いつか神様に取り上げられちゃうんじゃないか
時は少し遡り――
結衣達がケースケ達のところへ、初春のフォローをしてくれたお礼に行った時のこと。
「ハルは――ハルにその心を感じることはありませんでしたか……」
「彼か――彼はね……」
ケースケは口元に手を当てて、言葉を選んだ。
「――僕は彼みたいな奴、好きだけどね――力はまだまだだけど、彼はこれからもっと強くなる。物事の本質を見定める目と、本当に守るべきもののために命を懸ける覚悟、そして優しさがある。彼が大人になったら、あの心の先がどこに行きつくのかな……彼はこれから次第で、ショートの子よりも化けるかもしれないな」
「じゃ、じゃあどうか、ハルくんに何かお力添えをしていただけないでしょうか」
夏帆が言った。
「あの子――高校にも行けなくて、両親もいなくて――このままだと彼は」
「そうしたいのは山々だけどね――でも僕がそれをやったら、多分彼はその場から逃げ出して、いつかまた今の生活に戻ってしまうだろう」
ケースケはかぶりを振った。
「僕が見た限り――彼は人間から与えられた生存権や自由の中で安らぎを感じられないタイプの人間だと思うからね」
「どういう意味ですか?」
結衣が訊く。
「うーん、どう説明すればいいかなぁ」
ケースケは座ったまま、唇に指を当てて、少し首を傾げた。恐らくまだ16歳の幼気な少女のために、言葉を選んでいるのだと結衣は思案する。
「そうだなぁ、例えばね、仮に君達が誰か好きな男が出来たとするだろ?」
「……」
それを聞いた瞬間、シオリとジュンイチは目を閉じた。
「それでその男に、弁当なんかを差し入れたりしたとするだろ? 肉じゃがとか出汁巻き卵とか、一般的に男が弱いとされる、煮物なんか入れたりして」
「……」
「君達の同世代の男子なんかが、君達みたいな娘からそんな弁当を受け取ったら、そりゃもう豚と呼ばれようが涙流して食うさ。後ろのおじさんなんかまさにそういうタイプだった」
「おい! 言い方!」
ジュンイチはすっかり小慣れたツッコミをケースケに入れた。
「でも――彼はきっと女の子から肉じゃがなんかを何の下準備もなしに受け取ったら、どういうつもりなのかって警戒を強めて、箸をつけないタイプだ。何を企んでいるんだって相手の思惑が分かるまで、絶対に手を出さない」
「あぁ――それは確かに……」
夏帆がしみじみ頷く。
「変な施しはかえって警戒を強めるだけ――それに、彼にとってその提案は魅力がない――現状僕が提案しても乗らないだろう。彼はもう、自分がこの先どうやって生きていけばいいかなんて考えていない……夢も希望もない――その状態で他人の強要される未来を生きる気がないだろうな」
「……」
高校進学を初春に勧めていた夏帆は、その意味を人一倍理解していた。
神庭高校への進学話は、初春のリアクションが非常に薄い。
初春には、自分を虐げる人間に復讐する理由はあっても、その怒りを水に流す理由がない。
初春は自分の幸せを考えて行動しない。
それくらい、自分の幸福ということをあまり考えたことがない。
思想が薄い。
最近夏帆にも分かり出したことであった。
「で、でも――このままじゃ」
それでも初春を救うためには、ケースケの力を借りなければいけない。その思いに焦る雪菜はケースケをつなぎとめようとした。
「そうだな――このままだと彼は道を踏み外す」
ケースケはかぶりを振った。
「彼も分かっていると思うよ。僕が力を貸すと言ったら、それに従った方が賢い生き方な事は。だけど彼は僕の力を借りないだろう。金や外的な力で人の運命を変えるなんて、ある意味奴隷を買うのと同じくらい、実に暴力的なことだからね。彼はそんな誰かの気分次第で自分の運命が左右されるなんて状況を最も嫌うだろう」
「……」
「彼は、自分の運命を握る者に尻尾を振る犬になれない人間だ――犬みたいに尻尾を振って生きるなら、虫けらみたいに惨めに死ぬことを望むだろうね。僕としても、金や力で彼を歯牙ない飼い犬にしてしまうのは惜しいしな――」
「……」
皆押し黙る。
ケースケの指摘が正しいと、結衣達も分かったのだ。
ケースケなら初春を高校に行かせる――もしかしたら東京でまた結衣達との暮らしに戻してやることも出来る。
だが――現状の初春はそれを受け取らない。
受け取る理由が初春にはない――初春は理由もなしに人間を受け入れない。
それをクリアしなければ、いくらケースケの協力をこぎつけても駄目だ。
「どうして――自分のことをそんなに考えないんだろう……」
紅葉が声を漏らした。
「いつもいつも、ああして損な選択ばかりをして……人のことばかりで、自分のことは全然大事にしなくて」
「うーん、それはね――君達にとっては心外な話かも知れないが」
ジュンイチが苦笑いを浮かべながら、皆を見た。
「君達は彼のことを大切な存在と思っているのかもしれないが――彼自身は君達を、友達とは思っていないんだよ」
「え……」
皆の表情が強張る。
「いや、ちょっと語弊があるな――ジュンイチの言いたいことは分かるが」
ケースケがフォローを入れる。
「僕もジュンイチと同意見だ。君達と二日間一緒にいて見えていたことだが、君達と彼は『友達』や『仲間』なんていう関係には全く見えなかった」
「そ、そうでしょうか……」
「ああ。君達と彼の関係は、言ってみれば『主君』と『部下』なんだ」
「部下――ですか?」
「ああ、一言で言えば、対等、公平な関係じゃない――必ず彼の方が下にいて、上にいる君達を立てる関係性だ。彼の行動から見えた君達との関係を構築する思いは、『LOVE』でも『LIKE』でもない――『LOYALTY』――『忠義』なんだ。彼にとって君達は、忠義を尽くす相手であって、好き嫌いで関わる関係じゃない――君達と対等な関係だと、彼が思っていないことは見て分かったよ」
「……」
その評は、確かに初春のことを想う少女達には、酷な話であった。
だが――その意味がすぐに分かる。
初春は『ねんねこ神社』でもあくまで音々を立てている。手柄を音々のものにすることに思案し、自分がこの仕事を回しているといった恩着せがましいことは、一度も音々に言わない。
直哉と結衣と暮らしていた時期も、今日も――二人の引き立て役という立場を崩さず、決して二人と同列に立とうとはしなかった。
紅葉達もそう――初春が一度記憶を消してしまったり、怖い思いをさせた負い目から、自分達の感情を尊重してくれているだけだ。夏帆は元々年上で、高校に行かせようとしているのは、初春にお恵みを与える立場――
対等な関係など存在しようもない。
皆が初春を追っているように見える関係だが、その実は初春が皆の駒として生きている。
この中で誰一人、初春と対等の付き合いをしている人間はいない。
いや、きっと人生で一度も、誰かと対等になったという感覚を掴めたことがないだろう。
そのくらい初春は、人間関係において対等以上の立場での関係を築いたことがない。
「友達とか恋人だったら寄り添うものだが、主君と家臣の関係だとそれがない――彼はあくまで君達の『駒』としてしか動いていない――彼の場合、あのショートの彼の迷いを払って、前に進ませてやることができれば、自分は捨て駒でもいいんだ。あの最後の走塁――自分を『捨て駒』だと認識していなかったら、あの発想はできない」
「……」
「彼はそうして捨て駒になることで、自分の誇りや夢――全部あのショートの彼に託してしまった――あの試合で全部自分が伝えたいことを伝えた――だからあとはもう残すものはない――徒花として散るのみ――もうそう決めちゃってるからな。僕がこれから高校に行ける手筈を整えても、もういいです、って言うだろう……彼は、もう自分の死に場所さえ決めてしまっている」
「……」
沈黙。
「――で? こんな可愛い娘達が頼んでいるのに、知らん顔するの?」
そう口を開いたのは、シオリであった。
「この娘達がこんなに頼み込んでいるのに」
「――て言うかお前、この娘達があの彼をどう思っているか、気付いてないだろ」
ジュンイチが呆れた顔で言った。
「さっきの弁当の例え話を聞いて分かったぜ。この娘達がキャッチャーの子に向けている感情を『LIKE』だと思ってやがるだろ」
「……」
そうはっきり指摘されて、結衣、紅葉、雪菜の顔はぽおっと赤くなる。
「――え? 本当に?」
それを見たケースケはこの町に来て初めて、気色ばんだような表情をした。
「――気にしないでね。この人、色恋に関しては全くダメなの」
シオリが前に割って入ってケースケを隠した。
「でもね――この人なりの叱咤激励と言うか――アドバイスなの。悪く思わないでね」
そう言ってシオリは結衣達に優しく微笑みかける。
「この人もね――両親に暴力を振るわれていたから」
「え……」
夏帆は知っているが、他の三人は知らないことだった。
「本当は誰かを好きになるって、両親とか家族から教わることじゃない? それが愛の基本だし――でもこの人はそれを持っていない。だからそういう機微にも疎いし、愛し方や大切な人への接し方もぎこちなくてね」
「おいおい……幼気な娘にそんな話はヘビーだろ」
ケースケは困ったように笑うが。
夏帆は分かる。
こうしてケースケが穏やかに話せるようになるまでの毎日は地獄で。
それを救ってくれたのは、間違いなくシオリなのだと。
「私もね――何となくわかるんだ。人の優しさを疑ってしまったり、自分には不相応なものだって思えて息苦しかったり――嬉しかったり、幸せだと思えても、どこかでそういう思いを抱えながら人と接することの怖さ――綺麗過ぎるものって、どこか自分に相応しくないって思っちゃう気持ち。この幸せは、いつか神様に取り上げられちゃうんじゃないかって、漠然とした不安……」
「……」
「きっと――彼も言葉には出来ないけれど、そんな思いであなた達を眺めていたんだと思うよ」
まるで天使のように優しい微笑を讃えた、マリア様のようなシオリがそれを言うと、かえってその不遇の日々を超えて、幸せを噛みしめるように微笑んでいるのが分かるのであった。
「だからまずは、友達として――あなた達は、彼と対等な関係なんだよってところから、接してあげられないかな。それはやっぱり、少なくとも彼が人間を避けている中でも一緒にいられる、あなた達じゃないと駄目だと思うの」
「……」
「それが出来たら、私がこの人の首を掴んででも、あなた達の力にならせるから――だから、あなた達の想いで、彼の心を『生きる』ってことに向かわせてあげて……」
「怖いな、それ……」
ケースケは苦笑いを浮かべた。
「折角可愛い娘達が頼みごとをしてるんだから、それを聞いてあげるのが大人の務めでしょう?」
「そう言うなよ――多分これからあのショートの子が彼を戦場から引きずり下ろす気だ――彼に勝つことでな」
「え?」
結衣の心臓がドキリと鳴った。
「さっき僕のところに来た彼の目――あれは彼を戦場から引きずり下ろすために、戦い抜く目だった」
「戦場?」
「あぁ――あのキャッチャーの子は、恐らく小さい頃から自分の身の危険を感じながら生きてきたんだろう。生きることが戦いという人間がいるがね――同じ戦いでも、虐げられる人間と、そうでない人間、虐げる側の人間の戦場の過酷さは一律じゃない――虐げられる側にとっては、本当に生きるか死ぬかの話でしかない」
「……」
「彼に関しては、その戦場の空気にちょっと馴染み過ぎちゃったのかな――多分人を傷つけることもそれなりに抵抗があったのだろうけれど、段々それが鈍くなっていく――そのうちそんな泥沼の戦場の中でもがくことに慣れて、自分が泥の中にいることすら分からずに、そのうちもがくこともやめてしまう」
そう言ってケースケは結衣を見る。
「キャッチャーの子はあの子に無様に負けて、君と彼をハッピーエンドに持っていって、全てに蹴りをつけようとしているみたいだが――多分あの子は勝負にこういう条件を付けるだろう――俺が勝ったら、お前にひとつ言うことを聞いてもらう――いつか必ず東京に帰って、また君を賭けて俺と勝負しろ、ってな」
「ナオが――」
「あのキャッチャーの子の望み通り、負けて本懐を遂げさせるなんてことをしたら全てが終わる――だったら彼が負けにくい条件をつけた上で戦って、戦って、あのキャッチャーの子がもう誰かを傷つける戦いの場に二度と立ちたいと思わなくなる程参ったって言わせるまで戦って、彼を戦場から引きずり下ろす――そうしようって考えているんじゃないかな」
「……」
「僕はそれもいい案だと思ってね――話を聞いてもらうにも、彼が突っぱねる力を持っていたら話し合いにならなさそうだ――根負けするまで彼と戦うってショートの彼の決意は、状況を打開するかもしれない――」
「――サクライさんが、そんなことを」
直哉は驚いた。
「ナオ――あなたはハルとの決闘を受けるつもりだったの?」
「あぁ――俺がハルに勝っちゃったら、ハルの思惑通り――あいつは俺達を見送って終わらせることは分かっていたからな。だったら、簡単にあいつが負けられない条件を出して、それであいつが音を上げるまで、ぶつかり合ってみるつもりだったんだが」
そう言って直哉は、ベッドに横たわる初春を見る。
高熱でぐったりとし、既に意識もない初春は、苦しそうな表情をしながらも小さな寝息も立てずに眠っていた。
「音々さん」
直哉は音々の方を見た。
「俺はもうしばらくこの町、この家に滞在しようと思うんだが――明日からしばらく『ねんねこ神社』の仕事を手伝わせてくれないか?」
「え?」
「俺はハルとの勝負をつけて、いつかまた東京に帰るようにあいつに約束させるつもりだけど――それは多分すぐには難しい――東京に帰るまでは、ハルにこの町での居場所を作ってやりたいから。サクライさん達がハルの誤解を解いてくれたみたいだし、俺の知名度も上がったのだとしたら、今の状況でビラ配りとか宣伝すれば依頼もきっと来るだろう。口コミが広まれば、俺達が東京に帰っても、仕事には困らなくなるはずだ。その手伝いくらいはしたいと思ってね」
「直哉様……」
「ま、ハルに宿代も払わなくちゃいけないからね――」
そうやってにこやかに微笑む直哉は、昨日までの結衣への恋と、初春への敗北感に揺れ動いていた不安定さはない。
目的を見つけ、新たな戦いに挑む男の顔になっていたのだった。
「あ、ありがとうございます」
「いや、礼を言うのは俺の方だ。音々さんがハルに人間と向き合うチャンスをくれたからな。君がいなかったらと思うと、恐ろしい……見た感じハルが一番自然に付き合っているのは、人間じゃない君なのかもな」
直哉は立ち上がり、体を伸ばした。
「音々さん、少しパソコンを借りていいか?」
「は、はい――どうなさるんですか?」
「明日朝一で町中にポスターを貼りに行ったり、ビラを配りに行こう――その準備を俺がしておく――宣伝材料のポスターを作ったりしておこう」
「あ、じゃあ、私も――」
結衣は立ち上がりかけるが。
「いや、いい――お前はハルの側にいてやれ」
直哉はちゃんと結衣の目を覗き込んだまま言った。
「必要なんだろ――お前にはハルが」
「……」
「俺はあいつを、戦いの場から降ろして戦うことをやめさせる――でも、サクライさんやシオリさんの言う通り、あいつの戦いを終わらせたら、あいつを説得しなきゃいけない――それは多分、お前の言葉で言わなきゃ信じてくれないと思うから」
「ナオ――」
「柳さん、秋葉さん、葉月先生――悪い。俺達の都合に巻き込んじまって」
「いえ――サクライさんの協力が得られるのなら、今までより少しだけ希望が出てきましたから……」
「まだ何をしたらいいか分からないけど――私達も神子柴くんに信じてもらうまで、頑張ってみる」
「――ありがとう」
そう言って直哉は戸を閉めて、一階の居間にあるパソコンに向かった。
「随分吹っ切れたようだね、あの男前は。あんたと坊やの仲を認めるくらいにはなったようだ」
比翼が煙管を咥えながら言った。
「で? あんた達はさっき言っていたけれど、坊やが何を思って、これまで自分達に接してきたのか、もっと知りたいって言ってたね……」
「はい――さっきのハルを見て思ったんです。私達は幼馴染で、それなりに友達だと思っていたけれど――ハルにとって私達は対等な関係じゃなかったって」
「神子柴くんが結衣さんを諦めようとしたり――その前も……」
「神子柴くんが東京でどんな思いで二人と過ごしていたのか――何であそこまでのことが出来ちゃうのか――それが分からないと、何も言えない気がして……」
雪菜と紅葉も同じ意見だった。
ケースケ達に言われて気付いたことだが。
初春と自分達は対等ではない。
ことあるごとに初春は、俺とお前達は住む世界が違う、と言っていたが。
それは高校に行っているとか、行っていないとかという意味ではなく……
「それを少しでも知らないと――ハルになんて言えばいいのか分からない気がして……」
それを聞いて、比翼は煙管の煙を吐く。
「じゃあ、こいつを使ったらどうだい」




