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竜胆の花言葉を知っているかい?

「駄目だ!」

 そう言ったのは直哉だった。

「この夜の山道は危ない――君達がこの先に行くのは危険だ。俺が行くから、君達は山を降りて待っていろ」

「で、でも」

「直哉様の言う通りです」

 音々が言った。

「さっきの悲鳴――ハル様のことだから、この先には恐ろしいことになっていると思います――きっと怖い思いをします。私みたいに実体がないならまだしも、皆さんに被害が及ぶ可能性もあります。だから」

「ああ、お前達は下山して集会場で待っておれ。この先は二次被害を防がねばならん」

 紫龍はそう言うと、下山していく初春の方を見た。

 皆の視線が自分に向いたことを感じた初春は、後ろを向いたまま立ち止まる。

「おいおい、俺が『人聞き』なんてものに興味がないとは言え、随分と人聞きの悪いことを言ってくれるな」

 そう言って、首を左右に振りながら、初春は振り向いて、山道の上にいる皆を見上げた。

「さっきも言ったが、俺は俺の後をつけてきたあいつらの集団リンチから『逃げてきた』だけだぜ。拳一発の攻撃もあいつらにしちゃいねぇよ」

「だ、だけど今ああやって悲鳴が……」

「ひいいいいっ!」

 言っている側から、山道の方から悲鳴がこだましている。

 初春は小さく微笑んだ。

「さあな。俺はあいつらの暴力から逃げてきたんだ。逃げた後であいつらがどうなったかは俺のあずかり知らぬこと――関わりのないことだからな。知ったことじゃない」

 そう言って、初春は踵を返し、家の方へ歩いていってしまう。

「忠告しておくけど――今、この先の桜の木の前は、多分地獄絵図だぜ。巻き込まれたくないなら登らないことだな」

 しばらく皆、初春の落ち着き払った背中を見送っていたが。

「雷牙、こいつらを集会場へ送り届けてやれ。火車は音々のお守りと、この山道を炎で照らすんじゃ」

 そう言って紫龍は直哉の方を見る。

「貴様も自分の身くらい自分で守れ」

 紫龍はそう言って、自分の獲物、『白虎』を直哉に渡した。

「……」

 真剣を初めて持った直哉の緊張もさることながら、行雲より更に重いこの剣を使いこなせる紫龍の戦神としての力に、直哉は震えた。

「ナオ」

 結衣が心配そうに声をかける。

「――何とかするさ。まだ俺達のことにも決着はついていないからな。お前達も気を付けて戻れ」

 既に音々と紫龍は山道を走り登っている。直哉も白虎を腰のベルトに挿して、山道を走っていった。

「ハルくん――君はまた――どんなことをしたというの?」


 雷牙の背に乗って、紅葉、雪菜、夏帆、結衣の4人は集会場に帰ってきた。

「おおクレハ、探したぞ」

 突然いなくなった孫娘達を心配して、紅葉の祖父は胸を撫で下ろして集会場の入口に出迎えた。

「おねえちゃん」

 心も姉を探していたようで、紅葉にすり寄ってくる。

 他にも紅葉達を探している者もおり、皆が見つかったということを紅葉の祖父が大声で話すと、皆ほっとして集会場の方へ戻ってくる。中には鬼灯町の人間もいた。

「ちょっと15分くらい外しただけなのに……」

「そうだクレハ、神子柴くんは一緒じゃないのか?」

 紅葉の祖父が訊いた。

「私達は彼に謝らなきゃならん――この町同士の諍いのために、その愚かさに気付かせるために、あんなに悪役の芝居をして、心を砕いてくれたのに」

「一番辛い思いをした彼に、罵声を浴びせてしまって……」

 鬼灯町の人間も神妙な面持ちで紅葉達の前に来て、しょんぼりと肩を落としていた。

「……」

 しかし、紅葉達は今までの経緯から、ただ目を丸くするばかりである。

「一体どうして」

「サクライさんとエンドウさんから全て聞いたんだ。お前達がこの野球大会で、儂等の諍いを止めた上で勝とうとしていたことを。儂等はお前達をそれに巻き込んだ上に、彼に酷いことをしてしまった……それを謝らなくてはならないと思ってな」

「鬼灯町からも詫びたい。儂等は君達を供物のように扱ってしまった自分の町の代表を止めもしなかった。それを必死に抗っていた彼を悪者にしてしまい……」

「サクライさん達が……」

 紅葉達はその紅葉のお爺さんの言葉に、ようやく初春の見る目が変わったことに、嬉しさがこみ上げたが。

 ――すぐにその歓喜は、不安に打ち消された。

「……」

 やっと――やっとこの町の人が初春の思いに気付き、初春を認めてくれたのに。

 初春がまた人間を傷つけたことが知られたら……

 振り出しどころか――大変なことになる。

「――戻ろう」

 結衣が最初に切り出した。

 他の皆もすぐに頷く。

 初春にこのことを知らせて、もう初春は戦う必要はないと教えてあげなければ――

「待って、その前に……」



「サクライさん」

 紅葉達は先程と変わらず縁側でリュート、シオリ、ジュンイチと一緒にのんびり星空を見ていたケースケのところへ行く。

「やあ、君達、出て行ったから心配したが、無事でよかった」

「あの――サクライさん。ありがとうございました。ハルくんのことを町の人に話してくれて……」

 夏帆が深々と頭を下げ、他の皆も続いた。

「――この町の人間も、そう悪い人間ばかりじゃないさ。今日一日いたからそれは分かる――ただ単に理由もなく憎み合う、悪しき風習に疑問を持てなかっただけだ。悪意で憎み合っていたわけじゃない」

「それをあなた達が背負うこともないわ。この町を恥じることもない」

「この星空だけでも美味い酒が飲める――そんな町もそうそうないぜ」

 シオリとジュンイチもにこやかにそう言った。

「……」

 その言葉が、この神庭町を故郷にする紅葉と雪菜を救った。

 さっきまでは憎み合う二つの町と、それに初春を巻き込んで責任の所在をないがしろにする故郷を恥じていたが。

 ――ちゃんと話せば分かってくれたことが。

 それを初春にも分かってほしかった。伝えたかった。

「ああそうだ。あのショートの彼に会ったら、これを渡しといてくれないかい」

 ケースケはそう言って、自分のシャツのポケットから小さなものを取り出した。

「わぁ、綺麗……」

 それは花の意匠の施されたカフスボタンだった。

「これ、サクライさんの手作りですか?」

「僕も持っているんですよ、それ」

 そう言ってリュートは自分のシャツの袖口についている、同じカフスボタンを見せた。

「僕達の心――竜胆の花です」

「竜胆?」

「君達――竜胆の花言葉を知っているかい?」

 ケースケは訊いた。

 皆かぶりを振る。

「私はあなたの悲しみに寄り添う。いつまでも……」

「仲間が辛い時こそ、自分が辛くても支え合い、助け合う――仲間が悲しんでいる時こそ、その悲しみを分かち合う――僕もそれをパパとママから教わりました。それでこれを貰ったんです。パパはそんな、『竜胆の心』が何よりも大事だって」

「この人、自分の同志になれそうな人にはそのカフスをプレゼントするんですよ」

「そのカフスがあれば、東京にあるこいつの会社の社長室に、こいつを訪ねていける――困ったことがあれば、助けてくれるぜ」

「……」

 怪訝な顔をして、ケースケを見る4人。

「あのキャッチャーの彼のことを何とかしたい――そこの彼女の望みを何とかしたい――それを願い、大将の心得を少し取り戻した彼を気に入ってね。これをあげようと思ったんだ。いらないなら処分してもらっても構わないんだが」

「いえ、ナオも喜びます。ナオはサクライさんを尊敬していますから。でも――サクライさんに対して欲張るわけではないのですけれど」

 そう前置きした上で結衣が訊く。

「ハルは――ハルにその心を感じることはありませんでしたか……」

 皆の怪訝な表情の理由を、結衣が訊いた。

「彼か――彼はね……」



 音々の先導で桜の木までの道のりを火車の息子の炎が照らし、その道を直哉と紫龍が続く。

 そしてその、桜の木のある山の峰まで来た時。

 直哉と音々は、背中がすくんだ。

 目の前には、桜の木の前――夏草の一本も生えていない山の地面に、10人余りの大男達――鬼灯町の野球チームの面々が、流砂に腰のやや上まで体を埋め、もがいている姿と。

 その流砂の周りで、無数の野犬や猪が、鼻息を荒げてその周りを囲っているのだった。

「た、助けてくれっ!」

 皆直哉の姿を見て、天の助けとばかりに声を上げる。

 だが、声を上げることで他の人間が近づいてきたことを知らせてしまい、周りの野犬達が途端に臨戦態勢を取った。

『紫炎!』

 咄嗟に火車の息子が直哉達の周りに自分の能力で無数の火球を生み、広範囲に拡散させる。一部を地面に置いて炎を燃え広がらせて見せると、野犬達は一旦直哉達から離れるために後ずさった。

「あ、ありがとうございます、火車様」

 しかしまだ動物達の鼻息は荒いままだ。爛々とした目で流砂に埋まった鬼灯町の野球チームの面々を見ている。

「こ、これ、ハル様がやったんでしょうか……」

「まあそうじゃろうな、しかしあいつの水と風の力でこんな流砂を作るのは難しいはずじゃが」

「いや――可能だと思う。力がなくても水があれば」

 直哉はすぐに見抜く。

「液状化現象ってやつを応用したんだと思う」

「何です? それは」

「一言で言うと、地震が起きると地面の底で土と均一に混ざり合っていた水が浮かび上がって、その分土が沈む――その現象を利用して流砂を作ったんだ。この前ハルが使っていた技――『大河の一滴』という技を、地面の下――それもかなり下に展開したんだと思う。このあたりはかなり掘り返された土みたいだからな。そんな下に水がある地面の上でハルが逃げまどい、ここにいる大男共がドスドス走ることで土の水分がどんどん上で染み出して、流砂ができる――こいつら集団の体重を利用したんだ」

「あ……」

 音々はその言葉を聞いて分かった。

「そうか――だからハル様は抵抗せずにここで逃げまどって……」

「ただあからさまに流砂を作っても、そこにはまってくれる馬鹿はいない。このやり方なら準備が必要だが、流砂に相手を飲み込める」

「神子柴殿の膝までついていた土は、自分も流砂に飲み込まれたんでしょうね――だけどそれを自力で脱出したんでしょう。行雲を使って自分の体を引っ張り上げたのでは?」

「小僧め……とんでもないことを考えよる」

 火車の息子も紫龍も、初春の力の使い方のトリッキーさは知っているが、この使い方までは知らなかった。

 紫龍は皆の前に出ると、闘気を前面に放つ。

 紫龍の裂帛の気迫は、後ろにいる直哉達にもびりびりとした空気の振動や、焦げ臭いにおいを発するような空気を感じさせたが、その闘気を前面で浴びた野犬や猪達は、蜂の巣をつついたように茂みの向こうに、か細い声を上げて脱兎の如く逃げ出してしまった。

「た、助かった!」

「あ、ありがとう! た、頼む、ここから引っ張り上げてくれ! 動けないんだ!」

 流砂にはまった連中はみっともなく助けを求めるが。

「これだけこの餓鬼共が騒いでいるというのに、野生の獣があそこまで集まるとは……」

 このあたりの獣も、よほど血に飢えていなければ人間の声がする場所にああも大挙して近づかないはずだが……

首を傾げている間に。

「グウウウウウウゥ……」

 恐ろしい唸り声が桜の木の奥の方からすると思うと。

 のっそりと、体長2メートル近いツキノワグマが姿を現した。

「わああああああっ!」

「く、熊だっ! 熊が来るっ!」

動けない連中はパニックになって悲鳴を上げるが。

紫龍の姿を見たツキノワグマは、頭が冷えたように血走った眼を収束させて、山の奥へと帰っていく。

「この山の動物は基本は儂や比翼達との共存が出来て、人間を襲う程狂暴ではないのじゃが……」

「種明かしをしてやろうか、おっさん」

 背後から声がしたので皆が振り返ると。

 さっきと違い、下をジーンズからジャージに履き替えた初春が立っている。

「ここに血走った獣が集まるのは、俺の血の臭いが周囲に漂っているからさ」

 そう言って、初春は流砂に埋まる鬼灯町の人間を一瞥する。

「そこの連中が俺を殴って流させた、俺の血の臭いがな」

「うっ」

 その初春の姿に、流砂の中にいる連中は怯える。

「何でここに戻ってきたのか――不思議そうな顔をしているなぁ」

 初春は露悪的に連中を睨んだ。

「こいつを家に取りに行っていたのさ」

 そう言って初春は右手に持っている袋を取り出した。

 持っているのは、何の変哲もない、どこの家庭にもある1キロ分のグラニュー糖である。100円もあれば買えるような安物である。

「こんなところで一夜を明かすんだ――遭難しているお前達に、簡単にエネルギーになる砂糖と水くらいはサービスで差し入れてやろうと思ったんだが――ドジでノロマで無能の俺は、うっかりこの砂糖を水の中に落としちまうんだ……」

 そう言って初春は右手に『四海』を展開し、グラニュー糖一袋の封を破って、袋ごと『四海』の中に放り込んだ。

 風の力で攪拌する渦を起こされた『四海』の中で、グラニュー糖はたちまち水に溶け、白い結晶は目に見えなくなった。

「そしてこの水を、うっかりお前達にかけちまうんだ。そうするとどうなるか……」

 そう言って初春は、流砂の中心部に『四海』を投げつけた。

 初春の手を離れた『四海』は途端に球体としての形を失い、地面に叩きつけられた水は試算して流砂にいる連中全員の体にぶちまけられた。

 すると。

「うっ、わああああああっ!」

 蛾や蠅、カブトムシ、ゴキブリなどの山に生息する虫達が、あっという間に鬼灯町チームの人間の体に一斉にまとわりつく。

 野犬や猪は、自分達も流砂に巻き込まれるのを恐れて、獲物にとびかかるのを躊躇していたが、空を飛べるこれらの昆虫たちは、お構いなしに直接連中の体に襲い掛かってくる。

「ついでにもう一つ俺の芸を見せてやろうか。召喚魔法ってやつだ……」

 初春はそう言って、流砂の端に左手の指だけを入れて、左手の風の力で広範囲に気泡を生み出した。

 こぽっ、こぽっという気泡がはじける音がしたかと思うと。

 その気泡に混ざって浮き上がってくるものがあった。

 体長は2センチもないような小さなそれも、連中の体にまとわりつく。

「い、痛いっ!」

 その小さな生物がまとわりついた者は皆、すぐに苦痛の悲鳴を上げた。

「おや――どうやら俺の血の臭いを嗅いで、ヒルがやってきたみたいだな。お前達の血の臭いと勘違いしたのか」

 初春は、自分の流した血の臭いの漂う流砂の中に、空気を流し込んで血の臭いを広範囲に広め、地中にいるヒルを呼び寄せたのである。

 野犬達などの血気盛んな獣を呼び寄せたのも、風に自分の血の臭いを乗せ、獣を興奮するフェロモンとして流したからである。

「くっ、来るなっ! 来るなっ!」

 もはや流砂の中心部は、蟻やゴキブリ、虫の大軍がはいずり出し、ヒルまで現れて――

地獄絵図のように真っ黒になっていた。


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