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大将の心得(12)

「タイム」

 ワンアウトを取ると、直哉はタイムをかけてキャッチャーの初春を呼んだ。

『どうしたのでしょうか? 素晴らしいストレートで先頭を三球三振に取った小笠原くん、怪我をしたのでしょうか?』

 鬼灯町の選手達は、内心ほっとした顔を隠そうともしなかった。

 皆雪菜の蠅が止まりそうなボールを見続けたばかりだ。あのストレートに目がついていく自信など全くないのだった。

 だが――

「ストレート以外のサイン、決めよう」

直哉がグラブで口を隠しながら言った。

「俺は野球は素人だが、見せ球でもいいから変化球があるところも見せておこう――遊びでは投げたことあるからな」

「――少しは景色が見えるようになったと思ったが――お前、スランプになる前よりもよくなったんじゃないの」

 初春が首を傾げた。

「お前はああいう『激アツ』を決めた後はつい油断する癖があったからな――立ち直ってすぐは気が抜けていると思ったんだが」

「ユイがかかっているってのもあるが――お前に教わったよ。敵を侮るのは弱い人間のすることだって……」

「……」

「いや――思い出したんだな。俺のやり方ってやつを……」

「――そいつはよかったね」

 初春はそう言って、力ない笑みを浮かべた。

「ここでしっかり締めくくるぞ。二つの町の因縁も、俺のずっとくさくさしていた気持ちも、全て断ち切るためにな」

「別にそんな難しいことは考えなくてもいいさ……」

 初春は力なく笑った。

「こういう時、お前は好きに暴れろ」

 ――そうだよ。ナオ。

 お前はそれでいいんだ。

 結果のためにお前が行動するな。お前の行動の後に結果ができる――それでいいんだ。

 お前が負けた時は、もう駄目だ――俺も諦める時だという覚悟はできている。

 お前はどんな時でも負けないことだけ考えるんだ。

 だがそれは、俺のように手段を選ばない強さじゃない……

 ――堂々とだ。

「グーチョキパーで行こう」

 サインを簡単に決めると、初春はホームベースに戻っていく。

「おいみんな! 適当に休んでいていいぞ!」

 初春が大声でバックに声をかける。

「この試合、残りはナオと俺で引き受けたぜ!」

「な……」

 これは初春の勝利宣言と言ってよかった。

 だがもう、誰もブーイングも異論も唱える者はいない。

 それだけ直哉のボールの威力が、さっきまでいがみ合っていた両者の人間に思い知らせたのだ。

 神庭町の勝利――鬼灯町の敗北を。

 それを聞いてサードを守っている紫龍は、グラブを脇に置いてサードベースを座布団にして、懐から煙管を取り出して、呑気に煙草をふかし始めるのだった。

「おぬしらも適当にやっていろ。この糞餓鬼共に尻を拭かせるんじゃな」

「ははは……」

 皆各々に構えもせずにリラックスして立ち尽くす。

「く、くそ! なめやがって!」

 鬼灯町の打者は怒り心頭で打席に入るが。

「さぁて――罷り通らせていただくか」

 一球目に投げた直哉のツーシームが、140キロ台のスピードを出しながら内角を抉りつつ外側に曲がってストライクに決まる、いわゆる『フロントドア』になり、打者は腰を引いて見逃す。

 場内がどよめく。

『な、なんとこの球速に加えて変化球も操ります! 神庭町、とんでもない投手を隠していた!』

「ま、マジかよ……」

 鬼灯町のナインも空元気を出す気力すら奪う、直哉の変化球の存在――

「――カードの切り方が絶妙だ。これでもか、ってくらい大将の剣で一刀両断にするつもりか。慢心だけが心配だったが――もう一縷の望みもないな、相手には……」

 ケースケの読み通り、初春のミットに直哉の見せ球であるスライダーやツーシームがいい音を立てて決まっていく。

 もはやバックの守りなど本当に無用である。鬼灯町のナインは経験者とは言え、もう成す術がない……

「ナイスボールだ、ナオ!」

 二人目も三振にとってボールを直哉に返す初春。

「すげぇ――絵になるわ」

 ジュンイチはグラブを頭に乗せ、首に下げた一眼レフでシャッターを切り続ける。

「さすがにあのハルくんの見込む友達だけあるわ――」

 ライトの夏帆ももう安心して見物に回っていた。

 そして――

「……」

 その直哉のマウンドの佇まいと、安心したようにミットを構える初春の姿を、結衣はセカンドのポジションから嬉しそうに見守っていた。

 ――懐かしいな、この感じ。

 ナオが目の前の相手を次々にねじ伏せて、周りを納得させて――その場に涼やかな風を運ぶみたいに、何もかもを洗い流していくような空気……

 すごく心強いし、安心する感じ……

 ――ハル、ありがとう……

 ちゃんと私とした約束、守ってくれたんだね……

 ハルのおかげで、ナオが復活した……やっぱりハルは、困った時にいつも私を助けてくれて……

「ハル……やっぱり私……」



『三者三振! まったく寄せ付けずにあっという間にチェンジ!』

 ベンチに戻りながら直哉は満面の笑みで初春とタッチをかわす。

 ベンチに戻ると、ケースケは拍手で二人を迎え入れた。

「お見事。やっぱり君達に加勢してよかった。面白いものが見られた」

「すごいです! お兄さんカッコいいです!」

 これまで大人びていたリュートもきらきらと目を輝かせ、年相応の子供の目になって直哉に賛辞を贈る。

「みんな」

 直哉がリュートの頭を一撫でしてからベンチに戻ってきた皆を一瞥して頭を下げた。

「みんな、ごめん! 俺が腑抜けていたせいで、みんなに迷惑をかけた――女子のみんなには、不安な思いも沢山させて……」

「まったくだぜ、お前がスランプじゃなかったら、あんな連中、もっと楽勝に倒せていたのによ」

 初春が皮肉を言った。

「――ユイを悲しませることもなかったんだ。馬鹿野郎」

「……」

 そんな皮肉を言いながらも、どこか安らいだ表情をしている初春なのであった。

「秋葉――この回はお前からだが、もう適当に三振で構わないぞ。こいつはあんまり援護しすぎると調子に乗るからな」

 そう言って初春はプロテクターだけ外すと、ベンチに深く座った。

 落ち着くと自分達のベンチの周り――神庭町の応援スタンドの直哉に沸き立つ声が一層鮮烈に聞こえた。

「――大したもんだよ、君は」

 ベンチ内でそう言ったのはケースケだった。

 はじめは直哉に言ったのかと思ったが――

「あの走塁――少なくともあの一瞬では僕はあの方法を思いつかなかった。彼の足があれだけのものを持っていたとしても、突っ込んでくれる保証もなかったからな。後ろの彼は君を信じて突っ込んだんだろうが、君が自身を生還させることを捨てて、初めからキャッチャーの注意をそらそうとしたことは、なかなかできることじゃない」

 直哉や夏帆など、ケースケの経歴を知るものからすれば、あのサクライ・ケースケにも思いつかない作戦だったと言われることは最上級の賛美に等しいことが分かった。

「それに――彼のボールを一球も後ろに逸らさなかったのもな。あのファール打ちにしても、なかなかあの芸当はこなせないぞ。観客は彼の投球と俊足に心奪われて、誰もそこを見ようとしないがな」

「……」

 そう、あまりにも初春が当然のように捕るので観客も誰も気付いていないが、あのボールを捕れる初春も十分すごいのである。

「別に怖いって思想を捨てりゃ、ただボールを見るだけのことですから。打者のバットに頭を殴られても、ヘルメットしてるんだから上等すぎるでしょ」

「その割り切りをするまでに野球をやめる子もいるんだがな……」

 ジュンイチが苦笑いを浮かべる。

「――常に勝つための最善を考えて、ありとあらゆる手を分析するために、頭を動かしているし、その場その場の集中も並外れている――僕はこの試合が始まるまで、君がこのチームの中心にいることに懐疑的だったが、人の命運を背負う者の戦とはこういうものだというのを見せてもらったよ」

 それは心からのケースケの賛美だったが。

「――頭がいいと、穿った見方をするんですね……」

 初春は皮肉めいて言った。

「俺は最初から、このチームの命運をナオに丸投げしてたんですぜ――それまでは俺はユイやみんなを人身御供にしようとしたってのに、負けたらどうしようとか考えたくなくて、そこから逃げるためにこの試合に集中する振りをしていたに過ぎません――」

 初春は自分の手を軽く持ち上げると、その手は小さく震えていた。

「こうしてナオが復活したのを見て気を抜いて、ユイ達を差し出すことにならなくて済んだって――ほっとしたら震えちまっているような男に――人の命運を背負う資格なんかありませんや……」

「……」

 ――そう、あの鉄面皮の初春が前の攻撃の時。

 自身の詰みに近い形に追い込まれた時、ケースケが代打を申し出てくれるまで、珍しく本気で狼狽していた。

 試合に負けて自分が酷い目にあうことを覚悟し、このまま負けたら俺の腕を折れ、とまで紫龍に頼んだ初春が、である。

 ――本当に結衣や紅葉達の身を案じるが故、この試合が始まってからずっと、彼女達の身の安全を確保できるまで、極限の心理状態にいたことが分かった。

「ハル様……」

 その心理状態を早くから悟っていたのは、音々であった。

 自分が崖から落ちたところを助けてくれた時も、初春は震えていた。

 自分の痛みは思想を消せばいくらでも耐えるけれど――

 ハル様は、守るべき人の危険は、どんなに思想を消しても怖いんだ。

 いじめられっ子で、臆病だった頃の繊細さを残していて。

そうでもしないと隠せなくて。

 ――結衣が神庭町に来た時から、初春がほとんど家でまともに眠れていないことも知っていた。

「ハル……」

「――だからナオ、もうこんなことはもうこれっきりにしてくれ。俺はお前みたいに相手の命運を背負う程出来た人間じゃねぇよ……」

 ぐったりした初春を見て、想像以上の疲労と心労が初春を蝕んでいることを、皆が知ったのだった。



 結局6回表は紅葉がショートゴロ、夏帆が三振、シオリがセンターフライで三者凡退。

 その裏、直哉はまたも三者三振に切って取り、観客の声援を一手に受ける。

 そして最終回、神庭町最後の攻撃。

 ジュンイチがレフトフライ、結衣がサードゴロに倒れた後。

『三番、キャッチャー、神子柴くん』

 初春に打席が回る。

 その名がコールされて起こったのはブーイング――

 ではなく。

「あれだけの投手がいながらあんなまどろっこしいことをしおって」

「最初から正々堂々戦えばいいのにねぇ」

「こいつのやってたことって、一体何だったの?」

 という、ざわざわとした初春への疑念の声であった。

「神子柴くん……」

 この結果をケースケと紫龍は予想していたが、ケースケの話を聞いて雪菜も気付いていた。

「神子柴くんは、小笠原くんの引き立て役――ピエロになることを最初から受け入れていたんですね……そして町同士の憎しみが、自分だけに向くようにして」

 あの不必要なまでに自分の卑怯さや露悪趣味を見せるやり方で、余計に直哉の正々堂々さが引き立つ……二つの町のいがみ合いも、

 神子柴くんは最初から……

『さあ、最終回に回ってきた神子柴くんの打席ですが……おや?』

 初春はこの試合初めて右打席に立つ。

「な……」

 それを見て、鬼灯町の面々に電撃が走る。

『な、なんと、今まで剣術打法によって鬼灯町を苦しめてきた神子柴くんが、一回戦でスタンダードだった右打席に立ちます。こ、これはつまり、もう鬼灯町を苦しめる必要はない――事実上の勝利宣言に等しい行為です!』

「ふ、ふざけやがって!」

 初春の行為を手抜きだと解釈した鬼灯町の面々は、眉間に青筋を立てて屈辱に顔をしかめた。

「あんだけやめてほしそうだったのに、やめりゃやめたで文句があるんだな……」

 怒りに任せて投手は投球モーションに入るが。

 初春はモーションに入った瞬間にバントの構え。

 投手とサードがそれを見て前に走ってくるが。

 初春はボールが離れる前にバットを引いて、バットを短く持ってボールを捉えた。

 打球は至近距離のサードのグラブをはじいてファールグラウンドに転々と転がるうちに、初春は一塁にゆっくり到達するのだった。

『こ、これは初回の鬼灯町の攻撃の再現!』

「俺は試合終了のその時まで相手をなめて手を緩めるような真似はしないぜ。ただ、柳を狙い打ちしやがった借りをちゃんと返しておきたかっただけさ」

 初春は塁上で鬼灯町の面々を一瞥してそう叫んだ。

「あんだけ疲れた顔をしていたのに、勝負事で本当に手を緩めることをしないな」

 ケースケも、初春のその勝負根性に改めて脱帽する。

 そして――

 直後、黄色い歓声の後の快音。

『文句なし! ダメ押しのツーランホームランが小笠原くんのバットから飛び出しました! これで3点差! 走塁、投球に続いて打撃でも勝負を決める一手! 小笠原くん、千両役者顔負けの活躍です!』

 ダイヤモンドを回る直哉に観客重が釘付けになり。

 もう、その前を走る初春を見る者は誰もいなかった。


「ゲームセット!」

『最終回も三者三振で片付け、ゲームセット! 結果は12対9で神庭町の勝利です!』

「やったやった!」

 紅葉がマウンドの方へ駆け寄ってくる。

 初春と直哉がマウンドでハイタッチをすると、皆がマウンドに集まってそれぞれ声をかわす。

 それに対し、鬼灯町ナインはベンチからもしばらく立ち上がれず……

 単に3点差という内容以上の疲労に苛まれ、ずっと前から感じていた確実な敗北の絶望感に抗う時間から解放されたことにどことなく安堵したような表情をしていた。

 それは鬼灯町の応援席の観客も同じだったが……

「カカカ! 鬼灯に勝てたわい!」

「小笠原くんカッコいいなぁ――ファンになっちゃった!」

 神庭町の応援席も大盛り上がりである。

「両チーム、整列!」

 ケースケの代わりに審判を務めた鬼灯町の審判が、試合後の挨拶のために両チームをホームベース上に整列させた。

「……」

「12対9で、神庭町の勝ち」

「あ……」

 皆が挨拶で礼をしかけた時。

「おい、挨拶なんてどうでもいいんだよ! 試合前にも挨拶なんてしてねえからな」

 一人の人間の棘のある声が皆の行動を止める。

 初春はそう言うと、鬼灯町ナインの前に一歩詰めよって睨んだ。

「お前等、ずっと待ってるんだけどな。お前等は俺達が負けたら女を差し出すように要求してたんだ。お前等が負けたらお前等が何を差し出すんだよ。テメエで賭けを持ちかけたなら、自分から何かを払う約束をするのが筋だろうが、あぁ?」

 その声は球場中の背筋を凍らせるような声であり、終わり良ければ全て良しという雰囲気になりかけていた球場の空気を凍てつかせるのだった。

 しかし、今回は演技ではなく、初春は本気で相手の連中に怒りを覚えていた。

「み、神子柴くん――勝ったんだから、もう」

 紅葉が仲裁に入るが。

「駄目だね。こういう弱い者から搾取しようとする奴は、自分が痛い目見なきゃ懲りねぇんだよ。きっちり払ってもらうぜ。お前等を賭けで奪おうとした思い上がりを、心の底まで反省させてやる」

 ――これだから人間は嫌いだ。

 相手をいたぶる時だけ不当な要求をし、自分が窮すればその不当な条件を避けようとする。

「さあ、何で払うんだよ! こいつらの対価、そう安いもんじゃ納得できねぇぞ!」

 初春は相手にさらに怒鳴りつけるが。

「お困りのようだね」

 不意に背後から爽やかな声が、そのピリピリした空気を払いのける。

 振り向くと、ステッキをついたケースケが出てきていた。

「どうだろう、その対価ってやつだが、僕に一度預からせてくれないだろうか」

 ケースケは鬼灯町とケースケの顔を見る。

 それからスタンドを見回して、周囲によく通る声で言った。

「町の皆さんも残ってください。鬼灯町には敗者のペナルティを、神庭町には勝者の御褒美を受ける準備をしていただきますので」

 そう言うと、スタンドの観客も皆怪訝な表情をしていたが。

「さて、まず君達は手始めに――このメモの通りに動いてもらおう」

 ケースケはそう言うと、自分の手帳のページを一枚破って、鬼灯町ナインの一人に差し出す。

「で、鬼灯町の皆さんへの指示はこれ――神庭町のはこれ、ね」

 ケースケは神庭町、鬼灯町の連中にもメモを渡す。

「さて」

 最後に神庭町のナインの顔を見ると、ケースケは拍手をする。

「さて、君達には面白いものを見せてもらったお礼に、僕からささやかなもてなしをさせてもらおう。僕が今泊まっているこの町の山間の温泉旅館に話をつけてあるから、まずは試合後のひとっ風呂を御馳走するよ」

「え、本当ですか?」

 温泉と聞いて食いついたのは紅葉と夏帆である。

「あぁ、ジュンイチにあのキャンピングカーで連れて行ってもらうといい。試合の汗と泥を落としたら、祝勝会として食事の準備をしておくから、ゆっくり山を下りておいで」

 ケースケのその提案に、皆に笑顔が戻るが。

「俺はパスします」

 そう言って、ケースケは踵を返した。

「え?」

「俺はこの試合、後腐れを残しましたからね――祝勝会なんかに出て空気を壊すのも忍びないんで、このまま帰りますよ。その分こいつらをもてなしてやってください。この試合に巻き込んで、報酬も払えないんで」

 そう言って、ベンチに戻っていく。

「ちょ、ちょっと神子柴くん!」

「放っておいてやれ。あいつはこの試合で全てを出し尽くして、疲れておるのじゃよ」

 紫龍が紅葉達の引き留めを止めた。

「お前達を誘って、報酬も出せないあの小僧じゃ。代わりのものをあいつの分も受ければいい」

「……」

 ベンチに戻って帰り支度を始める初春の耳に、観客席の声が聞こえてくる。

「折角小笠原くんのおかげでいい感じに試合が終わりかけたのに……」

「あれじゃまるで恐喝だわ。もういいじゃないの。勝ったんだから」

「あの子、学校に行ってないんでしょ? お金に困ってるんじゃないかしら」

 初春は表情も変えずにベンチを出て、そんな陰口を叩く神庭町の観客席を横切って、球場の外に出るのだった。


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