人間は、優しくないから嫌いだ(9)
神子柴初春の人生は、そのほぼ全てにおいて苦しみぬいたようなものだったが。
彼の人生の中で最も暗黒期であったのが、この小学校卒業から、中学1年生になる頃のことだったことは間違いない。
「うぅ……」
入学したばかりの中学校の教室で、真新しい制服に袖を通した初春は、その日の終礼時に息を漏らしていた。
教室の半分程が別の小学校から来た人間となり、小学校時代の初春を知る人間ばかりではなくなったが、その半分の、初春のことを知っている人間が、あることないことを周りに吹聴したおかげで、初春は中学でも芳しくないスタートを切っていた。
この頃の初春は常日頃体調を崩しており、中学で別の学校から来た人間と友達になろうとする輪に入る余裕もなく、一人で教室でいた。
学校では、2週間の部活の見学、検討期間が設けられている。
放課後になると、仲良くなった友達と部活を見に行く者もいれば、もう部活を決めており、本格的に練習に参加している者もいた。
直哉も結衣も小学校の頃から道場で習っていた剣道部に入ることを決めていた。1年生の頃は直哉も結衣も、3人とも別クラスに割り振られていた。
初春ももう入る部活は剣道部と決めている。なので自由な時間のあるうちは、早く家に帰ろうと、終礼が終わると、目立たぬように息を殺し、そそくさと家に帰ろうとしたのだが。
「おっと」
帰ろうとした初春の制服を掴まれて、初春は動きを止められる。
「何帰ろうとしてんだよ。俺達と遊ぼうぜ、なぁ?」
同じ小学校だったクラスメイトが、他の小学校から来たクラスメイトを引き連れて、初春を数人がかりで囲むのだった。
「本当に噂通りなんだなこいつ。弱過ぎんだろ」
部活をしている学校では目立つので、近くの人気のない神社まで連れてこられた初春は、大した理由もなく殴り飛ばされた。
小学校が別のクラスメイトも、初春と同じ小学校から来た連中に初春が惨めにぶちのめされる姿を見て、大いに留飲を下げ、初春を完全に見下し始めていた。
「はあ、はあ……」
初春は息を切らしながら立ち上がる。
「お、立ったぜ」
「こいつ抵抗はするんだけどさぁ、全然大したことねぇんだよ。それなのに無駄な努力続けちゃってよ。
初春の解説を入れるほどに余裕を見せるクラスメイト。
だが、この惨状で謝ったところでこいつらが自分を見逃してくれないことも、既に初春は分かっている。
だからクラスメイトの予想する通り、抵抗をするしかないのだが……
初春は必死の形相で目の前で嘲笑を浮かべるクラスメイトの一人に立ち向かい、拳を握り締めて顔面に向かって正拳を突き出すが。
相変わらず、初春の拳は的を得ず、顔面をかすめたのみ。
直線的な初春の正拳付きをかわした一人は、それをかわしながらカウンター気味に初春の横腹に、まだピカピカのローファーで蹴りを入れた。
初春はその蹴りで足が宙に浮き、倒される。
「うっ、うあああああっ……」
その蹴り自体は、まったく大したことのない蹴りだったが。
初春は苦悶の表情を浮かべながら、地面を芋虫のように這い回った。
「何だこいつ? この程度の蹴りでこんなに派手に苦しんじゃってよ」
一通り初春を嬲った後、クラスメイト達はすっきりしたような面持ちでそこを去っていく。
「はは、確かに面白いわ。抵抗してくれるってのがまた最高だな」
「だろ? あいつ親も教師も何も言わないし、バカだから誰かに言いつけもしないんだ」
「これから俺のうちに来ないか? みんなでゲームやろうぜ」
「お、いいねぇ、みんなで遊ぼうよ」
他の小学校出身者同士の親交を深めながら、笑い声の響く空の下で、初春はボロ雑巾のようになっていた。
「……」
この頃の初春は、負け続けてもなお抵抗することが気に入らない同級生からぶちのめされる回数が増えていた。
しかもこの頃になると、同級生達はどんどんと体が成長していき、大きくなる。
ろくに食べていない初春に対しての体格差が、どんどん開き始めていたのである。
そんなクラスメイトが、遠慮のなさはそのままに攻撃を仕掛けてくれば、ダメージは蓄積する。
連日の暴力の激しさが、初春の自己治癒能力を上回り始めたことで、初春は慢性的に体調を崩していたし、一発でも貰えば悶絶するようなダメージを受けることも珍しくなかった。
「ぶっ……」
初春は咳込むと、その飛沫には血が混じっていた。
全身数か所を慢性的に打撲、ねん挫し、内臓のダメージも蓄積している。
食べなければいけない貴重な食事もろくに喉が通らなくなり。
『――この頃の俺は、本当に体が命の危険を感じ始めていた』
その様子を見ていた結衣と音々の頭の中に、初春の声が響く。
『これ以上食らったら、本当に命に関わる――そんな生死の境を感じたのは、1回や2回じゃなかったな……』
直哉と共に剣道部に入った初春は、小学校時代はほぼ接点を持たなかった直哉との接触の機会が増えた。
格技棟の隣では、結衣の入部した女子剣道部もいる。
だが、2人は剣道部で1年生から団体戦のレギュラーに選ばれるような実力の持ち主だったが。
その頃の初春と言えば。
「おい、なにやってんだよ!」
初春は格技棟の隅で同級生の剣道部員に激しい舌鋒を向けられていた。
「ちゃんとやれよ! かかり稽古だってのに全然手数を出さないで、練習にならねぇよ!」
剣道部員は初春とかかり稽古をして、初春の消極的な向き合いにしびれを切らしたのである。
初春は防具をつけている相手でも、剣を使って打ち込む際に、ポイントを無意識に痛くなさそうな場所に避けてしまうという形になってしまう。
人に打ち込みを入れる抵抗が強く、当てても竹刀を振り切らず、ただ先端で触れ、手首を使って当たった瞬間にブレーキをかけているので、打ち込みが非常に弱い。
その同級生の声に、周りの部員の手も止まる。
レギュラーとして、既に先輩とかかり稽古をしている直哉もその中にいた。
「またあいつか……」
「才能ねぇんだよ、もう入部して1か月なんだから、わかるだろ……」
周りの部員達も、もう初春のことが分かっており、小声で呆れたように言っていた。
「お前、今すぐ剣道部を辞めろ!」
主将は呆れたような、だが怒気を孕んだ声で言った。
「お前、小笠原や日下部と同じ団地に住んでるんだってな。そんな理由だけで剣道部に入られたら迷惑なんだよ。練習の時にみんなで出す声も出さねぇ。やる気あるのかよ」
「……」
確かに初春は剣道の練習中に声を出したりはしなかった。
だがそれは、自分に絡んでくる級友達が蓄積した初春の体へのダメージで、食事もまともに喉を通らなくなっていた初春は、声を出すこともできない程に体が弱っていたからに他ならない。
もう既に学校を休んでも不思議ではない程に体調が悪かったが、これで一度でも学校を休んだら、もう二度と立ち向かえなくなりそうで、無理に学校に出てきていたのだ。
この頃の初春は、もう2年間毎日のように続けてきた、朝夕のトレーニングも勉強も滞るほど、心身の限界を迎えていたのだった。
「お前、剣道に向いてないよ。このままだと士気も下がる。このまま出て行ってくれないかな」
初春がもう2人の幼馴染であることは皆知っていた。
それは直哉が、初春が早く皆と打ち解けられ、いじめられることがないようにという配慮をしてくれたからに他ならないのだが。
その情報が歪曲され、初春は周りから
『優秀な幼馴染にすり寄る寄生虫』
『人気者の腰巾着』
と、余計に評価を下げることとなったのだった。
既に直哉も結衣も、その美貌と才能で校内にその名声を轟かせていた。小学校の頃には他校にも名前の知れ渡るほどの駿才で、教師達も二人の入学を心待ちにしたという。
その分、剣道部という組織に入った初春の評価も、悲惨なものだった。
「待ってください」
そんな主将と初春の間に、直哉が割って入る。
「ハルはそんないい加減な奴じゃないんです。だからお願いします。ハルをもう少し見守ってください」
主将の前で膝を突いて、直哉は頭を下げた。
「ハルがずっと努力をしているのは、同じ団地に住んでいる俺が一番よく知っています。だからどうか、もう少しだけ」
「……」
直哉のその真剣な口調に、周りは目を丸くするが。
そんな直哉に対して、傷んでいる初春は言葉も出ない。
「なぁ、小笠原。お前もっと付き合う人間を選んだ方がいいぞ」
先輩の一人が言った。
「お前とこいつじゃもう全然釣り合わないのに、こいつのために時間を奪われ過ぎだ」
「そうだよ。こいつのためにレギュラーのお前の手を止めるわけにいかないだろう。」
「こんな奴を相手にしていたら、お前も弱くなっちまうぞ」
「……」
周りからの言葉は、初春の言葉に突き刺さり続けた。
小学校の時の初春は、自分から学校内で直哉や結衣、特に女の子である結衣との接触を自重した。
今の自分がそばにいれば、必ず自分のせいでこの二人に迷惑がかかることが分かっていたからだ。
勿論自分が剣道部に入ったのは、直哉がいるからということではない。単純に自己の鍛錬の場を初春自身が望んだためだ。
なるべく直哉に迷惑が掛からないようには、自分も最大限するつもりなのだが。
今の初春は、全力でやってもこのような有様になってしまう。
――初春は、穴があったら入りたい様な気分だった。
直哉に迷惑をかけている自分の惨めさ、申し訳なさにいたたまれなくなり。
辛いことから一度として逃げたことのない初春が、その場を立ち上がり、格技棟から脱兎の如く駆け出してしまった。
「ハル!」
直哉はそれを見て、初春を追いかけようとする。
「放っておけ! やる気のない奴なんか」
「あいつが辞めたって困らないしさ」
先輩も同級生も、初春を心配する者は誰もいなかった。
「……」
直哉はそれを聞いて、一瞬立ち止まったが。
「すみません、ちょっと抜けさせてもらいます」
直哉はそう言って頭を下げて、格技棟を抜けるのだった。
「おっと」
格技棟を出る矢先、直哉は顧問の白崎と鉢合わせる。
「どうした小笠原、練習はもう始まっているだろう」
「すみません先生。ちょっとハルが出て行っちゃって……」
「ああ、神子柴か。うん、行ってやりなさい」
その声を聞いて、剣道部の面々が出てくる。
「先生、もう神子柴は駄目ですよ。あいつは剣道に向いていません」
「まともに相手に対して打ち込みもできない。あんな奴のためにこうして揉め事が起きて――」
皆が初春に対しての苦情を言い出した。
「ふぅ」
白崎は頷いた。
「最初は私もそう思った。だが小笠原がこれだけ目をつけているのだから、何かあるのだろうと思うのでね。お前達、神子柴の手を見たことあるか?」
白崎は部員達を一瞥する。
「あいつの手――もうマメが何度も潰れて、手がボロボロを通り越した状態になっていたぞ。手の甲の方も、恐らく拳立て伏せだろうな――木の幹のようにガチガチになっていた――確かに神子柴は剣道に向いていないだろう。だがこの部活で神子柴以上に竹刀を振り込んでいる奴はいないだろう。それはお前達の手を見ればわかる」
「……」
部員達はそれを聞いて、苦々しい顔をしながら押し黙る。
「行ってやりなさい、小笠原」
「ありがとうございます」
直哉は白崎の言葉に背中を押され、格技棟を出て行った。
「ちっ、気に入らねぇ……」
格技棟の中で、誰かが呟いた。
「うっ、ゲホッ、ゲホッ……」
逃げ出したはいいが、体の弱った初春は、走りながら感じる体中の痛みに足を止めて、苦しそうに後者の裏の壁に手をついて、咳込んだ。
「はあ、はあ……」
どれだけ同級生に殴られても、決して逃げなかった初春も、直哉が自分のことで馬鹿にされるのは堪えた。
本当は――直哉や結衣と肩を並べられるなんて思っていなかったが。
あの小学校で、自分の人間嫌いを認識し、教師を殴った日から、一日も立ち止まらずに努力は続け。
自分はもう少しましな人間になれていると思っていた。
だが――そうではなかった。
自分の鈍才は、自分の想像を遥かに超えて酷かった。
自分はただ、2年間無駄なことをして、同じ場所をぐるぐるしていただけに過ぎなかった。
「……」
中学に入って、ようやく学校から防具が貸与されるようになり、本格的な剣道を始められるようになった初春だったが、たった1月足らずの剣道部の練習を経て、分かったことがある。
俺はもうここ3年近く、暴力の近くに身を置いているというのに、いまだに人を殴るということに慣れずにいる。
それなのに、人間共はどうして自分をこんなに躊躇なく殴れるのだろう。
殴られれば痛いし、辛い思いをするのに。
――きっとあいつらには、生まれながらに俺とは違う、誰かを殴る時のブレーキがないのだろうな。
そう思っていたが。
防具をつけて剣道をして分かる。竹刀の面も胴も、直接殴られるよりは全然痛くない。
だから俺ごときが本気で打ち込んでも、相手は大して痛くないんだろう。
それが頭で分かっていても、俺の竹刀は止まってしまう。
確かに相手を殴る時のブレーキが弱い人間もいるのは確かだが、それ以上に俺のブレーキが強い。
スポーツと割り切っても、戦うことができないのだから。
「……」
――この頃の初春はもう、心底自分でも、自分の力のなさ、鈍才ぶりを恨み始めていた。
この約3年間、本当に自分の限界と言えるほどに、全ての時間を研鑽に捧げてきたが、結果はこの様だ。
俺自身も、俺という人間を愛せない。
今となっては、俺といじめる連中が正常なのかとすら思えてくるんだ。
そう思えたら、もう……
「ハル」
追いかけてきた直哉が、初春を見つけて声をかける。
「――ナオくん」
腹にダメージがあり、ろくに出ない初春の声。
「……」
何も言わずに、直哉は初春の隣に座った。
「必死にやっているんだけどなぁ、竹刀だって毎日振り込んでいるんだが」
寄り添うような声で直哉は言った。
「優し過ぎるよ、ハルは」
元々道場にも通わず、中学に上がるまでは我流で剣道をしていた初春だったので、直哉も試合どころか、練習を一緒にやるようになったのは、初春が学校の備品の防具を貸してもらえる中学が初めてだったが。
もう直哉も見抜いていた。初春が性格的に争いごとに向いていないが故に、相手の急所を叩く手が緩んでしまう癖に。
「――ハル。別に俺はお前がこのまま一緒に部活をしてくれるのは嬉しいんだが、もう、誰かと無理に争わなくてもいいんじゃないか?」
「……」
「きっと――もう無理にお前は人を殴らなくてもいいんじゃないか。お前がそれを望んでいないってことが分かるから、やはり見ていて辛いんだ」
「……」
その直哉の優しい言葉に、初春は自分の心がぐにゃりとひしゃげるような音が聞こえてきた。
――もう、初春は分かっていたのだ。
あの日――教師を殴った日から、俺は思っていた。
俺は人間達には屈しない。
どんなに辛くても、正しくありたい。
人間達と同じような、弱い者いじめをしたり、優しくないことはしないと。
俺は気高く生きたかった。
そして、俺のことをいつも心配してくれたナオくん、ユイちゃんの役に少しでも立てるような人間になりたかった。
だから必死になった。自分に優しくしてくれない人間と同じような生き方をしたくなくて、一日でもそうなれるように頑張ったつもりだったが。
もうあまりに殴られ過ぎて、最近では食事もろくに食べられずにエネルギーが不足し。
一発でも食らえば悶絶する程の激痛を、連日のように耐え続けていた初春は。
もう、何もかもがどうでもよくなり始めていた。
何でもいいから楽になりたい――この現状から、早く抜け出したいと思っており。
もう直哉や結衣のことすら、どうでもいいと思い始めていた。
自分とは違う世界の人間だとはっきりと分かり。
そんな人間のような目線で、俺のような愚物は生きられないと悟っていた。




