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器の小さい男さ、俺は

 初春は紫龍の結界の白い光にその表情を照らされながら。

 激昂する直哉の熱気など届いていないかのように、力なく、穏やかに、気怠い笑みを浮かべていた。

「そうだな――その通りだよ。こんなことをすれば――俺が東京にいた時から、ここまでじゃなくても、人間をぶちのめしていたなんて知ったら――ユイが悲しむ。そんなこと、分かっているよ」

「……」

 その力ない笑みの中で――

直哉の腕に宙吊りにされて、足に地がついていないのに、じたばたと抵抗もしない中で。

しっかりと直哉の目を捉えている初春の瞳に、直哉も凄みを感じる。

「――嫌なものは嫌だよ。どんなに心を殺したって、誰かを傷つけていいはずがないし、何より俺だって心が痛むさ」

「ハル様……」

 脇で聞いていた音々も驚く。

 あの人を人とも思わぬ初春から、そんな言葉を聞くのは初めてだったから。

「――でも、俺が何もしなくたって、今の俺の立場じゃ弱い者いじめの標的になるし――どうしようもねぇし――俺に善悪を選ぶ権利も余裕もない」

「それは俺が何とかしてやる! この町の人も、サクライさんがお前のことを弁護してくれたんだ! これからお前の立場は」

「ふ……」

 初春はその言葉を聞いて、自嘲するように笑った。

「いや――違うな――この町に来て、音々やおっさん、比翼達彼岸の連中と一緒にいて、教えられて、最近分かったことだけどな……」

「……」

「俺はね――逃げたんだよ。人間から」

「ハル様……」

「お前達と一緒にいる俺を、人間は疎んで――俺はもっと人間を疎んだ。でも違うんだ。俺はただ――人が――人間が怖かったんだ」

「……」

 紫龍も火車の息子も、目を丸くした。

 それは初春の言葉としては最も意外な言葉だったから。

「子供の頃から殴られたり、いじめられたり、仲間外れにされたり――それが怖かった。怖くてたまらなかった――そこにいる奴等と対峙した時――野球の試合の時点から、俺は怖くて内心じゃ震えそうだった」

「……」

「あの二つの町のために、必要なことは分かっていた――でも俺は、あの野球場でも、この山でも、人間と対峙したら、そんなことはもう頭になかった――俺は――その恐怖から逃げることしか頭になかった」

「そんな……」

「そして俺は、今も逃げ続けている――お前ともう研鑽できない無念や、ユイの力になってやれない悲しさから、心を殺して逃げ続けている……そうしなければ、お前達との未来を失ったことに耐えられそうにない――だから思想を捨てて逃げ続けている――器の小さい男さ、俺は……」

「……」

 直哉はゆっくりと、宙吊りにしていた初春の体を地面に降ろした。足が地についた初春は、襟元をさすった。

「だから、水は方円の器に随う――相手の出方次第でこちらも動きを変える――そんな生き方をしてきた。それに対して疑問もなかったが――この町で秋葉や柳、葉月先生みたいな俺に近寄る人間がいたことで、段々とそれが疑問に思えてきたんだ。それだけじゃ駄目なことがある――多分お前やユイ、音々や秋葉や柳のことは、そうなんだろう」

 紫龍は頷く。

 そう、初春の戦はあくまで後の先――すなわちカウンター戦法に特化している。

 相手の出方次第であり、相手が何もしなければ、一定の流れを続ける水と同じく、何も変わらない。

 今回の戦法も、完全に相手の出方次第の戦法で、自分からは仕掛けない。

 まさにこいつの処世術を体現したような戦法だ。

 そして、こいつは……

「でも――疑問に思っていても、俺はその生き方を変えられそうにないことも分かっているんだ」

「え?」

「昨日秋葉にも言っちまったんだけどな――これからは秋葉や柳、葉月先生のことをもっと考える――あいつらの前で思想を消すようなことはしないようにするって――だけど、それをしたら俺はすぐに、お前達もいないで生きることの辛さに潰されてしまいそうだし――今回のこの連中みたいな奴に一方的に殴られてしまうことも分かっているんだ」

 そう、初春は頭脳も身体能力も目を引くほどのものはない。

 それでも自分より体も大きい、経験もある、頭脳もある人間と対峙できるのは、思想を捨てて自分の少ない手札の取捨選択を早めること――躊躇もなく動けることでそれを補っている。

 初春にとって、思想を捨てることはもはや自分の命綱にすらなっているのだ。

「秋葉には迷惑かけた手前、そう言っちまったけれど――本当に、自分の小市民振りが嫌になる……」

 本当は――

 あの農道の道で紅葉に言われたこと――

 人間全部を嫌いにならないでという紅葉の言葉を、今でも俺は忘れられずにいる。

 あの言葉を俺に言った紅葉は――何を考えていたのだろう。

 そんな俺の無茶な申出で、不慣れなスポーツでピッチャーをやってくれた雪菜は――

ピッチャー返しも怖かっただろうにマウンドを降りないでくれた雪菜は、俺に対してどんな想いでいたのだろう。

それに対して何もできなかった自分が情けなかった。

「それは、ユイがこの町に来た時もそうだったよ――俺はユイに対して、できることがほぼなかった――あいつは俺を頼って、こんなところまで来てくれたっていうのに……」

「……」

 音々は思い出していた。

 初春が結衣を初めて家に連れてきた日――

 初春は必死に結衣のために出来ることを探して苦しんでいた。

 あんなに必死になって人間のことを考える初春を見るのは初めてだった。

「久々に思い出したよ。東京にいた時からそうだった。お前達の近くにいるのに、ほとんど何もできなくて――」

「……」

「そんな時、決まっていつも俺は――ナオ、お前のことを思い浮かべるんだよ」

「え?」

「お前のように力があったら――お前のように頭がよければ――お前のように人が話を聞いてくれるなら――俺はお前を羨んで、憧れて――そうなる時にいつも、ユイが俺の近くで困っているんだ」

 そう言って、初春はその場に座り込む。

「まったく――あのお姫様の困っている姿を見るとさ――俺はいつもそんなことを考えていた……何もできない自分が悔しかった……」

「……」

「それなのに――あいつはお前じゃなくて俺のことを……」

「……」

 音々は理解できた。

 初春が結衣の想いのために苦しむ理由は。

「俺は弱いから――間違っていると分かっている生き方を変えることができない――あいつを悲しませる――こんな奴等をこんな目にあわせるような生き方から抜け出す方法が見つからない……人間と向き合うことが怖くて、今も逃げ続けている」

 そう、自分自身が結衣を悲しませる存在になることを。

 初春が何よりも辛いと感じているからだ。

「今でも迷っているよ――おっさんに頼んで、ユイの俺に対しての記憶を消してもらって東京に帰せば――って。秋葉達もそうだけど……あいつらも俺のことをどうも勘違いしているみたいだからな」

「……」

「誰かを守れるのは、俺みたいな手段を選ばない――思想を捨てた強さじゃない。ナオ――お前の強さなんだ。ユイを――その力なら守ってやれる」

「お前はそれでいいのか」

 直哉は口を開く。

「お前はそれでユイの想いを諦めて……」

「――言ったはずだぜ」

 初春は力なく微笑んだ。

「俺がユイを好きかどうかなんて、些末な問題だ――それよりも、あいつが東京で何の不安もなく笑って暮らせる方が、俺にとってずっと重要だ」

「……」

「惚れた女が、幸せに笑って暮らしてくれる――それ以上のことなんて、何もいらねぇ。それは、こんなところでこんなことをしている俺には無理だが……お前なら……」

 そう言いかけて、初春は言葉を止めた。

 座り込んでいる初春は、肩を落として俯いた。

「ハル様?」

 音々は初春の顔を覗き込むが。

「……」

 すぐに言葉を失う。

 初春は笑みを浮かべながら、ぼろぼろと大粒の涙をこぼしていた。

「はは――分かっちゃいるんだけどなぁ――惚れた女が笑ってりゃ幸せって――欲しいものはそれだけなんて――本当のつもりなんだが……」

 涙で震えるような声の中で、必死に声を絞り出す。

「――それは――俺が俺の手であいつに――ユイに与えてやりたかった。だから俺は強くなりたかったのに――今まで鍛錬してきたのに――どこでそれを間違えたのか……」

「……」

「それが――無念だ――思想をどんなに消しても――この想いを諦めることはできない……」

 俺の気持ちよりも、結衣の笑顔を優先する――

 その何度も聞いた言葉には、続きがあった。

 それが今のように涙となって零れ落ちないように――

 必死にそれを堪えて、結衣の前ではその想いを出さないようにしていた。

 それを音々はずっと分かっていた。

 今日ひとりでこの山に来たのも、この堪え続けた血の涙を流すような思いを、ひとりで吐きだそうと思って来たことも、音々は知っていた。

 そして。

 初春は今日、あのラーメン屋に行って再認識していた。

 どうあっても、自分の中で、結衣への想いを諦めることは難しい。

 それ程俺は、結衣のことが大切で。

 この身を――心さえ捧げてもいいと思える程、強くなりたいと思える(ひと)だった。

「さっきあいつら、俺のことを悪魔とか言っていたがね――あながち間違っちゃいねぇよ。俺には人間の心なんてもうない――悪魔に魂売っても強くなりたかったからな」

「――だからお前は、今回は『わざと』悪人的に振る舞った……相手を威圧する狙いもあったが、お前の望みのために」

「え?」

「言ったじゃろう? おぬしにはもう一つ仕事が残っていると」

 紫龍のその言葉を聞いて、初春は気怠く立ち上がる。

「俺がお前に望むことは――介錯だよ」

 初春は体についた泥を払う。

「この町で俺の悪名は、これで轟いただろう――ユイも俺のこの有様――こいつらをこんなにしちまったのを見て、俺の幻想も消える――お前は町を救った英雄となり、悪者の俺は裁かれる理由ができる――お前はそれを大義名分に、俺を裁く――俺をボロ雑巾みたいにして、小悪党のみっともない姿を結衣に見せるんだ。そして俺から目を背けようとするユイを癒して、お前の方にあいつの目を向けさせろ――」

 そう言って、初春はジークンドーの型を取る。

「と言っても、俺もお前に抵抗する――お前と最後、勝負するって約束もあるしな。そして俺が卑怯な手も使わず、思想も捨てずにお前と勝負すりゃ、剣道でも拳法でも、俺はお前に瞬殺される――それでお前も分かるはずだぜ、神子柴初春に抱いていた強さなんて、ただの幻想、形骸だって……それでお前は、俺の強さなんか気にすることなく、これからユイと向き合える……お前の心から、今まで怯えてさせていたものを取り除いてやるよ。俺が全力で抗うことでな……」

 そう、それが初春の描いたシナリオだ。

 結衣には自分の悪の部分を見せて、自分の行為を幻想だと分からせる。

 直哉には全力で抗う自分を叩き潰してもらって、結衣への想いを阻害している自分への思いを打ち消させる。

 町の連中は直哉の活躍で、二つの町のいがみ合いを見直すことで、今回の依頼の本質を解決する。

 ――これで全てが丸く収まるはず……

「お前は俺を倒して、ユイをさらっていけ……あとは俺が悪人らしく裁かれて、ユイに無様な姿を晒せば終わり……」

「そんなのってないよ!」

 不意に声がして、初春は思わずジークンドーの構えを解く。

 直哉も心臓がドクンと鳴って、声の方を向くと。

「ユイ……」

 木の陰から結衣、紅葉、雪菜、夏帆の四人が出てきて、怒った顔で出てきた。

「酷いよハル――そんなことされたって、私はハルのことを忘れられるわけ……」

「お前ら――ずっとそこで隠れて聞いてたってのか……」

 初春は天を仰いだ。

 土筆――お前の墓前を汚した俺が言う事じゃないが。

 俺はどうやら、また何かを間違えたらしい……


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― 新着の感想 ―
[良い点] 幼少の頃から虐待を受けて育ったハルの心の葛藤、望みの世界を脳裏に浮かべながら現実はそこから遠ざけようとする。 厭世的な言葉を連ねながら、その実こころの中では光を失っていないのではないか。敵…
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