誇りはどうした!
「うわあああああっ!」
十数人の大柄な男達が、赤ん坊のように喚き散らす阿鼻叫喚の中で。
無数の虫やヒル達が、もう肌も覆い隠さんばかりに流砂にはまった人間達にまとわりついて、甘い水をかけられた肌を食いちぎっていく。
「ナオ、お前はせめてこれを使え、お前の方にもそのうち虫が来るぜ」
そう言って、初春は虫よけスプレーを直哉に手渡した。成程、ジャージを着て肌を表に露出させていない初春からも虫よけの臭いが強めに漂っている。。
「……」
「お前がユイ達を連れてこないでくれて助かった。金がないから虫よけ一本しか買ってないし、この夏場に肌が傷ついたらユイはモデルの仕事にもマイナスになっちまうからな」
初春はジョークめいて言うが。
後ろではまだ阿鼻叫喚の悲鳴が響いているのに。
それをまるで聞こえていないかのように静かに振る舞う初春。
鬼灯町の連中はまだ無事な手を使って、自分の体からまとわりつく微生物たちを振り払おうとするが。
「あ、あああ……」
もがけばもがくほど、流砂の中に体は深くめり込んでいく。
その様子を見ながら、初春は本当に穏やかな口調でいうのだった。
「本来流砂ってのは、もがかなければはまらないんだが、野犬共にビビって最初に相当もがいたらしいな。腰まではまったら、自力での脱出は困難だ」
連中の中にはもう胸のあたりまで流砂に埋まり、もう体もろくに動かせない者もいた。「来年ここは花を植えるつもりだったから、丁度土を肥やす肥料が欲しかったんだ。ただ土葬じゃなかなか土に還れないだろうから、砂糖を使って、こいつらが土に還るのを早めてやろうと思ったんだが――その傷口なら、明日にはこいつら、鴉の餌になりそうだな」
既に虫達に肉を噛まれ、流砂にはまる連中の体は無数の傷だらけであった。
虫達の喰い付きを止めようと、何人かは流砂の泥を無事な手に救って体に塗りつけてまでして肌を隠し、侵食を止めようとしている者もいる。
皆このまま野犬や虫、鳥の餌になって死ぬ恐怖を現実のものとして認識し、タガが外れたような恐慌状態――
直哉の目には、血の池地獄の中でわけもわからず苦しむ罪人のように見えた。
「野犬や虫に肉を食われて死ぬか、ヒルに血を吸われて失血死するか――流砂の中で干からびて死ぬか、飢え死にするか――寝ることも出来ずに発狂死ってこともあるか。死に方は多数取り揃えてあるんで、好きな方法で逝きな」
「……」
そう言い捨てる初春の目を見て、直哉と音々は、心底の恐怖を覚えた。
これだけの人間がこのままではほぼ死が避けられない状況だというのに、汚物を見るような初春の目は、一切の慈悲を加えるつもりがないのが分かった。
つまり――このままこの連中が殺されることを、何とも思ってはいない……
と言うよりも、音々がここで初春が襲われていることを知らせに来なければ、こんな時間の山に誰も立ち入るはずがない。
――間違いなくこの連中はここで一晩、地獄を味わっただろう。本当に獣達に殺されていたかもしれない。
初春は本当に、人間を殺すつもりで……
「こ――この悪魔めえっ!」
「お前! 人のことをなんだと思ってやがるっ!」
「く、くそおっ! テメエ、ふざけやがって! こんなことをしてタダで済むと思っているのかっ!」
流砂の中でもがき苦しみながら、鬼灯町の野球チームの面々は悲鳴にも似た声で初春に怨嗟の声を漏らすが。
「悪魔――ねぇ……」
涼しい声で呟きながら、初春はジャージのポケットから携帯電話を取り出して、ボタンを押した。
『散々なめた真似しやがってよぉ! 礼儀を教えてやるから覚悟しろよなぁ』
携帯からは薄笑み交じりの激しい声が流れてくる。
『か、堪忍してください! 堪忍してください!』
その中で、一際情けない声で平謝りする大きな声がある。
普段の抑揚のない声からは想像もできないが、それは初春の声である。
『ヒャハハ! この人数相手にいつまで逃げられると思ってんだよぉ!』
『やりたい放題やってくれたんだ、相応の覚悟はできているんだろうなぁ!』
『ゆ、許してください! 悪気はなかったんです! 謝りますから許してください!』
多人数で逃げ場を塞ぎ、まるで狩りで獲物を追い込むように、うすら笑って圧倒的優位を楽しみいたぶる連中の音声が、そこに録音されていた。
初春は音声を切る。
「――俺は再三再四言ったぜ。もうやめてくれ、許してくれ、ってな」
初春の目が、静かな口調ながら一段と静かに――だが、鋭さを増す。
さっき音声で、情けない叫び声をあげ許しを乞うている人間だとは思えない――むしろその姿を知っているからこそ逆にその目を見ていると、声が出ない恐怖を覚えるのだった。、
「仏の顔も三度、って言葉があるが、俺は何度お前達に、やめてくれ、って言ったかな――間違いなく三度じゃ足りないだろうね」
怒りを通り越して、呆れるような力のない語勢だった。
「そして俺は、逃げる以外にお前達に抵抗もしなかった。そんな俺を、こうしてうすら笑って痛めつけるお前等人間こそ、悪魔だと思うがね……今の状況になったら被害者ぶりやがって、やっぱり人間ってのは、見ていて反吐が出る……」
「……」
本当に初春は『逃げた』だけだったのだ。
足止めをしただけで、自分は何の危害も加えていない。
あの音声を残しておくことで、それを証拠として語れるし。
初春の言うとおり、集団リンチから逃げた直後に、山でこの連中が『偶然に』流砂にはまって遭難死しても、初春に責めるべきところはない。
本当に『逃げた』だけで、この地獄を作り上げた。
――勿論、その言葉を紫龍や直哉も額面通りには捉えていなかった。
あの音声の初春の悲鳴にも似た阿りの言葉は、あからさまな演技だ。
初春の顔に残る殴られた傷も、自分の血の臭いでこの地獄を作るために――自分が最初は被害者だったと、音声以外により明確な証拠を残すために、わざと無抵抗に殴られた。
それに――
「俺が一人になれば、お前達は必ず俺を追ってくると思っていた。ユイ達に何かまたやらかす前に、手を打っておいた方がいいと思って俺が囮になったが……」
初春はこの連中をここにおびき寄せるために、わざと祝勝会に参加せずに、単独行動をとっていたことも、計算ずくの行動だった。
最後の直哉の投球はともかく、それまでの初春のやり方で自分達に勝ったことを、この連中は納得していないことは分かっていた。
自棄になって結衣や紅葉達に何かをするよりも、矛先は自分に向いた方がいい。
――初春の行動の全てが罠だったのだ。
『わざと』喧嘩を売りやすいように、野球大会のチームに女子(それも美少女)を揃え。
『わざと』雪菜を投手にして相手に狙い打ちさせ。
『わざと』自分に喧嘩を逆恨みさせるような露悪的な言動を取った。
「よく考えてみろよ。この状況に追い込んだ時点で俺がお前達を玩具にすることは簡単なんだぜ。だけど俺はそれをお前達みたいに愉しみもせず、この場を去ってやったんだぜ。他人の命を弄んで、傷つけて、苦しめて、その様を面白がるお前達より、俺の方がよっぽど優しいと思うがね……」
初春は自分の携帯を持つ手を振ってみせる。
「ま、俺はもう、人間に正義だ悪だと思想をぶつけ合う気も更々ねぇがな……俺はもう人間を弄って楽しもうなんて気はねぇんだ。惨たらしく、汚い死に様を与えてやりたいだけなんだよ。だから、汚く惨めに、人間らしく死んでくれ」
そう言って、初春は踵を返して再び山を降りようとしたが。
「お前達、これに掴まるんだ!」
初春の背中で声がした。
直哉は流砂の端に立って、紫龍からもらった『白虎』を抜いて刀身は捨て、大振りの鞘だけを近くにいる流砂の中の者に差し出した。
「この周りに火を焚いてくれ! 助け出した後に獣や虫が近づかないようにだ!」
「その必要はない」
紫龍は直哉の行動を見て、自分の指で印を結び、周囲の足元に白く輝く八卦陣を展開した。
周囲に無数に集まっていた虫達はその白色の光に目を回したようにぼとぼとと落ち、動かなくなっていく。
そして紫龍は自分の獲物、『青龍』の長い刀身を生かして、流砂にはまる連中の上着にその大きな青龍偃月刀の先をひっかけ、カツオの一本釣りよろしく、流砂の外に引き上げていく。
泥を纏って重くなった連中の中には、100キロ以上の重量になった者もいたが、そんな連中を紫龍は宙に舞わせて救っていく。
尻餅をついて腰を打つ者もいたが、紫龍のおかげであっという間に鬼灯町の野球チームの面々達は、流砂からの脱出をしたのであった。
「はあ、はあ……た、助かった……」
流砂から助け出された連中は、息を堰切らせて死の恐怖から解放されたことに安堵し、腰が抜け、初春の前から逃げることも出来なくなっていた。
「あーららぁ……」
初春は力なくそう呻いた。
「うーん、流砂を使うのはいい考えだと思ったんだが――やっぱりちょっと殺るまでに時間がかかりすぎるか……もうちょっと改善が必要かな」
初春はあっさり紫龍が連中を助けたのを見て、呑気に自分の能力の再考察を始めたが。
「はあ、はあ――テメエ――覚えてやがれよ」
恐怖にまだ息を切らしながらも、鬼灯町の野球チームの一人が小さく漏らした。
「助かったのならこっちのもんだ! 俺達がどんな目に遭ったか洗いざらい話して、訴えてやるぜ! 潰してやる! テメエ、これから潰してやるぜ!」
皆復讐心に燃えた目で、初春にそう吐き捨て、睨み、恫喝を始めたのだった。
「――御自由にどうぞ」
初春は考察の邪魔とばかりに力なく吐き捨てた、
「さっきも言ったとおり、俺は『逃げた』だけだしな。あの液状化現象を応用した罠も証拠なんてないし――それを立証できたとしても、ありゃ単なる落とし穴と違って、複数人の重量で振動を起こすっていう特定の条件が揃わないと発動しない罠だ。お前達の行動に落ち度があるって言い分もある」
「……」
そう、直哉がこの流砂を作り出した仕組み――液状化現象に辿り着いた時、この罠の特性に戦慄した。
これだけ悪意のある必殺の罠であっても、どこにでもある水を使うことで仕掛けた証拠がなく、『天災』として扱われることが濃厚。さっきの砂糖も、水に溶ければ目に見えない。
そして仮にこれを初春の仕掛けた罠だと立証できても、『特定の条件でしか発動しない』ことで、トリガーを引いたのは相手だった、自分はあくまで被害者だったと言い切れる。
集団で初春を囲み、いたぶろうとするという条件をクリアしなければこの流砂は発動しなかったのだから。
初春はこの『水と風を多少操れる』という術の特性を本当によく研究している。
その能力を相手に知られる、立証されてもまだ自分の優位を揺るがせないだけの応用力を生み出している。
「――ま、白を黒に塗りつぶすのが人間だからな。そんなロジックだけで身を守れるとも思っていない――」
初春は肩をすくめた。
「数の理論で仮に俺を加害者に仕立て上げるのかも知れんが――それでも俺は一向に構わないしな」
初春は今までの軽く余裕さえ見せていた表情を、再び鬼気迫る表情に歪ませる。
「俺はね――別に自分が助かろうと思ってお前達を倒しているつもりなんて更々ないんだよ」
「な……」
「俺にそんな百戦無敗なんて芸当ができるような腕がないことくらい知っている――ナオみたいなバケモノが現れるでもなく、そのうちお前達みたいなつまらん奴等にどこかで寝首掻かれるみたいにしてつまらなく死ぬさ。この山にお前達がつけてきている時だって、俺は今日死ぬことも覚悟していたぜ」
「は、ハル様……」
「ユキクモ」
初春はそう唱えて、自分の首にかけていた『行雲』を太刀の形にして、右手で剣先を座り込む連中に向ける。
「どうせ助からないと悟ったら――死ぬまで人間を撫で斬りにしてやろうと思っているぜ。むしろそうしたくて血が疼いているくらいだ……だから別にこれからお前達がどう出ようが、一向に構わないが」
勿論人間を『行雲』が斬れないことなど初春は知っている。
単に武器を見せることで、宣戦布告を明確にする装置として使っただけに過ぎないが。
「一つだけ言っておこう――もう二度と、ユイや秋葉達の前に現れないこと――それを破った時には次はいついかなる時でも斬る!」
「こ、こいつ――アタマイカレてやがる……」
その初春の留まることのない殺気に、戦意を喪失しかける鬼灯町の野球チームだったが。
「うるせぇ!」
その殺気に虚勢ながら立ち向かおうとする者がいた。
「こ、これだけの人間がいるんだ。今度はこっちがテメエに思い知らせる番……」
「おい」
虚勢で震える一人の声を、後ろから紫龍が遮った。
「おぬしら、少し黙れ」
そう言って紫龍は自分の目に自分の神力を集中させ、瞳術を放った。
戦神の闘気によって増幅される瞳術に、その場に固まって座り込んでいた鬼灯町の面々は、一気に意識を支配されて、その場で気を失い倒れ込んだ。
「く……」
初春と直哉の頭にも、きぃん、という空気の歪みが脳を捻じったような感覚が走ったが、すぐにその症状は治まった。
紫龍は『青龍』を光に戻すと、初春の広げた流砂の中心部に向けて、手持ちの錫杖をカランと鳴らした。
流砂の中心部に八卦陣が生まれ、空気を空へと吸い上げて、周囲の血の臭いや微生物の殺気を取り払っていく。
この周辺に蔓延していた邪気を浄化する、紫龍の破邪結界であった。
「馬鹿共が――自分から手を出さねばあの小僧は無害だというのに……」
紫龍はそう呟きながら、空に向けて自分の神力を放つ。
「……」
真っ暗だった森が、白い光に照らされて幻想的に輝き。
その場を蔓延していた血生臭い空気や、獣達の不細工な殺気が消えていく心地よさを直哉は感じていた。
そして。
「あーぁ」
そんな直哉の横で、ふっと緩んだ表情になって座り込む初春。
「なーんか、どっと疲れた……」
初春としては、自分の渾身の罠を破られ、紫龍によって殺意に水を差されてしまい、どうにも行き場ない思いをこの結界に吸い出されているかのように感じたが。
「ハル!」
不意に直哉が、初春の胸ぐらをつかんでグイと立ち上がらせた。
初春の細い体が宙に浮く。
「何てことをしたんだ! お前は!」
激した直哉の声が、明るい夜空に響く。
「お前がこんなことをすれば、ユイが悲しむ――それが分からないお前じゃないだろう。俺がヘタレているのを見て、真っ先にあいつのことを心配したお前なら――柳さん達のことだって」
「……」
無抵抗に、直哉の腕に宙づりにされて、弱々しい視線を送る初春。
「ハル――お前の誇りはどうした!」
「……」
「お前は戦いなんかが好きじゃない――中学で、ユイを賭けて俺と勝負すると言ってくれた時――お前はあんな連中と同じことをする世界から抜け出したがっていたじゃないか! それなのに――あんな連中をこれ以上傷つけて何になる! 神子柴初春は、そんな男じゃないはずだろ!」




