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人間は、優しくないから嫌いだ(11)

「はあ、はあ、はあ……」

 初春の息遣いが荒く、激しくなる。

 だが眼だけはとても静かに、だが昏い光を放って、上級生達をじっくりと観察していた。

「お、おいおい、まさかお前、上級生に手を出したりしねぇよなぁ」

 その初春の様子に不気味さを感じた一人が、少し震えた声を出しながら笑った。

「お、お前にそんな度胸ねぇよなぁ? 俺達を敵に回したら、流石にもう剣道部にいられねぇぜ?」

「はあ、はあ、はあ……」

「こいつらもこんなにしちまって――小笠原もそれを見たら、お前を庇えないだろ?」

「――何でナオが、俺を庇う必要がある?」

 荒い息を漏らしたまま、静かな口調で初春は口を開いた。

「俺なんてナオが庇う価値もない――お前等がそう教えてくれたよ」

「は? 今『お前』とか言ったか?」

 雑魚扱いしていた初春にそんな呼ばれ方をするとは思わず、目の前の上級生は初春に詰め寄った。

「たまたまタメ歳に勝ったからって、調子に乗ってんのか?」

 それに腹を立てた他の上級生も初春に詰め寄ったが。

 最初の一人が歩を進めたと同時に、初春はその方向へ飛び出しており。

 目にも止まらぬ速さで、目の前の上級生の下顎に拳を叩き込んでいた。

「グハッ!」

 初春の体重は、同年代の女子並みで軽いが、人体急所を的確に突いている。

 一発の攻撃の威力はなくとも、面白半分のいじめに興じる奴が絶対に狙わないような場所を殴るため、大きなダメージを与える。

 その上初春は、これまでは人を殴れずとも、拳法の型についての研究、鍛錬は一日たりとも欠かさずにやってきていた。

 拳法の技にはしっかりとキレがあり、非力な攻撃の衝撃を余すことなく伝えることはできる。

 殴られた最初に初春に詰め寄った同級生はいきなりの急所への攻撃に、目をちかちかさせながら後ろに倒れ込んだが。

 倒れ込んだ瞬間、初春はマウントを取り、相手を殴りつける。

 目、上顎、こめかみ、喉仏……

 そんな急所のみを狙って、容赦なく。

「ゴバッ!」

 喉仏を殴られた上級生は、喉がつぶれて声も上げられない状態になった。

 初春もそれは分かっていた。

 だが止めない。拳を再び相手の顎へと振り下ろす。

「ひ……」

 周りの上級生達も、仲間の一人を引き剝がすことはできた。

 だが、それを忘れるほどに怯えた。

 初春のその容赦のなさにもだが。

 その初春の、殴りつける人間を見下ろす瞳の静けさに、心が凍った。

 初春を舐めきっていた周りの連中は、ようやく気付いた。

 初春の暴力が、自分達の愉悦欲しさのものとは全く異なるもの。

 命のやりとりであることを。

 ――殴られている上級生は、もうとっくに失神しており、白目を剥いていたが。

「こら! 誰かいるのか!」

 格技棟の閉めきった扉の向こうから、大人の声がした。

 昼休みに、騒がしい音や怒鳴り声が聞こえることで、誰かが知らせ、教師が様子を見に来たのだった。

「や、やべぇ、逃げろ!」

 まだ無事な先輩連中は、既に気を失った下級生や、急所を打たれていまだに立ち上がれない者を残して、扉を開けると、顔を隠しながらそこにいた教師をスルーし、脱兎の如く逃げて行った。

「あ、こら待て!」

 表にいた教師は出て行った生徒達を呼び止めたが、全力で逃げた生徒達の距離を見て、追うのを諦めた。

 それから格技棟の中に視線を戻すと。

「あうう…」

 泡を吹いて失神している一年生。

 苦痛で体を痙攣させて倒れている一年生。

 そして。

 もう白目を剥いている上級生の、血まみれになった顔を殴り続けている、体の小さな少年。

「や、やめろ!」

 教師が背後から初春を羽交い締めにして、そのまま初春の体を上級生から引き離そうと、勢いよく初春の体をぐいと振り払った。

 初春の軽量の体はそのまま遠心力で振り切られ、格技棟の畳に叩きつけられた。

「はあ、はあ、はあ…」

 初春は倒れても何も言わず、ただ荒い息を漏らすだけだったが。

「貴様、何をやっていたんだ!」

 教師が初春に声を荒げたが。

「い、いや、それどころじゃない…保険の先生を」

 教師は言いかけてそれに気づき、職員室に向かうことにした。

「とりあえずここを動くな! いいな!」

 そう言って保健室に教師は走り去っていく。

 格技棟に残される初春。

 あたりを見回すと、5人の人間が激しく痛み、倒れていた。

「う、う、う……」

 ようやく我に返った初春は。

「ああああああああああああああああああああああああっ!」

 頭を抱え、体を震わせながら、背筋も凍るような悲鳴を上げた。

「……っ」

 目に涙を浮かべ、心が張り裂けるようなその悲鳴を、記憶を漂う結衣と音々も聞いていた。

 その怯えきったような顔で泣きながら叫ぶ初春の姿は、この瞬間に初春が壊れ、狂ってしまったことを二人に理解させた。



 それから初春は職員室に呼び出された後、生徒指導室で事情聴取を受けた。

 逃げた連中も、残った人間の性質から見るに剣道部員だと特定され、午後の授業の参加もできぬまま、各々が事情聴取をされた。

 初春を囲んでいた連中は、それぞれの意見が食い違っていたが。

 結局剣道部顧問の白崎が『神子柴のためにお前達が集まることはないだろう』という意見が状況説明のすべてとなった。

 その後白崎が、初春に上着を脱ぐようにという指示を出したことも、初春を助けた。

 全身が打撲、打ち身、青痣だらけの体は、日常的な暴力に晒されていたことを証明した。

 今日初春に殴られた連中も、最後の一人を除けば体に傷ひとつなかった。

 いじめを受けていたのは初春であるというのは、公平な人間から見たら疑いようがなく。

 初春を囲んでリンチにかけた上級生、同級生は、挙って3日間の停学処分。剣道部も1週間、活動停止となった。

 初春は被害者だと白崎の弁護もあり、お咎めなしとなった。

 白崎は元々小学校からの資料によるところで、初春に味方がいないことを察していたのであった。


 ――処分が下るのを、初春は一人生徒指導室で待っていた。

 お咎めなしの報を白崎が知らせに来て、初春は頷いた。

 現場を見る限りでは、圧倒的に優位な立場から暴力を振るっていたのは初春だったが、どう考えても初春は日常的ないじめの気配があったし、場合によっては両親からの虐待の可能性すら目に見えるような有様だった。

 それは白崎のような教師から見ても一目瞭然だった。

 だが。

 目の前にいる初春が、まるでもう上級生を含めた複数人を病院送りにしたことなど、とっくに頭から消えているかのような表情をしていた。

 必要最低限の質問に答え終わったら、ずっと何かを考えているようだった。

 すごい集中力で。

 その時の初春の目の冷たさは、白崎も背筋が凍るような思いだった。

 そして思った。

 こんな目で完全に思考を集中させられる人間が本気で努力したら、中学を卒業する頃に、天才小笠原直哉との差はどれだけ縮まっているのか、と。


 午後の授業に出なかったところで、クラスメイトと関わりのない初春は別に特に噂になることもなかった。

 むしろいつ不登校になるかを疑われていたくらいだったので、遂にそうなったか、と、自分より悲惨な奴を探して喜ぶ連中の話のネタになったくらいだった。

 雑魚認定を受けている神子柴に負けた、なんて、今まで初春をぶちのめした奴等は言えるはずもない。だからこれからしばらくは、初春が上級生をぶちのめしたことは、あの時格技棟にいた連中以外に広まることはない。

 部活もしばらく活動休止になったことが、放課後格技棟に来た直哉達に伝えられ、すぐに解散。

 初春はもう活動休止を知っていたので、格技棟に寄ることもなくそのまま校門へ。

 校内が部活に向かう生徒達の喧騒に包まれる中、何もしないで帰る特別感もそこそこに、初春は家路へ向かう。

 そして何事もなく、自分の住処のある集合団地の敷地に入ったところ。

「ハル」

 自分の住処のある団地棟の前で、直哉と音々が制服姿のまま待っていた。

 どうやら格技棟で血反吐を吐いた奴もいるので、それを見られると色々と面倒ということなのだろう。関係のない女子剣道部まで今日一日は休部になったようだ。

「――何があったんだ?」

 直哉が聞いた。

「何――とは?」

 初春は優しい声でそう訊いた。

「剣道部の休部のことだ。お前に何かした奴がいたんだろ」

 初春の体は元々痣だらけだ。今日の傷がどれなのか、ぱっと見ではわからない。

「……」

 この当時の結衣は、完全に初春に距離を置かれていたが、それでも心配で付いてきた。

 自分と関わらなくなって2年――初春が一日たりとも休まず、この団地の敷地内の広場で鍛錬しているのを、自分の部屋の窓から見ていただけになってしまったが。

 今日の初春は、特におかしかった。

 何というか――心ここに在らずというか――

 ――その初春への違和感を何とか咀嚼しようと試行している結衣だったが。

初春はぽんと直哉の肩に手を乗せた。

「二人がそんなことを気にする必要はない。些末な問題だよ」

「些末って、その体の傷、ただ事じゃないだろ」

「いや、今日で終わりだ」

 初春は穏やかな声でそう言った。

「……」

 直哉もその初春の違和感を感じ取っていた。

 それは小学校時代に、初めて教師を殴った時とも違う。

 初春の存在が微妙にぼやけて感じる。

 目の前にいるのに、そこにいるのは初春ではないように感じるような……

「――うん、まあ訓練は必要だと思うけど――多分もうこれ以上、一方的にはやられないと思う」

 そう口にする初春は、不気味なほど穏やかで、どこかご機嫌にすら見える。

「もう二人に心配はかけないーー俺の一方的にやられる時間は今日で終わりだ」

「――何があったんだ?」

 直哉は訊いた。

「――目標を下方修正した」

 初春は答えた。

「人間に教わったよ……俺みたいな愚図は、生きる価値もないって」


 自分の部屋に戻って、制服を脱ぎ、鍛錬用の運動着に着替える。

 敷きっぱなしの布団に寝転がり、初春は目を閉じた。

「……」

 倒れるなり、初春は体を丸め、ガタガタと体を震わせた。

 初夏の夕方という暖かな日には似つかわしくない、まるで凍えているように歯をガチガチと鳴らした。

 初春は人を殴ったことの恐怖や罪悪感に怯えた。

 何故この時、人を殴れないはずの初春が容赦なく人を殴れたのか。

 それは、疑似的に自分を自分で殺したからだ。

 幾度となく抵抗する意思を邪魔してきた自分自身を意識的に排除し、殺した。

 そうすることで、怯えた自分を殺したが。

 我に帰ると、自分が憎む人間とは言え、容赦ない暴力を振るった自分の行動に恐怖、戦慄した。

 ーーこらえろ。こらえるんだ……

 この感覚を当たり前になるように訓練するんだ……俺が助かる道は、もうそれしかない……

俺自身を、殺すしか……

 ーー本当は、ずっと前から分かっていたんだ。

 俺は……俺自身という人間が、心底嫌いだ。

 自分の力のなさを、心底恨んでいる。

 弱いくせして、自分が高尚な生き物とでも思っていたのか。

 強くなりたい、優しくなりたい、正しくありたいと、お題目を並べて。

 結局何もできなかった。

 俺に優しくしてくれた、直哉と結衣が馬鹿にされている時でさえ。

 ――出来もしないこと、考えてんじゃねぇよ。

 もう十分分かっただろう。

 俺の才能や家庭環境では、どうせろくな未来が待っていない。

 直哉と結衣と並んで歩く未来などない。

 なら俺は、もうそれを捨てる。

 俺の目指した、直哉の幻影を捨てる。

 もう俺の才能がないことには、返す言葉もないが。

 そんな俺のために、直哉や結衣の足を止めたら――

 考えるだけで、心が張り裂けそうになるんだ。

 だから……絶対に許せないんだ。

 あの二人を傷つけるもの全てが。

 あの二人だけは……俺に優しくしてくれたから。

 あの二人がいてくれたから、俺はこの世界に絶望せずに踏ん張れたんだ。

 どんなことがあっても守りたかったんだ。

 こんな愚図を見捨てず笑いかけてくれた二人を。

「……」

 だが、今日、沢山の連中に囲まれて。

 連日の体の痛みも癒えていない中。

 リンチを受けて、はっきりとわかった。

 結局俺は、直哉と結衣の期待に応えてやりたいなんてことよりも。

 もう殴られたくない、人間に関わりたくない、という思いと、人間の憎しみの方が強い人間で。

 自己保身のために、あの二人の期待を後回しに考える、友達甲斐のない奴なんだ。

 友情のために命を投げ出せるようなヒーローではなく、その程度の人間に過ぎないんだ。

 そんな俺が、あいつらと友達みたいな顔をする資格などなかった

 ーー人間共の言うとおりだよ。

 本当に俺は、あの二人のようになれやしないんだ。

 その理想も、もう捨てる。

 俺はもうこれ以上殴られたくもないし。

 俺に優しくしてくれない、人間が嫌いだ。

 俺の今ここにいる理由は、この二つだけで。

 俺自身を守るなんてことは、全くしなくてよかったんだ。

 せせこましく、自分が助かる方法だけを考えていればいいんだ。

 その程度のつまらない男だよ、俺は。

 いつかはあの二人の役に立てるような男になんてなれやしない……

 捨て石程度になれれば上等だよ。

 そもそも俺程度の助けなんて、あの二人にはいらないだろう。

 何を思いあがってたんだか――神子柴初春。

 世界はお前なんか求めてないって。

 俺自身も、愚図なお前を求めていない。

 この世界の誰も、お前の未来などに期待していない。

「クックックッ……」

 震える口元を、初春は無理やり笑みの形に歪める。

 ーー遂に……遂に捉えたぞ、人間共!

 今日掴んだこの感覚……これを必ずものにし、これまでの借りをまとめて返してやる。

 反撃なんて生やさしいものじゃ済まさねぇ。

 骨の髄まで刻みつけてやるよ。

 俺の命の全てを。

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― 新着の感想 ―
[一言] 最近また更新し始めて嬉しくて初めて感想言います! 実は前からずっと見ていて何回もリピートして見てしまうくらい好きな作品です! めちゃくちゃ応援してます!
[一言] 急速に進化する初春の知能が直哉や結衣の絆で保っていた性善説を自ら破壊したシーンなのでしょうね。 初春なりの自立するためのけじめをつけたのでしょうね。 人間が嫌いだと思いながらも厭世的になり道…
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