもう自分が生きることを諦めている——だからもう、私達が幸せになれば、もう自分の役目は終わりだと思っているから、自分の人生を生きないんだって」
「……」
「でも――それは違うよ。ハルが何度、私達の記憶を消そうとしたって――私はハルが幸せにならなかったら、絶対忘れないから——絶対、忘れてあげないんだから……」
結衣の声は涙に震えるが。
「ハル、これからしばらく、私やナオ、みんなと勝負しよう」
結衣は初春の、ボロボロになった手を両手で握りしめる。
「ハルにもう一度、生きたいと思わせることができたら、私達の勝ち——私達が折れて、記憶を消されたらハルの勝ち——私達が勝ったら、あなたの首に縄をつけてでも、サクライさんの所に行ってもらうから」
「あ、それいいね」
夏帆が同意する。
「み、神子柴くんと勝負ですか……」
「この人相手に、勝てるのかな? この人、自己評価低いだけで滅茶苦茶強いけど」
「勝つさ、絶対に勝つ」
直哉が雪菜、紅葉の弱気を払い飛ばすように言った。
「お前に目覚めさせてもらった俺とも、もう一度勝負だ、ハル。それまでゆっくり眠れ」
皆が決意を新たに、初春に向き合う。
比翼と音々は、顔を見合わせながら微笑んだ。




