追憶~コロッケ2つ、70円
「……」
ずっと想定していたこと。
直哉には彼女ができて――結衣にも彼氏ができる。
その時の俺は、何も変わらない――間抜けなあいつらの幼馴染Aであるだけだ。
そして、互いがその相手であれば、文句はないじゃないか。
どちらも、素晴らしい相手で。
二人とも、仲睦まじく……
――そのはずなのに。
さっきから自分の心が、訴えるのだ。
「ちょっと待って」と。
直哉が結衣のことを好きであることを知れたことは、実に喜ばしかった。
直哉なら、必ず結衣を幸せにできる――どこに出しても恥ずかしくない彼氏だ。
「……」
そこに、俺が割って入る?
――ありえないだろ。
昔から、直哉と結衣の邪魔をするなと教えられてきた。
それ以上の思想は俺には必要ない。
あいつらには将来に、無限の可能性があって。
俺にはそれがない。
当たりのなくなった後――誰かが引いた後のくじを引き。
貧乏くじは、真っ先に引かされる。
――それが俺の人生だと、教えられ、それに逆らえば、周りは容赦なく自分を潰しにかかった。
欲しいと言って、それが手に入ったことなどないのだ。
そう、何も……
「……」
少年はベンチに置いてあった、スーパーで買った惣菜の入った袋を持って、団地の階段を上がった。
少年が玄関の扉を開けると、中は真っ暗であった。
明かりを点けて、少年は六畳間のリビングのテーブルに、茶碗大盛のご飯と、コップに注いだ、家で沸かした麦茶、惣菜で買ったコロッケを二つ置いた。
少年の夕食は、これだけである。
少年の父親は、トンネル工事の土木作業員で、今は長野に単身赴任しているらしい。
母親は看護師をしていて、主に夜勤で働いているらしい。
だから、少年はほぼ毎日、夕食を一人で食べている。
少年が学校から帰ってくると、毎日リビングのテーブルに母親が置いた500円玉が置かれている。
少年の一日の食費は、500円と決まっている。
一食ではなく、一日である。
500円で、育ち盛りの少年の夕食と朝食を賄わなくてはいけない。
そして――少年はこの500円の中で、自分で食べる米を買っていた。
5キロの米が、東京で手に入るもので一番安いものが1500円。それを少年は一人で20日で食べてしまう。
2か月に1500円の米を3度――4500円。
一日75円をそれに積み立てている。
今日食卓に並んでいるコロッケは、一個70円のコロッケが、タイムセールで半額になったもの。明日の朝食は、タイムセールの賞味期限スレスレの食パン、約80円を2日間、牛乳で流し込むだけでしのぐ。
少年にとって、夕食で定価380円がタイムセールで半額の190円になったトンカツ――朝食がゆで卵を潰してマヨネーズで和えたタマゴサンドになるだけでも、ご馳走であった。
――さらに、少年は、こんな雀の涙のようなお金の中で、自分のお小遣いを積み立てていた。
50円、20円、10円――そんな小さな小銭を、必死になって。
母親がくれる一日500円だけが、少年の生活の全てを作り上げていた。
ソースを買う金ももったいないので、少し塩をかけてコロッケにかぶりつく。
「……」
少年は家に帰ると、まずこのテーブルの前に行く。
そこに置かれているのが500円なら、いつも通り。
1000円が置かれていれば、500円玉がないから、これで二日分、という意味。
ごく稀に、1500円が置かれていることがある。その場合は「自分も今日は家で食べるから、私の分を何か作っておきなさい」という意味だった。
少年と母親のコミュニケーションは、少年が小学校高学年になった頃から約5年、ほとんどそれだけであった。
先程、母親が看護師をしている『らしい』という形容をしたのも、少年はもう長年その実態を確かめられていないのである。
そして、父親とはこの5年で、会ったのは2日だけである。もうほとんど父親の顔も覚えておらず、その会った二日も、まともに話をしたわけではなかった。
当然二人とも、少年が都内一の高校、神代高校に推薦されることを、まだ知らなかった。少年はその旨をメールで送り、学校が三者面談を希望しているということを伝えたが、まだ返信がない。
母親はもうとうの昔に、少年の母という自覚を捨てているのであった。
「……」
何でも、少年の両親は、母親が少年を身ごもった頃に、父親が不倫をし、そこから関係が泥沼化したということであった。両家の親族が仲裁に入って、生まれてくる少年のために一時は和解したようだったが、結局その溝が埋まることはなかったらしい。
そして、少年と同じ団地に住んでいる、直哉と結衣の存在が、母親の親としてのプライドを粉々に打ち砕いた。
3人の中でただ一人見劣りする少年の親ということで、周りの大人達から少年自身と共に侮蔑された母親は、少年が幼稚園を卒業する頃には、完全に少年に対する興味を失っていた、
父親はその頃からも単身赴任が多く、赴任先で別の女を作っていたらしい。
母親もそんな夫の噂を聞いていたため、報復のつもりで、自身も別の男との暮らしを始めた。少年も小さい頃に、母親が父親以外の男を団地に入れているのを何度も見ていた。
ほとんど帰らない父親に、母親がいつも電話で生活費の振り込みを催促する怒鳴り声――それが二人の唯一のコミュニケーションだった。
そんな有様だったから、母親は少年の学校の家庭訪問も、授業参観も、運動会にも全く参加することがなかった。
少年が小学校4年生くらいになる頃には、もう学校も、同級生も「この母親は教育に関して学校に抗議はしない」ということを熟知していた。
それが教師ですら、少年に対するいじめを助長する結果を生んだ。
教師にとって、いじめを撲滅するとは、保護者と闘い、ストレスと闘うことである。
それが、どれだけいじめられても保護者が騒がない生徒――教師にとって、こんなに都合のいいスケープゴートはなかった。このカードが一枚あれば、教師もボランティアではない。生徒のためにいじめを止めてやろうなんて気は起こさなくなる。
教師も生徒に合わせて、徹底的に少年の人格を否定した。
少年は両親に泣きつこうにも、父親にはほとんど会ったことはなく、母親はいつも迷惑そうに顔をしかめ、少年を怒鳴って泣くのを止めさせた。叩かれることも珍しくなかった。
そして、今に至っている……
「……」
少年は、欲しいものはおろか、主義も思想も、愛も、親のぬくもりも知らなかった。
結衣だけが、少年にとっての幼いながらも女性的なもののシンボルであり、少年に初めて慈愛のある笑顔をくれた人物であった。
そんな思いを、人間関係の構築が下手な少年がきちんと認識はしていなかったが――それが少年の凍てついた心を幾度となく救ってきたことは、想像に難くない。
だが――そんな生活を送り、欲しいものも欲しいと言えたこともない少年。
今や両親に小遣いをせびることもできずに、10円20円の小銭を、食欲を押し殺して貯めているような現在の少年にとって、直哉という強大な相手を前に、結衣という、自分にとってのマリア様に等しい女性を要求するということを決断するのは、まだ容易なことではなく。
むしろ、結衣のことを『大切な存在』ということはできても『大切な女性』ということさえ、おこがましいと思えてしまう。
――少年の幼年時代からの、周りの人間の侮蔑は、その一言も言わせることを許さなかったのである。
コロッケと米を噛みしめるように、20分かけて食べ、シャワーを浴びると、少年は日課の勉強を始める。受験はなくなったとはいえ、少年はもう5年続けたルーティーンを卒業まで維持するつもりであった。
男が来た時に、男と過ごすため、という理由で与えられた6畳の個室。ベッドもないマットレスの布団にちゃぶ台型の机。教科書を入れるための、組み立て式の本棚。
少年の私物はこれだけであった。
少年の小遣いの状況を考えれば、外で食べる牛丼やハンバーガーは贅沢品。ゲームソフトなど、中古でも手が届かなかった。
そのせいもあって、少年はもう同級生と仲良くなることを、半ば諦めている。
金がないために、同級生と同じものを共有したり、放課後一緒に遊んだり――そんな選択肢が少年にはない。
放課後の寄り道も、花火大会で夜店でたこ焼きを買うことも、プールに行くこともできない――そんな思い出を共有することができないから、直哉と結衣以外の友達を作ることは無理だと、早くから諦めていた。
「……」
少年は、学校の教科書を取り出そうとすると。
教科書の隙間から、一つのメモ書きが落ちた。
それは、二者面談の時に、担任の白崎がくれた『オール5』『オール4.5』『オール4』という文字の書かれたものであった。
「……」
高校で何がしたいかわからない――それなら、自分と能力の近しい集団の中で、どこが自分にとって、居心地がいいのかを探せばいい。
少年は、白崎の貰った言葉を思い出していた。
「……」
――だが、少年はそれ以前の場所に、今、立っている。
もし仮に、この世の中に自分にとっての居心地が良いと思える場所があるのだとしたら。
そこに、自分が行ってもいい、という選択肢があるのか。
今まで自分で生き方を選択する余地を与えてもらえなかった少年にとって、そこが今の、少年の現在地なのである。
直哉と結衣も、無口な少年の、根の奥にある怯えた心をはっきりとは認識していなかったが、それが見えていたからこそ、二人は少年に推薦枠を譲り。
そして、促したのだ。
自分の過去の心と戦え、と。
それに勝利した少年と、直哉は本気で結衣を賭けて戦いたかった。
「……」
自分を納得させようとする心。
自分は相応しくないと、卑下する心。
自分の心の奥底にある、結衣を想う心。
それらが少年の中で、非常に大きなうねりとなり始めた。
「……」
俺は――少し欲が出てきているのか?
神高の推薦なんて、1年前の自分じゃありえない選択肢ができて。
とっくに諦めていた、直哉と結衣と、また3年、同じ学校に行けるかもしれないという事態が急に訪れて……
もしかしたら、結衣のことを欲しいと言えば、手に入るかもしれない……
――だが。
「……」
直哉の、結衣に対する告白を聞いた時。
あの時に、今の思いが沸いてきていた。
「ちょっと待って」と。
結衣への告白を、足がすくんで、何が何でも止めたくなってしまった、その思い。
それが具体的に何なのかは、よくわからなかったけれど……
直哉の、あの結衣の想いを抑えられず。
自分の一番近い場所にいてほしい、と。
それを自分に話すことは、恐らく直哉にとって、抑えられない感情で……
「……」
そんなにも強い思いを――馬鹿正直な思いを持つ直哉に嫉妬したのか。
それに対するような――抑えられない思いのない自分が情けなかったのか。
そんな自分が、ただあの二人を見送る――
それを考えると、酷く自分が取り残された気分になった。
「――駄目だ……」
もう全く勉強に身が入らないことを、机に向かって3分で理解した彼は、もうそのまま布団に寝転がり、電気を消した。
「……」
この日、少年は生まれて初めて、寝る前に結衣のことを考えた。
「……」
結衣のことを考え、体の反応を示したことに、自己嫌悪したが、男の本能が、このまま結衣のことを『おかず』にすることを求め始めた。
「うおおお……」
――少年は一晩中、その煩悩と戦った。
自分の体が、これだけ抑えようもない反応を示すのは、これが初めての事であった。
少年がこの夜戦った煩悩の結果がどうなったかは、読んだ人の判断に任せます…




