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人間は、優しくないから嫌いだ(1)

 起憶の香の香りにすっかり微睡んだ結衣は、そのまま初春の眠っているパイプベッドに頭を倒して、眠りについた。

 その結衣の手を握る音々も同じく、その横で目を閉じて意識を失った。

「……」

 比翼はそれを確認すると、眠っている初春の方を見た。

「坊や――言われたとおりにしたけど、いいのかい……あの先生の機転で、全員は連れていけなかったよ……」



 同じ頃。

 雷牙の背に乗せて、鬼灯町の野球チームの面々を、休耕地のど真ん中にまとめて運んだ紫龍は、煙管をふかしながら、眠っている連中を観察していた。

 紫龍は雷牙に劣らぬ巨体である大人の火車を呼んで、連中を運ぶのを手伝ってもらっていたが。

「じゃあ、やはり最初からおぬしも瘴気を感じていなかったのじゃな」

「ええ。神子柴殿からは瘴気は出ていませんでしたよ」

「どういうことですか――あの紫龍殿の結界で、瘴気は払われたのではなく、初めから小僧には瘴気がなかったと」

 普通の人間は、暴力をはじめ、悪事を働く際に瘴気を自らの心が生み出し、瘴気に中てられると人に道を踏み外させ、魔が差す。

 この鬼灯町の野球チームの面々も、初春に対する憎しみをたぎらせ、それが瘴気を生み、魔が差した。結果、初春に報復を考えた。

 だが、初春の暴力はこの連中とは違う――瘴気が起きずに行われたのだ。

「最近のあの小僧は変じゃ。この町に来た頃は、ちょっと人間に対して怒りを覚えるだけで、強いアヤカシを呼ぶ程に瘴気が濃かったのじゃが……ここ二月ほど、あいつからは瘴気が消えている……」

「ええ。それも瘴気が微弱になったのではなく、全く出ていない……完全に瘴気が消えている――ですがそれは人間にとってはありえないこと。誰しもが皆心に瘴気を持つ者なのに、神子柴殿は全くそれがなくなっている」

「もし――そんなことができる人間がいるとしたら……」

「……」

 ――紫龍は思案しながら、先程の御伽の言葉を思い出していた。

 奴は『少女』の正体と言っていたが……

 もしかしたら、あの娘達の中に、誰か……



「う……」

 結衣が目を開けると、隣には音々がおり、自分の顔を見て安堵の表情を浮かべていた。

「あ、あれ?」

 しかし結衣と音々の体は宙に浮いており、隣にいる音々の体も、自分の目で見える自分の手も、半透明であった。

「ここはハル様の記憶の中です……私達はその記憶に干渉できないんです。これからはハル様の思い出の中をしばらく漂うしかありません」

 昨日この術を使った音々がそう説明した。

 しかし運動神経がいい結衣は、この無重力状態の体の動かし方をすぐにマスターする。

 周りを見ると、そこは日向臭い香りが満ちた狭い六畳間で、薄いカーテンが外からの日光を部屋に通していて、電気が点いていなくても明るい。

「ここは――私達の育った団地だわ」

 結衣は空気の中を泳ぎながら、薄いカーテンの方へ向かう。

 半透明の結衣の体はカーテンには触れないが、カーテンをすり抜けて窓の外に顔を出すことができる。

 そこには見慣れた団地からの景色が広がっていた。

「じゃあ、あそこにいるのは……」

 部屋の真ん中には、柵の高いベビーベッドがあり、そこにぴくりとも動かずに横たわる赤ん坊の姿があった。

「あれが、ハル……」

 近づいて確認しようとしたが、その前に、二人の鼻が悪臭に気付く。

 赤ん坊は紙おむつをしていたが、既に排尿、脱糞しているのだった。

 それでも赤ん坊は虚ろな目で天井を見つめて、ぐったりとしていた。

「どういうこと――普通おしめを変えてほしくて、泣いたりするんじゃ……」

 そう結衣が首を傾げた時。

『俺は――幼稚園に上がるまで、ほぼこの部屋から出たことがなかったんだ……』

 自分の脳裏に、初春の声が小さく響いた。

「ハル?」

「本人の思念が言葉になっているんですよ」

「……」

 結衣は記憶を遡る。

「そう言えば――私、ハルが幼稚園に入る前のこと――何も知らない」

 不意に疑問が胸をよぎる。

「変だよね――団地の前には公園とかもあって――同じ団地にいたなら、絶対どこかで会っていたはずなのに」

 直哉と会ったのは、その時だったのは覚えている。

 昔から利発で活発で、いつも公園に来た子と、ほとんど会ったこともないような子とも仲良くなって、走り回っていた。

 私はその頃、いつも直哉と遊んでいた。

 直哉は活発なだけでなく、本も読んでいて、ひらがなだって2歳にはほとんど読み書きができるようになっていた。

 私はそんな直哉から色々なことを教わったけれど、時々勝気な性格が顔を出して、たまに喧嘩になって、互いの両親を困らせていた。

 でも――この頃の初春の記憶がない……

 すると。

 ガシャアン、という、何かが割れるような音が隣の部屋から聞こえた。

 その音の方を確かめようと、隣の部屋とをつなぐドアを見たが。

 ドアの前には椅子が大量の女性雑誌を乗せて置かれている。

 ベランダに出る窓は、その前に大きなに光が置かれていて、赤ん坊が万一ベッドの柵を乗り越えても、自分ではドアも窓も開けられないようになっていた。

 結衣はそれを見て、ドアの向こうに顔を出すと。

「何でよ! 子供がいるのに、何で家庭をないがしろにするのよ」

「うるせぇなぁ――どうせ結婚する前から、俺のこと好きじゃなかったんだろ」

 ヒステリックに叫ぶ、やつれた若い女性と、冷淡に、疲れたような表情をして、諦めたように首を振る体格のいい男がいた。

「お前――俺ばっかり非難してるけどさ、お前が出会い系をやって、男と何度も遊んでるのも知ってるんだぜ」

「誰のせいよ! 私だってもう一人じゃどうにもできないのよ! もう限界なの……」

「……」

 話し合いは互いの感情のぶつけ合いで進展する気配もなく、ただただ互いの罵倒が続くばかりだった。

『母親は、俺を妊娠したことでその相手と結婚をしたが、妊娠中に父親は不倫をし、夫婦関係はその時点で崩壊していた』

 この状況で、落ち着いた初春のモノローグが聞こえた。

『俺が生まれても、父親はほぼ子育てに関与しようとしなかった――母親は、夜泣きはするし、おむつを変えたりすることも満足にできなくて――育児疲れなのかな。俺が生まれて1年もした頃には、もうおかしくなりかけていた』

「まあいい、俺は来月から長野で新しい工事の現場に行くから。どっちにしてもしばらくこの家には帰るつもりはない――養育費は入れてやるから、それで初春を何とか育てろよ」

 そう言って、父親は話の途中で席を立ち、団地を出て行くのだった。

「ちょっと待ってよ。どこ行くのよ! 少しは初春を見ててよ!」

「見てなくても、お前、初春を放って男と遊んでんだろ。同じだって」

 捨て台詞と共にドアを閉め出て行く父親。

 その姿は、実の息子である初春に対して全く関心を持っていないということが明らかだった。

「……」

 その時点で結衣は嫌な予感がした。

「ふえぇ……」

 その瞬間に、結衣達の部屋にいる初春が、ようやく力なくうめき声をあげた。

 おむつの中が気持ち悪いだけでなく、空腹や乾きが耐え難かったのである。

 しかし。

 その初春の声を聞いた瞬間、夫の身勝手に怒りの向け場がなかった母親は、テーブルをバンと叩いて立ち上がり、重しを置いた椅子で塞がれたドアを蹴破るように足で強く蹴って開けた。

 結衣は思わずのけぞる。椅子は置いてあった雑誌ごと倒れる。

「五月蠅いっ!」

 ヒステリックに叫ぶと、母親は初春の服を掴んで、尻を平手で思い切り叩いたのだった。

「っ!」

 思わず結衣は目を背ける。

 初春はその一撃を受け、気を失ったように静かになる。

「はあ、はあ……」

 母親の呼吸は荒く、頬が上気していた。

「頼むから――もうこれ以上、私を困らせないでよ……」

 母親は泣きながらそう呟くと、夢遊病者のような覚束ない足取りでリビングに帰り、またテーブルに突っ伏して、肩を震わせながら泣いた。

 母親の目には深い隈が出来ており、満足な睡眠が取れていないようだった。

『俺はこの家で、母親に犬同然の教育をされた――』

 初春の冷静な声。

『吠え癖のある犬をしつけるように、母親は俺の鳴き声を聞くのを嫌がり、俺が吠えないようにこうして矯正した――水分はベッドに置かれた哺乳瓶で適当に飲むようにしつけられ、歩けるようになったらトイレの仕方を真っ先に教えられた――俺がこの家で家族から教わったのは、それだけだったんだ』

 父親も母親も、既に離婚を視野に入れているということもあり、裁判でどちらが自分の言い分を通せるか、という視点で行動するしたたかさがあった。

 父親は初春に関心はないが、養育費を払い続けはしたし。

 母親も、死なせない程度に初春の面倒を見た、という言い分のために、目立つ場所を叩くようなことは絶対にしなかった。

 それでも赤子のしつけと言うにはやりすぎな力で叩いているし、何より夏場でも部屋に赤ん坊ひとりを放置することも珍しくなかった。

 初春がこの頃に命を落としたり、重大な後遺症が残ったりなどしなかったのは、単に幸運としか言いようがなかったが。

 この当時の初春の世界は、これが全てだったのである。

「……」

 結衣が言葉を失いかけたその時。

 見慣れた団地の景色が、光に溶けるように失われていき、結衣の体は光の中に放り出された。

「次のハル様の思い出へ飛ぶんです。結衣様――私の手を」

 音々は結衣の手を取った。



 次の景色は桜の木が薄紅色の花弁をつけて、首を垂れる枝が道にせり出すような、幼稚園の門の前。

「本当に直哉くんはしっかりした子で……」

「直哉くんも、将来は、サクライ・ケースケくんのようになるんでしょうねぇ」

 紺色の丸い帽子をかぶった子供達が、母親に手を引かれながら幼稚園の門をくぐっていく。

「あ、あれは私だ……」

 直哉の横で、にこにこと笑いながら母親に手を引かれ、ビデオカメラを持つ父親のレンズに捉えられた見目麗しい少女。

 それは結衣がまだ4歳だった頃の姿だった。

「――そう、私はもうこの頃には、いつもナオと一緒にいた……」

 この当時、日本中に彗星の如く現れた天才少年がいた。

 サクライ・ケースケ――瞬く間にその名が日本中に轟いた、当時18歳の高校生は、日本中の子供を持つ母親の憧れであり。

 直哉もその駿才ぶりと美貌から、幼稚園に通う前から、サクライ・ケースケのようになるのでは、と近所で噂される、ちょっとした有名人だった。

 結衣はいつもそんな直哉に勝負を挑んでは負け――

 いつも喧嘩もしたが、同じ団地に住んでいることもあり、いつも一緒に遊んだ。

「でも――この日、初めてハルに会うんだ……」

 ――そんな考えに至った頃。

 べちゃっ、という音が結衣の耳に届く。

 おろしたての綺麗な幼稚園の制服を着た小柄で痩せ細った子供が、直哉や結衣、そして他の仲のいい母親グループの横で転んだのだった。

 その少年の横には、周りの子供と違って大人がついていない。

 そして少年は、転んで泣き喚くこともせずに、ひとりでむくりと起き上がる。

 周りの喧騒の中、大人達は自分の子供に夢中で誰も気にも留めなかったが、こんな小さな子供が、転んで膝小僧を擦り剝かせても、声も上げない光景は、結衣の目には十分異常だった。

「あ」

 その光景に目が行き届いた直哉が、転んだ少年に駆け寄った。

「大丈夫?」

 直哉は手を貸して、少年を起き上がらせようとした。既に公園デビューして、こうして転んだ子の介抱も行える程である。直哉は4歳児とは思えない成長が早かった。

「ナオくん?」

 まだ幼稚園児の結衣も、そんな直哉についていく。

「……」

 直哉は既に、転んで泣き叫ばない自分と同世代の少年を初めて見たことに、違和感と一種の不気味さを感じていたが。

 転んだ少年は、立ち上がるときょろきょろと辺りを見回して。

「アー」

 そんな声にもならない声を出し、直哉と結衣の目を覗き込み。

「ウー」

 そうしてしばらくすると、手を貸した直哉に礼も言わずに、きょろきょろと辺りを覚束ない視線でうろつきだしてしまうのだった。

「あら? あなた、お母さんはどうしたの?」

 門の前にいた幼稚園の先生が、ひとりで門の前をうろつくその少年を見て、声をかけた。

 胸についた大きな桜のバッジに『みこしばはつはる』と書いてあることで、先生は名簿を見る。

「今日入園するのね。このリボンをつけてね」

 先生はそう言って、入園者に安全ピンで胸にリボンをつける。

「お母さんは一緒にいるの?」

 そう先生は訊いたが。

「アー」

 少年はそんな声にもならない声を漏らすだけ。

「ハル……」

 そう、幼稚園で出会ったばかりのハルは、しばらくあんな感じ。

 ほとんど意思疎通ができない程、言葉を話せなかった。

 痩せ細っていて、体も弱かったが、転んでも声を上げなかった。

 声という手段で、自己を主張することをほとんどしなかった。

 そして、いつも周りをきょろきょろしていた。

「……」

 さっきの団地での一幕で分かった。

 初春と私達が出会うこの日まで、初春はほぼ母親と会話をしていない。

 部屋の外どころか、ベッドの柵の外にさえ、ほとんど出ていない……

 だから喋ることもできないし、外の世界の物珍しさに、赤ん坊同然に興味を示していた。

「ナオ、ユイちゃん、大丈夫?」

 後ろから直哉と結衣の母親達が心配そうに駆け寄る。

 その表情には、揃って嫌悪感がにじみ出ていた。

 さっきの初春の挙動を見て、直哉以上に違和感を覚えたのだろう。

 そして大人は察した。

 あの子は、将来が有望な直哉や結衣が関わってはいけない家の子だと。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 更新ありがとうございます。 [気になる点] 完全なネグレクトの家庭で育ってしまったハルくん。成長に与える影響も心配ですが、以前エッセイスト椎名誠氏の「岳物語」という回顧録のような小説を読…
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