人間は、優しくないから嫌いだ(6)
教師の後をついて、職員室に行く初春は考えていた。
自分のこのボロボロの姿を見て、この教師は何故保健室に連れて行こうとしないのか。
その理由を、拙い頭で考えていた。
放課後の職員室では、他の教師達が自分の机で事務作業に追われており。
傷だらけの初春を皆一瞥したが、すぐに目を背けた。
「……」
呼びつけた担任教師は気怠そうに自分の机に座り、初春を見た。
「まったく――事をややこしくしてくれたよ」
初春を見て、教師は言った。
「?」
まだ当時の初春には、意味が分かりかねた。
「最初に聞くが、お前、本当にカンニングをしていたんじゃないよな?」
「ぼ、僕はそんなこと」
初春は必死に声を出した。
さっきクラスメイトに言われた時と同じだった。
自分の濡れ衣を証明しようと躍起になったが、それを信じさせる術を知らずに必死になった。
「――まあいい。何か不正をしたとしても、やればできるんだな。お前にはそういうズルをする才能もないと思っていたよ」
「……」
その賛辞が、直哉や結衣がくれるものとは明らかに異質であることは、この時の初春にも分かった。
無礼極まりない発言だが、この当時の教師は初春の頭の出来を完全に甘く見ていたし、初春が連日猛勉強をしていたことも気に留めていなかった。
初春も、その意味を上手く心に消化は出来なかったが、子供心に、もっと褒めてもらえると思った初春を落胆させる賛辞であった。
「それで? お前がテストでいい点を取って、皆の反応は変わったか?」
「……」
周りの反応については、テスト勉強をしていた時、当初よりはどうでもいいものと感じていたが。
――先程の級友からの仕打ちや、濡れ衣を着せられたことは、初春を失望させたのは確かだ。
その気持ちを上手く言葉にできずにいたが。
その思いが、初春も気付かないうちに、怒りに変わっていた。
「――今までのままでよかったんだ」
教師はそう言った。
「下手に周りの人間と張り合うから、そんな目に遭うんだ。これからお前が勉強をしたって、もっと酷い目に遭うだけだ」
「……」
この言葉を、幼い初春もすんなり受け入れられていることに気づいていた。
だがそれは、その言葉が真実かどうかとか、そんなことではない――
「僕はただ――僕のせいでナオくんやユイちゃんが悪く思われるのが嫌だっただけです」
初春は、痣のできた顔で、震えそうな声を出しながらも、そう強く言った。
その声に、事務作業をしていた周りの教師が振り向くような声だった。
初春は悪い意味で、学校の有名人だった。口ごたえなどしないことを他の教師も知っていた。
だからこそ、意外だったのだ。
「せ、先生も――僕のことでもう、二人を悪く言うのは……」
「は? いつ俺があの二人を悪くなんて言った?」
教師は迷惑そうな顔をして言った。
「俺は教師だぞ。生徒のことを悪く言うはずがないじゃないか」
職員室で他の教師の耳もある手前、初春にこんなことを言われるのは、教師にとって面白いはずがなく。
初春に対して敵意をむき出しにし始めた。
「で、でも僕と一緒にいるせいで、あの二人もとか……」
その当時の拙い語彙で、必死に自分の思いを訴える初春だったが。
「――ちっ」
教師は舌打ちをしながら、初春を見る。
「あのなぁ、お前が何をしたって、お前は二人の足手まといでしかないんだよ」
教師は声を荒げる。明らかに初春を委縮させる目的を孕んだ声だった。
「――そんなことは、知ってますよ」
初春は大人の怒りを買ったのを感じて、びくびくと震えだしていた。
「でも――僕が足手まといだろうと、僕のことで二人のことを……」
消え入りそうな声で、何とか震えた声を絞り出す初春だったが。
「ったく――」
教師はその初春の、必死の訴えを聞いていなかった。
そして、言ったのだ。
「まったく、小笠原も日下部も、こいつに変なことを刷り込みやがって……二人にとっちゃ、内申稼ぎのつもりなのかも知れんが、もうほっときゃいいのに。自分の将来を少しは考えろよ……」
「……」
それは教師が初春の対応に辟易して漏らした、ちょっとした愚痴に過ぎなかったが。
この言葉を聞いて、初春の中で何かがちぎれるような音が、脳裏に響いた。
そして、そのちぎれたものとは別の何かが、自分の中でつながったような気がした。
自分のことは何を言われても構わなかったが、二人への侮蔑を撤回しない目の前の人間に、心底腹が立った。
怒りによって、何かがつながった瞬間、初春が感じたものは。
目の前が真っ赤になるような、人間への敵意だった。
「ああああああああああっ!」
次の瞬間、初春は目の前の教師に詰め寄って、握り拳を中年教師の団子鼻に叩き込んでいた。
「くっ」
勿論小学生の、それも、現在でも非力な初春のパンチである。拳の痛みよりも、状況の整理が追い付かずに息を漏らした。
「ああああああああああっ!」
初春は喉が潰れるような叫び声を上げ、二発目の拳を教師の頬に叩き込んだが。
3発目の拳を握り締めたと同時に、初春の小さな体は、立ち上がった他の教師によって、体を押さえつけられた。
「何をやっているんだ!」
「あああああああああああっ!」
初春は幼い怒りを爆発させ、叫び続ける。
「き、貴様あっ!」
まさか初春に殴られるなんてことになるとは思わず、公衆の面前で恥をかかされたと、殴られた教師もいきり立つ。
「せ、先生、落ち着いて!」
同僚に体を止められそうになったが。
男性教師はそれを振り払い、職員に羽交い絞めにされた初春に、全力の平手を見舞った。
初春の首の筋が伸び切るようなその平手を食らい、初春の叫びは止まる。
「な、なんてことを」
「どうせこいつの親は、抗議にも来ないんだ。元々こんなにやられてるし、構いやしねぇよ」
殴られた男性教師は、開き直ったような笑みを浮かべて言った。
「離せえっ! 二人のことを悪く言ったら、許さないからなっ!」
初春は職員室のガラスが震えるような声を上げた。
遅れて、生まれて初めて人を殴った、拳の痛みが感じられてくる……
目の前の教師を見ても、全然自分の拳が効いていないことを理解した。
――殴り足りない。
そう思うと、怒りがとめどなく溢れてきた。
怒りと共に、悔し涙も溢れてくる……
目の前の教師は何か怒鳴っているが、もうそんなことは初春の耳には聞こえていないし。
何を言っていても、どうでもよいと思えた。
ここで初春は、全てを理解した。
自分と目の前の人間達が、違う生き物であるということを。
そして――その生き物達の言うことや行動の原因や理由を。
自分が理解する必要がないということを。
結局羽交い絞めにされながらも、暴れ続けた初春を教師は見かね、外に放り出すと鍵をかけて、もう初春に取り次ぐことを放棄した。
拳を入れた教師からは、あれから数発殴られた気がするが、もう初春にとってはどうでもよかった。
そのまま走って誰も待つ者がいない、共同団地の自分の部屋に戻り。
直哉から借りていた本を広げ、目当てのページを開いた。
そこに書かれていた言葉は。
「水は、方円の器に随う――」
帰り道、ずっとその言葉が、頭の中をぐるぐると回っていた。
ずっと気になっていた言葉だったが。
――その言葉の意味が、今の初春にははっきりと分かる。
「ふ、ふふふふふ……」
叫び過ぎてもう声も枯れ果てたような声で、初春は笑った。
過去最大級にボコボコにされたというのに、初春の脳はこれまでのテスト勉強で、解けなかった問題が解けた時とは比べ物にならない程、爽やかな気分を味わっていた。
「よく考えたら――俺、人間が嫌いだな……」
その答えに辿り着いた時、初春の中でずっと封じ込めていた疑問が、まるで連鎖反応のように氷解していく。
そのたった一つの事実に辿り着いた瞬間に、自分の感じていた違和感の全てに辻褄が合ってしまう。
人間は、優しくない。
そして自分はそんな人間を、本当は心の底から嫌いだということを。
「はははははは……」
まるで世界の理に触れたかのような気分だった。
その理に触れると、この言葉の意味がとてもよく分かる……
俺が皆から愛されないことを、今までは自分が馬鹿でのろまで――皆の迷惑になっているからだと思っていたが。
別に俺が足を引っ張らなくても、俺を排除するのなら……
「――はぁ」
急に気分が楽になるのだった。
水は方円の器に随う――
――俺はいつの間にか、人間という水を受け止める器になろうとしていた。
その状況に疑問を感じながらも、受け入れてもらうために、あいつらという水を受け止めようとした。
その水を受け止められなければ、それは器である自分の狭量さが問題だと。
――だが。
俺に人間を受け止める理由はない。
人間は、俺に幸せに生きるための提案など、何一つしてくれない。
俺が傷つき、虐げられ、果ては死ぬことを望むような連中ばかりだ。
そんな生き物を俺がわざわざ器になって受け止めてやろうなんて、改めて考えたら虫唾が走るような話だ。
「……」
その日初春は、一晩中寝ることも忘れて考えた。
人間が嫌いだという真実に辿り着いた今、自分が今までのように人間と生きる道は、もう選べない。
だとしたら、俺はどう生きる?
何をすればいい?
「今でも覚えてるな――ハル、この次の日には学校に来なかったんだよね」
初春の記憶に漂う結衣が言った。
「学校は、ハルが先生を殴ったって噂でもちきりで――どんなに辛いことがあっても学校を休まなかったハルが初めて学校を休んで。あの時はびっくりしたなぁ」
これはきっと、結衣の人生で一番驚いた出来事だったと思う。
初春が高校進学を諦め、東京を出ることを白崎から聞いた時も驚いたが、その比ではなかった。
「次の日、ナオと一緒に学年中を走り回って、話を聞いたっけな……みんなハルにそんなことをする度胸があるかって、デマだって言ってたけど」
ただ、二人にとって重要なのは、事実よりもその過程だった。
ここ数週間、初春がテスト勉強を必死でやっているのも知っていた。その結果が出た日の出来事だ。
何が起きたのかも大体想像がついていた。
だが、それに答える者はいない。
この学校で誰一人、初春の未来に興味のある人間はいないからだ。
――直哉と結衣は、最終的に初春のクラスの担任教師にも話を聞きに行ったが。
教師の顔には、跡に残るような傷一つなかったが、あんな劣等生に殴られ、職員室で面目を潰された怒りはまだ収まっていないらしく、苦々しそうな顔をしていた。
「小笠原、日下部、もうあんな奴と関わるんじゃないぞ。お前達はあんな奴のことを気にせずに、勉強に励めばいいんだからな」
――また初春の記憶の背景が切り替わる。
背景は、夜の初春達の住んでいる共同団地に切り替わる。
結衣の家のインターホンを鳴らす初春がいた。
「はーい」
結衣の母親が玄関の扉を、人当たりのいい声で開けるが。
そこに立っていたのが、まだ顔の痣の消えていない、ボロボロの初春であったことを見て、その表情も曇った。
「こんばんは――ユイちゃんいますか?」
「えっと――何の用?」
初春を快く思っていない結衣の母親は、苦い顔をしたが。
「ハル?」
玄関で初春の声を聞いた結衣は、今日学校を休んだ初春を心配していたのもあって、すぐに飛んできた。
「ハ……」
心配したことを伝えようかと結衣は駆け寄ろうとしたが。
足が止まった。
「……」
目の前にいる初春は、顔を痣だらけにしていたものの。
目には底知れぬ程の深い怒りと、凛とした強い意志で自分の顔をじっと見据えているのに気が付いた。
こんな強い目を、今まで初春がしたことがない――まるで怖いくらいの目に、結衣は気圧されたのだった。
だが。
「ユイちゃん」
そう言った初春の声は、とても優しかった。
「どうしたの? ハル、こんな時間に」
「ユイちゃん――今日は、お別れを言いに来たんだ」
「え?」
「……」
記憶の中の結衣は、真一文字に口をつぐんで、幼い自分を見ていた。
「ど、どうして? 何かあったの?」
「――どうやら俺の存在ってのは、今二人にとっては迷惑なものみたいだ。俺と一緒にいると、二人は俺のせいで、人間から馬鹿にされることになる」
「俺って……」
口調さえ変わってしまった初春の違和感に、幼い結衣も気付いた。
二人の間で聞いている結衣の母親は、その初春の言葉に安堵した表情をしていた。
「でも、ユイちゃんは俺の恩人だ。いつも何もできない俺を励まして、面倒を見て、優しくしてくれた――その恩は絶対に返さなくちゃいけない」
「……」
「俺、これから数年、本気で修行するよ。二人と一緒には歩けないかもしれないけれど――いつか二人が困った時に、少しでも二人の力になれるくらいには強くなれるように修行する。もし俺が強くなったら、絶対に今まで受けた恩を、何に変えても絶対返すよ。それまではユイちゃんには近付かない――俺のせいでユイちゃんが馬鹿にされたりしないようにする」
「そんな――別に私は」
「いや、駄目だ」
初春はかぶりを振った。
「これから俺は、人間と戦うんだから」
きっと結衣の目を見据えて初春は言った。
「俺はこれから、今以上に人間に疎まれると思う――それにユイちゃんを巻き込めない。だから――さよならだ、ユイちゃん」
「ハル!」
呼び止めようとする結衣の前に、母親が立ちふさがる。
「あなた、もううちの子に近づかないで。あなたみたいな子に関わったら、うちの子がどんな目に遭うか……」
そう言って、初春を追い出し、玄関の戸を閉めようとする。
「ハル!」
閉まるドアに向かって結衣が叫ぶ。
「必ず! 必ずいつかユイちゃんの力になる! 俺、強くなるよ!」
ドアが閉まる。
「絶対、いつかユイちゃんが困った時に、力になるから!」
閉まったドア越しに、そんな声が聞こえた。
「……」
幼い自分を見ながら、結衣は考えていた。
「結衣様は、これからしばらく、ハル様と関わっていなかったんですよね」
音々が訊いた。
「うん――この時はショックだったな――本当にハルのこと、弟みたいに思ってたし」
だから私は、本当はハルがこの間にどんな思いをして生きていたのか、よく知らないんだ。
私とハルの道がまた交わったのは、これから3年も後だったから――
――初春はその足で、直哉の住む団地の一室も訪ねていた。
「ハル――心配したぞ。お前が学校で先生を殴ったって」
直哉もその初春の変わり果てた眼光に、背筋の冷たさを覚える程だったが。
直哉も先程の結衣と同じく、初春に別れを言い渡された。
「ハル……」
「その餞別と言ったらおかしいけれど、ナオくんに一つ頼みがあるんだ」
「頼み?」
「もうナオくんが使っていない、古い竹刀を一つ、俺にくれないか?」
「え?」
「俺、今はお金がなくて無理だけど――中学で防具や竹刀を借りられるなら、剣道部に入るよ。それまで我流で修行する。ナオくんが中学の剣道部で、名を上げるのを助けられるように、必死で修行するから」




