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人間は、優しくないから嫌いだ(2)

 周回遅れ――

 当時の初春を端的に表す言葉がこれだった。

 初春が他の同世代より優れていることと言えば、ひとりでトイレに行けることだけで、他のことは完全に同世代の子供よりも劣っていた。

 着替えで自分の服のボタンをつけることも出来ない。工作でハサミも使えない。鉛筆も持てない。

 そもそも言葉を話せないし、読むことも出来ないので、意思疎通もほとんどできなかった。


 ――結衣の目の前に見る景色が、幼稚園の庭に変わる。

「また私をバカにして!」

「しょうがないだろ、手加減したってユイは怒るじゃないか」

 運動会の練習で、幼い自分がかけっこで直哉に負けて、直哉に突っかかっている。

「……」

 この当時の自分は、基本直哉とは仲が良かったが。

 生来の負けず嫌いが災いして、幼稚園では年少組の頃から、年長クラスにも常勝無敗の直哉に負けては、悔しくていつも食って掛かっていた。

 幼稚園に入ると、年少組で直哉と組が分かれ、イベントがあるごとに二人は競い合った。

「だけど、この頃ハルは……」

 結衣は庭ではなく、校舎の方に目をやる。

 その視線の先には、みんな庭で運動会の練習をしているのに、組の中でひとり、教室で先生と二人きりで机に座る、幼い初春がいた。

「そうだった……ハルは……」

 この当時の初春は、もう運動会の参加以前の問題だった。

 かけっこ、とか、玉入れ、とか、そういった指示を出しても、指示自体が分からない。

 参加させたら初春ひとりのために、全体の運営が止まりかねない――そんな有様だった。

 だから昼休みも、全員参加のイベントも初春は不参加――ああして読み書きと、喋ることが出来るようになる訓練を、個別で行われていた。

「どうしてハツハルくんはうんどうかいに出ないんだろ」

「いいんじゃないの? あいつがでたらうちのくみがまけちゃうよ」

 普段から一緒に遊ぶこともしなければ、団体行事では足を引っ張ってばかりの初春は、この頃から同世代の子供との溝が出来始めていた。

 この当時はそれでいじめられるようなこともなかったが、大抵の同世代からは「どうでもいい奴」以上の何物でもなかった。

 結衣も幼稚園で初春と話したことはなかった。

 初春と初めて話したのは……

「う……」

 また、景色が切り替わる……


 戻ってきたのは、結衣達の住む団地の前の広場――

 初春が中学時代、毎日竹刀を振り続けた場所だった。

 幼稚園の帰り道に、家の近くの公園で日が暮れるまで遊んでいた直哉と結衣は、夕焼け空の中、自分達の家に二人で帰ろうとしていた。

「あ……」

 そんな二人は、団地の前の広場でひとり座り込む、小さな人影を見つける。

「ハツハルくんだ」

 結衣がそう言った。

「あぁ――何か噂だよな。ユイのクラスで」

 入園式での異様な雰囲気もあるが、隣の組の直哉にも耳に入る程、初春の異質さは悪い意味で有名になっていた。

 初春の横には、園児の体とほぼ変わらないようなサイズの猫が2匹いて、初春を囲んでいる。

「あ、あれ、いじめられてるんじゃないの?」

 普段の初春を知っている結衣は、そんな初春が大きな動物に囲まれているのを見て心配になるが。

「よく見ろよ、そんなんじゃなさそうだぜ」

 直哉の声で我に返る。

 見ると初春の前で2匹の猫は、その体をこすりつけて、構ってほしそうに初春に甘えているのだった。

 片方の猫に至っては、初春の紅葉のような手で顎の下を撫でていた手を、両腕でがっちりホールドしている程で、2匹とも完全にリラックスした状態で目を細めているのだった。

「すげぇな……」

「わぁ……」

 結衣も猫は大好きである。初春の方へと駆け寄って、自分も猫を撫でさせてもらおうと思った。

 しかし。

 園児のその無邪気な足音を聞いて、リラックスモードだった猫達はぴくりと反応し、ばっと後ずさってしまう。

 その姿を見て、結衣も途端足を止める。

「アー……」

 初春が、残念そうな声を漏らした。

「ご、ごめんなさい」

 幼い結衣が初春に謝る。その後ろに直哉もついてくる。

「……」

 最初は初春も、きょとんと眼を丸くして二人の方を見ていたが。

「へへへ……」

 しばらくすると、まるで顔がとろけるような笑顔を見せるのだった。

 その笑顔――無防備で、無邪気……邪念という邪念が一切消えたようなその笑顔は、猫を逃がしてしまった結衣の申し訳ない心を解きほぐすような優しさに溢れていた。

「ま、まってて」

 そう言って、たどたどしい声で初春は言うと。

 両手をぱっと開いて、遠くに後ずさりしてしまった猫に向かって視線を合わせた。

「……」

 はじめは猫も後ろの二人に警戒していたが。

 やがて安心だと悟ると、再び初春の許に寄って、初春に体を摺り寄せ始めた。

「だいじょうぶだよ、もう……」

 再びたどたどしい声で初春は二人に言った。

「すごいな、こんなに猫が懐くなんて」

 直哉も相伴に預かるように猫を撫でると、初春に笑顔を見せる。

 幼い結衣も猫に手を伸ばして、フサフサの毛を撫でてやると、結衣にも警戒心を解いた猫が結衣にも体を擦り付けるのだった。

「……」

 昔から初春は、動物にはよく懐かれた。

 邪気がなく、生まれたばかりの赤ん坊のような心でありながら、好奇心で相手を傷つける無邪気な残虐性が元々ない。

 母親にも日常的に暴力を振るわれていた初春にとって、生き物を傷つけることがどれだけ相手を恐れさせるか、初春は潜在的に知っていたからだ。

 今思うと、初春はもう最初から、自分が人間よりも、別の生き物に近いという感覚で生きていたのかもしれない。

 言葉での意思疎通が出来ないことで、厄介者のように扱われる人間のコミュニティよりも、警戒されなければ友達になれる動物といる方が、初春は居心地がよさそうだった。

 もうこの頃から、潜在的には初春の人間離れは始まっていたのかもしれない。

「ハツハルくん――いつもここで遊んでるの?」

 幼い結衣が猫を撫でながら訊く。

「――う、うん」

 言葉がたどたどしいこともあるが、最初の初春は人間との接し方に、びくびくしているような様子が明らかだった。

「みんなとは遊ばないのか?」

 直哉も訊いた。

「――せんせいが、まだはやいって……」

 体力もなく、言葉もまだ十分に話せない初春は、幼稚園の教師からしたら、下手ないじめが起きたり、トラブルが起きる元である。

 隔離して、余計な衝突がない方がよいと判断されたのだろう。

 でも、この時の結衣と直哉は思っていた。

 噂で変な子だと言われていたけれど、初春の雰囲気は面白い。

 そしてさっきの猫を呼ぶ時に見せた笑顔――

 あの無邪気さがたまらなくよかった。

 きょうだいのいない二人にとって、弟が出来たような――そんな感覚だった。

「じゃあこれからは、私達と一緒に遊ぼうよ」

「俺達、この団地に住んでるんだ、いつでも遊びにおいでよ」

 二人がそう言うと。

「ほんと……?」

 今までびくびくしていたような初春の顔がぱっと明るくなる。

「うん、いっしょに遊ぼうよ!」

「……」



 それから結衣と直哉は、幼稚園が終わると初春とたまに遊ぶようになり。

 幼稚園で同じ組だった結衣は、なるべく他の子供達と初春の接点を作るように動くようになった。

「おゆうぎ会の準備、ハルくんも一緒にやろうよ」

「う、うん、ユイちゃん」

 初春は本当に素直――

 悪く言えば従順過ぎるほどだった。

 何も指示がないと、外の世界の何かに気を取られてふらふらしてしまうことが多かったけれど。

 役割があれば、その仕事からぶれることはなかった。

「いい、この輪飾りをとにかくできるだけ作ってね」

 結衣も直哉も、段々と初春の操縦法が分かりかけていた。

 そう指示を出すと、初春は2時間でも3時間でも、黙々とその作業に没頭した。

 意外に手先は起用で、それは反復によって磨かれる。

 こういった裏方の単純作業など、全体の中の一部であれば、初春はしっかりと集団の中でも貢献することが出来た。

 だけど……


「やっぱりハツハルがいたらつまんないよ」

「かくれんぼもおにごっこも、ハツハルがおにになったらだれもつかまらないじゃん」

「ゲームももってないし、あそんでもつまんないよ」

 結衣と直哉が積極的に初春を誘っても、他の皆は初春と遊ぶことを嫌がった。

 幼稚園の庭で、初春を皆の遊びの場に誘うと、皆が初春を煙たがる。

「そんなこと言わないで、ハルと一緒に遊べることで遊ぼうよ」

「いいよぉ、ナオくんとユイちゃんだけであそぼうよ」

「そいつにできることって、なにもないじゃん」

「……」

 困った顔をする直哉と結衣の横で。

 初春は何も分からないように、目を丸くして立っているだけだった。


 幼い直哉と結衣は、二人で団地までの帰り道を歩いていた。

「ハルの奴、先に帰っちゃったな」

「ショックだったのかな……みんなと遊べなくて」

 自己主張は弱いが、自分達の後ろをひよこのようについてくる素直な初春は、もう二人にとっては弟のような存在になっていた。

 だからこそ、皆に初春の良いところを知ってもらおうと、親身になって接していたが。

「ん?」

 団地の前の広場で、直哉は首を傾げて立ち止まる。

 結衣もそれに気付いて立ち止まると。

 そこには、その小さな手足を必死にバタバタと動かしながら、何度も走る練習をする初春の姿があった。

「ハル? 何してるの?」

 二人は初春の方へ駆け寄り、声をかけた。

「はあ、はあ……ナオくん、ユイちゃん」

 子供らしい、鬼灯のように頬をふくふくと紅潮させた初春は、歩いているような遅さの走りでも、息を堰切らせていた。

「走る訓練か」

 直哉はその意図を見抜いた。

「確かに走れるようになれば、もっとみんなと遊べるようになるよな」

「……」

 その言葉に、まだ言葉の覚束ない初春は、言葉を咀嚼するが。

「みんなと……もっとみんなと……あそびたい……ナオくん……ユイちゃん……とも……」

「……」

 その裏表のない初春の行動を、幼い結衣はどうしようもなく、いじらしく思えた。

「ハル、じゃあこれから」

 そう結衣が言いかけた時。

「分かった、じゃあこれから俺が走り方を教えてあげるよ」

 直哉が割り込む形で、初春に言うのだった。

「いいか、まず腕はこうやって振って……」



 直哉の身振り手振りで教えたフォームで、初春は団地前の広場を一人走る。

 それを直哉と結衣は、広場のベンチで見ていた。

「ナオ――どうしてさっき、ハルと遊んであげずに、こんなことをしてあげたの?」

 不意に結衣が訊く。

「ん? どうしてかな……」

 幼い直哉も首を傾げたが。

「だって――自分の欠点が分かっていて、すぐにそれを乗り越える努力をするんだぜ、ハルって」

「うん――すごいね」

「ああ。少なくともあんな奴、俺達の周りにはいないよ――ハルはもしかしたら、このままいったら将来すごい奴になるのかもしれないな……」


だが――


「オラオラ! さっさと走れ走れ!」

 息を切らせて足が止まった初春に、周りの人間は石を投げる。

「ほらほら、こんな近くまで来ちゃったよ! 捕まえてみろよ!」

 鬼ごっこの鬼になった初春を、周り中で煽り立て、晒しものにしていた。

「……」

 それを見ていた、現在の結衣も、痛ましくて胸を締め付けられる。

 小学校に上がると、初春の能力の低さを忌避していた同級生達は、一気にからかいの対象に初春を引き上げては、こうしていじめて楽しむようになった。

 息を切らせた初春は、投げられた石で体に青痣を作り、涙を流しながら、近くまで来て挑発してくる同級生に向かってタッチを試みるが。

 タッチを避けられた挙句、足をかけられて校庭に倒れるのであった。

「あ!」

 音々も声を上げる。

「ほらほら、さっさと立てよ!」

「鬼ごっこはまだ終わんねぇぞ!」

 周りの連中は、初春が転んで心配する者もいなければ、面白がって笑うばかりであった。

「……」

 この頃の初春は、もう幼いながらも自我や感情の機微の読み取りができるようになっていた。

 転んで作った擦り傷の痛みに耐えることはできるが。

 皆の仲間に入れず、嫌われ、弄られている自分の情けなさ、惨めさに。

 蹲って、声を殺して泣き出すのであった。

「あーあ、つまんねぇの」

「もう行こうぜ。追ってくる根性もねぇよ、あんな奴」

 泣き崩れる初春を、塵芥のように見て、皆は校舎へと帰っていく。

「ハル!」

 自分達の教室の窓から様子を見て、駆け付けた直哉と結衣が初春に駆け寄った。

「大丈夫? ハル?」

 結衣がボロ雑巾のようになった初春を抱き起こす。

「あいつら……」

 もうこの頃には神童、才媛の噂も名高くなった直哉と結衣は、小学校に入ると同じクラスになったが、自身の能力や、家庭的にも問題があると思われる初春とは、別のクラスにされ、初春を守る人間もいなくなった。

 二人は学年中の人気者で、度々初春のことに対し便宜を図っていた。

 皆その場では返事をするのだが、二人の目が少し離れたら、すぐにこうなってしまう。

 初春が毎朝早く来て、水やりと観察を怠らなかった朝顔の鉢を壊されたり、教室で行われる初春へのからかいという名のいじめは、別のクラスの二人には止めることが出来なかった。

 それに……

「だいじょうぶだよ、ユイちゃん」

 初春はボロボロになっても、歯を食いしばって、泥だらけの腕で涙を拭った。

 顔も泥だらけで、それでも二人の前には穏やかに微笑んで見せた。

「だいじょうぶって――大丈夫なわけないじゃない!」

「いいんだ――ぼくがなにもできないのがわるいんだ……だから、だいじょうぶ……」

「……」



 そんなボロボロになった日の夜。

 学童保育に預けられて、直哉や結衣よりも遅く帰ってきた初春は、帰ると団地の広場に行って、一人で黙々と走る練習を一人でしていた。

 それを自分達の団地の部屋から、直哉も結衣もよく見降ろしていた。

「……」

 それを見下ろす現在の結衣は、その走る初春の顔に、涙を堪えきれなくなった。

「ハル――本当に辛そうな顔をして、ああしてみんなの友達になろうとしていたね……」

 この当時の初春は、もう幼稚園から今まで、自分が駄目な人間だということを、周りから骨の髄まで擦り込まれていた。

 嫌われるのも自分が悪い、いじめられるのも自分が悪い。

 周りの皆は正しくて、自分が間違っている……

 そんな思いから、常に周りに申し訳なさそうに、びくびく生きるようにして。

 大人しく、いじめられればすぐに謝って、されるがまま……

 それでもああして、皆に認めてほしくて、連日苦しくても必死に、皆に追いつく努力をしていた。

 一人で泣きながら走っている姿は、まだ6歳程度だというのに、既に現世の償いきれない罪と業を課せられた者のようだった。

 だが、誰に言われるでもなく、初春はそれをやり続けた。

 それは、当時の結衣達でも分かること――

 仮にそれが成就しても、皆は初春と友達になってくれるつもりはない。

 それでも初春は続けた。

 毎日学校で同級生に負け続け、這いつくばっても、それを泣きながら続けた。


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