人間は、優しくないから嫌いだ(5)
直哉から本を貰い、学ぶことの楽しさを知った初春の生活は変わった。
学校の授業の取り組み方も変わり、休み時間はずっと図書館で借りた本を読み、家では授業の復習を繰り返す。
もうずっとその繰り返し。
もはや他のクラスメイトのことなど、気にも留めないほど、この頃の初春は知識を貪ることに没頭していた。
自分のできなかったことをできるようになる快感に、夢中になって、机に向かいながら、笑みを浮かべる日々が増えた。
それと並行して、体力トレーニングも団地前の広場で毎日欠かさず行った。
テスト前だから、やる気に満ち溢れている初春に、直哉も協力を惜しまず、毎日のように初春の体力トレーニングの後、自分の部屋に呼んで二人で9時を回るまで勉強会をした。
「そうだよ、それが出来れば速さの計算は簡単だろ?」
「そうか……は、じ、き、か……これを書けば僕でもできるよ!」
初春は、速さ、時間、距離の計算方法をマスターして、目をキラキラと輝かせた。
「しかしハル、このテスト期間で相当できなかったことをものにしたな」
直哉も自分の勉強を中断させて、大きく伸びをした。
「ナオくんのおかげだよ。こうして毎日、僕に勉強を教えてくれてさ」
初春の心は、直哉と、自分を応援してくれた結衣への感謝の気持ちでいっぱいだった。
「はは、しかしこのペースでハルが色んなことができるようになったら、きっとみんなハルのことを見直すぞ」
不意に直哉が言った。
「そうかな……」
「クラスが違うから、あまりハルのクラスの連中には口を出せないが――これからはハルをいじめる奴がいたら、俺が助けてやるから。きっとこれからハルのことをみんな見直して、友達になってくれるって」
初春が自分達とは別のクラスで、クラスメイトにいじめられ、教師にも助けてもらっていないことは、直哉と結衣も気づいていた。
皆の輪に入るために、これだけ努力している初春が不憫で、直哉も結衣も、初春が皆の輪の中に入れるよう、協力を惜しむつもりはなかった。
「……」
しかし、初春は首を傾げ、目を丸くする。
「ん? どうした?」
「うーん、何か変なんだ」
初春は、自分の拙い語彙で精一杯、今の胸のもやもやを表現しようとした。
「何が?」
「何か――今、すごく楽しいんだ。この前ナオくんが言った通り、自分が出来なかったことができるようになるって、すごく楽しい」
初春の目には一点の濁りもなく、キラキラと輝いた目でそう言った。
その目は、小学校に入って、常に周りからいじめられ、びくびくと人から隠れるようにして生きていた初春が、長年していなかった目で。
今が初春が生きている中で、一番楽しいと感じているのだろうことは、直哉にも分かった。
「だから、今はもう、もっともっと、自分のできないことをできるようになりたい。それでいつか、僕もナオくんやユイちゃんを助けられるようになりたい……それ以外のことを、あまり考えられなくて」
最初の頃は、確かにそんな思いが初春の中にもあった。
みんなに認めてもらえれば、自分のことで直哉や結衣が悪く言われることはなくなる……
認めてもらえれば、みんなが僕に、もっと優しくしてくれるかもしれない……
そう考えていたが……
初春の心は、この短期間で少しだけ賢くなったことで。
今まで考えもしなかった、今も考えてもいないことを、初春に示唆し始めていた。
「……」
初春の記憶の中にいる結衣は、初春のその姿に懐かしさを覚える。
ここ数年の初春の印象は、まさにこの時のままだった。
さっきまでクラスメイト達といた時よりも、ずっと楽しそうに机に向かい、時折笑みを浮かべて一人の世界に没頭する。
完全に入り込んでしまっている姿だった。
直哉の部屋から場面は変わり……
今度は昼休みの教室に。
昼休みにほとんどのクラスメイトが校庭に出て遊びに行ってしまったのに、初春は一人、社会の教科書をめくっては、時折頷いていた。
「中国地方は、広島、鳥取、島根……」
頷く内容は稚拙なものだが、今までの初春が知らなかったものばかりだったから、退屈をする暇もなかった。
時には次回のテスト範囲を脱線しても、構わずに知識を貪ってしまうほど、夢中になって教科書を読み込む初春だったが。
不意にそんな無防備の初春の後頭部に、強い衝撃が走り、初春の視界はちかちかと瞬いた。
「あ!」
結衣が声を上げた。
教室の後ろから、クラスメイトが無防備な初春に向けて、ドッジボールを投げつけてきたのだった。
「おいウスノロ、それくらい避けろよ」
普段初春を気に入らなければいじめて楽しんでいるクラスメイト達が、このところ勉強ばかりして、直哉と結衣とも毎日一緒にいることに対し、不快感を抑えることをしなくなっていた。
「う……」
無防備の後頭部にボールを当てられ、初春は眩暈を起こしながら机に突っ伏す。
しかしそんな初春の座っている椅子を、クラスメイトの一人が蹴り飛ばし、初春は教室の床に倒された。
クラスメイトが倒れた初春を数人で囲み、蹴りを入れる。
「ウスノロがいっちょ前に勉強なんかしやがって、目障りなんだよ」
「おまけにナオやユイの周りをウロチョロしやがって。お前はあの二人にとって邪魔だって、まだ分かんねぇのかよ」
それは、記憶の中で見ている結衣も音々も、眼を背けたくなるような光景だったが。
これまでの初春なら、すぐに皆に謝って、びくびくと震えて勉強をやめてしまう場面だった。
だが。
初春は蹴りを入れられ、痛む箇所を抑えつつ、涙を目に浮かべて、震えながらも立ち上がった。
そして。
「邪魔しないでよ!」
そう強い声で言った。
幼少期の初春が声を荒げることなど、結衣ですら一度も記憶がない。
だがその声は、初春の心の叫びだった。
勿論初春は、皆に逆らうのは、体が震えてしまうほど怖かったが。
言わずにはいられなかった。
「何だ? 俺達に逆らうのかよ!」
その声に激高したクラスメイトは、容赦なく初春の顔面を殴った。
鼻血を出して、初春は吹っ飛んだ。
「わぁー、いいの決まったねぇ」
クラスメイト達は、初春の体を案じることもなく、あまりに見事に決まった顔面への一撃、そして見事に吹き飛んだ初春の姿に、むしろ腹を抱えて笑うのだった。
「う……」
初春は鼻を抑えながら立ち上がり。
そして、思った。
――僕は何をやっているんだ、と。
今、ドッジボールをぶつけられてから、ここまでの1分程度の時間が、自分にとって無駄な時間であることが認識できた。
この時の初春の、まだ発展途上の思考では、自分の気付いたことがはっきりと言葉にはならなかったが。
「……」
もうこの頃の初春は、気付き始めていた。
こうして自分の周りの人間に苦しめられる時間が、自分にとって、ただただ無駄な時間だったということに。
その後もこうしたクラスメイト達の妨害も入りつつも、初春はテスト前日まで、それこそ朝から晩までトレーニングと勉強を並行し。
そのまま学期末テストを終えた。
そして迎えた、テスト返却の日……
「はあぁぁ?」
初春のクラスでは、初春以外の生徒が不満の声を上げた。
教師も含めた全員が初春の最下位を疑わなかったのに。
全科目、発表されたクラス最下位に初春の名はなく。
初春は全科目80点オーバー、全科目クラスの平均点以上の点数を叩き出していたのだから。
「……」
勿論、この結果を信じられないのは初春も同じだった。自分の人生で一度も取ったことがない点数に、目を丸くしたが。
3週間の努力の成果を感じる歓喜に、体が震えた。努力が報われる、という経験も、初春の人生で初めての事だった。
「ハル……良かったね」
その表情を見て、記憶の中を漂う結衣も、思わずもらい泣きしてしまいそうになったが。
「早くナオくんとユイちゃんにも、見てほしいなぁ……」
幼い初春がそう漏らしたのが結衣にも聞こえて、尚更結衣の心は、自分の事のような嬉しさに包まれる。
だけど……
不意に結衣の心に、この後起きたことの記憶が浮かび上がる。
記憶の場面は次へと移り――
次の場面では。
「ガハッ!」
教室でいきなり、初春が血反吐を吐かされていた。
「はあ、はあ……」
「おら、さっさと吐けよ!」
クラスメイトの一人が、初春の腹に蹴りを入れた。
「あんたがカンニングをしたことは、既にわかってんのよ」
「俺達に恥をかかせようとして、カンニングで最下位を免れたんだ」
「じゃなかったら、お前みたいなバカがこんな点数、取れるわけねぇんだ!」
「そんな……」
音々もその光景に目を背けた。
このテストの結果で、学校にいる人間は初春を認めるどころか。
真っ先に、初春の不正を疑い、強制的に自白させようとしたのである。
初めて初春に恥をかかされた、テスト最下位を取った人間の怒りはすさまじく。
恥を注ぐために、初春をボコボコにしなければ気は収まらず。
テストでいい点を取って、満面の笑みを浮かべる初春を、調子に乗っていると解釈する人間も多かった。
一人が初春に詰め寄ると、あとからクラスメイトも次々と初春を吊し上げることに参加した。
「う……」
それは今までの初春が受けたリンチの中でも、特に酷いものだった。
このまま自分が不正をしたことを認めなければ、ずっとこの痛みが続くのか……
――そんなことを初春が考えたが。
「……」
謝ってしまう前に、その痛みが初春にはっきりと認識させたことがあった。
『あぁ――こいつら、僕が何をやっても、認めるつもりなんてないんだ』
その思いは、現在の初春の声となって、結衣と音々の脳にはっきり響いた。
『こいつらにとって僕は、ただ常に自分の下にいて、気に入らないときに殴れる存在であれば、それでいい……最初から僕と仲良くなってくれる人間なんていなかったし、誰も僕の幸せなんか、考えていなかったんだ……』
「……」
脳で初春の声を聞いた、記憶の中の二人は顔を青ざめる。
この時、ただあまりに純粋に、皆に優しくしてもらいたかった思いを最初に抱えていた初春が、そのことに気づいてしまった時。
どんな思いに苛まれたのか――想像に余りあったからだ。
そして。
「こら、もう下校時間だぞ! 早く帰れ!」
担任の教師が、教室に入ってきてそう注意した。
「んあ、先生だ!」
「先生、別に俺達何もしてませんよ! 神子柴とちょっとテストのことで話があっただけで……」
「いいから早く帰れ」
担任教師はそう言って、この場のこれ以上の追及はしない姿勢を見せた。
「へへ、じゃあ先生、さよなら」
もうクラスメイト達も当然のような顔で、教室を出ていく。
「ゲホッ、ゲホッ……」
初春は体も青痣だらけ、反吐を吐かされて顔色も真っ青だったが。
「神子柴、ちょっと職員室まで来い」
担任教師はそう口にした。
「……」
しかし、そう言われた時に、初春は初めて思ったのだった。
何故この人は、僕がこんな状態になっているのに、大丈夫か? とは言わないのだろう……




