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感心しておる場合ではないぞ

 ジュンイチの運転で神庭町山間部の温泉宿にやってきた初春、ケースケを除く神庭町チームは、既にケースケが話をつけていたこともあって、貸し切りの露天風呂に通されるのであった。

「あー、気持ちいい~」

 野球でかいた汗を流す爽快感もさることながら、露天風呂から見える神庭町の山々も絶景。交通が不便でなければ温泉宿としても十分栄えそうな景観であった。

「しかし手回しがいいなぁ。サクライさんのおかげで温泉に入れるなんて、儲けちゃったなぁ」

「っつ……」

 雪菜は温泉に入るのを躊躇していたが。

「あぁ……日焼けして肌がひりひりするのね。私もちょっとひりひりするかも……えへへ」

 シオリが普段インドアで紫外線の抵抗のない雪菜に声をかけた。

「ここの温泉、屋内には水風呂も低温湯もあるから、最初はそっちに行かない?」

 シオリも雪菜に負けず劣らず肌が雪のように白いが、結衣も溜息をつくようなスタイルである。身長は雪菜同様あまり高くない、胸も紅葉ほど大きくはないが、一つ一つのパーツがはっきりと女性らしさを主張していて、女性の優しさを表現する一種の芸術品のようであった。

 シオリが雪菜を誘って中の大浴場の方へ行く。

「さすが天下のサクライ・ケースケを射止めた女性だわ……綺麗だけじゃなくて、優しさの塊って感じね。あんなに笑顔が印象的な女性(ひと)、なかなかお目にかかれないわ」

 夏帆も同じ女性として、シオリの美しさは芸術肌の身として、酷く印象に残って離れなかった。

「10年後に私も、あんな素敵な女性に――なれる気がしないな」

 紅葉もシオリの美しさに見とれてしまっていた。単純な体や顔のパーツだけでなく、その笑顔が放つ優しげな雰囲気や、悪意や猜疑の欠片もないような純粋無垢な空気そのものにだ。

「でも――サクライ・ケースケ、色気があってカッコよかったなぁ。ナオくんも30になったらあんな色気も出るのかしらね」

「……」

 その夏帆のカマをかけた言葉にも、結衣と紅葉は黙ったままだった。

「しかし――ユイちゃんの今の心境はどうなの?」

「――ハルとナオのことですか?」

「そうそう、ナオくんを見る限り、どうやらハルくんの激励で立ち直ったっぽいじゃない。終盤の3回、私達何もしてなかったもんね。ナオくんとハルくんだけで勝負を決めちゃったようなものだったし」

「……」

 紅葉もレフトから見ていてそう感じた。

 雪菜が投げていた時は、自分のところに絶えず打球が来ると思って身構えていた反動かも知れないが、直哉のマウンド姿を見て、もう打球が飛んでくることはないという安心感さえ持って立っていた。

 ボールが見えないような速さで投げ込むストレート、ミットの音。

 視線が釘付けになった。

 あれが初春が憧れた直哉の本当の姿なのだろうと思った。

 直哉が味方をする陣営には、勝利が約束され、味方が安心感に包まれる。

 ――それは確かに、初春にはないものだ。

 それが結衣を守ってやるべき場所だと、初春が考えていることを。

 初春に想いを寄せる紅葉でも、その直哉の安心感を感じ取れた。

「で、どうなの? ナオくんが立ち直って、心境の変化はあった?」

「私は……」



「ふ―っ。俺も暑さには強い方だと思ったが、今日は結構走らされたから疲れたぜぇ」

 ジュンイチはセンターで序盤、女子が守る両翼のカバーに追われ、チームで一番の運動量を強いられていた。

「しかし、風呂上りに最高に美味いビールが飲めそうだ。皆さんのおかげですね」

 ジュンイチはその風貌に似合わず、とても笑顔が自然で、昨日会った人間ともすぐに裸でぶつかれる懐の広さを持っていた。

 それに対して、湯船に浸かる直哉、体を洗う紫龍、御伽は無言のままである。元々この町に来て初めて会った面子だ。初春がいて関係をつないでいたのだから、仕方のないことかもしれないが。

「何だ何だ、勝利の殊勲者が元気ないじゃないか」

 ジュンイチが隣にいる直哉の肩を叩いた。

「――でも、あの試合の最高殊勲者はハルですよ。あの試合に関しては、俺の負けです」

「ふむ……」

 ジュンイチが小さく頷いた。

「俺もさ、よく言われたんだよ。俺の友達(ダチ)はあんまりすごいからさ、お前はあいつらの金魚のフンだって」

 そう言うと、ジュンイチは立ち上がって湯船から出る。

「だから――俺は彼の言うことも分かる気がするんだ。俺も同じだったからな――俺みたいな雑兵がどうなっても生かさなきゃいけないのが大将って考えは、俺は分かる気がするな……」

「……」

 この人は言っていた。

 ハルのしたことは『捨てかまり』だと。

 自分が死ぬまで時間稼ぎをしてでも、後ろの仲間を生かす戦い方。

 ハルはずっと――俺が見ていない世界でずっと戦っていたんだ。

 俺やユイに、それを隠して……

 ――いや、違うな。

 俺はユイとは違って、あいつが鍛えた拳法で絡んでくる人間を返り討ちにしていることを知っていた。

 ただ――その壮絶さをあいつが語らないから――気付かなかっただけだ。

「いや、そんなことじゃない――」

 俺がハルに負けたのは、心だ。

 あの二つの町のために、いがみ合いを黙らせる程にパワーバランスを崩す。

 そんなことを俺は考えもしなかった。

結衣を守ることに気を取られて、目の前の課題の本質を見逃した。

 そんな解決法を思いついたハルの心に、俺は負けたんだ。

「しかしそんなことに感心しておる場合ではないぞ」

 紫龍が言った。本来紫龍は体の浄化は神力でできるので風呂は必要ないが、ついてきていた。

「おぬしにはこれからもうひとつ仕事があるからな」

「え?」

「あの小僧にとどめを刺す仕事がな……」

「……」

「お前達との思い出も、あの娘への想いも、全て精算できるような敗北を、おぬしに刻み付けられること――おぬしを立ち直らせたのも、そのためじゃ。小僧もおぬしが目覚めたのを見て、もうとどめを刺される準備を始めておるじゃろう。だからおぬしと一緒にいることを拒んだのじゃ」

「ええ、でも俺はその前に、もう一つやらなきゃいけないことがあって……」



 ――体中が泥のように重く、不浄なものがまとわりついているようだった。

 もう日も傾き始めている夕方に差し掛かっていたが、それでも夏の暑さは収まる気配がない。

 この神庭町で数少ないイベントである野球大会を見に、街に人はほとんどいなかった。元々静かな町が、更に静かに感じられるようだった。

 ひとり野球会場から荷物を持って出た初春は、汗だくのTシャツのまま、町の一つの店の引き戸を開ける。

「いらっしゃい」

 やってきたのは、ラーメン屋『影法師』である。

「おや」

 店主の影山は初春の顔を見るなり、常連客が来たような顔で初春の顔を覗き込んだ。まだ夕食時とも言えない時間なので、予想通り店のカウンターに客は誰もいなかったが。

「あら、いらっしゃい」

 厨房の方に影山ともう一人、エプロンをした女性が立っている。

『ヒノさん』であった。

「どうも、ここで働いているんですか?」

「働いているってほどじゃないよ。図書館が休みの日にちょっと手伝いつつ、場所を貸してもらっているの。また少し物語を書き始めたからね」

「――つまりそれだけこの店は満席にならないってことなんですね……」

 この田舎町にはゆっくり本を読んだり書いたりできるようなカフェなどないのである。

「ラーメンひとつ、いただいていいですか。貰った無料券あるんで」

「ああ、君になら腕によりをかけるよ。トッピングも全部乗せにしてあげるよ」

 そう言って影山はにこりと笑って、麺を茹で麺機に入れた。

「……」

「今日は野球大会に出たんでしょ。セツナちゃんと一緒に」

 厨房の横でスープの準備をするヒノさんが言った。

「ええ、勝ってきました。柳達は祝勝会の前にひとっ風呂浴びてくるみたいですけどね」

 自分がそこに出ないことを言うと面倒になることを分かっているので、適当に濁した。

「そう――今度はセツナちゃんと一緒に来なさいよ。あの娘、あなたから誘ってもらえたらきっと喜ぶから」

「……」

 そうだ――俺はあいつらに――巻き込んだ柳達に礼も言えずに逃げてきてしまったな。

 俺は祝勝会なんかよりも、自然とここに足が向いてしまって。

「はい、ラーメンお待ちどう」

 影山の絶品のラーメンの上に、煮卵、コーン、ほうれん草、海苔がトッピングされ、チャーシューは豪勢に4枚も乗っている。

 元々飢えた時期が長くて胃の小さい初春にとっては、なかなかの量なのだが。

「いただきます」

 初春は麺をすすった。スポーツをして塩分が体から出尽くした後だけあって、ガツンと来る影山の濃厚なスープは圧倒的な美味さだった。

「美味ぇや……」

「今度はみんなで来なさいよ。ひとりじゃなくて。あなたにも、ちゃんと仲間がいるんだから」

 そう言って、ヒノさんは笑った。

「最初に会った時にも言いましたけど――影山さんの腕ならもっとこのラーメンで金を稼ぐこともできたと思います。なのにこの町に戻って、客も入らないラーメン屋になっちまって――後悔はしていないんですか?」

 初春は麺をすすりながら、カウンターで初春の食べっぷりを見ている影山に聞いた。

「そりゃね――そこに関しては思うこともある。でもね、それはいつでも出来るんだ。君達のおかげでこの町に戻って、今しか出来ないものが手に入ったし――ノリコさんがほんのちょっとでも僕の店を手伝って、僕の店を作っていく――そんなことが僕はすごく嬉しくてね」

「私も、君やセツナちゃんのおかげでもう一度、自分の夢を追うことができたこと――感謝しているわ。勿論結果なんて望めないけれど――それでもこうしてツカサくんとまたお互いの夢を語り合えることが、本当に今できる最高の時間だから」

「……」

 ――この二人は、『ねんねこ神社』が動かなければ、今こうして再会することもなかったかも知れない。

 俺自身、何でこの人達を再び巡り合わせようと思ったのかもいまだによくわからないが……

 俺も諦めなければ、こうして直哉や結衣と再び同じ道を歩める日が来るのだろうか。

 ――いや、無理だな。

 この人達のように、俺のところに『ねんねこ神社』は現れない。

 現状俺が東京であいつらと元の生活に戻る術はない。

 俺はこの人達が身を切るような思いをしても出来なかった『諦める』ことをしなくてはならない……

 それを確認するために、ここに来た。

 ――俺は、もう……

 ――ひとりでは、自分の居場所さえ見つからないんだ。



「……」

 温泉で汗を流し、さっぱりした姿で街の集会場に帰ってきた紅葉達は、言葉を失った。

「やあ君達、どうだい? 風呂はよかっただろう?」

 集会場の大庭には業務用ガスコンロがあり、その前でサクライ・ケースケが額に大粒の汗を浮かべながら、見事な手さばきで中華鍋を振り、パラパラのチャーハンを煽っていた。

 リュートがケースケの作った料理を、集会場の座敷に運んでいく。テーブルもないので畳の上は御馳走が並び、目移りするようだった。

 横を見ると鬼灯町の人間達が渋々した顔ながらも食べ物や飲み物を次々に集会場に運び込んでいく。

「なるほど、お前のした指示はこれか……」

 ジュンイチは頷いた。

「要するに敗者の罰として、飯と酒を神庭町に奢れ、と」

「町の女を奪い合うよりも、ずっと健全だろう?」

 ケースケは炎天下の中、額の汗を首にかけたタオルで拭いながら笑った。

「お前も楽しんでいるようだがな」

「まあな、ここ数日あの車で、大したものを食ってなかったからな。特にこの用意してもらった大型コンロはテンションが上がるぜ。これだけの火力ならこうして思い切り自分の好きなものを調理して食える」

 そう子供のように笑って、ケースケはまた中華鍋を振った。

「パパ」「おじさん」

 リュートと心がケースケの元へ寄り、仕事はないかとすり寄ってくる。どうやらこの短時間で、心もケースケに懐いてしまったようだ。

「よし、主賓も来たからな、そろそろ二人もみんなと楽しんでおいで」

「……」

 夏帆は目を丸くしてケースケを見ていた。

「なんて言うか――意外です。あの天下のサクライ・ケースケがこんなところでチャーハン作ってるなんて……それもあんな楽しそうに」

 報道や功績の中で夏帆の知るサクライ・ケースケというのは、凛とした強さのある中で、深い悲しみを讃えたような人だった。

 彼が日本中の女性から想われたのも、捨てられた子犬と称された悲しい目――そして両親からの虐待によって数奇な運命を辿った、彼の悲劇的な人生の業の深さに、皆が心を砕かずにはいられなかったからだ。

「あいつは元々政財界や芸能界のようなきらびやかな世界で生きられるようなタマじゃない」

「ああして名もなき人になっている時が、一番あの人らしいんですよ」

 ジュンイチとシオリが安心したように微笑んでいた。

「ん?」

 その姿を見ていた直哉だったが、周りを見ていぶかしむ。

「どうしたんですか、小笠原くん」

 雪菜がその様子に気付いた。

「俺達と試合をしていた、あの連中がいない……」

「ああ、買い出しを頼んでいるんだ。じきに戻るさ」



 ラーメンを食べ終えた初春は、家に戻って荷物を置くと、すぐに一人山に登っていた。

 向かった先は、山の中腹にある一本の木。

 その大木を見上げた先に、この町を海まで一望できる丘が広がっていた。

 ヒグラシの鳴く声に、夕方5時を超えて、沈みかける夕日。

 このあたりは一度神力によって花が咲き乱れたが、瘴気に汚され、仮死状態で眠っていた時期が長いこともあって、紫龍達が別の結界で小休止させている場所だった。夏だというのに雑草の一本も生えておらず、翌年の桜の時期までは、少しずつ土を浄化させようとしており、土が肥沃さを持ち直しているところであった。

「土筆……」

 初春は木の一番上の方の枝に結ばれたリボンを見る。

 ここで自分を信仰してくれた人のために、残り僅かの力を振り絞って、ささやかな礼に全てを費やして、消えてしまった土地神。

 その生き方が初春にとって、音々を守る神使としての在り方を考えさせた。

『――神子柴殿』

 葉をつけた桜の木の揺らめきに合わせて、声が聞こえた気がした。

「土筆――お前がここで最後に俺に言っていた言葉――ユイ達が来てから、ずっと考えていたよ」

 梢が小さく揺れる。

「お前が最後に言っていたことの意味――少し分かった気がするよ。誰のためでもなく、恩を返すとか――消える前に、あいつらのためになることができたって――そんなに悪い気分でもねえって気持ち――」

 そう言って、初春は桜の木に背を預けて座り込む。

「――と言っても俺は、お前みたいに優しいやり方はできなかったけどな」

 本当は、俺もあいつらに、あの時の桜のような見事な花を届けてやりたかった。

 それが俺の血の付いた花であっても。

「――ハル様」

 木の陰からひょこりと音々が顔を出した。

「音々か――お前もおっさんについていけばよかったのに」

「どうせ私は参加はできませんから」

「そうか――お前の働き、結構でかかったのに。今回の件で報酬取る時に、それをどう伝えるかな」

「そんなことないですよ。ハル様は……」

「音々、お前は俺を買いかぶりすぎ」

 初春は音々の言葉を遮った。

「俺はね、お前やおっさんがいなきゃ何もできない男だよ」

 音々の完璧な球種読みがなければ、初春はあの試合でほとんど何もできなかった。

 初春の立てた作戦のほとんどは、音々と紫龍の助けなくしては成立しなかった。

「土筆の依頼を叶える時も、この前神庭高校での依頼も――お前がいなきゃ一方的にやられていたよ」

 そう、この町に来ても俺は、自分一人の力で成し遂げたものというのはあまりに少ない。

 俺がどれだけ人間を憎もうとも、世界を変えられるだけの力がないことは、初春自身がよく分かっていた。

「本当に――俺って奴は……」

 そう言いかけて、初春の言葉が詰まった。

「ハル様……」

 音々はそんな初春の頭を優しく抱きしめる。

「ハル様は――ずっと堪えていたんですよね……結衣様と直哉様の前ではずっと堂々としていられるように――」

「……」

「今だって――ハル様からお二人を奪ったこと、全然整理も出来なくて……でも、笑って見送ってあげようって気持ちの整理をつけるために、ここに泣きに来たこと――分かります」

「そうか――」

「だから、ここで思い切り泣いても……」

「――いや、どうやらそうもいかないみたいだよ、音々」

「え?」

 音々は初春の言葉にあたりを見回すと。

 夕日に染まる山の薄暮の中から、一人、二人――人影が姿を現す。

「はは、わざわざ一人、自分からこんな人気のないところに来てくれるとはな。つけてきた甲斐があったぜ」

 それは鬼灯町の野球チームの面々だった。皆金属バットを持ち、初春の周りを囲もうとする。

「テメエのおかげでえらい恥を公衆でかかされたからな。落とし前つけてもらいに来たぜ、糞餓鬼」

「あの勝ち負けにも納得がいかねえが、それ以上にテメエのやり方が気に食わねえ。年上の俺達に対する礼儀もなってねえからな、これからじっくりそれを教えてやるぜ」

 もう初春は桜の木を背にし、前方を自分より年上の体格のいい男達に囲まれてしまっているのだった。

「はぁ……」

 初春は溜息をつきながら立ち上がるが。

 立ち上がるなり、前の一人に有無を言わさず、顔を殴り飛ばされた。

「ぐっ」

 初春の軽量の体は拳一発で簡単に吹き飛んでしまう。

「キッチリ今日の落とし前、付けさせてもらうぜ」


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