人間は、優しくないから嫌いだ(7)
結衣に初春が別れを告げたその次の日から、初春は人が変わったようになった。
これまでは何とか自分が皆の役に立てるように、歩み寄りの姿勢を取ろうとしていたが。
初春がそんなことをすることは一切なくなった。
初春は意図的に人間を避け、誰かと分かり合う、友達になろうと思うことをあっさりと放棄したのだった。
初春が教師を殴り、学校を休んだ翌日から、初春は学校に復帰したが。
その翌日、初春は生徒指導室に呼び出され、他の教師の立会いの下、担任教師との話し合いの場を持たれた。
立ち合いの教師は3人で、初春は一人で大人4人に囲まれるという状況。
「神子柴、何か言うことはないのか?」
立ち合いの教師の一人が、初春を睨みつける担任を尻目に言った。
「……」
初春は目を閉じて沈黙。
「君は教師に暴力を振るい、職員室で暴れ回り、翌日は学校を無断で休み……」
「俺もクラスの連中に殴られてましたけど?」
立ち合いの教師の言葉を初春は遮った。
「!」
その初春を見ていた、記憶の中を漂う結衣はぞっとする。
そう言って見開いた初春の目は、初春が自分の前で見せたこともないような、憎悪を孕んだ冷たい目だった。
野球大会の時にしていた目とも違う――あの時は人間への軽蔑が先に来ているような冷めた憎悪だったが。
まだ子供の初春がしているのは、剥き出しの怒りを隠そうともしない目だった。
「それも数えきれない数をな――それを見て見ぬ振りをしていたあんた達は、俺に一発殴られたくらいでごちゃごちゃ言うのかい?」
「何だその口の利き方は! 無礼な奴め!」
初春を委縮させようと、教師から激しい声が上がる。
「口の利き方を変えたところで、あんた達の俺への扱いは変わらねぇんだ。考えたって無意味さ。最近少し勉強したことで、そんなことが分かるようになったよ……」
そう言いながら、初春は皮肉めいた笑みに口元を歪ませる。
「それに、散々人を無能だって馬鹿にしてたが、この前のテストで、それを覆したってのに謝らないのは無礼って言わないんだな。勉強になったよ」
「この……」
教師達の表情は、こんな奴にここまでの皮肉を言われる屈辱に歪んでいた。
「もういいかな。俺は俺を救わないあんた達の話を聞いてる暇はないんだよね。俺は弱いから、これから自分の身を守らなきゃいけないんだ。そのために死ぬ気でやらなきゃいけないことが山程あるんでね」
初春は席を立とうとする。
「そうかい、あくまでそんな態度を改めないんだな」
担任教師が初春を汚物を見るような目を向けて言った。
「後悔しても遅いぞ。お前如きが俺達大人に逆らって、ただで済むと思うな!」
「お前らに頭を下げれば、助けてくれんのかよ」
静かな――しかし鋭い舌鋒で初春はそう返した。
「どうせ助からないなら、気に入らない奴に関わっても仕方がない……俺は自分の好きな奴のために、全力で生きてやることにするよ」
初春は振り返りもせず生徒指導室を出る。
すると。
そのドアの横に、一人の生徒が立って耳を欹てていた。
まさかこんなに早く初春が出てくるとは思っていなかった生徒は、出てきた初春を見て脱兎の如く廊下を駆け抜けていった。
初春が教室に戻ると。
「本当なんだって、あのバカ、どうやら本当に先生を殴ったらしいぜ。それで謝りもしなかったんだ」
さっき生徒指導室の前にいた生徒が、クラスメイトにそれを発信している最中だった。
「へぇ……じゃあもうあいつを守る後ろ盾は何もねぇってことか」
「面白いことになりそうだな」
もうクラスメイトも初春に聞こえていることを隠そうともしない。
初春も聞いてはいなかった。自分の机に戻って、次の授業の準備を始める。
そうして、先日のテスト範囲の復習をしていたところ。
初春の肩に、誰かが手を置いた。
初春はその置かれた手の悪意に気付き、反応を示さなかったが。
そのままグイと肩を引かれ、初春の体は椅子ごと教室の床に叩きつけられた。
小学校の裏庭で、初春はクラスメイトに囲まれ、地面に這いつくばっていた。
二人がかりで、うつぶせに倒れる初春の両腕を持って、上半身だけ起こし、めのまえにいるクラスメイトが、順繰りに初春の顔や腹に、容赦なく拳を叩き込む。
「ぶっ!」
胃液をぶちまけ、その胃液に頬擦りするように、幼い初春は倒れた。
「ははは、これからはもっと遠慮なくこいつを殴れるな!」
「先生がこいつに何をしてもかばわないことも決まったんだ」
「最近こいつ、生意気だったからなぁ。勉強なんかしちゃってよ」
一人が倒れる初春の横腹にトーキックを入れた。
「はあ、はあ……」
初春は芋虫のように転がって、荒い息を漏らしながら、目を見開き、クラスメイト達をじっくりと見つめていた。
「お前等!」
不意にそんな大きな声が、遠くの方で聞こえた。
「やべ! 逃げろ!」
その声の主の方を見て、クラスメイト達は蜂の巣をつついたように逃げていく。
跡には、ぼろ雑巾のようになった初春一人が残される。
「ハル!」
そんな初春に駆け寄る者がいた。
直哉と結衣であった。
「ひどいことを――昨日やられた傷だって、まだ治ってないのに」
初春の姿は、痣の上に更に深い痣が刻まれて、見るのも痛々しい姿だった。
頬の周りが腫れて、表情すら窺うこともできなくなった顔で、初春は立ち上がった。
「ハル、大丈夫か?」
「ああ――」
その初春の声は、涙に震えるわけでも、怒りを孕んだわけでもなく、実に穏やかだった。
「あいつら――ハル、ちゃんとこういう時には先生に言って、ちゃんと助けてもらわなきゃ駄目だ。これから一緒に職員室に行こう。俺達も見ていたから証言して」
「どうせ言ったって助けてくれないさ」
直哉の提案を初春が遮った。
「二人の手前、一時はあいつらも手を引くかもしれないが、二人がいなくなったら滅茶苦茶やってくる――そういう奴らだよ、あいつら――て言うか、人間は」
先程教師からの救いの手が完全に切れたことを、二人に言ってやってもよかったが。
それをあえて初春は言わなかった。それを言ったら二人が教師に抗議することが分かっていて、その結果も大体わかっていたからだ。
この二人に、もう自分のために無駄な時間を使ってほしくなかった。
「……」
沈黙。
「何でそんな淡々としてるの?」
直哉も感じていた疑問を、先に結衣が訊いた。
「あんなに酷い目にあって、助けも求めず、何の抵抗もしないで――このままじゃずっとそれが続く。分かるでしょ? なのに――」
「ああ、多分こんなことはもう数年続くな」
初春が言った。
「多分俺が小学校を卒業するまで――いや、中1の終わりまでか? あと2年3年は、こんなことを人間からやられ続けるだろうな――今の俺じゃ、あいつらにも勝てない」
「ハル……」
「当面はその期間をどれだけ短くできるか――俺にとってこうして人間と遊ぶ時間が無駄だ。それがより分かった」
淡々とした声で、時々頷きながら初春はそう言った。
「お前――もしかして今日、こうなることが分かっていて、わざと殴られていたのか?」
直哉が怪訝そうに眉を曲げながら言った。
「あいつらに殴られることはあったけど、自分との差が何なのかを考えながら殴られたことはなかったからな――どうせ避けられないと思ったから、そんなことを考えていた」
初春はそう言うと、深呼吸をして、大きく伸びをした。
「それに――なんか、気が楽になったよ」
「え?」
「これまで俺は、あいつらにどうか優しくしてほしくて、如何に殴られないか、気分を害さないか――そんなことばかり考えていたが、そんな方法がないと分かった今は、もう殴られる前提であいつらと対峙できたからな……殴られたくないと思って殴られるのと、殴られると思って殴られるってのは、大分違うな……勝手に裏切られたとか、こちらの誠意を踏みにじられたような気持ちになることもないから、精神的に楽だし、俺、武術の経験なんて全くないけど、体が本能的に備えていた感覚があるから、ダメージが減ったような感覚があった。今の感じを考えると、今までの俺は無防備過ぎる……これが結構、次の手のヒントになるかもしれない……」
淡々とそんな分析を始め、一人小さく頷く初春の姿は、もう昨日までの、直哉達の知る初春とは明らかに異質だった。
散々に痛めつけられ、今もボロボロの姿形をしていても、その経験から一つでも何かを掴み取ろうとする飽くなき向上心と。
まるで赤子のように、そこから学び取るものに興味を示してきらきらと目を輝かせる、純粋な好奇心。
その二つだけで自分の行動基準は十分と言わんばかりだ。
「ま、殴られることは避けられないことが分かったなら、あとは対策だ……俺にどこまで出来るか分からないが、現状の差を、いつまでにどれだけ縮められるか――当面はそれを目指すか。人間を黙らせないと、二人に近づくこともできないからな」
「……」
「出来れば小学校卒業までに、あいつらのサンドバックから抜けていれば上出来だが――そのペースじゃ遅いことに変わりない。うん、うん、最初にそのマインドをセットしておこう。俺は今は殴られるのが当たり前って感覚……当面はこの感覚で防御、攻撃は……」
そんなことをぶつぶつと、直哉と結衣の姿など目に入っていないかの如く呟いていたが。
「よし!」
初春はおもむろに立ち上がった。
「何か攻撃に転ずる手を考えよう――図書館で護身術とか、武術について調べて――」
そう言って、脇目も振らずに校門の方へ駆けて行ってしまった。
「……」
直哉も結衣も、呆気にとられたように、初春のその後姿を見送っていた。
「……」
もう高校生になった、初春の記憶の中を漂う結衣は、この初春が、小学校で話した最後の初春だったことを思い出していた。
自分の側にいたら、二人も自分のために傷つくことになる。
それを避けて、自分の身を守れる直哉はともかく、私のことは徹底的に初春が接点を絶った。
それを知る直哉が私に、その思いを伝え、尊重してやれと言われたから、ずっと遠くで見守るしかなかったけれど。
場面が切り替わり、今度は初春達の住む団地の共同広場に。
初春が、図書館からとりあえず借りてきた護身術用の武術の本をベンチに広げたまま、拳の出し方、蹴りの出し方の型を確認していた。
時間は朝の5時を回った頃で、まだ日も登りきっていない。
一通りそれを確かめ終わると、今度は別の本を開いて、体を鍛えるトレーニングメニューの書かれた本を開いて、そこにあるメニューを一通りこなす。
それを学校に行く直前までやる。
幼い初春は汗だくで、まだクラスメイトにやられた傷も治っていなかったが、目には一点の曇りもなかった。
「ハル――本当にあなたは、この日から5年間、毎日ここで朝からこうして、トレーニングしてたんだよね……」
結衣にとっては、この日からしばらく、初春の印象は、自分の団地の部屋で目覚め、カーテンを開けた時に窓から見えるこの姿だった。
これを続けたことで、5年後には見違えるほど強くなった初春だが、その5年間にどんなものを初春が見てきたのか、結衣は知らない。
「ここから――ハル様が人間を傷つけるための苦しみが、更に深くなります」
隣で結衣の手を握りながら、同じく初春の記憶を漂う音々が言った。
音々は結衣の方を見て、心の準備をするように結衣に目で訴える。
「……」
結衣にはまだ信じられなかった。
あの流砂の罠で、人間を酷い目に遭わせたということもそうだが。
初春が人間を傷つけているところを、私はまだ見たことがない。
これまで散々、初春が人から苛め抜かれ、傷つけられ、苦しめられる様に何度も目を背けそうになったが。
結衣が一番気になっているのは、この先だ。
結衣は口を真一文字に結んで、覚悟を入れ替えた。




