人間は、優しくないから嫌いだ(10)
団地に戻った初春は、誰もいない今のテーブルに置いてある500円を手に取ると、そのまま部屋に戻り、服を脱いでシャワーを浴びた。
洗面台の鏡で見たが、顔の周りはほぼひとつの傷もないが、初春の体は青痣だらけで、打ち身や軽度の捻挫、打撲もあり、所々が熱を持って腫れ、シャワーを浴びるだけで体中が痺れるように痛かった。
「く……」
もはやシャワーを浴びることさえ嫌になる体の痛みに、初春は一人息を漏らす。
痛い――痛い……
何で俺はこんな痛い思いをしているんだ?
そもそも俺は何で剣道をしているんだ?
何で俺は、人間にこんなにぶちのめされている?
あの時――2年前のあの時に俺が人間に逆らわなければ。
俺自身が、俺の弱さを見誤らなければ。
もっと違う結果になったのか?
嫌だ、嫌だ。
――もうこんな痛いのも、苦しいのも嫌だ。
これ以上貰ったら、体が壊れるという寸前であることを、この痛みが鮮烈に伝えている。
これよりもっと痛いのを、俺はあと何回味わうんだ……
嫌だ、嫌だ……
――最近じゃ、この体の痛みが酷くて、一発でも貰うことを恐れて体が勝手に竦む。
どれだけぶちのめされても、人間に屈する気など更々起きなかった俺が、今は暴力に恐怖している。
シャワーを浴び終わり、もう一度鏡を見ると、体がシャワーのぬるま湯でも真っ赤になる程の炎症が浮かび上がっていた。
だが、それ以上に……
この約3年、ひと時も休まずに鍛錬と研鑽に励んだつもりだったが、まったく成長の見えない体に、初春は愕然とした。
初春は、テーブルに置いてあった500円玉を手に取る。
「……」
今よりましになる選択肢はもうわかっている。
もう少し食事をとれれば、もう少し鍛錬の成果を体に蓄積できるだろう。
俺の甘さがもう少し取り除ければ、反撃の糸口もあるかも知れない。
だが――俺にはその選択肢に行くまでの道がない。
「……」
いや、道がないんじゃない。
俺自身が道を閉ざしたんだ。
ここまでやられているんだ。やり返したって別に罰も当たりはしないだろう。
それでも俺は、自分を痛めつける相手を殴れなかった。
どうしても相手の痛みをイメージしてしまう。
「――こ、これ以上やる必要があるのか……これからは、何とか殴られずに済む方法を考えなきゃいけないんじゃないのか……」
そうひとり呟く初春の声は、もう人間に謝って許してもらおうと思う心が浮かび上がって、小さく震えているのだった。
そんな初春は次の日に学校に行くと。
昼休みに剣道部の先輩に呼び出され、格技棟へと向かった。
そこには先輩と、同級生の部員が10人ほど待ち構えており。
全員が竹刀を持っているのだった。
そして視線は明らかに初春に敵意を孕んでいた。
「……」
もう幾度となくこの気配を味わって知っている。
俺はこれからこの人達にボコボコにのされるのだと。
「おい、扉閉めろ」
先輩の一人が命じ、格技棟には鍵をかけられた。
唯一の出口も1年生3人が塞ぎ。
初春は10人に囲まれるのだった。
「……」
「お前よ、何でまだうちの部にのこのこ顔出しに来るわけ?」
「俺達がお前のこと、どう思っているか分からないわけじゃねぇだろ?」
「挙句うちのエースの小笠原にすり寄って、顧問まで味方につけやがって」
四方八方から飛ぶ罵声に、初春の体は完全に体を収縮させる。
もうこの時点で初春の頭には、出来る限り攻撃を貰わずにことを納めることしか頭になかった。
「そんで、お前の小学校の奴らに聞いたよ。お前の親、どんなにお前を痛めつけても学校に文句を言いに来たこと、ないんだってな」
「だから、これから俺達がお前を鍛え直してやるからよ、それに耐えられず、根性なしの神子柴は辞めるって言いましたってことにしてやるからよ」
「……」
初春の体はがたがたと震えた。
「ほら、まずは受け身の練習からだ!」
そう言って、先輩の一人が初春の腹に蹴りを入れた。
「ううっ!」
元々傷んでいる内臓に追い打ちをかけられた初春はそのまま膝を突き。
全身を駆け巡るような痛みに悲鳴を上げる。
「ちっ、うるせぇな……」
「先輩、こいつに手拭いを嚙ませましょうよ。声を出されると面倒ですから」
初春は痛みに悶えているところを、同級生に髪を掴まれて手拭いを無理やり口に押し込まれた。
目の前には、小学校が同じ同級生の一人がいた。
「やっぱお前、もっと痛い目見なきゃわかんねぇか? 肋骨の一本くらい折ってやろうか? お前が診断書も提出できないことも分かってんだよ!」
そう怒気を孕んだ声を上げながら、初春の脇腹に蹴りを入れる。
「……!」
手拭いを突っ込まれて声も出ない初春は、畳に倒れ込んで悶絶する。
「まだ終わらねぇぞ! てめえが剣道部を辞めるって言うまで続くからなぁ」
「小笠原もここには来ねぇぞ。あいつは林間学校の実行委員の会議に出てるからな」
「……っ」
記憶の中を漂いながらそれを見る結衣も音々も、その状況が見ていられずにただただ息が苦しくなるような思いだった。
「はあ、はあ……」
そして激痛に苛まれている初春も、脳内に阿鼻叫喚の悲鳴が残響しているようだった。
――これをあと何発喰らうんだ……
死ぬ――これ以上食らったら、もう体が……
「……」
逃ゲロ――逃ゲロ……
謝レ――靴ヲ舐メテデモ許シヲ乞エ……
――初春の頭の中には、どこからともなくそんな声が響き渡っていた。
くそっ、黙れよ!
逃げ場はない!
謝ったってこいつらは俺を見逃さないんだ!
立ち向かうんだ! それしか方法がないのは、分かっているだろ!
奮い立てよ! 抵抗するんだ!
そんなことを考えているうちにも腹を殴られた初春は、うつぶせに倒れて血反吐を吐いた。
「ゲホッ、ゲホッ……」
「きひひひ」
先輩の一人が、疳高い笑い声を上げながら初春の顔を足蹴にした。
「……」
初春は自分の右腕を、左腕で掴んだ。
逃ゲロ――逃ゲロ……
頭の中に声はとめどなく響き渡る。
「黙れ……黙れよ!」
誰にも聞こえないような小さな声で、自分の意識と立ち向かう。
この2年、ずっとこうだった。
人間と対峙すると、心の中でいつもこの声がした。
それを聞いていると、俺はどれだけ自分を鼓舞しても、人間に立ち向かえなくなる。
立ち向かっているはずの拳を、自分の潜在意識が外してしまうんだ。
「そういえばよ、お前、小笠原だけじゃなく、あの女子剣道部の1年とも仲いいんだってな」
顔を踏みつけられながら、先輩がそう言った。
「日下部結衣か――1年の中じゃもうぶっちぎりだな」
「いい女だよなぁ。あんな女と付き合ったら、俺は毎日でもヤリてぇぜ」
「道着からたまに肌が出て、そこに汗が溜まってるんだよ、それがエロいんだよなぁ」
初春を囲む連中は、結衣を見て既に劣情を抱いていたのだった。
「ユ、ユイちゃんとは、2年前から話していない……」
初春は声を絞り出した。
初春は人間に対抗すると決めた日から、結衣を自分の向く危害に巻き込まないように、しっかりと距離を取っていた。中学でまだ一度も話してことはなかった。
だが。
「テメエごときがあの女を呼び捨ててんじゃねぇぞクソが!」
初春はそのままサッカーボールのように顔面を蹴られた。
「がはっ!」
瞬間的に歯を食いしばったが、口の中を切って、歯が血に染まった。
「うっ、はぁ、はぁ……」
初春は血まみれになった顔で、
「ったくよぉ、小笠原がお前を庇うだけでも気に入らねぇのに、あんな上玉ともお付き合いがあるとはなぁ」
「何だ? いっちょ前にあの女とやることでも考えてるのかよ?」
汚物を見下ろすような笑みを浮かべて、連中は笑った。
「……」
逃ゲロ――逃ゲロ……
当時の初春は子供の作り方も知らなかったが。
――自分のことで、直哉と結衣が馬鹿にされていることは分かった。
「……」
うつ伏せになって顔を隠したまま、初春の目には涙が溢れた。
――ふたりとも、ごめん。
俺のために、こんな奴等にも馬鹿にされて。
俺はいまだに何も返せないままだ。
逃ゲロ――逃ゲロ……
――ごめん、ごめん……
俺はもう少し、ましな人間になりたかった。
こんな奴等のように、弱い者いじめをして憂さを晴らす人間じゃない。
教師達のように、見て見ぬふりをして自分の身を守る人間でもない。
ふたりのように――いつも強く、優しく、正しくありたかったんだよ
あの二人は――こんな奴等に馬鹿にされるような人間じゃないのに……
逃ゲロ――逃ゲロ……
「……」
あぁ――そうだよ。
俺が人間が嫌いなのは。
俺の大切なものを馬鹿にするからだ。
あの二人を馬鹿にする人間に、違うと言ってやりたいだけだ。
だとしたら――
逃ゲロ――逃ゲロ……
「五月蠅いんだよ!」
初春は叫んで、格技棟の畳の上に、自分の額を強く打ち付けた。
ガァン、というすごい音がして、初春を囲む連中も一瞬肝を冷やした。
「……」
肝を冷やした一瞬の隙に、初春は立ち上がる。
「はあ、はあ……」
「お、立ったぜ、こいつ」
「へぇ、まだまだ気合が足りないみたいだぜ」
呑気な笑みを浮かべて、更に初春を痛めつける算段をつける連中だったが。
「はあ、はあ……」
この時の初春の視線の目まぐるしい動きに気付いている者は誰もいなかった。
そして――気づかないうちに体を半身にし、気付かれないように攻撃の体勢に移行していることを。
「さて――じゃあ今度は1年にやらせてやろうぜ」
先輩の一人が言った。
同級生の剣道部員達は、待ってましたとばかりの笑みを浮かべて、初春を囲む。
4人が初春の四方を囲んだ。
「へへ、直哉もそうだけどよ、日下部さんにも気遣われているってところがずっと気に入らなかったんだよ」
先頭の、1年のリーダー格の男がそう吐き捨てた。
「はあ、はあ……」
「そんじゃ、行くぜ!」
四方を囲んだ1年生部員が、ラグビーのタックルのような体制から、一斉に初春に飛び掛かった。
初春は飛び掛かられた瞬間に、目の前のリーダー格に向かって自ら距離を詰め。
足を高く上げて跳躍し、低い体勢の相手の肩に足を乗せて、そのまま大きく上に飛び上がった。
相手は肩を踏まれた衝撃で突進が止まるが。
飛び上がった初春に気を取られた次の瞬間。
リーダー格の男は、跳躍した初春が渾身の力を込めた踵落としを、鼻と上顎の境に叩き込まれた。
「ウガアアアア!」
リーダー格の男は前歯を二本折られ、急所を打たれたことでその場で膝を突き、血まみれになった口元で声にもならない声を上げた。
だが。
その強烈な踵落としに、初春を取り囲む他の一年生達も、思わず足を止めた。
だがその時には。
着地して体制を整えた初春のハイキックが、一人の下顎を見事に捉えていた。
下顎を綺麗に蹴り抜かれた1年生は、その衝撃に後ろ向きに倒れ、頭を畳に強打。
白目を剥いて失神したのだった。
「う」
2人が電光石火の下やられたことに動揺が走る1年生残り2名。
しかし。
3人目は動揺を体が感知した一秒後には。
初春の拳立て伏せで、松の木の幹のようになった拳が、眼底に深くめり込まれていた。
3人目は倒れると、そのまま手で目元を抑えて、畳の上でもがき苦しんだ。
「あああああああっ! 目が! 目がぁ!」
その喚き散らす声の横で、最後の一人に視線を向ける初春。
「テメエっ!」
最後の一人は、まだ初春のことを甘く見ていた。
目の前で3人が瞬殺されたことを認めずに、深く考えずにいた。
最後の一人は、初春の胸倉を掴んで自分に引き寄せ、振り上げた拳で初春の顔面を殴ろうとしたが。
初春は掴まれたと同時に両手を伸ばし、自分を引き寄せた相手の首に掌をかけ、そのまま力を込めた。
その首の締め方は、ただ単に首を絞めたというものではなく。
器官、頸動脈、経静脈をしっかりと抑えた締めであった。
もう拳を振り上げた相手も、初春の両手が自分の首を完全に極めたことに気づいた。
「がっ……」
相手はこの時点で、生まれて初めて死を感じる苦しさを味わった。
締められた瞬間に身の危険を感じ、叩きこむ拳をすぐに初春の腕のタップに切り替えたが。
「はあ、はあ……」
初春は苦しそうな息遣いを漏らしたまま、視線を相手の目から逸らさず、締める手の力も全く緩まなかった。
相手の抵抗が止まるのをしっかり確認することだけを考えるような目で、相手が失神するのを見届けるだけの目を向けていた。
20秒も締めた頃には、締められた相手は完全に白目を剥いて泡を吹き、体の力ががくりと消失した。
抵抗がなくなったのを確認すると、初春はゆっくりと両手を離した。
「はあ、はあ……」
一言も発しないまま、初春は蹲った1年生4人の向こうにいる、2年生の顔を見た。
「こ、こいつ、キレやがった……」
流石に1年生4人を瞬殺する手口を見ていた2年生達は気付いた。
今まで大人しかった初春が、実は自分達が初春に向けていた怒り、憎しみなど問題にならない程、人間を強く憎んでいることに。




