大将の心得(9)
「ファール」
初春は5球目のチェンジアップもファールにする。
「どうなるって……負ければユイ達はあいつらに」
「別に勝ち負けの話をしているんじゃない。勝っても負けても、じゃ。それを分かりやすくするために、あの小僧も過剰な演技をしておったというのに……」
「……」
直哉はベンチから、バットを構え直す初春の方を見る。額に浮かぶ玉のような汗を手の甲で拭っている。
「こら! さっさと打たんかい!」
スタンドからはブーイングが飛ぶが、もう思想を捨て、投手のボールの後の先を取るだけに集中する初春の耳には聞こえていない。
「――確実に、後腐れが残るでしょうね。神庭町と鬼灯町――ふたつの町の対立が余計にこじれる――神子柴さんはあまりに、お互いの感情に油を注ぐようなことをし過ぎた。負けたら人身御供を差し出す後味の悪い決着にはなりますが、勝ってそれを回避しても、鬼灯町の神庭町への憎しみは増して、今後の対立ではそれ以上の条件が提示される――対立の規模はどんどん大きくなりますね。試合後の報復が皆さんに及ぶかもしれないし、相手もすんなり諦めはしないでしょう」
御伽が涼しい顔で言った。
「よそ者のおぬしらからすれば、ふたつの町のいがみ合いなんて、さぞくだらないものだと映るじゃろう? 今回の野球大会の依頼を小僧が受けた時点で、その依頼に対する百点満点の解答は、このふたつの町のいがみ合いを和らげる――できれば止めた上で勝つことじゃ。小僧もそんなことは分かっておる――それが出来なければこの戦の本質を捉えたことにならん」
「あ……」
直哉は今日の1回戦が始まる前に、よそ者の自分達がこんな対立している町の行事に首を突っ込んで大丈夫か確認した。
初春は「それも含めてお前達に依頼しているんだぜ」と言った。
それが無視できる条件であればそんな言い方はおかしい。
つまり……
「あいつは初めから、この大会の勝利もそうじゃが、ふたつの町のいがみ合いを弱める手を考えておった――じゃがそれは、小僧の戦ではできん。あの小僧には、人間を納得させるだけの力もなければ、小僧自身が人間を嫌っておるからな――そんな理解を求めるようなことを、あいつの戦は想定していない」
「ずっと前の依頼もそうでした――金よりも、時間の方が勿体ない――俺は、人間に考えを改めるようなことをする程気が長くなければ、暇でもない――そう言って早々に、自分が悪者になることを選んじゃって」
雪菜がその言葉を言った時の、静かに腹の底に怒りを蓄えていた初春の冷たい目を思い出しながら言った。
「戦ってのは、ただ勝つか負けるかなんてことは一介の軍師でもできるんじゃ――じゃが、本当に大事なのは戦を敗者の後腐れもなく締めくくること――それには一介の軍師ではできん大将の『器』がいるんじゃ。あの小僧にはそれがない」
「――ですね。神子柴さんはトリックスターや切り込み隊長としては非常に優秀ですが、大将向きの戦術は使いませんね。この戦術、秋葉さん達のような神子柴さんを少しは知っている方でチームを作らなければ、確実に却下されていました。そして正攻法でこの大会に挑み、神庭町は鬼灯町に踏み潰されていた……負けない戦術は取れますが、後腐れを残さず戦を締めくくる方法ではない」
御伽が補足する。
「大将の『器』――」
「断言してもいいが、あの小僧はおぬしらと一緒にいる時、決して自分で戦を決めに行く立場に行こうとはしなかったはずじゃ。そして、落ちこぼれから多少強くなっても、常にお前達に一歩引いて、敬意を失わなかった」
「……」
――その通り。初春は中学時代、常に直哉の大将を動かさず、自分が先鋒や副将を務めて直哉にバトンをつなぐ――
結衣が生徒会長をしていた時も、自分の仕事は常に陰に隠して表舞台に出ようとはしなかった。無能の副会長と言われても、常に黒子の役目に徹していた。
落ちこぼれから、二人に肩を並べるまでになっても、常に自分は格下のように二人に接していた。
「それはな――あの小僧は自分ににそんな器がないことを理解していて、それを持つおぬしらを尊敬しておるからじゃよ」
初春の6球目のファールが飛ぶ。観客席から呆れたようなブーイング。
「元々あの小僧もおぬしらのようになりたかったはずなんじゃ――あいつは誰彼構わず喧嘩を売る程戦いが好きでもない――現に一回戦、そこの娘のために消耗なく勝ちたかったという理由があっても、小僧はあの戦法を使わなかったじゃろう?」
「あ……」
「じゃがあいつは早い段階で、おぬしらに追いつけない――おぬしらと同じ戦い方はできないことを悟った。だが力のない自分が正攻法しか使わないのであれば、自分を虐げる人間共からの攻撃が止まない――だからあの型に活路を見出したんじゃ。思想を捨てて、相手を壊すことに何の良心の呵責も感じないような心になり、自分の攻撃力を上げるやり方――その恐怖で敵を黙らせる戦法をな」
そう、あの小僧が並の人間との喧嘩で後れを取らないのは。
鍛錬の成果もあるが、それ以上に戦に臨む覚悟の差――攻撃に籠る相手を壊す意志――それが段違いだからだ。
「じゃがそれだって完全じゃない――あいつには人を意図的に壊す『悪党の才能』にすら恵まれておらんからな――さっき小僧が言っていた相手につっかける策にしても、子供に見せられんからという理由だけで使うことを控えるような男じゃ。あいつには、悪党に徹する才能さえない――活路を見出したやり方さえ甘さが出て徹しきれん――あいつ程自分の才能のなさに打ちひしがれとる男も、そうはおるまい」
そう、紫龍は初春と初めて試合った時に、そう感じていた。
この小僧は、戦士として生きるにはあまりに戦いに向いていないと。
向いていない故に、心まで殺して優しさから目を背けた。
そこまでしても出る襤褸に自分の鈍才振りを突きつけられて。
そして繰り返し――ひとりで傷つくんだ。
次のスライダーもファール。
「あの戦法で得る結果――別にあいつはあの連中を苦しめる工夫を誇っておるわけではない。試合を決めきれない自分の非力さ――みっともなさ――その結果として四面楚歌になるこの無様な大将振りをおぬしらに突き付けておるんじゃ。おぬしらが思うほど、あいつは強くはない……俺のようになるなと、ずっとおぬしらに向かって見せておるぞ」
一度打席に出て、汗止め代わりにバッターボックス外の土を拾う初春だが。
涼しい目とは裏腹に、汗が体中から滴り落ちていた。
「神子柴さんの消耗は、鬼灯町チーム以上かもしれませんね――あの打法、動きはわずかだが失敗を一度も許さないだけに、集中力の消耗が早い――この炎天下もあって、あれを続けるのもさすがに――」
だがそんなことは露知らず、タイムを遅延行為と受け取られた初春に、観客からはまたもブーイングが飛ぶ。
「脚色した部分も相当にあるが、あの小僧は自分が大将を務めて、自分の器で無法と化すこの無様な戦場をおぬしらに見せた――最初から言っていたじゃろう? おぬしらにお願いをしている立場じゃと……」
――結局10球を投げたところで馬鹿馬鹿しくなった鬼灯町の投手は、キャッチャーの捕れる限界までボールを外して初春を敬遠した。
「フォアボール」
初春はバットをぽいと投げて一塁に向かおうとするが。
「タイム」
童顔の男が初春が一塁を踏むや否や、タイムをかけた。
「どうだろう。両チーム、一旦平等に給水タイムを設けようか」
「え?」
「さすがに彼女が日ざらしだからね……一応の事故防止としてね」
童顔の男は三塁ランナーの夏帆を見た。確かに初春の打席中、ずっとリードをしてはベースに戻る作業を繰り返すのは、女性の夏帆にとってはなかなか堪えていた。
鬼灯町にとっては願ってもない話。初春も夏帆の体調を考えて同意する。
「よし、3分間両軍ベンチに戻り、給水するように」
「ふ―っ。助かったよ。わたしもインドア派だからね……」
夏帆はベンチに戻り、天の恵みとばかりに水を口にする。
「さすがに毎回リードをしているのはきついね」
大男も汗だくである。
「……」
初春は水の入ったペットボトルを受け取ると、それを頭からかぶり、首の後ろを重点的に冷やした。
「ハル……」
「葉月先生、すみませんね。巻き込んじゃって」
初春はそう言いながら、ベンチにある自分の鞄を空けて濡れそぼったTシャツを脱ぎ、予備に持ってきていたTシャツに着替える。
「……」
皆そうする初春の体を再確認する。
――確かによく鍛えてはいる。しなやかそうな体に小さく隆起した腕の筋肉。腹も六つに割れている。
だけど余分な肉がついていない飢えた体は、確かに力強さは感じない。あばら骨が見えそうなほど痩せているが、筋肉のつき方で何とかごまかしている感じだ。
「――なあ、そうじろじろ見られると着替えづらいんだが」
初春も視線に気づく。
「……」
皆沈黙する。
その初春の体が、飢えた中で作られた体である現実を物語っており、それに気圧された。
「――ははぁ、さてはおっさんに入れ知恵されたか?」
初春はその表情を見て察する。
「ハル、お前……」
「どこまで聞いたかは知らんが、お察しの通りだよ。俺はこの通りの体だ。ホームランを打つことも、ピッチングで抑えることも出来なきゃ、守備だって驚くようなものは持っていない――正攻法だけだったら小兵――いや、それ以下だな」
肩をすくめて自嘲するようにそう話した。
「そして俺は思想を捨てる癖がつきすぎた……この小兵が勝つために最適な手段を、水が方円の器に随うが如く自然に選ぶと、どうしても卑怯な手になっちまうんだよ。俺の本質は、人間に人間以上の悪をぶつけて勝つ――そんな戦いしかできんのだ」
もっとも、それはこの町に来て、音々やおっさん――そして秋葉達に出会わなければ今でも疑問にも思わなかっただろう。
俺がこの思想を捨てるやり方を放棄したら、凡人以下の愚物に堕するが。
そのやり方が悪癖だと、最近は思い始めている……
「――ユイ。確かに俺はお前に降りかかる火の粉を払うことでお前を守ることはできるのかもしれん――けど俺は、お前に祝福とか、幸せとか――そんなものを同時には与えられないんだ。俺のやり方では、この球場の観客と同じ――人間を納得させる力がない」
「……」
皆沈黙する。
「間違いなくこの試合、このまま終わればユイ達を差し出さなくて済むが――根本的な解決にならん。決着の持っていき方を、試合終了までにしないと、後腐れが尾を引くことになる――俺が人間から嫌われ続けるようにな」
「そ、そんなこと言ったって、もうかなり優位な感じだけど……」
紅葉が言う。
「まあ、ツーアウト満塁でナオとおっさんにこれから打席が回る。この回で相手投手は100球近くまで投げるだろうし――ファーストフェイズとしては予想以上の結果が出たが、まだこのままで終わらないだろうさ」
「ファーストフェイズってことは――ハルくんはセカンドフェイズがあるって考えているのね」
夏帆が確認する。
「これからこの試合、どうなるの?」
「――次の回から、柳が滅多打ちにされるでしょう」
「え?」
「あの連中も、もうさすがに追い詰められてなりふり構わなくなるでしょうし。本気で柳を打ち崩しにかかってくる。そして――俺とおっさんと馬鹿正直に勝負をしてくれるのは、この打席が最後になるでしょう。ナオの打席次第では、おっさんとの勝負はもうないかもしれないから、こっちの得点パターンもなくなる……」
「……」
「ま、シナリオの書き換えはまだまだ色々な余地があるだろうさ」
初春はそう言った。
だが……
その後、直哉がセンター前ヒットで夏帆と大男が生還して5-0になったが、紫龍はツーアウト1,3塁から敬遠。次打者の御伽が三振で2回の表は終了。
そして2回裏――初春の予想は当たった。
鬼灯町チームは徹底してツーストライクまではバットを振らず、体力のない柳に球数を投げさせる作戦に移行。
そして基本のセンター返しを中心に、こちらの内野手の守備の一番薄いところを狙い打つ軽打に切り替えた。
4連打で簡単に1点を失ったのだった。
「タイム」
初春がタイムをかけて、マウンド上に集まる神庭町ナインを、審判を務める童顔の男は腕組みをしながら見ていた。
――確かに、彼女の遅い球は飛ばない。
あの遅さではロングティーで打っているのとほとんど変わらない。強い打球も、高校野球程度の選手では自分の力のスイングだけでは飛ばせない。
だが、狙い打ちは十分できる球だ。相手の守備位置を見て、薄いところを軽打で狙う――その戦術に徹すれば滅多打ちになる……
「……」
2回裏はヒット5本で2失点。
3回表は紅葉、夏帆、雪菜が揃って三振。
3回裏にまた3失点で同点に。
4回表、大男が三振、結衣が四球で出て、初春が敬遠、直哉がツーベースで結衣を返し6-5になる。なおもランナー2、3塁になるが、次の紫龍が敬遠で満塁。御伽がヒットを打ち更に1点返すものの、紅葉、夏帆が連続三振で終了。
そして4回の裏――
『鬼灯町、タイムリーヒットで遂に逆転! 同点になり、ノーアウト満塁からセカンド日下部さんのファインプレーでダブルプレーを取り、ツーアウトまで行きましたが、遂に追いつかれました!7対9!』
「おおっしゃあ!」
「もうここまで行けばこっちのもんだぜ!」
さっきまで一方的な試合――初春のファール戦法で間延びしていた観客席も息を吹き返したように大騒ぎ。
「散々調子に乗ってやがったな神庭ァ! これで終わりじゃあ!」
「はぁ、はぁ……」
この炎天下で60球――四球ゼロで踏ん張った雪菜も、このヤジの只中におり、限界をとっくに超えていた。
「……」
次打者のセンター前ヒットを大男の好返球で刺し、チェンジになったが。
「――まずいな、これは……」
初春の表情が一気に険しくなる。
外野陣は度重なる連打に走り回らされて疲労困憊――重い足取りでベンチに帰る。
『5回表の前に、両チーム、グラウンド整備をお願いいたします』
アナウンスにより一旦試合が中断する。
「はぁ、はぁ……」
雪菜はベンチに戻るが、頬が紅潮し、もう満足に腕も上がらないような状態だった。
「柳――」
「セツナと神子柴くんは、ベンチにいて休んで。整備は私達が行ってくるよ」
打順の回らない紅葉、夏帆、御伽の3人をグラウンド整備に出し、他のメンバーはベンチで準備をする。
「これは、まずい展開になったぞ……このままだと何もできずに負ける……」
普段クールな初春に明らかな憔悴の色が浮かんでいた。
「どういうこと?」
結衣がそれを訊いたのと同時に。
「まずい展開だね」
皆の背中から声がした。
振り向くと、神庭町ベンチの前に主審を務める童顔の男が立っていた。
「この回だね。9番から始まるこの回3人で終わると君達はかなり苦しい――次の回、先頭打者の君を敬遠して、ショートの彼がツーランを打ってもまだ追いつけない――和尚さんは敬遠だろうし。7回の最終回、君達に打席は回らない――この回で流れを掴めないと、相当苦しいな……」
「……」
――そう。初春の憔悴はそのためだ。
打順の組み合わせが最悪で、ほぼ王手をかけられたに近い状況。
試合は中盤だが、もう詰みに近い死に体に追い込まれてしまったのだ。
「……」
初春は自分の見込みの甘さを後悔した。
追い込み過ぎたために、鬼灯町の連中が大きな振りで、遅い球の術中にかかるイニングを稼げなかった……
「くそ――本当にまずい……このままじゃ」
初春が初めて唇を噛んだ。
「神子柴くん……」
もう喋るのもやっとの雪菜が、消えるような声で焦る初春を気遣う。
それ程追い詰められた初春の憔悴の空気が、手に取るようにわかったのである。
「安心しろって、柳――あんな奴等に、絶対にお前達を渡さないから……」
そう言って初春はベンチから立ち上がり、紫龍にバットを差し出して見せた。
「おっさん――もし試合に負けたら、こいつで俺の腕を折ってくれ」
「ハル?」
「さすがに公衆で腕の一本折ってまでお願いすりゃ、後味悪くてユイ達に手を出そうとはしないだろうからな――」
「――それで女子達は助かるかもしれんが、お前は腕の一本じゃ許されんと思うがな」
「安いもんだ。俺がサンドバッグになって収まるなら、それでいい――戦いに負けたら酷い目にあうのなんて当たり前だしな……」
もう初春は諦めたように笑っていた。
「ハル……」
「気にするな、ユイ。やばくなったらそのつもりでいた。お前達に絶対に手は出させずに終わりにしてやるから……」
「……」
直哉はその初春の決意に、胸の奥が締め付けられる思いだった。
――こいつは最後の最後まで、皆の身を案じ。
俺のことを最後まで信じて。
それなのに、こいつに何もできないまま終わる……
唐突に来た、何もできないまま終わる敗北の悔しさが、直哉の胸にひしひしと訴えだした。
自分に出来ることを、精一杯探し始めた――
「――シオリ。ちょっとお願いを頼めるか?」
主審の男はベンチにいるシオリに微笑んだ。
グラウンド整備を終え、鬼灯町のナインが意気揚々と守備位置に散る。
「この回だ! この回3人で片付けようぜ!」
皆もうこの回の重要性が分かっている。皆この回にすべてを賭けていた。
投球練習を終えて、プレイがかかるのを待つ鬼灯町だったが。
まだバッターボックスには、ラストバッターの雪菜もいなければ、主審は神庭町ベンチを覗き込んでいる。
「おいどうした!」
「早く出て来い! 出られないなら代打を出しな!」
さっき初春に煽られているだけあって、お返しとばかりに煽る声を上げる鬼灯町ナインだった。
その声に焦れたように主審の男が神庭町ベンチを出て、鬼灯町のナインをぐるりと一瞥する。
「すいません、メンバーチェンジをお願いします」
そう言って主審の男はアンパイヤのマスクとプロテクターを外し、隣にいるリュートの差し出したバットを受け取った。
「代打オレ!――なんてね」




