大将の心得(6)
『一番センター、匿名希望さん』
『さあ、試合開始前から早くも両チーム、鬼灯町に持ち掛けられた賭けによって一触即発ムードですが、試合開始です。神庭町は打順を少し変えて望んでいますが、果たしてこの打順変更は吉と出るか凶と出るか』
初春はベンチで腕組みをして大男の打席を見ていた。
その初春の方に鬼灯町の面々は、選手だけでなく観客席からも視線が行く。
この大会の話が出た頃から、初春は常に鬼灯町に対して卑屈に振舞っていた。
それが今になって本性を現したように、凶悪な一面を垣間見せたことに動揺が広がっていたのである。
「……」
しかしそれでも、投手はボールを投げなければいけない。
「ハッタリだ! 半数が女子のチームなんだぜ。そう簡単にお前の球が打てるわけない!」
周りの野手からの声もあって、投手は一度気持ちを立て直すのに成功する。
一球目は大男の様子を警戒し、外角にすとれーと。
大男は強振したが、バットは空を切る。
「ストライク!」
「うぁ……速い……」
思わず紅葉の声が出る。
これまで自分が見てきたボールとは桁違いの威力であり、ミットの音もその迫力を演出する。
「安心しとけよ。少なくともお前達はあいつらにとっては商品だ。本気で投げてぶつけようとは思ってないはずだぜ」
「万一そんなことになった場合、黙って見て見ぬ振りをしない――必ず報復に及ぶという牽制は、お前の臭い演技でしておるしな」
「え……」
女性陣が初春の方を見る。
「とりあえずお前達の身の安全を確保するためにな」
初春はそう言って、拳を握る。
「……」
大男に投げる2球目は、外角に逃げる腰元のスライダー。
「ボール」
「……」
大男は目をぱちくりさせてベンチを見る。
3球目、低めにカーブが外れる。
4球目は外角のストレートを空振り。
5球目にフォークを投げるが、大男は手を出さずにボールとなりツースリー。
「……」
6球目に渾身のストレートを大男は空振りして三振に倒れる。
「ストライクバッターアウト!」
「ヘイワンアウト!」
キャッチャーがファーストにボールを回す。
鬼灯町ベンチの拍手。
「……」
大男はしばらく首を傾げていたが、ベンチに戻っていく。
『二番セカンド、日下部さん』
「ユイ、無理するなよ」
歓声の中で、初春はネクストから結衣に声をかける。
「この娘とのデートがかかってるんだぜ! 本気で行けよー!」
バックから嘲笑じみたヤジが飛ぶ。
「……」
こんな人達とデートなんて、死んでもお断り。
――なんだけど……
ネクストにいる初春を結衣は一瞥する。
1球目は緩い外角のストレートを外す。
2球目はカーブ。結衣はバントの構えからバットを引いたが、判定はストライク。
3球目はスライダーが外角に外れる。
「多少牽制が効いておるのか、あの馬鹿どもが本気でおぬしらと付き合う気なのか知らんが、とりあえず女子共の体付近の接触は避けてくれるようじゃな」
紫龍がベンチで言った。
結衣も何となくそれに気付いて、狙いを外角だけに絞る。
4球目はスライダーが決まり、結衣はバットを振らない。
「あ」
そして5球目、ストレートを空振り結衣も三振。
「ゆ、結衣ちゃんでも当たらないんだ……」
これまで男顔負けのセンスを見せていた結衣の手も足も出ない三振に、改めて皆相手投手のボールの威力を確認する。
ベンチに戻る結衣は、途上で初春とすれ違う。
「分かってても打てなかったの……」
「いや、お前はこの回は塁に出ない方がよかった。俺の巻き添えになるからな」
「え?」
『三番キャッチャー、神子柴くん』
『さあ、前の試合では2安打を売った神子柴くん、3番に打順を変えての第一打席ですが……おや?』
実況の紹介が終わらないうちに、初春は左打席に入った。
『これは……1回戦では右打席に入っていた神子柴くんですが、この試合では左打席に入ります』
「神子柴さん――仕掛ける気ですね」
「ああ――おい、おぬし、こちらの日陰に入っておれ」
紫龍はネクストで待つ直哉に声をかけ、直哉をベンチに戻した。
「よく見ておくんじゃな――あの小僧の立ち回りを」
紫龍は隣に座った直哉に声をかけた。
「ちっ……」
鬼灯町チームは、自分達を先程遠慮もなくクズと評した初春に関しては、怒りが沸き起こっていた。
「こいつにだけは全力で行けよ!」
既にバックも投手も、敵愾心むき出しである。
「ん?」
審判の童顔の男が、プレイをかける前に初春を見た。
「君――打席を変えたのはいいが、バットの握りが右打席のままだよ」
そう。初春のバットの握りは左手がバットの下に来る右打席での握り――左打席に入れば、これは逆手である。
「いいっすよこれで」
「ははは! バットの持ち方も知らない素人だぜ! さっさと三振にしちまえ!」
敵愾心むき出しの野次がバックから飛ぶ。
そのヤジも背中を押しつつ、投手がモーションに入る。
初春は投手が足を上げた瞬間に、右手からバットを離し、左手一本でバットを持ったまま、右手を投手に向けて握り拳を作って前に出した。
インコース高めのストレートが初春の顔近くを襲うが、初春は首をすいと傾けてかわした。
「ボール!」
「あれは――」
「見たことがあるか? あれはあいつの拳法の型じゃな」
2球目も、初春は投手のモーションと共にバットから右手を離して前に出す。
ど真ん中にストレートが決まったのを、初春は平然と見逃す。
「おいおいバッター打つ気ねぇぞ!」
3球目は外角のスライダー。
初春はこの球ではバットから手を離さずに、体の前、腰の高さにバットを出した。
「ストライク」
ただしバットを出しただけ。
ボールはバントのように止まっているバットを素通りした。
「ははは、何だそりゃ!」
あまりにも打つ気を見せないまま追い込まれた初春に、一段と嘲笑が飛ぶ。
「……」
初春は首を傾げながら、変わらずバットを逆手に持ったまま打席で構える。
バッテリーはこの打者は大したことがないと見て、ストレートを選択する。
これで終わりだと気合も乗ったストレートを全力で叩きこもうとしたが。
初春は今度は足が上がったと同時にバットを前に振り下ろし、両のつま先を投手の方に向ける構えに変化させる。
体の前に出たバットでストレートの軌道に先回りして、手首を少し返してバットを横に薙いだ。
かつっという音と共に、打球は三塁側に飛ぶファールとなった。
「今度は剣道の構え……」
「そうじゃな。この競技では逆手の持ち方も、剣術では右足を前に出すのであればあの握りは順手じゃ。相手の攻撃を見る上では、あの右足を前に出す左打席の方があいつにとってはやりやすいんじゃ」
「くっ」
バッテリーは次の球にフォークを選択。
だが初春はモーションと同時に打席の一番前に移動し、ボールが落ちる前にバットを体の前に出し、ボールを薙いで三塁側にファールにする。
「あいつはこの打席、徹底的にこの炎天下に連中を晒す気じゃな」
その紫龍の言葉に、皆は空を見上げる。
正午を過ぎて一番暑くなる真夏の快晴――既に35度を超える猛暑日に、グラウンドは整備のために水が撒かれて水蒸気が立ち上っている。
まるでサウナのような環境で、日陰にいる神庭町の面々でも汗だくになっている。
「で、でもそんなこと可能なんですか?」
雪菜が訊いた。
「おぬしらも見たじゃろう? 鍛錬であの小僧がやっていたことを」
「――あ」
初春が火車との鍛錬で、火車の出す火球を行雲で払い落す……
あの命も危ないような鍛錬の様を、結衣達は皆同時に頭に思い浮かべた。
「それにこの競技は、球を飛ばそうとして剣を後ろに構えるから当てるのが難しいんじゃ。初めから剣を前に出しておれば、あとは軌道を読めば最小の動きで追いつける――」
剣道の決まり手も、拳法の決まり手も、その決まりは刹那の瞬間である。
いくら相手のボールが速くても、投手の投球モーションからボールがミットに届くまではそれに比べれば圧倒的に遅い。
その間合いであれば、初めから打つ気を捨てていればボールより軌道を先回りすることは、元々ギリギリまで相手の攻撃を見、小さな動きで相手を捉える鍛錬をした初春の特性に合っていると言える。
「しかも、あの子は相手の球種が分かっているもんな」
大男が首を傾げながら言った。
「打席に入る前に、投手が構えたら一度俺を見てください、球種を教えますって彼に言われてサインをもらったけど――全球ドンピシャだった。確かに球種が分かっていれば、軌道を読むのは簡単かもしれない……」
大男はベンチを見回す。
「あの子、どうやってあの投手の球種を見破っているんだい?」
「いや……」
誰も答えなかったけれど。
今このベンチには、ひとり大男には見えない者が座っている。
紅葉達は首に下げている翡翠の効果で見えているが。
音々がいるのである。
音々が投手がサイン交換をし、セットに入った瞬間に、投手の年季の入ったグラブに宿るアヤカシの声を聞く。
「すらいだあです!」
それを口頭で伝える。
初春は6球目のスライダーを、外角に目線を向けてバットにかすらせまた三塁線へのファールにする。
さっきの偵察の時にも音々が初春の隣にいて、その精度を改めて初春は確認していた。
打席でツーストライクまではボールを見るのに費やし、目線に軌道と速さを焼き付けて、準備は完了。
「おいどうした? 俺みたいな素人、簡単に三振に取るんじゃないのかよ?」
初春は露悪的な笑みを浮かべてくいくいと右手を前に出し、投手を煽った。
『ファール! 遂に20球目に達します!』
「はあ、はあ……」
炎天下の中で、投手をはじめ鬼灯町のチームは蒸し風呂のような日差しに晒されていた。
「さっさと打てよ……」
もうヤジを飛ばすのも体力の消耗になると判断したのか、鬼灯町のバックからはぴたりと声が出なくなった。
『ここまで先頭の二人も合わせて、30球以上を初回から使っております。コールドとは言え連戦連投の投手です。疲れも出て当然でしょう』
「くそっ!」
投手はチェンジアップを投じるが、初めから球種のばれている初春に緩急は通用しない。21球目もファールになる。
「しつこいなぁ、彼」
「ここで手を緩めたら意味がない。根競べじゃな」
「……」
偵察の時に言っていたが、俺はやり方にこだわらない、か……
まったく、恐ろしい……
初春の表情はもう笑みを浮かべるでもなく、水面のように静かになって、逆手にバットを構えていた。
「み、神子柴くん、頑張って!」
紅葉が声援を飛ばす。
「応援なんぞしても無意味じゃ。奴には聞こえておらん」
紫龍が言った。
「もう完全に相手の球の後の先を取るだけに集中しておるからな――それ以外の思想を捨てておる」
「思想を――捨てる?」
「あぁ――奴の真骨頂はああして思想を捨てて、相手の後の先を取ることを狙うのみに特化した状態じゃ。ああなる場面というのは限られるがな」
「おい、さっさと打て!」
「汚い真似しないでよ! 暑いんだからさっさと終わらせてよ!」
体力を温存して声を出さない選手の代わりに、鬼灯町の観客席が初春の戦法に罵声を浴びせる。
「おい、苦しめるのがいいが、卑怯な手で勝つのはやめてくれよ!」
「神庭町もこんなので勝っても、後味悪いって!」
身内の神庭町の観客席からも、初春のやり方に異議を唱えるものが出始める。
皆この暑さに苛立っているのだった。
「おぉ、味方にも嫌われちゃったな、彼」
「そんな!」
「まあ確かに、綺麗なやり方ではないからな」
22球目の、もう何度も投げたスライダーもファールになる。
「タイム!」
ついに鬼灯町の監督がベンチに出て、主審の童顔の男に詰め寄る。
「もう彼は打つ気がないじゃないか! ルールでは打撃意欲がない者にはアウトを宣告するのが主審の仕事じゃないのか!」
「そうだそうだ!」
「打つ気のない打者は問答無用でアウトだ!」
鬼灯町の観客もその意見を支持する。
「まあ確かに、彼に打つ気はないんでしょう。さっきからくさい球もカットしているし、球数を投げさせるのが彼の目的なのも明らかですね」
童顔の男も、初春の真意を見抜いていた。
さっきから根負けした投手が敬遠気味のボールを投げてもカットをしており、目的は明らかだったが。
「しかし、半数が女子のこのチームが、あなた方のチームに勝つために何の作戦も立てられずにただやられるというのはあまりにアンフェアでは? ルール上バットを振っているわけで、スリーバント失敗にもできませんし」
「だ、だが打撃意欲の……」
「それに――負けたら女の子を差し出せという要求をしたのはそちらでは?」
穏やかだが、やや厳しい口調で童顔の男は監督を恫喝する。
「窮鼠猫を嚙む――そんな要求をして抵抗にあうことを考えないあなた方が、勝負を語るな!」
「う……」
童顔の男のよく通る声と、その得体の知れぬ凄みに、相手の監督はすごすごとベンチに帰っていく。
「ま、いいことを言ってくれましたよ……」
初春はバッターボックスでバットを投手に向ける。
「負けた時に酷い目にあうことも考えずに、もう勝った気で賭けなんぞ持ちかけやがって――お前等みたいな調子乗ってる野郎を見ていると、虫唾が走るんだよ!」
そう強く吐き捨てた後に、初春はまた逆手にバットを持って構えた。
「これがお前等が素人と馬鹿にした俺のやり方だ。さっさとかかってこい」
「く……」
初回から完全に神庭町にペースを握られたことを、鬼灯町チームは悟っていた。
初春は仮にこの粘りに失敗しても、『たかが』ワンアウトだが、自分達にとっては『たった』ワンアウトなのである。
全く費用対効果に見合わない戦いなのである。
捕手がそれを察して立ち上がる。
投手ももう初春を打ち取る費用対効果を考え、すんなり敬遠の球を投げた。
だが。
初春はバッターボックスから身を投げ出して、敬遠のボールすらカットする。
「な! お前、敬遠するって言ってるんだ! もういいだろ」
「全然よくないね。テイクワンベースなんか別に欲しくないし――俺のこの打席は、とことんお前等を苦しめるために使うんだからな」
「く……」
「主審! 申告敬遠します!」
投手がそう叫んだ。
「却下。プロじゃないんだし、ちゃんと投げて敬遠しなさい」
童顔の男は首を振った。
「こんな勝負の機微――そんなつまらんルールで流すのもつまらないし――絶対にバットが届かないようなところにボールを投げれば済む話じゃないか」
「……」
投手は苦虫を噛み潰すような顔をするが。
「そうかい、分かったよ……」
投手は捕手の出してくれた、自分の理想のボールのサインに頷く」
投手の選択したボールは、渾身のストレート。
そのコースは。
「あっ! 危ない!」
初春の顔面を狙うビーンボールである。
だが初春は体をすいと倒しながら、手首だけでバットの軌道を変え、倒れながらボールを一塁線のライン外にはたき落とす。
「――見え見えじゃな。人間の悪意に鼻のいいあの小僧にそんな手は通用しない」
むくりと立ち上がる初春も、もう想定の範囲内とばかりに涼しい顔をしていた。
だが。
「俺にならいいが、うちのチームの他の奴に同じことをしたら、それ相応の報いを覚悟しろよ」
初春は牽制を入れる。
「まあ、試合が終わった後ならより何でもアリだからなぁ!」
露悪的な表情で脅し文句を吐く。
「君、試合後には関知しないが、試合中の煽りは程々にな」
童顔の男は立場上初春を諫める。
「はいはい――本来俺はルールを破るのは嫌いなんでね」
素直に言うことを聞く初春。
「……」
「いやぁ――試合前からずいぶんと冷たい目をするなと思ったが――騙された。まさか彼がこんなに悪い顔をするなんてね」
大男はレンズで初春を捉えてシャッターを切った。
「じゃが、奴はこの打席で幾重にも種を撒いておるぞ」
紫龍が言った。
「あのしつこさを実感させた後のさっきの脅しは、試合前の演技をより際立たせる――これで女子共に危険な接触をさせる気は相手から失せたじゃろう――もしそうしたら確実に小僧は乱闘する気でいると意識させられたからな」
「そして、あれだけバテバテにさせれば他の皆でも十分打てる球に出来る……こんな草野球で、あのレベルの投手が複数用意されているとも考えにくいですしね」
「……」
「あの小僧は疑いようのない人間嫌いじゃが――協調性のない人間ではない。周りを生かすために自分という歯車を最大限に稼働させる――大の虫を生かすために自分という小の虫を殺す――そんなことを常にしておるのじゃよ。まあ、それだけ礼を尽くした上で人間を嫌っておるから、奴の人間嫌いは根が深いんじゃが……」
「言わば、捨てかまり――ですね」
大男が頷いた。
「そうじゃな、大将を生かすために自分が囮になって死ぬまで戦う――この打席は小僧なりの捨てかまりじゃ。」
そう言って、紫龍は直哉の方を見る。
「おぬしらはあの小僧がそうした捨てかまりで、幼い頃からおぬしらを守っている場があったことを知っておるはずじゃ。この戦いであいつが捨てかまりで生かそうとしておるのは――おぬしらじゃぞ」




