表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
134/156

大将の心得(11)

『さあ、大変な事態になりました! ワンアウト1、2塁で神庭町のクリーンアップに打順が回ります! 3人ともこの大会で出塁率10割! その口火を切って、剣術打法の神子柴くんです』

 観客のボルテージが上がるが、相変わらず初春を見てブーイングの方が多い声援が球場を包む。

「ユイ……」

 フォアボールを貰った結衣はバッターボックスで立ち上がる。

「ナオ、気付いてる?」

「え?」

「この一打逆転のチャンス――ナオの大好きな「激アツ」の場面でしょ?」

「あ……」

「そういう時のあなたを、私は信じてるから……」

 そう言って結衣はファーストベースに向かって走っていく。

「……」

「お互いまだやらなきゃいけない仕事があるぜ」

 初春はその結衣の言葉に立ち尽くす直哉に言いながら、結衣の捨てたバットを拾う。

「俺も少しはユイを見習うか……」

 初春はそう言ってバッターボックスの一番ベース寄りに立ってバットを剣術の正眼に構える。

 その構えを見ただけで観客からブーイング。

「はあ、はあ……」

 もう150球を投げている投手にとっては、初春はもう顔も見たくない相手である。顔を見るだけでどっと疲れるのであった。

『敬遠も頭にあるでしょうが、後ろの小笠原くんもこの試合で3打点を稼いでいます。その後ろの紫龍さんは一回戦で7打点を叩き出した、長打率も10割のバッターです! 簡単に敬遠はできない!』

 実況がそう言う声を、初春は心の中で自嘲して聞いていた。

 その審判の言葉に反し、キャッチャーは初めから立ち上がって敬遠のジェスチャーをした。

『な、なんと敬遠です! この場面で満塁策を取って、4番5番と勝負を選択しました、鬼灯町!』

「フォアボール!」

 初春は何もせずにフォアボールを宣告される。

 球場中がどよめくまま、初春は一塁へと走っていく。

『四番、ショート、小笠原くん!』

 この見せ場でその端麗な容姿と、ショートとして華麗な守備、シュアな打撃を見せていた直哉に、ふたつの町を真っ二つに分ける声が沸き起こる。

「頼む! ここで打ってくれ!」

「ここを抑えるんだ! ここを抑えれば鬼灯町の勝ちだ!」

 そんな歓声の中で、直哉は生唾を飲みながら打席に入ろうとしていたが。

「タイム」

 球場にタイムを要求した者がいた。

 一塁ランナーになった初春である。

 初春は一塁ベースを踏むなりタイムをかけて、直哉のところへ走る。

 そしてネクストバッターサークルを出たばかりの直哉に、自分の持っていたバットを差し出して笑った。

「人生初めての経験だぜ――俺との勝負を避けて、お前との勝負を選ぶ馬鹿がいるなんてよ。東京にいる時じゃ考えられなかったよな」

「……」

 直哉も分かっている。自分の前の打者を敬遠されたということは、自分の方が初春より下だと思われたということ。

「――お前は……」

「まだそれでも俺の方が上――なんて言うんじゃないだろうな」

 初春は直哉の声を遮った。

 そう言うと初春は自分の両手で直哉の肩を掴んで、きっと直哉の目を覗き込んだ。

「お前の強さは、俺なんかとは次元が違うんだ! 俺なんかじゃ全然敵わねぇ! ここですべての後腐れを消せるのは、お前しかいないんだ!」

 普段は声の抑揚の少ない初春のその鬼気迫る声は、球場中に響き渡り、皆を静まらせるほどの迫力があった。神庭町ベンチでさえ、初春のそんな真に迫る声を聞いたことのある者はいなかった。

「……」

 直哉もピンと背が伸びて黙り込むと、初春は両手を直哉の肩から外した。

「いいか、俺達は2点差で負けている――二塁のユイが帰れば同点、一塁の俺が帰れば逆転だ――だがな、お前の場合はこの場面でそんなことはもうどうでもいいんだ」

「え……」

「物事の条件よりも、重要な役目ってのがお前にはある――シンプルに、お前の仕事だけに集中しろ。それが結局、みんなを――ユイを守ることになるんだ」

 それだけ言い残して、初春はファーストベースに走っていく。

「……」

 その言葉が、背筋の伸びて体の毛が粟立つような、研ぎ澄まされ出した直哉の五感に、ここまで散漫だった集中力を呼び戻す。

「お」

 その変化にはじめに気付いたのは、神庭町のベンチにいるケースケだった。

「目の色が変わったね、彼――勝負に集中し始めたみたいだよ」

「え?」

 紅葉達はまだ変化に気付かないまま直哉を見るが。

 打席に立ってバットを構える直哉の目が、まるで初春のように相手の後の先を取るために特化した、一点のみを見る目に変わっていた。

 しかしその目は、初春のようにすべての思想を捨てた、がらんどうのような目ではない。生気に濡れた、瑞々しい闘志を秘めた目になっていた。

「――はっ」

 初春の口元に、小さな笑みが浮かぶ。

「分かったようじゃな」

 ネクストに立つ紫龍も言った。

「これまでのあいつは自分の行動で起こる結果を考えすぎておった。あの娘に惚れて、娘の心を掴むために、どうしたらよいか――その結果ばかりを考えすぎておったんじゃ」

 初春もベース上で頷いていた。

 ――だが、結果を逆算して行う戦い――ナオ、それは本来のお前の戦い方じゃない。

 お前の行動に、結果がついてくる。その結果が結果的に俺達を助けていたんだ。

 その結果を掴むために、お前は――

 ピッチャーが直哉に全身全霊のストレートを投げた。

「罷り通れ!」「罷り通ることだ」「罷り通る!」

 直哉の渾身の一振りが快音を残す。

 打球はバックホーム態勢を敷いていた外野に、前進守備など問題ではない飛距離で右中間に弾丸ライナーで飛んだ。

 ライトがダイビングを試みるが、打球はグラブを掠めて後方に、土を抉るバウンドで抜けていった。

「うおおおおおおお!」

 球場が総立ち。神庭町のベンチも全員が体を乗り出した。

『こ、これは二塁ランナーの生還は確実だ! 問題はファーストランナーの神子柴くんです!』

 センターが必死に走って、簡易フェンスで止まったボールに追いついた頃、結衣はサードを回ったところであった。右中間の最深部からセンターはセカンドに中継する。

 結衣がホームベースを駆け抜ける。

「同点!」

 結衣が歓喜の声をあげて小さくガッツポーズをすると。

『さあ、歓喜の日下部さんの後ろから、神子柴くんが三塁を蹴った! 逆転ランナーの神子柴くん、突っ込む! すごい足だぞ!』

 初春がサードを回った時、セカンドが返したボールを二枚目の中継のファーストに返してバックホーム態勢に入ったところだった。ファーストからホームまであと30メートル。

「まずいぞ! 暴走だ!」

 想像以上に打球の速さがあるため、中継で内野に戻ってくるのが早かったボール。

タイミング的には完全にアウトだった。

『ファースト、バックホーム!』

 大声で呼ぶキャッチャーに向かってファーストはボールを投げる。

「ああ!」

 ボールは三塁側に逸れ、キャッチャーは腕を伸ばす。

『ボールが逸れた! しかし神子柴くんが突っ込んでくる進行方向です! キャッチャーは捕球しながらそのまま神子柴くんにタッチに行く!』

「ハル! 戻って!」

 結衣の制止も聞かずに初春はホームに突っ込む。

 ミットにボールが収まる音。キャッチャーが逸れたボールを頭の上で懸命に手を伸ばして捕球――

 そのまま倒れ込むように進行方向の初春に向かってタッチに行くが。

 初春はその前に自分の体勢をギリギリまで下に落とし、頭からキャッチャーに飛び込むと共に、ミットを持つ左手側をすり抜けるようにヘッドスライディングした。

「神子柴くん、タッチをかわす上手いスライディングだ! さあどうなる!」

キャッチャーのミットは逆を突いた初春の体に触れないまま、キャッチャーは三本間にバランスを崩して倒れる。

だが初春もタッチをかわすためにホームベースから離れる方向に滑ってしまい、ルール上のラインオーバーは避けたものの、伸ばした手はホームベースに届かず、まだホームインが成立していなかった。

 初春は勢いのついたスライディングの余波で大きくオーバーランする。その距離はキャッチャーとホームベースの距離のおよそ倍ほど離れてしまった。

「早く立つんだ!」

「神子柴くん、早く!」

 両軍、両スタンドからキャッチャーと初春に、立って再タッチをする声。

 だがベースの距離を考えてもキャッチャーが圧倒的に有利な体勢で、立ち上がったのも先に転んだキャッチャーが早かった。

「これで終わりだ!」

 キャッチャーが振り向いて、後ろでまだ倒れている初春をタッチに行く。

「お、おい! 待て!」

 その声も興奮したキャッチャーに届かないまま、キャッチャーは初春にタッチをしたが。

 そのキャッチャーの横を、一陣の旋風が、キンという風切り音を残してすり抜けていったのだった。

 旋風の正体はそのまま後ろで倒れるキャッチャーと初春をすり抜けて、ブレーキをかける。

 体勢を崩してその場で手をついて止まったのは、直哉であった。

『な、なんと! 神子柴くんの後ろから小笠原くんがすぐ後ろに来ていた! 神子柴くんがキャッチャーに後ろを向かせた一瞬のスキをついて、一気に疾風の如く、ホームを駆け抜けていた!』

 キャッチャーに声をかけたのは、自分の真横をすり抜けていった直哉を認識した鬼灯町のサードだったのである。

「ど、どういうことなの……」

 紅葉は状況が理解できていないようだった。

「前のランナーを追い越してもいないし、バッターランナーの生還は一塁ランナーのタッチの後だった。つまり――彼は生還、逆転だ」

 ケースケの解説が入った。

「ぎゃ、逆転!」

 その状況を認識して、神庭町はベンチもスタンドも歓喜の渦に包まれる。

 初春と直哉も息を堰切らせて尻餅をついた体勢のままでいたが。

「ふ、ふふふふふふ……」

「はははははははは……」

 お互い顔を見合わせると、大笑いした。

「ドンピシャだぜ、ナオ。お前ならあの場面で、突っ込んでくれると思った」

「どう考えても紫龍さんは敬遠だからな――ここで試合を決めるしかないことはお前も分かってたこと――お前なら絶対にここで逆転を狙う――その手を使うと思ったんだ」

 その言葉で、皆が遅れて気付く。

 初春は初めから自分が生還することは二の次だったのだ。この状況なら、キャッチャーの後ろに回り込めれば勝利は確定する――

 はじめから初春の狙いは、キャッチャーに後ろを向かせることにしかなかったのだと。

「し、しかし、こんなプレーが普通成立するかよ」

 ジュンイチがそのどんぐり眼をぱちくりさせる。

「あのキャッチャーの彼の足も決して遅くなかった――それをあのショートの子は、すぐ後ろに来るまでに来てたって言うのかよ」

「それができるから、こいつは化け物なんですよ」

 初春は立ち上がる。

「ベース一周約110メートル――こいつの100メートル走のベストタイムは10秒8ですよ」

「じゅ……」

 初春の100メートルのタイムは13秒台前半だ。確かにこれも遅くはないが、初春がベースひとつ分+リードの約30メートルのアドバンテージを持っていても、10秒後にはそのアドバンテージがほぼなくなっているのである。

「すげぇ足だぜ――高校時代のユータより速いんじゃねぇか」

「100メートル走はサッカーや野球じゃあまり重要視されんが、10秒台のスプリンターは世界のサッカー選手でもそういない。ロッベンやベイル並みだ」

「まだ今年16だろ――とんでもねぇ才能の塊だな」

「ええい、まだだ!」

 キャッチャーが悔しそうに立ち上がる。

「まだ一点差だ! 簡単に逆転できるぜ!」

「そ、そうだ! 今度は俺達の反撃だ! また俺達にチャンスは来るぞ!」

 皆を鼓舞する檄を飛ばし合う鬼灯町ナインだったが。

「はっはっはっは……」

 それを聞いて初春と直哉が、静かに笑い出した。

「来ねぇよ」

 そして、同時に言った。

 直哉がそう言った声も、もう先程までの迷いを抱えた消沈した声ではない。自信と確信に満ち満ちた声であった。



 鬼灯町は次の紫龍を敬遠し、御伽を打ち取って5回表を終えた。

「よし! みんな、円陣を組むぞ!」

 鬼灯町の面々はベンチに戻って各々水を飲むと、円陣を組んで気合を入れ直した。

「いいか、俺達はもう9点も取ってるんだぜ。 そしてまだあいつら相手に3イニングも攻撃のチャンスが残っているんだ!」

「そうだ! これから俺達の反撃を……」

 皆を鼓舞しあう声を出し合う鬼灯町の円陣に。

 ドォン! という何かを砕くような音が皆の肝を冷やした。

「な、何の音だ!」

 皆は蜂の巣をつついたように動揺したが。

 ドォン!

 二回目の音を聞いて、その正体を知る。

 マウンドにいる直哉が、初春のキャッチャーミットにめがけて投げたストレート――そのミットの音であった。

『神庭町チーム、投手の交代をお知らせします。ピッチャー、小笠原くん』

「……」

 そのストレートは、鬼灯町の先発投手の試合前のストレートを圧倒的に凌駕していた。

 全身バネと言ってもいい直哉のしなやかな体が溜めた遠心力を、剣道で鍛えた強靭なリストで指先に伝えて一気に解き放つその剛球は、ベンチ――真横から見ると浮き上がって見えるほどの迫力があった。長身のオーバースローから投げ下ろされる角度もある。

「そのままナオの守っていたショートをお願いします。多分打球は飛んでこないでしょうけど」

 シオリは初春にそう言われるまで、自分が守る事には不安だったが、すぐにその心配が杞憂だったと確信する。

「……」

 その直哉のストレートの威力だけで、球場全体が黙り込んだ。汚い手を使った神庭町と攻め立てる人間はもう誰もいない。

「な、なんてことはねぇよ! ストレート一本だ! 当たれば飛ぶぜ!」

 そんな檄を飛ばして鬼灯町の打者は打席に入る。

 初春はミットを構え、ストレートを要求。

 そのストレートは打席で見るとより勢いがすさまじく、まるでベルト付近から顔面あたりまで伸びてくるような迫力である。

 鬼灯町の打者はバットも振れずに打席で尻餅をつく。

「どうやらあのキャッチャーの彼が君を投手にした理由は、遅い球の効果を狙っただけじゃなく、この伏線を狙っていたみたいだな」

 なし崩しに神庭町のベンチに座っているケースケが、ベンチで休んでいる雪菜に言った。

「君のストレートが全力で投げても60キロ――彼のボールは145―-いや、150くらい出てるのかな。君のボールをみんな3打席は見た後に、最大球速差90キロのストレートだ。こりゃ目が追い付かないぞ。3イニング――全員1打席で捉えられたらまぐれだ」

「あ……」

「さすがにこれは決まっただろうな――君達の勝ちだ」

「ひいっ!」

 ケースケの言うとおり、鬼灯町の打者達は雪菜の山なりにお辞儀するボールを見た直後である。

 長身の直哉の投げ下ろすボールの威力は、顔面にボールが迫るような圧迫感があり、まともにバットが振れないどころか、怖くてバットも振れない。

 いつでも打てるという雪菜のボールを打つことで、油断した気持ちは経験者と言えどすぐに元には戻らない。

「ストライクバッターアウト!」

 先頭打者はほとんど何もできずに三振した。

「はあ、はあ……」

 打者は三振をコールされてもそのボールの圧迫感に息を切らしていた。

「お前達――あの化け物から女を奪い取ろうなんて、まだ考えてるわけ?」

 初春が打者に呟いた。

「あのキャッチャーの彼は、はじめから彼をマウンドに立たせてこの展開に持ち込むつもりだったんだね――余力を残しつつ、温存した戦力を解放して、相手をぐうの音も出ない程に侵略して、抵抗の意志も折る――後腐れない決着のために、大将の力でねじ伏せる――それを際立たせる最高の舞台演出をずっと整えていたんだ。あとで君はあのキャッチャーの子に熱烈に褒められるだろうね」

 ケースケは雪菜にウインクして冗談っぽく笑った

「神子柴くん……」

 だが賢い雪菜は分かっていたのだ。

 直哉がこうして最高の力で相手を黙らせ、文句も言わせない力を発揮すること。

 それは、逆に……


サッカーを知らない人のための解説…


ロッベン…元オランダ代表、アリエン・ロッベン。世界最高のウイングと言われた快速フォワードで、スプリント力はサッカー界随一と言われた。


ベイル…ウェールズ代表ガレス、ベイル。レアルマドリードでBBCと呼ばれる攻撃ユニットを完成させた稀代の快速フォワードのこと。


ちなみに中学生男子の100メートル走の記録は10秒56、初春達と同じ年である高校一年男子の平均タイムは14秒44らしいですよ。

初春の足は平均よりかなり速いですけど…


100メートル11秒フラットで走る人は10秒で91メートル、13秒だと77メートル進みます。つまり10秒後に野球の塁間27メートルとほぼ同じ24メートル差がついていることになりますね。

作者が初春と同じ状況だったら直哉にホームベース前で抜かれてますね…抜かれない初春もすごい?ってことにするかは読者の方に任せます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
もしこの話を気に入った方がいれば、クリックしてください。 小説家になろう 勝手にランキング
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ