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人間は、優しくないから嫌いだ(8)

 初春はこの日から毎日、学校の図書室、近くの図書館に入り浸りとなった。

 閉館時間まで勉強をし、夜には自分の体力の限界まで体に負荷をかけ、家に帰って図書館で借りた本を、気を失うように眠りにつくまで読みふけり。

 日が昇るのと同時に起きては、鍛錬に時間を割いた。

 それと同時に始まったのは。


 ――ぱぁん、という音に、初春は腰が引けて尻もちをつく。

「大丈夫か?」

 その目の前には、竹刀を持った直哉がいた。

「ハル――いくら何でもこれは無茶だ。防具もなしに竹刀を受けるなんて」

 団地の広場で、直哉が初春に頼まれたのは、竹刀を丸腰で受けるという特訓だった。

「いいんだ。打たれることは分かっているから」

 立ち上がりながら初春は言った。

「どうしても俺は誰かに攻撃を受ける時に、目を閉じて身構えちまう――それを矯正しないと、俺が反撃に転じることができない――そのためにどうしても必要なんだ」

「……」

 直哉はその言葉を聞いて思う。

 自分は生まれてから一度も、誰かに殴られるという経験をしたことがない。

 その世界を見た初春の思いを、自分は共有することができない。

 初春がその結論に至るまで、何を考えたのだろう……

「一日5分でいいんだ。この鍛錬にだけ付き合ってほしい――その時間の分は、必ず強くなって、いつかナオくんに返すよ」

 そう言った初春の目は、叩きのめされたばかりだというのに、まだ光を失っていない。

「……」

 その目を見て、当時の幼い直哉と、それを記憶の中で見ていた高校生の結衣は、同じことを思っていた。

 もうこの時、初春は完全に人間と決別しているのだと。

 努力によって自分の知らないことを知り、出来なかったことが出来るようになる。

 そんな知識欲、成長への欲求と、その喜びに夢中になれている。

 だから辛い鍛錬も、勉強も休むことがない。

 そんな初春にとって、人間の友達を作って遊ぶ時間など、塵芥同然の時間となり果て、もうそこを目指す思いなど一切ない。

 もう初春は完全に人間と決別したのだと、二人は悟ったのだった。


 その鍛錬の成果もあって、初春の拳や蹴りは2か月もすると、しっかりとした型が出来あがりはじめ。

 学校のテストでも、指定席だった最下位に落ちるようなことは一切なくなっていった。

 だが……


「ぐふっ!」

 初春は腹に蹴りを入れられ、膝から崩れ落ちる。

 担任教師を殴ったその日から、初春へのリンチは学校に登校すると、毎日のように続いた。

 もはや教師も初春をかばうことをしなかったし、同級生達はもう初春へのいじめを隠すこともしなくなった。

 どれだけ痛めつけても大丈夫、という免罪符を持った初春への暴力は、尚更苛烈なものになっていった。

「へへへ、どうしたんだよ?」

 嘲笑を浮かべたクラスメイト達に囲まれている初春。

 歯を食いしばって立ち上がる初春は、覚えたばかりの右の正拳突きを、自分に蹴りを入れたクラスメイトへ繰り出した。

 その拳は簡単に避けられてしまう。

「テメエ如きが、俺達を倒せると思っているのかよ!」

 見下している初春からの反撃に気分を害したクラスメイトが、カウンター気味に初春の顎に正拳突きを返し、初春の体は簡単に吹き飛んだ。

 人体急所を打たれた初春は、目を回してうつろな視線を空に向けて倒れていた。

「何だよ、もう終わりかよ」

「無駄な努力をしてるみたいだけど、全然強くならねぇな、お前!」

 初春の生活の全てを賭けた鍛錬の成果を完膚なきまでに叩き潰したクラスメイト達は、それを踏みにじるような言葉を吐き捨てて、そこを去っていく。

「……」

 目を回していた初春の意識が戻りだすと。

 うつろな思考で、考えを巡らせる……

『最後に繰り出した自分の正拳突きが、簡単に外れた理由は、自分で分かっている』

 記憶を漂う結衣の頭の中に、初春の声が響く。

『自分自身が、心のどこかで拳が外れてくれることを願っていた……それが分かった』



 ――それが初春が後に名付けた『悪党の才能』のなさだった。

 幼い頃から人間の暴力を浴び続けた初春は、その痛みを嫌というほど知っている。

 だから殴られたら苦痛を伴う場所というのも、武道の経験もなかった頃から勝手に覚えている。

 分かっているから故に、その苦痛を他人に味合わせる行為に対する抵抗が拭いきれない。

 そこを打ったら、相手が苦痛にのたまうことが分かって、恐怖している……

 人間を心の底から嫌っていても、初春は誰かを傷つけることに本質的に向いていない。

 だから初春がどれだけ武道を学んでも、拳も蹴りも、自分から致命傷になるような場所を避けている。

 それがこの2か月、反撃をするという経験を繰り返してみて、はっきりと認識できた。

 そして、もうひとつ……

 ――この2か月で、自分は自分の体の限界まで、心身共に追い込んできた。

 もうこれ以上はできないという際の際まで、体を鍛えたつもりだった。

 なのに、その成果が初春自身にも、全く感じられていなかった。

 自分の成長が、まだ周りの級友達に追いついていない、ということではない。

 自分が全く成長していないのだ。

 初春は、鍛錬をして、自分の体が強くなっているという手ごたえを全く感じていなかった。

 これだけやれば、少しは体の変化があってもよさそうなのに……

 その違和感に首を傾げながら、ボロボロになった初春はその足で図書館へと向かった。


 今日もいつもの通り、図書館の閉館時間まで勉強をした初春は、家に帰る道の途中のスーパーで、500円玉を握り締めて、卵とパン、牛乳とふりかけを買って家に戻る。

 掃除もろくにされていない都営団地には、母親の化粧品の臭いが漂っているが、男のところに出かけていて、姿はない。

 そして、明日の分の食費500円が、今日も机に置いてあるのだった。

「……」

 初春は朝のうちに予約しておいた炊飯器で炊けた米を茶碗によそり、買ってきたふりかけと卵での夕食を取りながら。

 今日新しく図書館で借りてきた本を開き、目を通した。

 初春の借りてきた本は。

 栄養学の本である。


『食品に含まれる栄養素は、大きく分けてタンパク質、脂質、炭水化物、ビタミン、ミネラルの5つに分類されます。これら5つの栄養素はそれぞれの役割を持っており、お子さんの成長・発達のためにはすべての栄養素をまんべんなく摂る必要があります。』

 

「……」

 目の前にある自分の食事に目をやる。

 それを見て、初春にも分かった。

 自分の体は小さい。

 元々3月生まれで、同級生とは最大1年の成長時間の差があるのに。

 更に家庭環境により、生命維持が可能な最低限の食事しか与えられていない初春は、同級生とは2、3年に相当する体の成長の差があったのだ。

 本を読み進めていくと、筋肉の増加がエネルギー消費を増やすということが書かれていた。

 初春の2か月の、身体の限界までいじめ抜いた鍛錬は、簡単に食事による摂取エネルギーを超過した。

 超過したエネルギーが、鍛錬によって鍛え上げた筋力を食ってしまう。

 初春がいくら鍛錬しても、成長を感じられないのも、無理のない話であった。

「……」

 本の上に、初春の涙が落ちた。

 クラスメイトに努力を否定されても、努力をやめるつもりはなかったが。

 このまま続けても、自分が強くなることはできない……

 それを突き付けられた悔しさに、初春は一人で涙した。

 当時の初春の強さの象徴は、直哉であった。

 高い身体能力と、恵まれた体躯、運動神経やセンスも兼ね備えていて、どんなことも一流にこなしてしまう。

 鍛錬をしながら、常にあった目標は直哉で、自分も直哉に少しでも近づけるように頑張ろうと思い、やってきたのだが。

 その目標の姿に、自分が辿り着くことはできないということを突き付けられてしまった。

 まだ10歳の子供に、その現実は非情だった。

 もうこの年齢の初春は、自分の鈍才が母に愛されていないことも知っていた。

 頼んでも自分に食事をもっと取らせてくれるとも思えなかったし、そもそも滅多に会うこともできない。

 状況を改善する術が、初春にはなかった。

「だが……」

 初春は一時間ほど泣きはらすと、ごしごしと涙を拭って立ち上がる。

「今に始まったことじゃない――そこから少しでもなんとか、ナオくんに近づける道を考えなきゃ……」

 自己研鑽に自分の全てを賭けた初春は、建設的な思考を身に着けていた。

 己の弱さを知り、そこから勝つための策を検討することをやめなかった。

 どんなに辛くても、それ以外に初春に没頭できるものがなかった。

  


 それでも諦めきれない初春は、自分の出来る限りのことをやってみたりもした。

 学校の給食の時間、牛乳が嫌いなクラスメイトが残した牛乳をこっそり回収したり。

 給食後の昼休みに、給食室に忍び込んで、各クラスの残した給食を物色しては、無理矢理腹に詰め込んだりした。

 残り物のパンや牛乳を、ランドセルの中に詰め込んで、自分の栄養の足しにしようとした。

 だが、すぐにそれは学校にばれてしまい。

 もう初春が親にも見捨てられていることを、教師や他の親の反応から知っている子供達は、食事も満足に取れない初春を盗人扱いした。

 物乞いのような惨めな行為を見て、皆は初春を尚更疎んだ。

 教師達も初春の行動を見て、すぐに給食室に鍵をつけて、初春が入れないようにしてしまった。

 そればかりか……


「おらよ!」

 初春の腹に執拗に拳が入る。

「ぶっ!」

 初春は攻撃を受けて膝をつき、胃液を吐いてしまう。

 初春の胃液は、自分が給食で食べたばかりの物が、まだ未消化のまま形をとどめていた。

 初春が体の成長を助けるために、食事を必死に取っている思惑を、初春を馬鹿にしたい連中はすぐに見抜いてしまった。

 初春は満足な食事がとれる唯一の機会である給食を、できうる限り腹に詰め込んで家に帰ろうとしたが。

 その放課後には、こうして級友に囲まれて、腹に執拗なダメージを受けた。

 食べたものをこうして吐き戻してしまったり、内臓のダメージが酷くて、食べ物もろくに喉を通らなくなるなど、痛めつけられてしまい。

 結局初春の悪あがきも、散々に妨害にあった末に、打ち砕かれる有様であった。

「はあ、はあ……」

 胃の中のものを吐き出してしまった初春は、力を振り絞って目の前の一人に掴みかかるが。

 拳を握り締め、振り上げた瞬間に、体が硬直する――

 自分の体が、目の前の人間を攻撃することを逡巡した感覚を、言語化はできないものの、初春ははっきりと感じた。

 次の瞬間、掴みかかった相手が拳を振り上げた瞬間に、初春は反射的に目を閉じてしまい。

 棒立ちになった初春はそのまま殴られ、自分の吐いた胃液に顔をこすりつけた。

 ツンとした刺激臭と、皮膚を焼くような痺れを感じる自分の胃液に、初春の血と涙が混ざって、ボロ雑巾のような姿になる。

「もう諦めろよ! お前みたいなクズが俺達に勝てるわけないんだからよ!」

 クラスメイト達は、嘲笑を浴びせながら、ボロボロの初春を放置して去っていく。

「……」

 そんなクラスメイト達の侮蔑の言葉は、もういつものことだからどうでもよかったが……

 初春が教師を殴り、自身の人間嫌いを認識し始めてから、もうすぐ2年が経過しようとしていた。

 相も変わらず、飽きもせずに学業に運動に、努力を重ねてきた初春だったが。

 状況は何も変わらないまま、小学校の卒業が間近に迫っていた。

 それだけやれば、嫌でも分かることがある。

『俺は――ナオくんのようにはなれない……』

 記憶を漂う結衣の頭に、初春の言葉が響いた。

『もうあいつらに勝てない理由も、しっかり分かっていた――俺が人を殴ることが出来ないこと――本質的に暴力に怯えてしまうこと――そして、俺の体には、力がないこと……この頃の俺はもう、それが分かっていたんだ』

 その3つの弱点が、いつまでも初春を前に進めさせることはなかった。

 努力をしても、直哉どころか、自分をいじめるつまらない人間にすら力及ばず。

 現状の自分の限界を知り、その問題点がどこかも分かってはいるが、どうにもならない。

 ――この時点で、初春は自分の才能の限界を、はっきりと感じていた。

 直哉のようになりたいという理想は持ちながら、もう自分には直哉のような力が宿らないことも、分かり始めていた。

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