追憶~メロンパンを買う金がない
「――ふあ」
少年は欠伸を噛み殺す。
昨日あれから一睡もできずに、結衣への煩悩と直哉との今後のことを布団の中で一日考えていた少年だったが、結局答えが出ないまま今日も学校に登校している。
もう学校は11月に差し掛かり、進路希望がほとんど出そろった3年生はほとんどの授業が自習に変更されていた。
そんな中でもう学年で一人進路が確定してしまった少年は、元々少なかった中学校での自分の所在が更に埋め立てられてしまう緩やかな苦しみの中にいた。
少年はぼっちであり、教室に所在がなかったため、生徒会副会長在任時は休み時間は大体生徒会室で雑務をこなして結衣の仕事時間と剣道部の練習時間の増加に充てて時間を潰していたのだが、生徒会を引退し、受験勉強もなくなってしまった少年は、卒業間近に休み時間の過ごし方を探すという非常に残念な青春を謳歌していたのであった。
結局少年は、給食を食べ終わった後の昼休みに学校の裏庭に来ているという有様であった。
剣道部の活動場所だった格技棟の影は、静かで校舎の窓からは見えない死角にある。卒業生が寄贈したポプラの木がいい感じに昼の日差しを屈折させて日向ぼっこに最適な眠気を誘う。
少年は格技棟の壁に背をもたれ、図書室で借りた文庫本を読んでいた。
「……」
別にぼっちには抵抗はない。スケジュール管理は楽だし、元々人間は嫌いだ。
だが――結局自分はこうしてこんな学校の隅っこで昼寝まがいのことをするくらいしか居場所もないのも確かで。
――ここは、結衣には相応しくない場所だ。
俺が結衣に見せたいのは、こんな景色じゃない。
「……」
昨日までは何の疑問もなく少年はここにいた。
あいつらが光なら、俺は陰であいつらのできない汚れ仕事をやる。
なのに……
自分の居場所に結衣に見せたい景色がないことが。
自分の世界に結衣を守れる術がないことが。
今は、酷く心を疼かせる……
「……」
少年は一晩、自分のこの胸の疼きを抑えられずにいた。
俺は――何がしたいんだろう?
俺に――何ができる?
何を望む?
その答えを一晩中考えていた。
それすらも分からない自分が酷く情けなかった。
少なくとも結衣の想いを突き詰めてしっかりと未来を望んでいる直哉に対して。
自分が二人を祝福しようにも、単なる単語になってしまいそうで。
「……」
そんな思考を巡らせている頃に。
少年の前にはお客人が集まる。
少年が顔を上げると、そこには同級生の見知った顔が8人、少年を囲んでいた。
「教師に散々おべっか使って、生徒会なんて見え透いた内申稼ぎもして神高の推薦がお前に回るとはな」
集団の一人が少年に唾を吐いた。少年の持っていた文庫本の装丁が唾で汚れた。
「……」
「金魚のフン野郎。ナオや日下部さんにも取り入って、自分じゃ何もできねぇ寄生虫野郎が」
「剣道部の成績だってナオについていってのものなのにな! テメエの手柄ぶりやがって」
「誰もお前なんか認めてねぇからよ!」
口々に罵声が飛ぶ。
「……」
少年は文庫本を閉じて横に置いた。
「うーん……」
少年は首を傾げながら、しげしげと目の前の連中を一人一人じっくりと観察した。
「な、何だ……」
「……」
――こいつらのような奴の一人に結衣がさらわれるなんてのは、絶対になしだな。
そう考えると――ますます直哉に結衣を任せるのが、当然の帰結。
当たり前の結論。それが誰にとってもいいのだと、少年だってもう分かっている。
――多分、祝福だってできそうな気がするんだ。
――多分。
「聞いてんのかよ!」
取り巻きの一人が少年の態度に苛立って、少年の顔面に蹴りを入れた。
だが。
蹴りのモーションの間に少年は腰を浮かせ懐に飛び込んで蹴りの射程の奥に入り込んで無力化し、そのままの勢いで、少年は相手の喉元に掌底を入れた。
「ぐえっ!」
喉仏を叩かれた相手はその場にうずくまる。人体急所のひとつを突かれて呼吸困難と激痛に悶え苦しんだ。
「――俺がお前達の話を聞かなきゃいけない理由がどこにある?」
少年は周りを見渡した。
「勝手に俺の前に来て、勝手にお前のクソ身勝手な話をしてきただけだろうが。俺は人間が嫌いなんだ。自分から進んでお前達に干渉しようなんて思うかよ。お前の自己満足を勝手に押し付けてんじゃねぇよ」
別に少年自身は、こいつらに何もしてはいない。
少年は小さな頃から、主観も思想も人に押し付けたことはない。
そんなもの、元々持つことを許されなかったから。
ただひっそりと息を潜めて、深海魚のように静かに。
そんな少年に沢山の人間が身勝手な理由で少年を傷つけることを正当化してきた。
少年が同じようにすれば、少年を卑怯だ最低だと罵っておいて。
侮辱の撤回も謝罪もせず、何事もなかったかのようにその場を立ち去って、また虫の居所が悪くなれば自分に都合のいい理屈を吐きに来る……
――何故人間ってのはこうも自分勝手な理屈を押し付けるのだろう……
2分後、少年の周りには既に7人の男子が転がっており。
最後の一人が少年に地べたに倒され、両腕を少年の両足でがっちり固定され、ガードもできない、マウントも抜けられないという絶体絶命の状態になっているのだった。
「う、嘘だろ、8人でかかって……」
恐怖に怯え瞳孔を開かせる男子生徒の首を、少年は掴む。
「――光栄に思え。俺はマウントは最後の一人にしかしない。お前だけはゆっくりとどめを刺してやろう」
さすがに8人がかりでは少年も何発か貰っているが、初めからそれは想定して攻撃を仕掛けている。脇腹の鈍痛があるが、それ以外はほとんど戦闘継続に支障のない程度のダメージである。それは想定よりもダメージが少なかったと言っていい。
頭数が半分を切ったあたりからもう既に逃げ腰になった相手は攻撃もほとんどしなくなり及び腰であった。最後は無抵抗の相手を逃がさずにしとめてストマックブローで胃液を搾り出させた。
少年の戦い方の考えではマウントを取ったり、ジャブやボディブロー、ローキックなどで相手の体勢を崩すような戦い方をしていては数に押し切られて負けてしまう。それは全て無駄な手数だ。
とにかく速く、とにかく重い一撃を一発急所に入れることだけが全て――仮に1秒間に100発の拳を入れる流星のような拳を持っていても、KOパンチ以外の99発は単なる無駄でしかない。
だから少年がマウントを取る時は、もう勝利が確定した時のみだ。
「――さてここで問題です。人類の歴史で最も大量に人を殺した武器は当然銃火器。では二番は何でしょう」
「な、何……」
「答えは――弓だ。中世の戦じゃクロスボウはあまりに強過ぎて、教会がキリスト教徒同士の戦いでは使用禁止ってチート認定出したくらいなんだぜ」
「……」
「つまりね、人類の歴史で最も優れた人の殺傷手段は剣でも槍でもない――昔も今も遠距離攻撃だってのは歴史で証明済みだ。相手の10倍近い頭数を揃えたことを最大限に生かすなら、囲んで全方向からの遠距離攻撃でなぶるのが一番だ。近距離で頭数揃えても、連携を知らなきゃ一度にかかれる人数はたかが知れてる――」
「……」
「だけど、何でお前達も他の連中も徒党組んで一人を囲むような連中はそうしないんだと思う? ――その戦法をお前達が卑怯だと思っているから? 違うね」
少年は、掴んでいる相手の首に握力を込めた。
「――いざって時に、これは冗談なんだ、って逃げ道を作るためさ。武器を持っていたら洒落にならなくて、いざという時にもみ消しが効かなくなる……それを選んでたらきっと今こうなってはいなかったのにね……」
少年は拳をゆっくりと振り上げた。
「自分の都合を罷り通して、気に入らない相手をいたぶることを正当化できる理由を用意して、それでいて自分の逃げ道も確保しようなんて都合のいいこと考えてるからこういう目に遭うんだよ」
こんなお喋りも、攻撃するモーションを大きく取るのも実に無駄な行為だ。だが敢えてこれをするのは相手の反応を見るためだった。
「や、やめてくれ! やめて! お、俺が悪かった!」
「あ?」
「お、お前が神高の推薦を取ったのは、ゴマすりの結果じゃねぇ……この喧嘩の強さも剣道の結果もまぐれじゃねぇって分かったよ! だから……」
「――だから、お前の都合なんぞ俺が聞く必要がどこにあるんだよ」
「ひ!」
「もう1対1になってるこの状況でも自分の意見が俺の意見に勝るって、何でそんな思い上がれんの? お前が今言っているそれは、俺にとっては、お前のルールに従えっていう強要でしかないんだけど」
この状態になっても自分が傷つく覚悟が少しもできていない眼前の相手。
「状況分かんねぇの? お前達が用意した逃げ道なんて、とっくに塞がれてんだよ」
――少年は思った。
多分この状況、少年から惹起をすることでも恐らくそれなりに理由が立った。
神高の推薦を手にし、自分はお前達よりも優れていると証明した。
今までの報復――元々自分は人間を嫌っているのだ。今までよくもやってくれたなと、少年のルールでこいつら人間に報復する力も、少年がこいつらを傷つける十分な理由もあった。
現にこうして目の前のこいつは、自分の勝手な都合だけで自分を傷つけようとし、劣勢に立てば自分のルールで自分にこの喧嘩をなかったことにしてくれと強要している。
そして――人を傷つけるのにいつも自分は逃げることができるように逃げ道を作っておいて、だ。
逃げ道のない弱い人間を、それを作る暇もないほど突然襲い掛かって、安全な暴力に興じる。
――虫唾が走る程、癪に障る人間だ。叩き潰すことに、何の哀れみもない。
そして、今の少年にはそれができるのだ。
「さて――最後のお前はどうしてやろうか――この体勢、セルゲイ・ハリトーノフがセーム・シュルトを半殺しにしたのとほぼ同じこともできてしまうが……」
「た、助けて……」
見下ろす相手はもう顔面蒼白になって、涙を流して助けを求めている。
「……」
多分逆の立場にいたら、少年が命乞いをしてもこいつらはそれを聞かないのは勿論、助けを求めるたびに愉快そうに笑っていただろうことを少年は知っていた。
それどころか……
「実際お前達が逆の状況だったら、俺をボコっただけで終わりにはしてくれなかっただろうなぁ……」
少年は首を傾げた。
「多分――ボコって動けなくなった俺を身ぐるみ剥いで、鼻血や涙流してチ○コ丸出してる姿の写真を撮って――それを学校中にばらまくか、ユイにばらまかれたくなかったら俺達の奴隷になれ――まあ、そんくらいする予定だったんだろうな……」
「!」
「折角だ――同じ目にあってみるか?」
少年は手を後ろに回して、相手の制服のズボンのベルトのバックルを外した。
「わ、悪かった! もうしない! 金輪際お前の前に現れたりしないよ!」
じたばたしているが、少年は両腕の上に完全に乗っているし、足をばたつかせても全く影響がない。
「……」
この時少年は、相手のみっともない叫びなどは全く視野の外。
昔のことを思い出していた。
少年が初めて人を殴った時のこと――
少年は当時の担任教師の自分に対する侮辱の撤回も謝罪もしない無礼にキレて、生まれて初めて人を殴った。
その時の拳の感触は今も覚えている。
当時の子供の非力な攻撃は、大人の相手に全く致命的なダメージを与えられていない。
自分の拳の痛みの頼りなさが、それを少年に理解させた。
そして次の一手を出す前に、周りの大人達に取り押さえられてしまった。
大人達に取り押さえられながら、暴れる少年は悔しさでいっぱいだった。
一言で言えば、殴り足りなかった。
自分の今までの悔しさや痛みをもっと相手に刻み付ける一撃が欲しいと強く願った。
その当時の悔しさが、少年をジークンドーに没頭させることとなった。
相手に抑えつけられる前に、致命的な一撃を。
それが少年の5年間追い求めた強さの姿で。
「……」
その当時の思いが鮮明な頃なら、少年は恐らく目の前の相手を戦闘不能にした後に全裸に引ん剝くような報復に及んだかもしれない。
だが……
「……」
少年は思った。
俺、奴隷なんか持ったとして、一体何をさせればいいんだろう……
江古田、千川から池袋まで勢力を広げて、池袋駅西口にチームを作って、ベルベットの空の下で歌でも歌えってか――興味ないな。
肩でも揉んでもらうか――そのために嫌いな人間を傍に置く――別にしてもらわなくていいや。疲れるし。
メロンパンでも買いに行かせるか――そもそもメロンパンを買うために渡す金がない。
いや、奴隷なんだからこいつらの財布も俺のものになるのか……
――あれ、でもそんな金を巻き上げて、俺って何か買いたいものとかあったっけ……。
夕食のおかずを一品増やすか……千川のスーパーの松坂牛入りメンチカツ200円を、タイムセールで半額になったやつじゃない、揚げたてのやつを一度でいいから食いたい……できれば池袋の西武のデパ地下の惣菜を腹いっぱい食いたい……
「……」
少年は一気に脱力した。
――何だよ、夕食のおかずって。
「――はぁ」
少年は目を覆って、マウントを解いて立ち上がった。
「――え?」
さっきまで泣きわめいていた相手は、ぽかんとして少年を見ている。
「――何か――もういいや。そこの転がってる奴等全員連れて俺の前から消えろ」
少年は背を向けて、首を力なく左右に振った。
「は、はい!」
一人無事だった相手は、倒れている他の7人すべてに急いで声をかけて、少年の気の変わらないうちの撤退を強く促した。
喉や膵臓を打たれてまだ苦しんでいる人間もいたが、動ける奴がそんな奴等を抱えて這う這うの体で逃げて行ってしまった。
裏庭がまた少年一人になる。
少年は再び元いた場所に腰を下ろした。
「……」
自分は――色んな意味で生きるセンスがない。
そう思い知って、途端に毒気を抜かれた。
奴隷など作ってもやってもらいたいことが何もないし。
金を巻き上げたところで、欲しいものが夕食のクオリティの向上とか、そんなつまらんものしか思い浮かばなかった。
そんな強者の愉悦に、いまいち心が躍らない……
我ながら自分の小市民ぶりが嫌になる……
――結局、欲しいものも、やりたいことも、選択肢があるっていう状況が今までの人生で全くなくて。
それが見つからないうちは、奴隷を作るような力があっても、金を強引な手段で掠めても駄目ってことだ……
「……」
――それに、今の対峙をして分かったこともいくつかある。
あんな連中を何十何百と倒したところで、直哉に応える道は見つからない。
そして、あんな奴等を倒し報復の末に力で従わせる――
そんなものを結衣に見せるような自分でありたくない。
それだけは少年にも分かった。
「……」
少年は人間が嫌いだ。
報復をしようという気持ちだって勿論分かる。
だが――自分が長年与えられ続けた痛みが、少年を強く戒めるのだ。
そいつらと同じ土俵で勝負をするな、と。
その先に、直哉の結衣への思いに対する答え――結衣に対する今の自分の懊悩を晴らす答えはない。
そう告げるのだ。
「やれやれ――報復ってのが単純にはまれば、それもよかったんだが……」
少年は一人愚痴を漏らした。
多分、昨日直哉の気持ちを聞いていなかったらそうしていたかもしれない。
水に流したわけでもないし、腹に悔しさはあるが――それが報復という目的に今は結び付かなくなっている……
「――また振り出しだな」
少年はそろそろ昼休みが終わる時間であることを確認して立ち上がり、校舎の方へと足を進めた。
格技棟の渡り廊下から体育館の横をすり抜けて、校舎内に入ろうとした時の事だった。
「日下部さん、好きです!」
そんなはっきりとした声が体育館の裏の方から聞こえた。
セルゲイ・ハリトーノフ対セーム・シュルトは総合格闘技で地上波放送ができなかったという凄惨マッチのことです。
閲覧注意ですが、興味のある方は見てください。




