ちぇっ――ばれてたのか
「雷牙の奴――女の頼みを聞きすぎだろ……何でこいつらを山に戻すんだよ……」
初春は後頭部を掻いて、紫龍が瞳術で眠らせた野球チームを見る。
「こんなことならこいつら、もうちょい洒落にならないくらいに痛めつけておけばよかったかな……詰めが甘いな」
初春は予定が狂ったことで、ただ逃げただけで自分を襲った連中を罠に落とすやり方を悔やんだ。
結衣に見せたことのない、血みどろの手になった自分を見せるべきだったのかもしれないと。
足元には、紫龍の八卦陣がまだ光を出して、初春の血で荒ぶっているこの山の獣達の気を静めている。
八卦陣は地面に空気を吸収するように、弱い気流を作りながら、山頂の森と、一際大きな桜の木を照らしていた。
「ハル……」
「ああ、いい。別に何も言わないでいい」
初春は結衣の開いた口を遮るように言った。
「ん……」
その様子に首を傾げたのは、音々だった。
「俺はまたしくじったみたいだな……それは理解した……」
がっくりと肩を落とす。
「ハルくん――さっきあなたは、ユイちゃんとの生活を諦めるってことを、本当に辛く感じていたのに――どうしてユイちゃんがあなたを忘れることの辛さを、考えてあげられなかったの?」
夏帆が諭すような口調で言った。
「そんなやり方じゃ――ユイちゃんだって」
「分かっていますよ……」
初春はかぶりを振る。
「でも、もうそんなことを気にする必要もない――どの道俺がユイにしてやれることは、ナオを立ち直らせること――これで最後ですから」
そう言って、初春は結衣の前に歩を進めて、その場で片膝を突いた。
「――姫、どうか私めの力不足をお許しください」
それはまるで、主君に傅く家臣のそれであった。
「できればもっとあなた様のお力になれればよかったのですが――あなた様のお側にいられるのも、ここまででございます――」
「……」
その仕草はとても現代のものとは思えない、気障で大袈裟な振る舞いで。
無骨な初春がすると一層おかしなものに見えるが。
その声の優しさや、目の輝き、傅く姿勢……
その全てが初春の、結衣と直哉に対する二心ない忠誠を語っていた。
本当に初春は、二人のことが好きなのだと、東京での暮らしを知らない紅葉達にも分かった。
「どうか直哉様とこれからも――仲睦まじくお過ごしください。この遠い空で――お祈りさせていただきます」
そう言って初春は深く頭を下げた。
「……」
初春の滅多に見せない従順の姿勢に、皆言葉を失ったが。
「――駄目だよ、ハル」
最初に言葉をかけたのは結衣だった。
「確かに今回のこと――綺麗なやり方ではなかったかもしれない――そこにいる人達をハルが傷つけたのも分かるよ……でも、ふたつの町の諍いを止めて、ナオを立ち直らせるために一生懸命だったハルの心――それが貴いものであったことも分かる……」
「……」
「その心を踏みにじるものがあるなら――私はあなたを守りたい――このままハルを置いて、何もせずに東京に帰ったんじゃ、私――きっと笑えない」
「ユイはまだお前を必要としている――俺もお前との勝負の決着がついたなんて思ってない――俺もユイも、お前をこのまま見殺しにするなんて選択肢は絶対なしだ」
「……」
初春は目を閉じて、肩を落としながらかぶりを振った。
「――堂々巡りだな。全く……俺を助けたところで、もうお前達が疲弊するだけだってのに」
「でも、それをハル様はいつもしてくれました」
音々が言った。
「私を助けたって、ハル様に得なんかないのに……」
「ふーっ……」
初春は息を深く吐いた。
「――俺は何も持ってないからな。金も力も、分け与える財も知識もない――使えるのはこの身と命だけ――それを使って目に見えるものが前に進むなら、この命をいつでもすり切れるまで削り切る――その覚悟はもう、東京で固めたから」
「……」
「だが――お前達がそんなことをする必要はないんだ。俺は雑兵だから――真っ先に俺が犠牲になるのが役目だ。それでお前達が少しでも前に進めば――雑兵はそれで勝ちなんだ。それでいいんだよ、俺は……」
「――やっぱり、サクライさんの言う通りだ……」
結衣は呟いた。
「さっさと俺がいたことなんか忘れるんだな。これも言ったが、お前達と俺は、役割が違う……雑兵の死を惜しむくらいなら、お前達は前に進んでくれ――それが俺の願いだ」
「ハル」
直哉も口を開く。
「お前の心が決まっていても――ユイはまだお前の側にいたがっている――ユイはお前がまだ必要なんだよ。せめてもう少し――時間をユイに与えてやってくれないか。まだ俺との決着もついていないだろう」
足下の結界の光が消え、紫龍の八卦の陣での瘴気の浄化が終了する。
もう周りの血の臭いも消え、鳥達も眠り、獣達の呻きひとつ聞こえない。山が寝静まったように静かになったのは、まだ彼岸を首に下げている翡翠の力で何とか感じられる程度の紅葉達にも感じることができた。
「おぬしの提案はいいが、それはまた次の機会にしろ」
結界を収束させた紫龍が初春と結衣達の間に入る。
「今夜はもうこの山を荒立てたくない――動物達も今夜は大人しく休むだろうからな。女子共もおる。この小僧が女子共をこんな自分に連れ回していると、小僧の悪評が立ちかねない――さっさと山を降りろ」
そう言って、初春の方を見る。
「それに――もう小僧には欠片の力も残ってはいまい」
「え?」
「……」
紫龍の言葉に俯く初春。
「ハル様――術の反動でもう、体が……」
音々はもう気付いていた。
さっきから初春の声に力がなく、流砂を生んだことで術を相当使ったはずの初春の代償も。
結衣と直哉に心配をかけないように、それを必死に隠していることを。
「それだけじゃない、あの野球の試合で限界まで精神を消耗した上に――見えないがこの連中に顔以外にも攻撃を受けておる――声を聞けば分かる――腹に相当貰ったんじゃろう」
「……」
皆初春の顔を見る。
「ちぇっ――ばれてたのか――あいつらを流砂に巻き込むのに、必要以上に自分を餌にしたからな……」
紫龍の言う通り、初春は目に見えるところ以外にも鬼灯町の野球チームの連中から、相当体にダメージを受けていたのである。
「お前等が来たから家に帰りそびれたんだよ……まったく……」
そう憎まれ口を叩きながら、初春はその場に崩れ落ちるように座り込んだ。
「ハル様!」「神子柴くん!」
皆へたり込む初春に駆け寄る。近づくと額には脂汗を浮かべ、初春の息遣いがおかしくなっているのが鮮明にわかった。
「す――すごい熱だ」
直哉が肩を貸そうとして、気付く。
「家に運ぼう!」
「儂は雷牙と一緒に、小僧が痛めつけたこの連中をそこらの公園にでも捨て置いてこよう――火車よ、こいつらを送り届けるのは任せたぞ」
紫龍は眠っている鬼灯町の野球チームの面々を雷牙の背に乗せて、町の方に飛び去って行った。
「俺達も帰ろう……」
直哉が皆にそう言って、初春の体を背負った。
「……」
――軽い。
初春の体は直哉の想像以上に軽かった。
体重はおそらく女性の中でも背が高い部類の紅葉とほとんど変わらないだろう。
こんな体で――俺とあそこまで張り合えるなんて……
本当に、血の滲むような思いで強くなろうとしていた初春の、東京にいた頃からの道程の過酷さを、初春の体重が物語っていた。
初春の家に戻り、初春を部屋のベッドに寝かせる。
貧乏な初春の家には常備薬も体温計もないが、もう初春は意識もおぼつかず、皆に返事もする気力もないほど、ぐったりと目を閉じていた。
熱は皮膚を触っただけでも、40度前後は出ていることは明らかだった。初春の家には氷もないので、濡れタオルを絞って初春の頭に乗せた。
山で紫龍の結界の様子を感じていた比翼や中級神達は、既に初春の家に集まっていたが、初春の様子を見て、比翼は治癒術をかけてくれた。
しかし――
「――駄目だ。熱が下がらないね」
比翼は手から出す神力を止め、首を左右に振った。
「坊やの扱う水と風は、坊やの体力、精神力を削るみたいなんだ。それを使って起こる疲労は、治癒術で回復しない。だから治癒術の効き目が薄いのは分かっていたんだけど、今まで坊やがこんなに熱を出したことはなかったんだけどね」
「……」
「こりゃあ――坊やの精神的な負担がどんどん深くなっているのかもね」
「そんな」
「無理もない――親に捨てられてひとりで見知らぬ町に住んでいるだけでも負担だろうに、坊やはこの町で色んなものを背負い過ぎた。疲れているさ――」
「……」
まだ荒い呼吸のまま、横たわる初春を、音々、直哉、結衣、紅葉、雪菜、夏帆はそれぞれの思いを抱えて見つめていた。
「紫龍殿があんな結界を使ったってことは、坊やがまた人間に絡まれて、坊やがそれを返り討ちにしたんだろう? あんた達の顔を見て、相当恐ろしいことをやったのは、大体分かるよ」
比翼は立ち上がる。
「しかし坊やは、『ねんねこ神社』の仕事をする度にこうして寝込んでいるね――」
「え?」
「火車の息子を捕まえた時も、桜の花を咲かせる依頼も、いじめを止めた時も――いっつも傷だらけだ。この半年で、私も何度坊やに治癒術を使ったことか……」
「――いつもハルはこんなことを?」
結衣が訊いた。
「あぁ――この町に来てから、何度か人間を半殺しにしているよ――それも一人や二人じゃない数をね……」
「……」
「それも、殺すつもりでやったのを、運よく寸前で止まっただけだ。紫龍殿も、もう坊やは人を殺せる境界をとっくに超えていると言っていたよ」
それは実際、今日のあの山での出来事を見た直哉と音々にはわかった。
もう人間に慈悲など欠片も持っていないだろう。
「あんた達が思っている以上に、坊やの業は深いし、手ももう血みどろだ――そんなことは坊やも分かっているさ。だからあんた達の伸ばす手を拒否するんだ。別にあんた達の思いが何も伝わっていないわけじゃない」
そう言って比翼は、苦しそうな息遣いをする初春の髪を撫でた。
「ただ――突き放したくても坊やは詰めが甘いんだ。人間にあれだけのことができるんだ――あんた達を傷つけりゃ済む話――坊やの戦慣れした思考なら、その手だって思いつくのに――それをしないんだ、坊やは。だからどんどん話がややこしくなる……」
「……」
「そんな坊やだから、紫龍殿も私達も見放さないんだ。根は優しい子だよ――理由がなきゃ絶対に人も動物もアヤカシも傷つけられる子じゃない」
「……」
不意に結衣は、初春の部屋に一つあるちゃぶ台の上に置いてある大学ノートに目をやる。
「あ、それ――神子柴くんが図書館で調べ物をする時に持っているノート……」
雪菜も隣に来て、そのノートを開く。
「あ……」
そこには、初春がこの町で繰り返してきた研鑽の全てが書かれていた。
『ねんねこ神社』の設立、宣伝方法、行雲の制御、自分の能力の研究……
全てのページにびっしりと書き込みがなされ、書いては消した跡も無数にある。
「あぁ、それ――昨日、音々と紫龍殿と一緒に、音々の記憶を辿って夜遅くまで、色々やってたからね」
ページの後ろには、鬼灯町との野球大会を想定した研究成果が、びっしりと網羅されていた。
『ファール打ち――1、手首に握力を込めず、コントロールできるギリギリでバットを持つ。勝手にボールの威力に負けて前に飛ばない。主にストレート系に有効。2、バットの角度を手首で強く固定してボールを追う。カーブ等の遅いボールに有効。1,2を球種を聞いた瞬間に、思考を一瞬で切り替えるようにする』
『スライダー。投球の組み立ての3割がこのボールに依存する。外角に大きく逃げるボールと、内角に小さな曲がりでカウントを取る二種類のスライダーがある。ツーストライクからは前者、カウント球としては後者で勝負をしてくるので、俺への勝負は基本前者をマーク。スライダーが来る時はボール球にバットが届くよう、バットを長く持ちかえること。内角を突くスライダーに関しては、捕手がそのコースに体を動かすことが多いので、投げる直前に捕手の気配を読むこと』
『フォーク。追い込まれてからの決め球でカウント球に使うことはほぼない。恐らく俺との勝負で多投する。割と手元で落ちるので、投げる瞬間に前で捌くこと』
「……」
図解での曲がり幅、ボールの見え方、鬼灯町の攻撃パターンがびっしり書かれている。
そして最後のページには。
『最重要の達成要件は、ユイ、秋葉、柳、葉月先生に被害を及ぼさないこと――攻勢から守勢に回る判断は迅速に――自分を差し出してでも、4人への被害、侮蔑、凌辱の類を全て排除することを考えること――』
細かい書き込みの多いノートの中で、それだけが異彩を放つほど大きく書かれていた。
まるで自分に戒め、言い聞かせるように。
「……」
その時皆初めて知った。
初春の今日の立ち振る舞いの、根幹となっていたもの。
「元々坊やの戦いに退路なんてない。坊やがこの家で初めて紫龍殿と戦った時に言っていたけれど、坊やは逃げ道を用意して人間を傷つけることは嫌いだからね。そもそも逃げられない状況で多勢に囲まれることが多い人生を歩んできただろうからね――仲間のために退路を用意して、戦う経験自体が坊やにはない――今回みたいに仲間を背負う戦い――相当不慣れなことをやってた。そりゃ消耗して当然だろうよ」
「……」
その比翼の言葉に、皆声を失う。
「そうだね――サクライさんに言われたんだけど、本当にその通りだ」
結衣が言った、
「音々さん」
雪菜が音々を見る。
「音々さんは、、神子柴くんに宿るアヤカシの声を聞いて、神子柴くんのことを知っているんですよね。紫龍さんの力を借りれば、それを映像にして他の人に見せることも」
「そうだったね――そうか、それを使えば」
「お願いします。神子柴くんが東京で何を思って、小笠原くん達と一緒にいたのか――神子柴くんが本当に弱かった頃に――何が神子柴くんに、あそこまでの覚悟をさせたのか、教えてくれませんか」
「――サクライさんに言われたの。私達はそれを知らなくちゃ……」




