人間は、優しくないから嫌いだ(3)
「く……」
その後の結衣の目の前には、幼い頃の初春の凄惨にいじめられる姿が、ずっと繰り返し現れていた。
「オラオラ! もっと泣いてみろよ!」
「か……あ……あ……」
今の幼い初春は、小学校3年生くらいだろうか。
教室で4人がかりでうつぶせに寝かせた初春の手足を抑えつけられて、抵抗も出来ない状態で、ひとりが初春の首にスリーパーをかけ、背中を反らせる。
締め技の上に、呼吸の気道も確保できていない、非常に危険な締め技だったが、やっている子供達はそれを理解していない。
実行犯の他に、クラスメイトがその様子を囲んで見ている。
初春は必死にもがき、土気色をした顔で、口からよだれを垂らし、充血しながらもすがるような目で、助けて、と懇願するが。
助けはなく、周りの連中も、実行犯を煽り続けるばかり。
そうしているうちに、初春は白目を剥いて失神した。
失神しながら、初春は小便を漏らした。
「は、ハル!」
記憶の中の世界と知りながらも、現在の結衣は触れない初春の、真っ白になった顔に手を伸ばす。
「うわー、きったねぇ……マジでこいつ漏らしやがった」
だがクラスメイトは、そんな初春を見ても、そのみっともない姿を嘲笑して面白がるだけである。
「で、でもまずいんじゃない? さすがに白目剥いてるし……」
傍観者の一人が言った。
しかしそれは初春の身を案じてではない。100%自己保身から出たものだった。
「とりあえず保健室に運べばいいだろ。転んで頭を打ったとか言っとけば」
「そうそう、保健室に運んだ奴がやったとは、誰も思わないしな」
「で、でも、大丈夫かな」
「大丈夫だよ。こいつバカだから、先生にチクることも出来ないって」
「それにこいつの親、家庭訪問も応じないくらい、親にも見捨てられてるって話だぜ。先生達ももう見捨ててるんだよ」
目の前の子供達は、無邪気さ故にどこまでも残酷だった。
当然結衣は、その中のほとんどの顔を見知っている。
「ハルがここまでされていたなんて……」
「御存知なかったんですか?」
隣で手を取る音々が訊いた。
「クラスが違ったから、詳しいことはね……ハルも話してくれなかったし」
もうこの頃になると、教師も同級生も、自分の親でさえ、結衣や直哉が初春に関わることを煙たがった。
クラスは6年間一緒になったことはないし、誕生日会も二人が誘っても、次第に初春は来なくなった。
周りの大人達に、もう近づくなと言われ始めていたからである。
それは直哉と結衣の両親からも、例外ではない。
それでも、二人は初春とは疎遠にはならなかった。
それは……
「ほら、もう少しだぞ!」
剣道着を着た直哉は初春の腰を持つ。
「くっ、うううっ」
初春は団地前の広場にある鉄棒で、必死に逆上がりをするべく、歯を食いしばっていた。
「頑張れ、ハル!」
それを幼い結衣も声援を送る。結衣も道着を着ていた。
「はあ、はあ……」
初春の体は青痣だらけである。
この当時の直哉と結衣は、初春がこうして毎日、自分の苦手を克服するべく、特訓をしているのを知っている。
この青痣も、鉄棒から落ちて転んだりしてできたものだと思っていたが、実はそうではない。
もうこの頃の初春は、サンドバッグ同然の扱いをされていたのである。
「少し休憩しよう――もうちょっとなんだけどな」
直哉はそう言って、初春を結衣の座るベンチの横へ促すと、ベンチの横に置かれた自分の小学生用の竹刀を手に取る。
「カッコいいなぁ、二人とも、ケンドーを始めたんでしょ」
直哉の竹刀を見て、幼い初春はニコニコと笑った。
「……」
あんな目に毎日のように遭い続けても、初春は二人の前では笑顔を浮かべていた。
周りの大人からは、状況が分からないからヘラヘラしていると、尚更初春が馬鹿だという印象を与え続けた初春の笑顔だが。
二人は後にも先にも、この頃の初春以上に心から嬉しそうな笑顔を見たことがない。
「そう――昔のハルは、こうして本当に裏表なく笑うこともあったな……最近はあまりこんな風に笑わないけど」
「本当に、救われていたんですよ。ハル様は」
音々が言った。
「……」
「ハルも剣道をやってみたらどうだ?」
「――お母さんが、やらせてくれないと思う……」
今では考えられない程、怯えたように声が小さくなる初春。
「――それに、僕はだめだよ。相手を叩くなんて、きっと体が震えあがっちゃうよ」
「――ハル、お前も周りからいじめられることも多いみたいだけど、たまには立ち向かわなきゃいけない時もあるんだぞ」
それは直哉の、状況改善のための提案だったが。
「ケンカは嫌いなんだ――誰かを傷つけるのは、嫌いなんだ」
「……」
当時の初春は、極端に人が傷つくことを嫌がった。
それは人だけでなく、動物も――野の花を摘むことさえ嫌がった。
だからいつも、いじめられても抵抗もしなかった。
自分が逆らうと、母親や同級生がもっと荒れることを骨の髄まで擦り込まれていたから、自ら存在感を消すことを自ら言われずとも行っていた。
「でも、僕もナオくんやユイちゃんみたいに、何でも出来たらなぁ……そうすれば、もっとみんなと遊べるようになるのに」
「……」
この頃の初春は、周回遅れながらも努力を続けていたのは、あくまでも他の人間への歩み寄りのためで。
無意識に周りからの優しさを求めていた。
それがいじらしくて、事情を知る直哉と結衣はことあるごとに初春と一緒にいては、弟のように可愛がっていたが。
「ナオくん!」
背後から女性の声がした。
「お母さん」
直哉の母親だった。
「こんなところにいたの? もう夕食が出来るわよ」
「あぁ――もうちょっとしたら」
「そうだ! 新しい本を買って来たの! ちょっと見てみて」
そう言って、直哉の母は、強引に直哉の手を取って、団地の方に引っ張っていってしまった。
「ユイちゃんも、早くおうちに入った方がいいわよ」
そうして結衣にも声をかけるが。
初春の名を呼ぶことはない。
その母親の目には、初春のことが映っていないかのようだった。
その光景を最後、また周りは白い光に包まれる……
初春の背が少し高くなったが。
団地への帰り道を一人で歩いている初春のランドセルは、もう傷だらけである。
今日も泥水の中に落とされて、元々よれた服が醜く汚れ、初春の髪も、水道で流しはしたが、砂利が残っている。
半袖、半ズボンから覗く体は痩せこけていた。
見るも無残――中世の童話に出てくる貧しい子供のように、汚らしかった。
帰り道の大人達も、初春を振り向いては、避けるようにして道を空ける。
「……」
これだけあからさまに、いじめを受け、家庭にも問題があることが明らかでも、もう初春に支援をしてくれる人がいない。
もう初春の母親が、教育に口を出さないことが分かっているし。
初春も口答えをしない。
初春ひとりがいじめられていても、それでむしろ周りが円滑に進み、問題が顕在化しない。
初春の現状を止めない方が、周りにとって都合がいいという図式が完全に出来上がったのである。
初春は口をつぐんでいたが、歩きながら涙を流す。
声を殺して泣く。
もう初春も、自分が騒ぐと周りの不興を買うことを学んだからだ。
もうこの頃の初春は、直哉と結衣以外の場所では存在を殺すように徹底していた。
だが……
――団地の敷地内に入ると、初春は自分の家へと向かうが。
「ちょっと待ちなさい」
そんな初春に、強い口調で声をかける者がいた。
「お、お母さん?」
結衣がぎょっとして、背筋が伸びた。
結衣の母親だったのである。
初春は目を見開いて、怯えたような目で結衣の母親を見た。
怒られることが分かって、ぎゅっと体を硬直させて身構えたのである。
「あなた、もう結衣に近づくのはやめてくれる?」
「お母さん!」
聞こえてもいない母親に、高校生の結衣は叫ぶ。
「結衣も直哉くんも、今が大事な時期なの。それが、あなたみたいな子と一緒にいて、二人がどう思われてるか、考えてよ」
その母親の口調は、本当に初春を汚物同然に見ているという感情を隠そうともしていないことが分かった。
恐らく、男と遊び歩いている初春の母親のことも、目撃して知っているのだろう。
「もう、あの子達の邪魔をしないでくれる?」
そう言い捨てて、足早に立ち去ってしまう。
「お母さん――なんてことを……」
そう結衣が漏らした瞬間、また場面が切り替わる……
「ぶはっ! はあ、はあ……」
昼休みの学校の和式トイレに、初春はクラスメイトに四肢を抑えられ、顔を断続的に水の中へと押し込まれる。
吐き気を堪えて、呼吸もままならない初春は、バサロスタートのように体をじたばたさせていた。
「ったく、こんなしょうもない奴と、ナオと日下部さんもよく付き合うよな」
みっともない初春を見て、クラスメイトは嘲笑交じりに言った。
まるで自分達の行為がもう日常――初春に対して何の良心の痛みもない。
そんな素振りで。
「そろそろ分かれよクズ! お前に二人が優しいのは、お前がどうしようもない、駄目な奴だからだよ」
この頃になると、初春のいじめは単に能力に劣っているから、というだけでなく、直哉や結衣と仲良くする初春への嫉妬へと変貌したものになっていた。
「……」
『――そんなこと、とっくに分かっていたさ』
不意に結衣と音々の頭の中に、現在の初春の声が響き出した。
涙と便器の汚水でぐちゃぐちゃになった幼い初春の顔も、もう言い返すことも出来ないと、ぐったりとしていた。
『俺のことで何か言われるのは耐えられた。だけど……』
その初春の記憶の声の後、目の前の初春をいじめていた級友たちは、口々に言い出すのだった。
「こういう奴を助けて、内申稼ぎしてるんだよ。あの二人は」
「意外と自分の引き立て役として、そばに置こうとしてるんじゃないの?」
「うわ、何それ。あの二人、そんなこと考えてたわけ?」
「こいつもこいつで、才能がないのを僻んで、二人の足を引っ張ってるのを面白がってるんじゃないのか?」
「ははは、何だそりゃ!」
大きくなり、少しは賢しくなった子供達は、初春と付き合う直哉と結衣のことまで、陰口を叩き始めた。
直哉と結衣は基本的に皆から好かれてはいたが、出来過ぎることで少なからず嫉妬を集めることは避けられない。
その嫉妬の矛先は、本人達ではなく、気弱で人気もない初春に向けられ、その憤りの発散の場となっていった。
だが……
「そんなんじゃない……」
息も絶え絶えの幼い初春は、必死に弱々しい声を漏らす。
「あ?」
「ナオくんとユイちゃんは、そんな人じゃ……」
そう言いかけた瞬間。
幼い初春の横腹に、蹴りを入れる同級生。
「ゲボッ!」
「聞いてねぇんだよ、黙ってろよゴミが」
蹴りを入れた一人はそう吐き捨てる。
「……」
その蹴りは遠慮も容赦もないものだったが。
もう体の痛みにも幾分慣れ始めていた初春は、心に感じたこともない痛みに、ただただ歯を食いしばって、出来ることを探した。
自分のせいで、自分に唯一優しくしてくれた直哉と結衣が貶められ、馬鹿にされている。
そのことが自分をどうしようもなく惨めにさせた。
「……」
初春は、もう汚水に汚れた顔に、大粒の涙をぽろぽろとこぼした。
その表情は、結衣も幼い時に一度も見たことがない――
いつもの弱々しい顔でも、周りの仲間に入りたくて、苦しそうなほど必死な顔でもない。
――自分の無力さに怒りを覚えたような、悔しそうな顔で。
そんな時、トイレの扉が開く。
「お前達、もう下校時間だぞ。早く帰れ」
外まで初春をいたぶる嬌声の漏れるトイレを、担任の中年男性がのぞいたのである。
「……」
当然視界には、便器に這いつくばらされた初春のことが入っているのだが、すぐに何の興味もないように他の生徒達に目をやる。
「じゃあね、先生!」
さっきまで初春をいじめていた生徒達も、もう教師が何も言わないことを知っている。
教師の前でも初春を便器に落とすようなことはしないが、娯楽を終えて、すっとした顔を浮かべながら、各々トイレを出て行く。
「はあ、はあ……」
トイレには、担任教師と、ボロ雑巾のようになった初春だけが残される。
「はぁ……」
担任教師は、さも面倒そうに溜息をついた。
「神子柴、ちょっと職員室まで来い」
教師はそう言った。
「……」
その教師の顔を、結衣はしげしげと見る。
「この先生……」
校庭の水道で体を洗い、ずぶ濡れのまま少し体が乾いたら、初春は職員室へと向かった。
初春がいじめを受けていることは、担任だけでなく、職員全員の周知の事実だった。
だが、他の教師も初春が明らかにいじめを受けた直後だというその姿を見ても、何も言う者はいない。
その知能の低さから、初春が知的障害を患っているとさえ考える者さえいたくらいで、完全に初春を侮っていた。
むしろ初春を助けることで、加害者の子供達の親を相手にすることが面倒だということが、職員全体の認識として定着している。
初春は教師公認の校内最下層の人間――ある意味では校内の有名人だった。
そんな初春を受け持った担任教師は、貧乏くじを引いた人間――
いじめを受ける初春より、そんな初春を引き取った人間が同情される有様なのである。
「お前な――そろそろ小笠原と日下部から離れろよ」
担任教師は初春を叱りつけるように、強い口調で言った。
「あいつらと一緒にいるから、他の奴等がお前を目の敵にするんだ。それにお前だって、いつまでもあの二人と一緒に生きられるわけないだろう。お前の成績じゃな」
直接的な言葉を使わないが、お前は馬鹿だから、とあからさまなこと言う教師。
初春の頭では、こうでも言わないと分からないと思っているのである。
「僕は別に……」
もうこの頃には、初春だって表立って直哉と結衣に、人前で近づいたりはしていない。
「分かってるよ、お前がもうあの二人に進んで近づいてないくらい」
教師は初春の不明瞭な言葉を、聞く価値がないと言わんばかりに遮った。
「しかし、あの二人に言っても、お前を放ってはおけないという者だからな。お前のことを弟みたいに思っているようだから」
「……」
結衣も心当たりがある。
この頃の結衣も、直哉も、周りの大人達から初春から離れるようにと、何度も言われたものだった。
だけど二人はそれを聞かなかった。
特に初春の団地広場での特訓に良く付き合っている直哉に顕著だったが、初春が皆と打ち解ける、いじらしい努力をしているのを知っていたし。
二人が近づくと、本当に嬉しそうに笑う初春を、本当の弟に用に思う程、情が移っていたからである。
「まったく、あの二人が言うことを聞いてくれれば簡単なんだがな――言うことを聞かないなら、お前が離れるしかないだろう。あの二人も、何を意固地になってるんだか。あの二人もお前のせいで、何も分からなくなっているのかね」
教師は苦々しくそう吐き捨てたが。
そこに直哉と結衣、二人への不満がぽろりと漏れた。
「二人は、そんなんじゃ……」
「あ?」
口を挟もうとした初春を、教師の威圧的な返事が遮ってしまう。
「……」
当時の初春の頭でも分かった。
自分のことで、直哉と結衣が他の人間から悪く思われていると。
それは自分が仲間外れにされたり、痛い思いをさせられたりするのとはまた違う……
初春の心に、格段に堪える仕打ちだった。
初春にとっても直哉は、自分をことあるごとに助けてくれる正義のヒーロー、英雄であり。
結衣はこんな自分に、初めて女性の優しさとぬくもりをくれた、マリア様に等しかった。
自分の信じる英雄や、マリア様を貶められることの意味や責任が、いやがおうにも自分の心に重くのしかかったのである。
「――それは、出来ません」
初春はたどたどしくそう言った。
「は?」
「で、でも――僕がナオくんやユイちゃんと一緒にいても、大丈夫なように、頑張ります――だ、だから二人のことを、悪く言わないでください……」
「ハル……」
結衣はこの言葉を聞いて、この先切り替わる場面で何が起きるかは分かった。
この教師が数日後に、初春に殴られることは、結衣も知っているからだった。




