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人間は、優しくないから嫌いだ(4)

 職員室から出て、ひとり家路に向かう幼い初春は。

「やあハル。また今日も特訓するか?」

 団地の広場の前で、直哉が竹刀を振りながら待っていたのだった。

「……」

 初春は直哉の顔を見ながら、さっきの教師の言葉を思い出していた。

「どうしたんだ? ハル」

「ナオくん――どうしてナオくんは、僕なんかと仲良くしてくれるの?」

「は?」

 直哉は目を丸くする。

「だって――僕なんて頭も悪いし、足はクラスで一番遅いし――ユイちゃんやナオくんにできることなんて、何も……」

「ははは、別にそんなことできなくたっていいじゃん」

 直哉は笑った。

「俺はハルが、本当はすごい奴だって、知ってるからさ」

「え?」

「朝顔の世話だって、野良猫の世話だって――あれだけ出来る奴はいない。お前以上に優しい奴を、俺は知らないよ。そんなお前と一緒にいると、とても安らぐんだ。お前が俺に嘘をつかないことが分かるからな」

「……」

「それに、逆上がりだって――ハルは最後まで投げ出さないだろ? 出来るまで必死に特訓して、いつかはものにする――それが他人より遅くても、絶対にな。それは誰でも出来ることじゃない」

「……」

「お前にはいいところが沢山ある――だから自信を持てって」

「……」

 そんな直哉の言葉を聞くと、初春の胸に勇気が湧いてくる。

 幼いながらに、心が張り裂けそうなことを平気で述べる奴はいくらでもいたが。

 直哉と結衣――この二人はいつだって、自分に勇気を。

 生きる希望をくれた。

 二人がいたから、自分はこれだけ皆から虐げられても、生きることが出来た。

「やっぱり、駄目だ……」

 幼い初春はかぶりを振る。

「ナオくん、僕、もっと頑張るよ」

「は?」

「頑張って――いつか僕がナオくんが本当に素晴らしい人だって伝えられるように――もっと頑張るよ」

「何かよく分からないけど――ありがとな、ハル」

 幼い直哉は、苦笑いを浮かべながら初春に首を傾げて見せた。



 翌日の小学校の朝礼で、担任教師は教壇の上で言った。

「3週間後に、学期末のテストを行うからな。しっかり準備をしておけよ」

 教室に、えー、と落胆の声が響く。

「クラスで最下位の奴は発表するからな。しっかり準備をしておけよ」

 担任教師は無神経なことにそう続ける。

「ははは、最下位ならはじめから決まってるじゃん」

 落胆した教室の空気が一気に緩む。

 こうして名指しで出来ない人間を見せることで、他の生徒が自信をつけるやり方。

 それが、初春の両親が教育に口を出さないことが露呈すると、教師達も当然のように、この手法を使い出していた。

 初春を庇って他の児童や保護者を刺激するよりも、ずっと効率的で、問題が起こらないやり方なのだった。

「……」

 そう言われて、クラス中の軽蔑の視線が、クラスの端、一番前の席の幼い初春に向くが。

「……」

 この時の初春は、もうそんな視線など視野の外。

 決意を新たにしていた。

 このテストで絶対に、少しでもいい点を取って。

 そうすればナオくんもユイちゃんも、僕のことでみんなから悪く言われることはない。

 そして僕を信じてくれる二人のためにも。

 ちゃんと成長した姿を見せてあげたい、と。

「ハル――さっきまでと少し……」

 その様子は、光景を眺めている高校生の結衣にも分かった。

 そして、思う。

 今ではよく見るハルのこの顔――その当時は急にハルが大人になってしまったように見えたっけな。



 その発表以降、初春の生活は少し変わった。

 元々初春は真面目な性格で、正答率はともかく宿題などを忘れたことはなかったが。

 授業中も教師の授業を一言一句逃さないように真剣に。

 そして休み時間には算数のドリルを一問でも多く解いた。

 勿論、初春はこの時、自分がみんなと同じことが出来るようになれば、みんなも自分と遊んでくれるようになるかも、という思いもあったが。

 それ以上に、直哉と結衣が自分のせいで陰口を叩かれているという状況が耐え難かった。

 だから……

 昼休みに、算数ドリルと格闘している初春のところに、クラスメイトがやって来ては。

「おうバカ、今日の放課後の掃除当番、お前ひとりでやっておけよな」

 そんなことを言いに来てはいたけれど。

「ああ、ごめん。テスト勉強したいから、代わってあげられないんだ」

 ここで断ると、みんなからもっと嫌われると思ったり、暴力を振るわれると思って従順だった初春は、クラスメイトのことが初めて後回しになった。

「ふざけろよ」

 その言葉を聞いてクラスメイトは激昂し、初春の机を、初春の腹に抉り込ませるような勢いで蹴り飛ばした。

 初春は椅子と机ごと体が吹き飛び、転げ落ちた。

「バカが口答えすんじゃねぇよ。テメエの意見なんて聞いてないって言ってるだろ」

 クラスメイト達は威圧的な態度を初春に見せる。

 これで幾度となく、平和主義者の初春に言うことを聞かせてきたやり方だった。

「大体、バカがいくらやっても無駄なんだよ」

 そう言って、ひとりが初春の解いていた算数ドリルを手に取って、二つに引き裂いた。

「あ!」

 思わず結衣の声が漏れる。

 元々その算数ドリルも、クラスメイトの嫌がらせでボロボロ、中も落書きだらけという代物だった。

 それでも初春は、大切に使っていたのに。

「……」

 幼い初春は、二つに引き裂かれた参考書を拾い上げて。

「本当に僕、今は勉強したいから」

 そう無理にひきつった笑みを浮かべて、倒された机と椅子を拾い上げた。


 放課後は近くの図書館に毎日通い、職員さんが、小学生はもう帰りなさいと言われる時間が迫るまで勉強をした。

 日もすっかり暮れた頃に、団地前の広場で初春を待ってる直哉と結衣がいた。

「どうしたんだ? ハル。こんな遅い時間まで」

「何か、学校であったの?」

 直哉は、昨日の初春の様子がおかしかったことで、初春の身を案じていたのだった。

 自分の周りも、初春を快く思っていないことは知っていて、初春も思い詰めていたようで。

 今日はずっと、初春をここで待っていた。直哉からその話を聞いていた結衣も、同じく心配で待っていたのである。

「ううん――ちょっと図書館に行ってたんだ」

「図書館?」

「うん――学期末のテスト、頑張ってみようと思って。勉強してたんだ」

「そうだったの……」

 直哉と結衣がほっと胸を撫で下ろす。

「でも、テスト勉強か――ねえ、これから3人で、勉強しない? うちでさ」

 直哉が言った。

「いいわね。ハルもおいでよ。分からないところ、教えてあげるよ」

「ほんと? 実は今日、どうしても分からない問題があったんだ」

 そう言う幼い初春の目は、知識の泉のような深さと、二人に対しての信頼を一片残らず湛えた澄んだ目で、直哉と結衣が本当の弟のように初春を信頼できる理由だった。

「ああ。何でも聞けよ」


 直哉の家に上がり込むと、直哉はすぐに二人を部屋に通した。

「ナオくん、もうすぐご飯が」

 もうすぐ夜の7時を回る。直哉の母が息子の部屋に入ってそれを確認するが。

「まあ、ユイちゃんが来ていたの?」

「おばさん、こんにちは」

 結衣はそう言って頭を下げ、初春も頭を下げたが。

「お母さん、ちょっとこれから3人で勉強するから、ご飯は少し置いておいてくれないかな。それと、何かお菓子があると嬉しいんだけど」

「そう……ちょっと見てみるわね」

 その息子の声を聞いて、直哉の母は初春の姿に冷たい視線を投げながら、扉を閉める。

「さて、ハル。どこが分からなかったんだ?」

「うん、ここなんだけど」

 そう言って初春は二人の前に、算数のドリルを取り出すが。

「ハル、これは……」

 落書きだらけで、力任せに破られたドリルを、セロテープでつなぎ合わせたのを見て、二人は絶句した。

 初春はものを大切にすることを知っている二人は、どう考えても初春ひとりでこんな状態にしないことを知っている。

「気にしないで、まだ使えるからさ」

 幼い初春はそう答えた。

 少し前なら、二人にそんなものを見せて心配をかけることを恥じたり、気遣ったりして黙っていただろうが。

 今の初春にとって、自分のそんな状況は些末なことだった。

 その答えを聞いて、直哉と結衣も、ようやく初春が今の、周りから疎まれる現状の打破に必死になり始めたことを悟った。


「――そうか! こうすればよかったのか」

 初春は物覚えが悪かったが、ようやく一日中考えても分からなかった算数の問題を解いた。

 その表情は本当に晴れやかで、初春の脳内はアハ体験による恍惚感が満たした。

「手こずったが、やったな」

 直哉と結衣にとっては、もう1年以上前から楽勝の問題だったが。

 そんな問題を初春は本当に解いて、嬉しそうに笑うのだった。

「ありがとう、ナオくん、ユイちゃん」

「ハルって、本当にいい反応するわね」

 結衣も初春の正直な反応に微笑んだ。

「きっとハルは、こうして知らないことを知る度に、そうして笑っているんでしょうね」

「え?」

「そうだな。ハルはきっとそういうチャンスに恵まれている――これから勉強したら、もっとそういう気分が味わえるぜ」

「本当?」

「ああ、これからもっと勉強が楽しくなると思うぜ」

「へぇ――」

 これまでに、周りの大人達から、ろくに知識も与えられず、なけなしの参考書も酷い有様に変えられていた初春が、初めてこの時、学ぶことの悦びを知った。

「二人は何でも知ってるよね。二人もそれを覚えた時はそうだったの?」

「あぁ、でもそれは単に勉強だけじゃないぜ。本を読んだりした時なんかもな」

「本?」

 初春は首を傾げた。

「あぁ、そうだ」

 直哉は立ち上がって、自分の部屋の本棚から適当な本を取り出した。

「これなんか、ハルも読んでみたらどうだ? 勉強の合間の気晴らしにさ」


 その日から、初春の生活がまた少し変わる。

 学校に行っては勉強、放課後になれば真っ先に教室を出て図書館に行き、帰っては誰も待つ者のいない団地の小さな部屋で勉強――

 時間を見ては直哉と結衣が初春の勉強を見てくれた。

 その合間に初春は直哉から借りた本を読んだ。

 直哉の読む本は、小説などではなく、活字だらけの本で、ビジネスマンが読むような、メンタルセットについて書かれた本だった。

 弱気になることの多い初春にぴったりだと思って、直哉の貸した本だったが。

 言葉の知らない初春は、辞書を引きながら読んだ。

「――そうか。『遣う』で「つかう」って読むのか――ふぁ」

 内容をしっかり理解するのは難しかったが、そうして辞書を引きながらでも本を読み進めるうちに、初春は今まで知らなかった言葉を覚えていった。

 この数週間で、初春は何度となく「そうか!」「分かった!」と、歓喜の声を漏らしたことだろう。

 元々は直哉と結衣の名誉を回復するために取り組んだ勉強だったが。

 おもちゃのひとつも与えられない初春にとって、そんな勉強は娯楽にさえなりえた。

 今まで与えられなかった知識や教養を、初春は直哉と結衣の力を借りて、すごいスピードで貪るように吸収し始めた。

「ん、この言葉――」

 不意に、直哉のくれた本を読むうちに、気になる言葉があった。

 辞書を引きながら、意味と読み方を確認し――

「水は――方円の器に随う……人は、周りの環境や人間によって、良くも悪くもなる、って意味……」

 その言葉に出会った時、まだ初春はその意味を理解できなかったが。

 その言葉の響きが妙に気に入って、頭から離れられなくなった。

 そして――


 初春は学校でこの2週間余り、誰とも話もせずに、勉強と本に没頭した。

 初春をいじめて憂さ晴らしをしたいクラスメイト達のちょっかいはやまなかったが、あまりに初春の没頭ぶりがすさまじく、算数ドリルを解いている初春に話しかけても、耳に入っていない程だった。

「本当に、入り込んじゃうと、ああして誰の言葉も耳に入らなくなっちゃうのよね」

 現在の初春も、思想を捨てることで、常人の数倍の集中力で物事の処理にあたることが出来るが。

 この頃から初春は、無意識のうちにその片鱗を見せつけていた。

 思想、思考をかなぐり捨て、ひとつのことに集中、没頭する執念を。

 そうして勉強に没頭しているうちに、いつの間にか終礼になっており。

「あれ? もうそんな時間になっているのか」

 と、我に返る日が続いた。

 ――そうして図書館に行き、勉強をしては、直哉の貸してくれた本を並行して読んだ。

 そして。

 直哉の本が、とうとう残り1ページになったのだった。

 最後の1ページを読み終えた時。

「やった。僕でもちゃんと読めたんだ」

 活字しかない本を人生で初めて読みきった経験を、初春は噛みしめていた。

 本当に自分の世界が広がったようで。

 次の本をまた読みたいと、心から思うようになった。

 この図書館の中にある無数の本は、一体どんなことが書いてあるのか。

 そんなことが気にならずにはいられない程、初春は本を読む喜びに目覚めていた。

「でも、この本はまだ分からないところもあったからな――もう少しナオくんに頼んで、貸してもらおうかな……」

 そう呟きながら、初春は直哉の本をぱらぱらとめくり直していたが。

 不意に思い立って、初春はひとつのページを開いた。

「水は、方円の器に随う……」

 その言葉を思い出して、もう一度辞書でその言葉の意味を調べてみる。

「……」

 その言葉を調べて、初春はふと思った。

「そう言えば僕――勉強を始めてから――みんなからぶたれたりしなくなったな……」


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