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俺の自慢の親友です

 神庭町の祝勝会の会場である集会場へは、入りきらないほどの大勢の人間が集まった。

 元々人気の少ない町なので、集会場の前の空き地を解放し、そこにもご馳走を運んだ。

 ケースケの指示で鬼灯町の飲食店からの料理が運ばれ、神庭町の飲食店の料理も、会場に運ばれる。

「皆さんも席について、料理を食ってください」

 ケースケも少々の出費をして気を遣ってはいるのだが、どうしても呉越同舟、自分の町の人間同士で固まってしまって、なかなか互いの町の人間と席を同じくする人間がいなかった。

「さ、サクライさん――気持ちはありがたいが、もう我々の親や祖父母の代からお互いの町は交流がないんだ。こんな一朝一夕に……」

 お互いの農協の人間達も困惑顔だ。

「あなた達にも大いに問題がある。子供達を大人の代理戦争に巻き込んで、挙句互いの町から女の子を差し出すなんてことになっても誰も止めもしないんだからな」

 優しい語勢だが、ピリッとした響きのある声でケースケは皆を叱った。

「時間がかかってもいいから、せめて負けた方が飯を奢るくらいの諍いにしていかなきゃ、また今回のようなことになりますよ」

「……」

 狭い世界にいることで、お互いの町の仲の悪さを日常的なものと捉えていた町の人間にとって、よそ者からの叱責は堪えるものがあった。

「しかし確かに、一朝一夕ではどうにもならないか……それなら、リュート」

 ケースケはリュートを呼び、集会場の隅に置いてあった自分の荷物からクラシックギターを取り出す。

 シオリはその荷物の隣からおもちゃのピアノを出し、自分はその脇にあったケースを開くと、手入れの行き届いたバイオリンが出てきた。

「少しは場を温めるくらいのことはしますよ」

 そう言って、ケースケはギター、シオリはバイオリン、リュートはおもちゃのピアノでの三重奏を披露した。

「わぁ……」

 そこにいる皆が息を呑む。

 ケースケとシオリの息の合ったセッションもだが、二人ともおもちゃのピアノの音量に合わせて音量、音域を調整しているのに、その調整が少しも乱れない。リュートのピアノも、3歳児とは思えないほど――譜面すらないのに3人ともいとも簡単にセッションを決めるのだった。



 それからケースケは自分達の演奏で心をはじめとした参加者の子供達と歌ったり、手品やジャグリングを披露したり、ジュンイチと漫談をしたり、様々な芸を披露して会場の皆を盛り上げた。

 呉越同舟だった神庭町と鬼灯町も、ほんの15分程度のケースケ達の芸によって、場の空気が和らぐ。

 既に若干お酒も入れた大人達はやんややんやとケースケに拍手を送り、紅葉達もその多彩な芸に見とれてしまった。

「あれだけ悪かった空気に、まるで一輪の花を挿したように――華のある方ですね、サクライさんって」

 ケースケの作っていた料理も何品かあるが、どれもプロ顔負けの美味しさだった。チャーハンだけでなく、海老のフリットや手羽先の唐揚げ等、定番のおつまみも味付けから手作りだけあって、出来合いのものとは一味違う。

 ジュンイチが一升瓶でそれぞれお酌をしながら両者の町の話の中に割って入り、会話の潤滑油として動いている。

 ケースケやジュンイチの働きと、料理の豪儀さに皆徐々に互いの心を開き始め、徐々にではあるが話がちらほらと始まるようになっていった。

 ある程度芸を終えると、ケースケは今日のことを詫びに回りながら、神庭町、鬼灯町両方の大人達の席を回っていたが、40代以上の女性陣がみんなケースケと話がしたいと、鈴なりになっている。

 そして……

「いやぁ君、最後のピッチングは最高だったよ!」

 それとは別に人だかりができたのは、直哉の周りだった。

 試合中の時点でその華のあるルックスで大会の注目を独り占めにしていた直哉だったが、それほど大きなインパクトをこの町に与えたようだった。

 紅葉の友達の里穂達も、直哉の方に寄って目の保養に努めている。

「まあ、そうなっちゃうよね――小笠原くんは」

「でも、お二人だってとっても可愛いのに」

 シオリは結衣、紅葉、雪菜、夏帆と、心と一緒のテーブルで会場の様子をうかがっていた。



「え? じゃあリュートくんはシオリさんと、サクライさんの子供ではないんですか?」

「戸籍上は養子だからあの人の子供ね――でもあの子は孤児なの。元々頭のいい子だから、それを本人も知っているけどね」

「あの人の子供ってことは……もしかしてお二人は、ご結婚をされていないんですか?」

「ええ、まあ……」

「えぇ……?」

 紅葉達は声を失った。

 どう見てもお似合い――リュートといるともう親子――夫婦にしか見えなかった二人が、実はそうじゃないなんて。

「でもどうして……」

「私がとっても、面倒で手のかかる女だってことかな」

 シオリは困ったような笑みを浮かべた。

「私はね――ちょっと人に言えないような過ちを犯しているの。そんな私なんだけど、あの人は私のことを救うために、大怪我までしちゃって……」

「……」

 夏帆の世代だと、天才サクライ・ケースケが表舞台から姿を消し、一年後の復帰時には、自分の足で歩くことが出来なくなっていたのは衝撃的なニュースだった。

「あの人は気にしなくてもいいって言ってくれるんだけどね……」

「……」

 紅葉達も何があったかは聞かなかったが。

 でも――分かる。

 シオリは――こんな眼をする人が悪い女の人だとは思えない。

 ケースケもシオリも、笑顔にどこか影を持ちながら。

 本当に今の幸せを噛みしめるように笑うんだ。

 この二人の笑顔には、そんな道の積み重ねを感じる。

 ケースケはシオリに起こった不幸を、そうして一つ一つ癒していこうとしているのだと。

「私はあの人のリハビリの手伝いを、せめて罪滅ぼしにしていたんだけれど――私が昔児童関係の仕事がしたいって言っていたのを覚えていてくれてね。孤児院の園長をやらないかって、言ってくれたの」

「孤児院?」



 人込みから解放されたケースケは、集会場の縁側で紫龍と二人、話をしていた。

 もう空には月が見え始め、夕日は沈み終わりかけ――群青色の空になっていた。

「――僕も今はこんなですが、将来的にはまた表舞台に求められると思っていますから。そのために僕は、同志が欲しいと考えましてね。その同志を、僕が育てるところからやりたいなと思って」

「孤児院に子供を連れて、兵隊を育成しておるのか」

「兵隊なんて捨て駒にする気はありませんけどね――僕も親に捨てられた身でしたから、そんな子供達に世の中を変える力がついたら、僕みたいな二流の人間も淘汰されていくでしょう――僕には無理でしたけれど、きっとリュートみたいな子供達が、この世界を変えてくれますよ。僕は今は、そのための種を撒いているところでしてね」

 酒の飲めないケースケは、ウーロン茶を飲んだ。

「その足――もうそれは完全には治らん傷のようじゃな」

 生命の循環を感じることのできる紫龍は、ケースケの足を見ながらそう言った。

「ええ、でも僕は後悔はしていないんですよ。この足のおかげで、大事な人を守ることができたのでね……」

「サクライさん」

 後ろからケースケに声をかける者がいた。

「やあ、今日のヒーローくん、君とも話がしたいと思っていたんだ」

 ケースケはにこやかに笑って直哉を縁側の自分の隣に促した。

「見事だったよ、君の投球も、打撃も。リュートにあれだけの機微に富んだ試合を見せてくれて、感謝している」

「でも――あの試合の最高殊勲者はハルです。僕は……」

「ふむ、そうだね、君とあのキャッチャーの子の勝負なら、君の負けだったな」

 あっさりケースケは言った。

「あのキャッチャーの彼は、あの会場で一番早く頭を回していた。この大会で自分のすべきことも、勝つための道筋も、相手の僅かのスキを突いて出し抜く手も、常時他の人間の2手3手先を行っていた――誰も追いついていなかったよ。特に最後の走塁――君を信じて囮になるとは、僕もしてやられたよ。僕がキャッチャーでも、彼の囮に騙されただろうな」

 そう言って、ケースケは後ろを振り返り、ちらほらと会話の始まり出した、集会場に集まった二つの町の面々を見る。

「ここにいる人間の全てが、こういうことを進めようなんて考えてもいなかった中で、彼だけが試合の後の締めくくりを考えていた――その力が自分にないと知ってはいてもな」

「……」

 あのサクライ・ケースケが、東京で皆に馬鹿にされたハルを認めるなんて。

 ――いや、そんなことはずっと前から分かっていた。

「井の中の蛙、大海を知らず――」

「ん?」

「されど、空の深さを知る――ハルはそういう奴なんです。僕の――自慢の親友です」

「そうか――いい友達を持ったね、君は」

 ケースケは何だか嬉しそうに笑った。

「いいかい、どんな手段を使ってでも勝つことは大事だ。負けて終わってしまうくらいなら、勝って次につなげられる方がいいに決まっている――でも、その手段を取ることを、大将はギリギリまで我慢しなきゃいけないよ。手段を選ばないやり方というのは、負けた相手を納得させずに、また次の敵を作るし、相手の抵抗も強まるからね」

「……」

「まあ、僕も実業家時代は手段を選ばないタイプだったがね……おかげで周囲は敵だらけだった。でも今は、大事なものを守りたいからそういう戦い方はしないと決めているよ。次に僕が手段を選ばず戦うのは、僕が死ぬことを覚悟した時と決めているからね」

「シオリさんや、リュートくんを守るために――ですか」

「ふ――おじさんの恋慕なんて、君達みたいな若人に聞かせるのも気恥ずかしい話でね」

 自嘲めいてケースケは笑った。

「だが、あのキャッチャーの彼は君ならそれができると思ったんだろうね。勝つために手段を選ばないなんてレベルで君は終わらない――あの女の子を守るために、周りに文句も言わせないような男に君はなれるんだと」

「……」

 横で聞いていた紫龍が煙管をふかす。

「――あの友達は、大事にするといい――君の人生の財産になるよ。君という大将のために全てを投げ打って戦い、君が曲がれば、殴ってでも元に戻してくれるような兵士――力は君に遠く及ばなくても、彼が君の剣になるよ」

「……」

「そして大将は、自分のために命を投げ打つ兵士に、生きて帰って来い、と命じるのが役目だよ。兵士を無駄死にさせないのも、大将の役目だからな」

「……」

 不意に縁側の陰に、ふっと消える気配があった。

 紫龍は二人に何も言わずにその場を立った。

「サクライさん」

 そう直哉が言った時。

「あの――サクライさん」

 少し遅れてケースケの背中に声をかける者がいた。

 結衣と夏帆であった。

「やあ、今日はお疲れさま」

 そうケースケは二人ににこやかに挨拶したが。

「あの、サクライさん、いきなりなんですが、どうかお願いしたいことが――」

 結衣が重々しく口を開いた。

「ふむ……」

 ケースケは首を傾げた。

「ちょっと待ってくれるかい? どうやらお嬢さんは切羽詰まっているらしいからね」

 そう言って先に話していた直哉に断りを入れるが。

「いえ――ユイの用件は分かります。それを俺が言わなきゃいけないんです――それが俺のヘタレでユイやハルを巻き込んだせめてもの詫びになりますから……」

 そう言って直哉は背筋を正し、座敷に頭をこすりつけるようにしてケースケに頭を下げた。

「サクライさん、お願いします! ハルを――あいつが東京で、ユイや俺と共に生きられるようになる道を教えてください」

「ナオ……」

 その声に、集会場にいた皆のざわめきも止まり、視線がそこに移った。

 あの眉目秀麗の直哉が、土下座をしているのだから。

「俺はずっと、ハルにユイの心を奪われたままなのが苦しくて――焦っちまって――でも、今回の件で分かったんです。俺にとっても、ユイにとっても、ハルはかけがえのない親友だって――ユイがあいつを信じる理由も、俺とは違って本当に大事なものが見えていたからだって――」

「……」

「あの試合ではっきり見えたんです。俺もユイも、もう一度ハルと――同じ時間を過ごして研鑽しあいたいって。ユイは――俺に見えないものが見えているハルを本当に必要としている――俺がユイを好きかどうかよりも、ユイがハルとまた同じ時を過ごせるようにしてやりたい――それで、もう一度俺もハルとユイを守れる男として勝負したいって――そう、思ったんです……」

「……」

 ――そう、それはあの野球の試合で、直哉と初春のバッテリーが相手を黙らせる様を見て結衣が思ったこと。

 やっぱり、ナオはすごい。

いつでも相手に文句の一つも言わせない程に、その場を締めくくることができる。

 そんなナオの側にいたから――私の今までの世界は、いつでも穏やかだったことも。

 でも――それでも。

 私は、この二つの町のいがみ合いを止めるために、ひとりで泥をかぶってでも、最初からその道筋を見ていたハルの心が――

 この町に押し掛けてきた私のために、ナオを立ち直らせるために、あれだけのことを力もないのにこなし続けるハルの心が――

 ――私は、どうやっても東京の暮らしで、なかったことにはできないと……

「私からもお願いします。サクライさん」

 夏帆もそう言った。

「教育者としてなんて、私が言えたことではありませんが――ハルくんはまだ、これからの子なんです。でも、今のままじゃ――人間とこの世界に絶望して、あの力を間違った方向に使ってしまうんです。どうかハルくんに、この先の希望を持てる生き方を持たせる方法を、教えてくれないでしょうか……」



 ――集会場の裏口から一人の黒い人影が出ようとした時。

「こそこそとどこへ行く?」

 その背中に話しかける者がいた。

 紫龍であった。

「おや――酒もご馳走もまだまだ大いにあるのですから、もう少しご歓談を楽しんでいかれては?」

 御伽士狼は振り返るなりにこりと笑った。その存在感のなさや黒いスーツも合わさって、まるで闇に溶け込んでいるかのようで、誰も御伽の存在に気付いていなかった。

「私は農協の人間ですからね。雑務にいそしもうかと」

「そうか、ではその前に貴様に聞きたいことがあるのじゃが」

 そう言うなり紫龍は自分の四つの愛用の武器の中でも最も間合いの広い『青龍』を出し、御伽の前に突き出した。

「貴様――何者じゃ。儂を前にして人間の振りなど通じると思ったか」

「おやおや、物騒なものを取り出して何を」

「ただの人間が、儂の投げる球を難なく捕れるわけがなかろう。猿芝居をしおって」

 そう、推定300メートルを飛ばす紫龍の剛腕が放つ剛球は、本来直哉以上である。

 それをサードからファーストにいる御伽は全く問題なく捕球しているのだから。

「はじめは違和感を感じる程度じゃったがな、貴様が儂が少し本気を出したような球でも捕るのだから、さすがに気付く。試合の合間は適当に手を抜いて、上手く隠したつもりか?」

 紫龍は静かだが鋭い舌鋒を御伽に向ける。

「ふふ――」

 それを聞いて、御伽は肩を震わせて笑った。

「――さすがはかつて高天原を震撼させた戦神紫龍殿だ。賽の河原で随分剣気が衰えたと聞き及び、この町ではすっかり耄碌(もうろく)していると聞いておりましたが」

 そう言って御伽は、初春が時折見せるのと何ら遜色ない好戦的な笑みに、その端正な顔を歪めた。

 紫龍もその笑みを見て、臨戦の構えを取る。

「儂が耄碌じゃと? 貴様、高天原の者じゃな」

 紫龍を下手な妖怪やアヤカシが軽んじることは考えにくい。紫龍の悪評を言うのは、自分が追放されて留飲を下げる神々である。

「私の正体を追うよりも、あなたにはもっと追うべき者がいるのではありませんか?」

 そう言って御伽は一瞬の風を起こすと、黒衣の羽飾りに覆われた、足元まで届くような長いコートに身を包み、地面を蹴ると空を闊歩し、一瞬で宙空まで行き、空に制止した。

「あの少女――まだ正体に気付いていないようですね」

 そう言って黒の羽飾りを空に飛ばすと、まるでその羽が漆黒の空に溶けるように、御伽の姿は消え去ってしまった。

 そしてまた静かになる。

「……」

 あの小僧――何か思惑の読めん不気味さがあったが。

 どうもあいつは、小僧のことを機にする素振りがあった。

 何か、よくないことを企んでいるのであろうか――

 そんな思考に紫龍が入り込んだ時。

「お師匠様!」

 夜空からそんな声がして、紫龍は空を見上げる。

 そしてそれは集会場にいる直哉や結衣、紅葉達、紫龍に貰った翡翠を持っている者達にも見えたのであった。

 火車の息子が、その巨体を集会場の横に着地させたのが。

 ただ事ではないと思い、紅葉達は火車の息子の着地した裏口に向かった。

 裏口へ行くと、火車の息子の背中に乗っていた音々が下りて、紫龍の前で息を切らせているのだった。

「どうしたんじゃ、そんなに慌てて」

「お師匠様! は、ハル様が山でさっきの人たちに囲まれて!」

「そんな!」

「た、確かにあの人達、ここに戻ってきていない!」

「……」

 それを聞いて紫龍は瘴気を探るが。

「む……」

 ――何だこれは、ほとんど瘴気を感じないぞ。

 小僧の場所を瘴気では特定できない――かつては家からでも市街地で奴の瘴気の暴走が目に見えるほどの瘴気を出しておったのに。

「それであの小僧は? あの小僧が人間相手に簡単にやられるとは思えんが……」

「いえ、それが――逃げ回って、殴られているだけなんです。ちっとも手を出さずに、逃げるだけで、悲鳴まで上げて」

「何?」

 あの人間の前でみっともない生き恥を晒すくらいなら死ぬことを選ぶような男が、悲鳴を上げて無抵抗に殴られているだって?

「で、でもそんなことをされているなら、助けなきゃ! 何ができるか分からないけれど、せめてそんなことを止めてあげなきゃ!」

「お願いします! 私達も一緒に行かせてください!」



 紫龍は皆を雷牙の背に乗せて、音々は火車の息子の背に乗って、音々の言っていた、土筆の眠る桜の木の方へと向かった。

「奴のことだ、そう簡単にはやられていないとは思うが……」

 瘴気では初春の気配がないために、紫龍達も山の上空に来たあたりからは下の方に目を向けていたが。

「あれは?」

 目のいい直哉が、小さな光を見つけて声を上げ、雷牙と火車の息子はそこに向かって降下した。

 そこは木に覆われた山林であり、桜の木と初春の家をつなぐ途中の道だったが。

「あれ? お前達」

 そこに立っていたのは、下山用の明かりとして懐中電灯を持っていた初春であった。

「み、神子柴くん?」

 皆何食わぬ顔をした初春に、ひとりでこんなところで会うとは思わなかったが。

「あ……」

 初春の頬には殴られたとみられる痣があり、まだ切ったばかりの唇からは血が止まっていない。

 重症というような傷はないが、数か所から血を流した跡があり、それを水で洗い流したような傷が残っていた。

 そして、初春の膝から下――初春の一張羅のジーンズは、まるでその中で転がしたようにべっとりと泥がついていた。

「神子柴くん、怪我してるじゃない」

「す、すぐに手当てをします!」

「大袈裟だって。こんなのすぐ治るって」

 飄々としている初春。

実際音々の剣幕では、もっと集団に囲まれて半殺しくらいの目にあっているのではないかと思っていた皆は、とりあえず安堵した。

「でもよかった――音々ちゃんから聞いて、あの人達に囲まれて酷い目にあってるって――心配したのよ」

「その様子だと、そうなる前に逃げられたみたいね」

 皆、ほっと息をついた。

「あぁ――まあ、確かに俺は『逃げた』な……」

そう小さく言って、初春は懐中電灯を持ったまま、家の方へと歩いていってしまう。

そんな姿に、少し拍子抜けした一同だったが。

「ぎゃああああああああああっ!」

 背を向けた山の方から、背筋も凍るような悲鳴が響いた。

 皆その悲鳴に肝を冷やす。

「たっ、助けてっ! 誰か助けてっ!」

「くっ、来るなっ! 助けてっ!」

 山の奥から複数の、声も枯れんばかりの悲鳴が聞こえてくる。

「……」

 初春はその悲鳴を聞いても振り返りもせずに山を降りていく。

「……」

 その初春の物言わぬ背中を見て、皆、悟った。

 初春がまた、人間を相手に恐ろしいことをしたのだと。

「――行こう」「――行きましょう」

 結衣と雪菜が、同時に口にした。

「私達に酷いことをしようとした人だけど――」

「神子柴くんに――これ以上人間を傷つけてほしくないですから」


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