大将の心得(10)
「はあぁぁ?」
鬼灯町のナインがみんな食って掛かるような顔をする。
観客席もいきなりの審判の暴挙にざわめいている。
神庭町のベンチにいる大男とシオリが困ったように微笑んでいる。
バックネットにいた農協の大会運営委員が思わず飛び出して、童顔の男のところへ走る。
「い、いやちょっと! 困りますよ! あなたは審判なんですから!」
「鬼灯町の人間が審判をやればおあいこになる条件です――元々僕はただの旅人ですから――」
「い、いや、しかし……」
大会運営委員が言葉を濁しているその横から、鬼灯町の監督が脱兎の如く駆け寄ってきた。
「あ、あんた! やっぱり神庭町と通じておったんだな!」
「通じる――ってのとはちょっと違いますけど、昨日初めてこの子達に会って、人がいなくて仲間を一人貸してあげましたけど、これまでのジャッジは公平にやったつもりですよ」
「ふ、ふざけるな! そんなこと信じられるか! 馬鹿にしおって!」
鬼灯町の観客席も声を上げる。
「そうだそうだ! 敬遠を認めなかったり、あのファール打ちを不正と認めなかったり! グルだったんだ!」
「この勝負、神庭町の八百長だ!」
「や、八百長って……」
「……」
ベンチの初春は黙っていた。
まああの人はともかく、八百長スレスレのことをしているのは事実だからな……音々を使ってこっちは球種を盗んでいる。
「大体あんた、一体何なんだよ! よそ者の癖に上から見下ろしやがって!」
「うーん……まあ確かに、さすがに素性を明かさず納得はしてもらえないか……」
そう言うと、童顔の男は自分の目元に手をやり、サングラスを外して素顔を見せた。
「これでどうです?」
サングラスを外した童顔の男は、実に爽やかな好青年といった風貌で、直哉よりも更に優しく、甘い目元をした優男だったが。
「!」
その素顔を見た鬼灯町の監督と、大会運営委員は突然言葉を失い、尻餅をついた。
「そ、その顔に、片足の悪い男……」
「やれやれ――お節介焼の悪い癖が出やがって」
そう言って、ベンチにいた大男もサングラスを外した。
「あ!」
その顔を見て、普段テレビを見る結衣と紅葉が声を上げた。
「あなたは――テレビで見たことあります! カメラマンの……」
「え、エンドウ・ジュンイチだ!」
その声に、観客席がどよめく。
「ちょ、ちょっと待て。じゃあ、あのもう一人の方は……」
「世界を変えた男――天才――さ、サクライ・ケースケ!」
さっきまで怒号交じりだった観客席が、一転歓声とフラッシュの嵐である。
「――え? え? エンドウさんは分かるけど、向こうの人――そんなに有名人なの?」
紅葉は首を傾げた。
「はは――無理もないよ。あいつが歴史の表舞台から身を引いて、もう5年以上が経っている――10代の子じゃ知らない子の方が多いかもしれないね」
ジュンイチが苦笑いを浮かべた。
「サクライ・ケースケ――10代の時にその左足に10億以上の価値のついた天才サッカー選手にして、世界一の宝石デザイナー、ひとりで年商2兆円を稼ぐ男――金持ちから宝石で取った金で開いた義賊集団企業、グランローズマリーの創業者だ……」
直哉が震える。
「――俺が最も尊敬する人だよ」
「そしてあの甘いマスクで、私が高校の頃、この国の抱かれたい男一位だった人ね」
天然気味の夏帆も目を丸くしている。
「そんな人がこの町に……」
「27歳の時に最後にメディアの前に姿を現したサッカーのチャリティーマッチで、足を怪我していたのを知らせたのを最後に、表舞台から去った――表舞台にいた頃もメディアを避けていて、仕事の実績以外ほとんど謎になっている――まさにもう伝説になりかけている人だよ」
「と言っても、作ったものを丸投げしたヘタレ野郎――って風評も多いけどね」
自虐気味にケースケは言う。
「――悪い病気だね。この人、劣勢の相手に肩入れしてジャイアントキリングを狙いたくなっちゃう困った性癖の持ち主なの」
シオリが呆れるように言った。
「性癖って……」
「ま、この試合は非常に面白い――つい首を突っ込みたくなりましてね。この随分と荒れたふたつの町のためにも――ね」
「……」
そのケースケの微笑をたたえた目は、さっきまで初春の主導で混沌の坩堝だった球場の毒を抜くような、有無を言わさぬ説得力があった。
文句を言う以上に、サクライ・ケースケが関わるこれから――何かこの試合で面白いことが起きる――それを見たいという好奇心が勝ってしまったのだった。
「ハッタリだ! こんな何もない田舎にそんな有名人が来るわけがないだろ!」
守備位置にいる鬼灯町のナインの誰かからそんな声がする。
「まあ、その警戒は酷く正しいが……」
ケースケは一歩前に出て、鬼灯町のナインを一瞥する。
「どうだろう、僕の代打を認めてくれないだろうか?」
そう言って、ケースケは自分の履いているジーンズの左足の部分をめくりあげた。
「っ……」
そこには、夏帆や紅葉が言葉を失う程の酷い火傷の跡があり、皮膚がただれて紫色に変色し、足の形がひしゃげて見えるような酷い傷があった。
「この通り僕はまともに走れもしない――こんな打者を恐れているようじゃ、経験者としては終わりだと思うが」
「くそ――いいですよ! そういう俺達を悪者にするようなやり方、もううんざりなんだ!」
「はは、いいねぇ、君達もそれほど根っからの悪人じゃなさそうで助かる」
相手チームの承諾が出たので、大会運営委員と鬼灯町の監督は戻っていく。
運営委員が鬼灯町の人間から急遽審判を募り、試合が再開される。
『神庭町チーム、選手の交代をお知らせします。柳さんに変わりまして、バッター、サクライさん』
うおおお、と、神庭町のスタンドからは直哉や結衣以上の歓声が上がる。
「あれがサクライ・ケースケ? いい男ねぇ……」
彼を知る20代以上の女性が既に釘付けであった。
「僕が塁に出たら、シオリを代走に使ってくれ」
ケースケはバットを持つ。
「……」
しかし神庭町ナインは、みんなぽかんとした顔――あの仏頂面の初春でさえ、まだ怪訝な顔をしてケースケを見ていた。
「何だい? おじさんの力が信用できないのかい?」
「いや、そうじゃなくて……何であなたみたいな人がこの町にとか、何で私達に味方をとか……」
あの夏帆ですら、年上の男性の色っぽさに気圧されて緊張している有様であった。
「この試合――この回3人で終わってしまうと折角の試合が冗長に過ぎる……それじゃ面白くない――ってのもありますが――それじゃ君達の味方をするのは不純すぎるか」
いつも初春はニコニコしている。
「いえ――文句はないですよ」
そう言ったのは初春だった。
「アウトになっても出しゃばったとかいうつもりもありません。俺達はもうそうするしかありませんから……」
そう言いかけた初春の頭に、ケースケは手をやる。
「頭を下げるのが屈辱かい? 下げさせるつもりはないんだが」
「あの――手をどけていただけませんか?」
「はは――まあいいさ、積もる話は試合の後だ」
そう言って、ケースケはベンチで息も絶え絶えに座っている雪菜の顔を見る。
「――よく頑張ったな。9点取られているが、君以外が投げたらもっと一方的だった。ホームランを打たれないだけで十分仕事したぞ」
「は、はい……」
「あとはおじさんに任せておきなさい」
そう言って、ケースケは踵を返し、バッターボックスに向かおうとしたが。
「あ、そうだ。サインなんですけど」
初春はケースケを呼び止める。
「球種が分かるんだろ? でも僕にはいらないよ」
「え?」
「やるからには正々堂々やりたいんでね……」
ケースケはバットを杖代わりにして、左足を引きずりながら右打席に入った。
「サクライさんって、中学時代は野球をしていたって話ですよね。スイッチヒッターだったって、雑誌で読みましたが……サッカーもレフティでしたよね。」
「もう右打席しかできないだろう。左打席だと軸足が左足になるからね……同じ理由で、本来左利きだけど、右投げしかできないんだ。と言ってもあいつはほぼ両利きみたいなものだったから、不足はないけどね」
「……」
バットの構えはオーソドックスな何の変哲もない構え。
「なあ君、先に忠告しておくが、そろそろ代わったらどうだい?」
ケースケは構えたまま、相手投手に話しかける。
「この炎天下で、この回150球を確実に超えてしまうぞ。君もなかなかの投手だ。こんな試合で意地を張ることはないと思うが」
「……」
相手投手は応えずにセットポジションに入る。
鬼灯町にとってこの回が大事なイニングである。この回を抑えたら交代してもらうつもりだった。
「やれやれ……」
ケースケは溜息をついた。
バットを構えてボールを待つ。
ストライクゾーンにカーブ、スライダーが決まり、あっという間にツーナッシングになるが、ケースケはバットを振らない。
「ほ、本当に大丈夫なの? 球種を教えてあげた方がいいんじゃ……」
「――いや、あの人はもしかして……」
3球目に投げた外角に逃げる勝負球のスライダー。
ケースケはバットを出してボールをカットする。
踏み出した足の踏ん張りが効かないので、全く力感はない振りで、球の力に押されたようなファールがキャッチャーの後ろに飛んだ。
「やっぱり、あの人……」
初春はその振り方を見て確信する。
「次はフォークか……」
初春は音々の耳打ちを聞いて相手投手の次の球を知るが、ケースケはこちらを見ない。
ワインドアップから左足を上げて前に踏み出した瞬間に、ケースケは初春がやったようにバッターボックスの前にすり足で移動する。
フォークの落ちる前のポイントで捉えるやり方である。
そのまま投げられたフォークは、ボックスの最前まで移動していたケースケに、ボックスの前で簡単に拾われて、真後ろのファールになる。
「――君、試合が終わったら僕のところに来るといいよ」
ケースケはボックスを外して、バットで投手を指差す。
「投げる時に癖があるから修正するポイントを教えてあげよう」
「な……」
「相変わらず、相手の観察がエグいぜ、あいつ……癖を見抜いてやがる」
ジュンイチがネクストでそう呟く。
「それでもあの悪い足で普通の構えで球を捉えるのは、重心も安定しないし距離が長い分ずっと難しいがな……小僧、お前はあの打ち方で球数を稼ぐことはできるか?」
「――無理に決まってるだろ。バックスイング省略して最短でバット出さなきゃ俺のコントロールじゃ追いつかないよ」
初春は呆れた。
「俺も自信があった動体視力と観察眼――そして精密な動き――レベルが違い過ぎる。本当に噂通りの化け物だな」
「はあ、はあ……」
相手投手からしたら、ここで粘られるのは何よりも苦しい。
そしてケースケの飄々としながらも、どのコースにもバットを届かせそうな隙のない構えの威圧感に、心が折れそうになっていた。
敬遠を選択肢に入れつつ、インコースにストレートを外し気味に投げる。
しかし、ケースケは投げた瞬間にボックスで体を開いて、手元に食い込むストレートを、腕を畳んではじき返した。
ボールは左中間にライナーで飛ぶ。普通の打者なら余裕でツーベースだが、ケースケは打った後にバットをステッキ代わりに一塁に向かう有様で、セカンドにボールが戻ったのと同時にファーストベースに到達するほどだった。
「なるほど、正々堂々、ね……」
初春も読みが外れた。
あの悪い足でカットを見せ、相手の投球の癖も指摘した時点で、初春はケースケが敬遠狙いなのだと思っていた。
球数の多い投手に代わるよう忠告したのも、これから俺のようにファール戦法を続ける、という宣言のように思っていたが。
相手が苦しい時に痛めつけるような真似はしない、か……
怪我していても、俺と同じようなレベルに堕ちる人じゃないのか……
「あっさり塁に出ちゃった……」
「あんな足で、ヒット打っちゃったよ」
代わる前は文句を言っていた観客も、あの悪い足と、それに反した綺麗なバッティングを見ては、ケチのつけようがない。
あっさりとケースケはこの球場の空気を実力で黙らせたのであった。
「ピンチランナー、頼みます」
ケースケはシオリを指差して、神庭町のベンチに戻ろうとする。
「すみません、あなたにまで試合に出てもらって」
「いいのよ、あの人と一緒にいる以上、こういうのももう慣れたわ」
「ママ、頑張って!」
リュートの声に背中を押され、シオリはケースケとハイタッチを交わして一塁ランナーを代わった。
『一番、センター、エンドウさん』
一瞬静かになった球場に、アナウンスが響く。
ジュンイチの正体も知られ、スタンドからはジュンイチにも拍手が飛ぶ。
「ジュンイチ、三振しろ」
ケースケはベンチに戻るなり、相手チームにも聞こえるような声でジュンイチに指示を出した。
「この子達に任せるんだ。僕達が場を荒らすよりも、この子達に決めさせるんだ」
そう言ってケースケはベンチで打席の準備をする初春と結衣を見る。
「……」
その言葉を聞いては、さっきまで神庭町の八百長や裏工作を抗議していた連中も、何も口を挟めない。
ケースケはこの一連の行動で、完全に神庭町の代打に出たことに対する反論を封殺した。
「――はいはい」
ジュンイチはそれを聞いてバットのヘッドを右手に持ち、構えも取らずにバッターボックスに立った。
「……」
ベンチに座ったケースケに、リュートが近づく。
「パパ、おじさんに打たせないんですか?」
「あいつは変なところで笑いの神に愛されてるからな――攻撃に関してはこういう場面でゲッツー打っちゃうタイプだからな。攻撃に関しては信用できないってのもある」
苦笑いを浮かべる。
「でも――あいつもこういう場面で、ひとりで勝負を決めるタイプじゃない――サポートがあって光るタイプだ。リュート、お前はおじさんみたいな器用じゃない友達を助けてやるんだぞ。お前の仕事は、そんな仲間の作ってくれたチャンスを決めることだ」
ケースケはリュートの頭を撫でながら直哉の顔を見る。
「準備をしておけよ」
「え?」
「この状況、分かってるな。君の前と後ろの打者はもう敬遠が濃厚だ……逃げ場はないぞ。もう勝負を決められるのは、君しかいない」
「ストライクバッターアウト!」
ジュンイチは立ち尽くしてそのまま三振する。
『二番、セカンド、日下部さん』
結衣の打順がコールされると、結衣はすっくと立ちあがる。
「ユイ」
ネクストに入る初春が結衣に声をかける。
「お前も三振でもいいんだぜ。何とかチャンスが残った――お前が責任を感じることは」
「ハル」
その言葉を聞いて、結衣は初春の目をきっと見た。
「責任は感じていないわ――ハルの考えは分かったから。ナオのために一芝居打った――そのために私を餌にしたのも――もう怒ってない」
「……」
「でもね――私は私で、あんな人達のものになるなんて嫌なの」
「は?」
「私がずっと隣にいたいのは――二人だけよ。だから――私を助けてね」
そう言って結衣は打席に入ると。
「お、おい」
ジュンイチが目を見開いた。
結衣はバッターボックスの一番前に立ち、ホームベースに覆いかぶさるようなフォームで構えた。
『こ、これはデッドボールでも塁に出るという構えです! 日下部さん、美少女の見せた覚悟の打席!』
「ユイ……」
「女の子じゃ怖くて仕方ないだろうな。もう球速はガタ落ちだが、それでも120キロ程度のボールはまだ来るからな」
ケースケが言った。
「だが、君の試合開始からの報復上等の脅しが効いている分、あの娘に危ないところには投げてこない――君が悪者になっても、彼女やピッチャーの娘を守ったことを、彼女は信頼で返そうとしている……」」
結衣は口を真一文字につぐんで構える様は、明らかに恐怖を含んでいたが。
投手の一球目、ストレートを外角に投げるが、結衣は微動だにせずに腰も引かずにそれを見送った。
「これは――お互い大いに責任を感じなきゃいけない場面だな」
初春はネクストからベンチの直哉を見る。
「俺達が守ってやろうとしたお姫様に、あんな手を煩わせて、怖い思いもさせて――本当に最悪だぜ……」
「神子柴くん……」
「さすがに俺も気合が入るぜ――試合が終わったら、全力であいつに詫びなきゃ……」
バットを握り締める初春のボルテージが上がるごとに、空気に飲まれた投手のコントロールが外角に外れ。
「ボール、フォアボール!」
審判がそうコールした時。
「ふう……」
ボールの恐怖に気を張り詰めていた結衣の緊張の糸が切れて、バッターボックスで膝を突いた。
「ユイ!」
初春と直哉が脱兎の如くバッターボックスに駆けた。
「大丈夫――だよ」
しかし結衣は二人を制して立ち上がる。
「ハルがずっと試合中にかけてくれたプレッシャーのおかげで――私も塁に出られたわ」
そう言って結衣は直哉の顔を見る。
「ナオ――私、あなたを信じてるからね」
「え?」
「私――別にハルにナオが劣ってるなんて――そんなこと考えているわけじゃないから。いつだってナオは勝ち続けていた――何も言わなくても、その存在が心強かったもの。だから今、あなた達にこのチャンスで打順が回って――私、すごく心強いの」
『三番、キャッチャー、神子柴くん!』




