表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
131/156

大将の心得(8)

『タイムをかけた神庭町チーム、ノーアウト1,2塁で内野手がマウンドに集まります。ピッチャーの柳さんを狙った戦術に、いきなりピンチを迎えました』

 雪菜はいきなりのピンチに申し訳なさそうにきょろきょろして皆の顔色を窺っていた。

「す、すみません」

「いいんだよ。お前が狙われるのは予定通りだ」

 初春は雪菜の本気の狼狽を際立たせるために、ミットで顔を隠しながら話す。

囲師(いし)には必ず()く(包囲陣形には必ず逃げ道を一つ空けておけ)――布陣の基本だぜ」

 雪菜を投手に指名したのは、その遅い球が飛ばないことを見込んでもあるが、もうひとつ。

 外野を守らせ狙い打ちされたら長打が避けられないが、投手を狙われても単打にしかならない。

 勝手に相手が非効率な攻撃をしてくれるというわけだ。

「そうされるのが分かっていたからこの娘に怪我させるような強い打球を打たんように、お前が下手な演技をしとったからな。おかげで男には容赦なく狙い打ちしてくるが」

「ま、勿論罠も用意してるがな……しかしあれだけ投げた直後にこの作戦で来てくれたことはラッキーだったぜ……」

 初春は肩をすくませて表情を隠す。

「必殺の、あの作戦ですね」

 ファーストの御伽が皆に目配せする。

「昨日ちょっと練習しただけだが、みんな頼むぜ」

 初春は内野手陣を一瞥して、ホームベースに戻っていく。

「おいおいピッチャー代えないのかよ」

「まだまだ攻撃終わらねぇぞ!」

 相手チームの高揚した声が響く。

「さて、柳、行こうか」

 初春は何事もないようにミットを構える。

 相手の三番打者はさすがにクリーンアップを打つだけあって体が大きい。

 その180センチを超えるような男が、早くもバントの構えをしている。

 他の野手がダッシュをしなければ雪菜の前にプッシュバント。ダッシュをしてくればその野手に向けてバスターで猛打球を飛ばす作戦である。

 今度はサードの紫龍が、ややベースよりも前に出、ショートの直哉がやや三塁寄り、セカンドの雪菜がややセカンドベース寄りに守る。

「サード出てくるぞ! セカンドランナースタート気を付けろ!」

「……」

 待球作戦は今のところない。こんな遅い球、しかも女の子相手に球数をかさませて勝つようなこすい手は、こいつらは心理的に初回からは使わない。

 雪菜ともデートする前に悪印象を与えたくないだろうし。

 ――俺がもうやっていて顰蹙を買っているしな。

 だからこいつら、初球から振ってくるぞ、柳。

 雪菜はセットポジションを取る。ランナーは盗塁禁止だが、雪菜からの牽制はないと思って大きめのリードを取る。

 三番打者はまだ変わらずバントの構え。

 雪菜が足を上げた瞬間に、サードの紫龍がするすると前に出てくる。

 ボールは相変わらずの、ふわふわとした球が、甘いインコース、打ち頃のストライクゾーンに無防備にやってくるのであった。

 三番打者はそれを見て舌なめずりするような余裕を持ってバットを引いてバスターに移行。

 既に10メートル程度のところまで来ている紫龍の顔面に打球を飛ばす気で思い切りバットを振った。

カキン、という音と共に紫龍の顔面に弾丸のようなライナーが襲った。

 紫龍は後ろに飛びながら顔面にグラブを出す。

 バシッ、というグラブにボールが入る音。

 紫龍は背中から後ろに倒れた。

『と、捕った!』

 その音にびくりとして、大きなリードを取っていた二人のランナーは硬直し、帰塁の体勢に移行しようとする。

 だが。

 紫龍は倒れながらグラブからボールがぽろりとこぼれたのだった。

「な、何いっ!」

 すぐに立ち上がって紫龍は足元のボールを拾い、サードへ投げる。

 ショートの直哉がサードに入ってベースを踏みながら捕る。

「ナオ!」

 結衣の声に直哉はすぐにセカンドへ送る。

 ハーフウェイで硬直したファーストランナーを横目に結衣がセカンドのカバーに入ってボールをキャッチ。

 そして一塁にボールを送ると、ボールを捕られたと思った瞬間足を止めてしまったバッターも走っておらず。

『こ、これは! トリプルプレーです! 鬼灯町、追撃ムードが一瞬にして悪夢の三重殺! スリーアウトチェンジ!』

「やったやった!」

 夏帆がライトから声を上げて、近くの結衣とタッチを交わす。

「……」

 マウンドにいる雪菜は何が起こったのか理解しきれずに一番驚いた顔をしていた。

「……」

 同じように打球を打った三番打者も、バッターボックスを少し出たあたりで立ち尽くしている。

 トリプルプレーも痛手だが、自軍の投手は前の回に50球を投げさせられているのだ。

 それをたった3球でチェンジにしたことで、自軍の投手は休む間もなくマウンドに登る羽目になる。

 これはトリプルプレーのショックが二倍三倍となって鬼灯町チームを襲った。

「――人間(クズ)は考えが単純で、扱いが楽だぜ」

 初春はそんな打者の背中に捨て台詞を吐く。

「おい、さっさと守備位置につけよ!」

 初春は鬼灯町のベンチを見て、また露悪的な笑みを浮かべて吐き捨てる。

 鬼灯町のベンチからまた監督が出て、審判の童顔の男に詰め寄る。

「あれは故意落球だろ!」

「あの至近距離で、あんな火の出るようなあたりでその言い分は無理がありますね。当然インフィールドフライにもなりませんし。何ならそっちのチームで試してみますか? あんな至近距離であんな当たりを百発百中キャッチできるか……」

 童顔の男はその抗議を却下するが。

 スタンドも故意、不可抗力で真っ二つとなり、怒号が飛び交う。

「鬼灯引っ込め!」

「神庭は故意にやってるだろ!」

 怒号渦巻くが、神庭町スタンドから、選手を休ませるための遅延行為だという野次が大きくなり、旗色の悪くなった結局鬼灯町の監督はベンチに戻っていった。

 グラウンドでは、1回表に炎天下に晒され続けた鬼灯町の面々が、休憩もそこそこに重い足取りで守備位置につき始めていたが。

 童顔の男は神庭町のベンチを見ていた。

 さすがにあの打球を故意落球とはジャッジできないが……

 あれ、本当にわざとじゃないのかな……



「いやはや、あの打球、本当に偶然落ちたんですか?」

 童顔の男と同じ疑問をセンターにいた大男が苦笑いをして訊いた。

「わざとに決まっておるじゃろう」

 紫龍は言った。

「はは、そんなはっきり」

「落とさなければ必殺になりづらいからの……そこの小僧に指示されておったんじゃ。あの場面ではわざと落とせとな」

「ま、この回で畳みかけられりゃ余計に相手のダメージはでかいけど――さすがにこの打順じゃ難しいかな……柳の三振は決まっているからな」

 初春は静かな目でベンチに座り、相手の疲れた表情を観察していた。

「ハルくん」

「お疲れ様です」

 ベンチでは心とリュートの二人が皆にコップに入ったお茶を配る。

「神子柴さん、浮かない顔ですね。最高の結果だったというのに」

 御伽が初春に近づく。

「――いや、そんなことはないですけど」

「何を考えていたか、当ててあげましょうか?」

「……」

「あのトリプルプレーでのショックに乗じて相手につっかけて、わざと相手を怒らせて退場者を出そうと考えていたんでしょう? もう相手のイライラはマックスですからね」

「……」

 ベンチでその様子を見ていた直哉と結衣が、初春の表情を伺う。

「――ちょっと最後まで、仕掛けるか悩んでいましたよ。ココロとリュートくんが帰って来てなければそうしていたかな……」

「抜け目ないですね。使える手はとことん吟味しているわけですか」

「つっかける、って、どういうことですか?」

 リュートが初春の隣に寄る。

「僕達のいない間に点も取ってるし、やっぱりあなたは只者じゃないでしょう? どんな作戦を考えていたんですか?」

「――君が知る必要のないことだ。あとでパパに聞くといい」

 初春はふっと力なく笑って、自分の隣の席に座ったリュートの頭を撫でた。

 心のくれたお茶を一飲みすると、コップをベンチに置いて立ち上がり、直哉の方を見る。

「――何か言いたそうだな。ユイもお前も」

「……」

 この試合が始まってろくに話す機会もないまま、初春がチームの女性陣を差し出す賭けを持ちかけられ、豹変した姿をただ見ることしかできなかった直哉と結衣は、まだ初春の真意を読めずにいた。

 東京にいた頃はこんなことはなかった。初春はいつも自分達の常識の範囲内で最善を尽くすのみに一生懸命で、こんなやり方をすることなどなかったのに……

「気に入らないか? 俺のやり方が」

「いや……」

 直哉は言い淀む。

「別にいいさ。俺だってわかってやってるしな」

 そう笑いかけると、初春は直哉の肩に腕を組む。

「さてここで問題です。この展開で試合が終わったら、一体どうなるでしょう?」

「え?」

「ヒントだよ。どうもお前、まだ頭が回っていないようだからさ」

 そう初春が言った時。

 キン、という音がした。

 この回先頭の夏帆が、相手投手が安パイだと油断し力を抜いたハーフストレートを狙い打ちし、サードとレフトの間に落ちるポテンヒットになったのだった。

「お、この回はあまり期待していなかったけど、事情が変わるか?」

「神子柴くん」

 紅葉がそう呟く初春に声をかけた。

「ごめん――さっきの問題だけどさ、私達――夏帆ちゃんもセツナも、みんな紫龍さんに答えを教えてもらって知ってるの。神子柴くんがこの試合で、小笠原くんに何を伝えたいのかも……」

「……」

 初春は紫龍の方を見る。

「やれやれ……だからお前等、こんな無茶苦茶な条件になっても俺に文句を言わなかったってわけか。お前達が賭けの対象になって、妙にお前らが抗議しないからおかしいと思ったんだが」

 初春は肩をすくめた。

「小笠原くん――神子柴くんは本当にあなたを信じているから。だから、応えてあげて。この試合の前からずっと、神子柴くんはあなたを相手にしているのよ」

「秋葉さん、それはどういう……」

「ストライクバッターアウト!」

 直哉が懊悩している間に、次打者のラストバッター雪菜が、一度もバットを振らずに三振に倒れた。


 一番の大男のフルスイングが、相手の疲労困憊のストレートを捉え、左中間を破る。

『これはツーベースコースです!』

 一塁ランナーの夏帆は三塁に到達する。

 しかし大男は一塁のハーフウェイまで来たところで足を止め、一塁に帰塁した。

『あっと、これは何ということでしょう! 悠々セーフのセカンドを放棄し、ファーストに戻ってしまいました! これはボーンヘッド!』

「おじさん! 真面目にやらないと!」

 ベンチのリュートが大男を叱りつけ、大男は苦笑いをリュートに見せるが。

「……」

 だが、その様子を審判を務めていた童顔の男は頷いて見ていた。

 いや、あれでいいんだ。あいつもそれに気付いたか。

『二番、セカンド、日下部さん』

 まだ初春のことを引きずっている結衣が打席に入るのを、童顔の男は後ろで見ているが。

「……」

 あぁ、どうにももどかしいねぇ。この娘は真面目だから、打つことを考えているんだろうけど。

 本当のところは三振するのが最良の形なんだって教えてやりたいところだ……

 そんなことを考えていた。

 そんな童顔の男の願いが通じてしまったのか、変化球がいいところに決まってバットを振らないままツーストライクに追い込まれてしまった結衣。

 次のボールはフォーク。

「さすがにもうストレートを狙い打ちにしているのはばれたか……二人とも完全にストレート狙い打ちだったからな」

「あ」

 ストライクゾーンに来てしまったフォークを結衣は仕方なく振ったが、バットは空を切る。

 さすがに女子を三振にとっても相手投手は喜べなかったが。

 よし、と、童顔の男は心の中で拳を握り締めた。

 ベンチに戻る結衣は、ネクストバッターズサークルの初春とすれ違う。

「ごめんハル――私、二打席三振しちゃって」

「いや、あの三振は値千金だって……日陰に入ってゆっくり休め」

 初春はペットボトルの水を口に含んで立ち上がる。

『三番、キャッチャー、神子柴くん』

 打席に向かいながらストレッチをして体をほぐす初春だったが。

 初春の打順がコールされるや否や、スタンドからはブーイングが巻き起こる。

「こいつだ! こいつが何かを仕込んでやがるんだ!」

「正々堂々と戦いなさいよ!」

「こんなので鬼灯に勝っても、神庭の格が落ちるんじゃ!」

 そのブーイングは、味方である神庭町のスタンドからも飛んでいる。

「はは、嫌われたものですね」

「何で――何で味方まで」

『さあ、この試合をほぼ一人でかき回したと言ってよいでしょう、このゲームの問題児、神子柴くんの第2打席です! 前打席は一人で25球を投げさせ、最後はバットの届かない大暴投での敬遠でしたが……ああっ!』

 審判が遅れて気付いた。

「こ、これは! 一塁が空いていない! しかもサードランナーがいるので、キャッチャーが後ろに逸らすような大きな敬遠もできません! 鬼灯町、ここは神子柴くんと勝負するしかありません!」

 そう、大男が塁に出た時点でダブルプレーを結衣が打たない限り初春に回ることが確定したのを悟った大男は、それに気付いてファーストに戻った。

 敢えてファーストを空けないことで、敬遠をしにくい状況を演出するために。

 初春は左打席に立つと、さっきまでの露悪的な表情が消え、水面のように静かな目でバットを持ち、今度は初めから剣道の正眼の型に構えた。

『神子柴くん、恐怖の剣術打法再び! この炎天下、前の回わずか3球でチェンジになった鬼灯町に、悪夢のような展開が再び再現されるのか!』

 だがその構えを取っただけで、スタンドからはまたブーイングである。前の打席で結衣が作った華やかな空気も、一気に殺伐と化す。

 この炎天下、見ている方も辛いのにこれ以上やめてほしいというのが観客の本音である。

「タイム」

 キャッチャーがタイムをかけて作戦を確認にマウンドに走る。

「ね、ねぇ、どうしてハルくんをみんなおうえんしないの?」

 心が不安そうな顔で皆に聞く。

「ま、本来そこまで恐れるような奴でもないんじゃがな――あんな臭い大根芝居をしても、割と人間というのは騙されるようなものじゃな」

「恐れる奴でもないって……ハルは十分相手を苦しめているでしょう?」

 直哉が訊いた。

「やれやれ――前の打席を見てもまだわからんか。あの打席で、あの小僧の行動の本質は、相手を苦しめることではないんじゃがな……」

「ど、どういうことですか?」

 結衣も初春の読めない真意を測りかね、紫龍に助け舟を求めた。

「――まあいいじゃろう。ここまで来たら、答えを言ってもそこまで大差はなかろう」

 鬼灯町のナインが守備位置に戻ると、キャッチャーが渋々座ってマスクをかぶる。

「敬遠はない――勝負ですね。まともな勝負にはしないでしょうが」

 御伽が頷く。

「ふぉおくです!」

 音々がグラブから握りを聞いて初春に伝える。

 ピッチャーはもう肩で息をしているが、フォークで空振りを取れるか、渾身の球を投げるが。

 初春は足が上がったと同時に打席の一番前に来て、落ちる前のポイントでボールを横に薙ぐ。

 手首をちょっと返しただけの打球は、ボールの勢いにも負けて三塁線を超えるファールになる。

『さあ始まりました。この神子柴くんの無間地獄のようなファール打ち!』

「お前達、前の打席を見て小僧のことを強くなったように見えたんじゃろう。まずそれが間違いじゃ」

 紫龍が煙管を手に持つ。

「あの構えを見ろ。この競技では変則の構えじゃ。あの体勢から棒を振ったところで間違いなく鞠は前には飛ばん――じゃが、あいつがお前達のようにまともに基本に忠実な構えをしたらどうじゃ?」

「え?」

「ま、あなたや小笠原さんのように、簡単に打球は遠くには飛ばないでしょう……せいぜい内野の頭を超す単打を打つのがやっとでしょうね」

 御伽が先に答えを言った。

「え……」

「よく見るんじゃな。小僧の体を」

 紫龍は構え直す初春の方を見る。

「小さいじゃろう、あいつの体は」

「そ――そうですか? 背は低くないし、体も毎日鍛錬して、鍛えていると思いますけど……あれでも昔に比べて、相当逞しくなったんですよ?」

「確かに上背はそこそこある――じゃが明らかに線が細い。腕や足なんて、おぬしと比べたら牛蒡(ごぼう)みたいじゃ」

「……」

 そう、初春の体は細い。

 夏帆がその裸体をモデルにしたがるほど引き締まっており、鍛えられてはいるが、それは肉体美ではなく、未完成の肉体を求めてのこと。

 180センチを優に超え、スポーツ向けの体格をしている直哉に比べたら、確かに初春の体は細過ぎた。筋力だけでなく、体脂肪率も低い。

 持久力はあるが、パワーがないのである。

「あれだけ飽きずに毎日鍛錬していてもあの細さじゃ。剣を教えてもなかなか剣に『剛』が備わらなくての」

「で、でもハルがサボっているわけじゃ」

「そうじゃな――小僧が悪いわけではない」

 結衣のフォローを紫龍は受け止める。

「鍛錬をしても、それを血肉に変える糧があの小僧にはないんじゃ」

「糧?」

「あぁ――あの小僧、ろくなものを食っておらん。この町に来てからの方がまだましなくらいじゃ。両親に満腹するまで食わせてもらっておらん。飯を食ってないんじゃ、いくら鍛えても自分の糧にならん」

 紫龍は音々の力で東京での初春の暮らしを知っている。

 育ち盛りなのに、一日の食費がたった500円――本人の強くなりたいという思いとは裏腹に、心身が弱っていくような生活。

 そもそも初春は、強くなっても自然と弱る生活を強いられていたのである。

「金が入っても、あの小僧は飯を食わん――飢えた期間が長すぎて、満腹まで胃を広げると、食えない時が辛くなることを知っておるからな。贅沢に手を出そうともせんし、思想を捨ててその誘惑から逃れておる――そんな処世術が染みつきすぎておるからな。あの貧しい生活を続ける限り、あの小僧は強くなれん――いくら鍛えてももう強さの維持が精一杯なんじゃ」

「……」

 その話を傍で聞いている音々は、涙をこらえる。

 そう――私のためにプリンを買ってくれるハル様が、自分のために嗜好品の類を食べている姿を一度も見たことがない。

 この町で初春は多少自分で稼げるようになっても、一度も贅沢などしたことがないのである。

 ベンチ内で皆が俯く。昨日紫龍から、初春が東京で送っていたネグレクト生活のことを多少聞いている――

 それを聞いて、かける言葉さえ失ってしまい、皆初春に何も言えなくなっていたのだった。

「あの小僧、剣術でも拳法でもそうじゃが、圧倒的に相手の命脈を断つ『剛』がない……だから相手を苦しめ、壊すくらいまではこなせるんじゃが――とどめを刺す場面でどうしてももたつくんじゃ。それが奴の弱点の一つ……」

 打席の初春は、二球目のスライダーをファールにする。

「あの小僧にそんな『剛』があれば最初からあんな手など使っておらん――あんな手を使う意味もない。あいつがあんな手を使っているのは、自分に力がないことが分かっているからじゃ。涼しい顔しておるが、内心じゃいっぱいいっぱいじゃぞ。あの小僧如きに警戒を向けさせるために、下手な芝居までして――」

「芝居……」

「ま、その結果がこの様じゃがな」

 初春が次の球をファールにすると、スタンドからのブーイングが起こる。

『さあ、ブーイングのボルテージも上がってきております。元々確執のある神庭町と鬼灯町、このようなゲーム展開は全くの想定外でしょう』

「ここで小僧がさっきおぬしにした質問じゃ。あの小僧の作り出したこの空気のまま、この試合が終わればどうなると思う?」


「囲師には必ず闕く」というのは孫子の兵法ですが、本来の意味は「敵を完全に包囲をするとその相手は死兵となってこちらに襲い掛かり、被害が大きくなるから、わざと逃げ道を作ることで相手の抵抗を減らすのが吉」という意味です。

ことわざで言う「窮鼠猫を噛む」みたいな意味ですね。


この作品の解釈的には「わざと逃げ道を作って、そこに殺到した時に罠にかけろ」ってことにしていますけどね…

実際作者の実体験でも、そういうやり方ってのが呆れるほど有効なんですよね…人間の世界の意地の悪いことに。

孫子の兵法の意味は作者も分かっているつもりなので、解釈が違うというツッコミはない方向でお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
もしこの話を気に入った方がいれば、クリックしてください。 小説家になろう 勝手にランキング
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ