大将の心得(1)
「え? いいんですか?」
「あぁ。この子に野球を見せるいい機会だからね。この子には色んな経験を積んでほしいんだ」
そう言ってステッキを持つ男は傍らにいる幼児ににこりと微笑んだ。
「……」
男のその微笑は、見ているこちらも幸せになるような穏やかさに包まれており、この河川敷のうだるような暑さの中に一陣の涼風のように爽やかな空気を運ぶようで。
結衣はその男の表情を見て、どきりとする。
まるでその男が、初春の静寂と、直哉の活力を同時に自分に見せつけてきたような錯覚を覚えたからだ。
「ところでピッチャーは決まっているのかい?」
男は皆を見回す。
「見たところ――君かな、ピッチャーは」
そう言ってその視線を合わせたのは、直哉だった。
「……」
紫龍はそう言われた瞬間の直哉の一瞬の動揺を見抜いた。
「ピッチャーは彼女です」
初春が雪菜を手で促した。
「そうなのかい? 意外な人選だね……」
男は少し目を丸くしたが、雪菜の前に立つ。
「ちょっと利き手を開いて僕に見せてくれないかな」
「は、はい……」
恥ずかしがりの雪菜も、その男の妙な甘い雰囲気に誘われて掌を開いた。
「ふむ――これは野球自体未経験だね。これはバッテリーはまず、彼女にストライクを投げさせるところから始めた方がいいだろうね」
「――驚かないんですね。彼女に投手を任せるのを」
「彼女を投手にする思惑は大体分かる」
そう言って他の者を男は一瞥する。
「バッテリーが投球練習をしている間、僕が野手にシートノックしよう。守備位置についてボールを捕る練習だ。どちらも慣れてきたら今度はバッテリーの投球でシートバッティングをして実戦形式に慣れよう。それでいいかい?」
「は、はい」
「……」
「よし、じゃあその前にランニングとストレッチ、キャッチボールを各自10分でこなしてくれ。終わったら野手陣は守備位置についてくれ」
「……」
「は、はい」
「よし、じゃあ行こう」
男の号令で、皆はとりあえずグラウンドを軽くジョギングを始める。
「な、何かいきなり仕切られちゃってるな……」
男性4人が固まってランニングを始めながら、直哉が言った。
「あの人の言っていることは理に適っているからな。いいんじゃないの。どうせ野球を教えられる奴なんていないし、一人入るだけで練習効率はずっと上がるのも確かだ」
「しかしあの優男、只者ではないぞ。あの娘が投手をやるというだけで今最も効率的な指示を出した。小僧の戦術を見抜いておる――深謀遠慮の塊のような男じゃな」
「……」
初春はまだベンチにいる男に目をやった。
ステッキを置き、片足を引きずり御伽の持ってきたバットを手に取り、隣の幼児に基本を教えるような軽い素振りをしている。
右打者で、引きずっていた左足に体重移動が上手くできないから力強さはないが、上半身のしなやかさで振るバットは上手く遠心力がかかり、ヘッドが回っている。
剣道や格闘技でも力感のない構えをする初春が、お手本にしたいと思うような綺麗なフォームであった。
「それよりお前、大丈夫か?」
初春は走りながら直哉に訊いた。
「お前とユイを、しっかりコミュニケーションをとれるポジションに抜擢してやったんだぞ。ここでちゃんとユイと仲直りをするチャンスだぜ」
「……」
直哉の浮かない顔に、初春は首を振った。
「よし、バッテリーはこのままブルペンに入ろう。他の者はキャッチボールで肩を温めてくれ。10分後にノックを始めるからその間に水分も取っておいてくれ」
軽いランニングとストレッチを終えると、男に呼び出された雪菜と初春はベンチ横のブルペンに呼ばれる。
「あ……」
不意に結衣は、自分から離れて他の女子と一緒にいる初春に目が行く。
「ハル……」
不意に結衣が初春を呼び止める。
このままだと、本当に初春と言葉を交わせるのがこれが最後になってしまう。
自分達の別れが近づいており、初春もそうするつもりだというのが嫌でも伝わってきて、結衣はまだ初春に出来ることを探していた。
「――ユイ、お前が今、ナオと気まずいから俺に助け舟を求めているのは分かる。実際俺はそれが分かってお前等にコンビプレーのある二遊間に入れたんだからな。正直押しつけがましいことをしていると思うし、申し訳ないと思っている」
「……」
「でもさ――その時間、一日だけこらえてくれないか。お前に無理をさせたくはないが――明日の夜には今の気まずい時間が終わっている。それは俺が保証するから――この一日だけ、俺を信じてくれ」
「う、うん……」
「ごめんな」
そう言って初春は雪菜の後を追い、ブルペンに行ってしまう。
「……」
思わず返事をしてしまった結衣だけど。
一体明日、この野球を経て何を変えるというのだろう。
それがまるで見えていないけれど。
初春にはきっと――私が見えないやり方が見えているのだろう。
それを私は信じられてしまう。
初春は一見ボーっとしているように見えて、人の気付きもしないような小さな大切なものをしっかりと見つけられる、曇りのない目がある。
それを信じているから。
「……」
それを見ていた直哉も心中穏やかではなかった。
さっきまで雪菜と一緒にいたことに対して、何故か後ろめたい気持ちになりながら。
また結衣が、初春の言葉をちゃんと信じるんだ。
俺には見えない、あいつの目で見た答えは、結衣を安心させられる。
それに対して、俺は……
「――じゃあ秋葉さん、私とやりましょうよ」
それを見ていて気を効かせ、最初に動いたのは夏帆である。
「おぬしの相手はもう決まっておる」
紫龍がキャッチボールの相手を探す直哉を言葉で制した。
その視線の先には、少し気まずそうに視線を落とす結衣がいた。
「おぬしらに立ち直ってもらわねば儂らがこんなことをやる意味がなくなる。小僧の思惑を察するなら、おぬしらがそう散漫では困るのでな」
「……」
「ふむ、複雑な関係みたいだね」
童顔の男はバットを持ちながら首を傾げた。
「とりあえず君がストライクを投げられるようにする……当面の目的はそれでいいよね」
「――はい」
初春に許可を求めるように童顔の男は訊いた。
「よし、じゃあ投げてみよう。初めはキャッチボール感覚でいい」
そう言って雪菜と初春を約15メートル――マウンドからホームベースまでよりもやや短い距離まで離す。
「まずこの距離で相手に届かせよう」
「……」
初春は男が投げる前から雪菜の球が届かないことを見抜いているのだと察した。
案の定、セットポジションもワインドアップも知らない雪菜は、肩の開いたおかしなフォームで山なりボールを投げたが、それは10メートルも飛ばずに初春のミットにスリーバウンドで収まった。
「す、すみません……」
「うん、いいね」
「え?」
あまりにみっともない球に呆れたと思った雪菜だったが、男の反応は意外に好評だった。
「いいかい、君がピッチャーをする時点で求められているのは、空振りを取ることじゃない。届けばいいんだ。あとは丁寧に投げること――」
「……」
「いいかい、フォームってのはやっているうちに固まるから。初めはまずやってみること。そして投げる間に意識するのは4つ――目線と体重移動と足の踏み出す方向――それにリリースポイントだ。届くポイントを覚えるまで投げるんだ」
そう言うと男は、幼児と一緒に見ていた女性に声をかける。
「すまないが彼女のフォームを見てやってくれないか。リリースポイントのズレとか出たら教えてやってほしいんだが」
「分かったわ」
もうこの男の気まぐれに慣れているのか、女性は優し気な笑みを浮かべながらも、困った人だと言わんばかりに頷いた。
「よし、リュートは僕を手伝ってもらおう」
男はそう言って、幼児を連れてグラウンドのバッターボックスの方に移動した。
「さっき言われたこと、少しやってみようか。柳、とりあえずもう少し投げていこう」
そう言って初春はブルペンに座ってミットを構えた。
そうしながら、一瞬初春はグラウンドの方を見る。
「……」
その視線の先には――お互い言いたいことを探して口をつぐんだまま、黙ってキャッチボールをする直哉と結衣の姿があった。
「おーい!」
10分もすると、土手の向こうから一人の大柄な男が大きな荷物を抱えて河川敷に降りてくるのだった。
がっしりとした体形の男でサングラスをかけ、口髭を蓄えた容貌魁偉の男である。
「待たせたな」
「いや、いいタイミングだ」
大男は童顔の男のそばに寄っていく。
皆キャッチボールを終え、次の練習に向けて水分を補給しにベンチにいたのでその男を一様に見た。
「紹介するよ。こいつが僕の推薦する君達の助っ人だ」
「よろしく。あの町内野球大会のポスターを見て、是非撮影をしたいと思っていたんだ。実際に参加してそういう町のふれあいを近くで見られることに興味もあるからね」
その大男は容貌に反して実に明るく優しそうな声で話す男で、非常に好感を持つ雰囲気の男だった。サングラスで目線はよく見えないが、口元に笑みを浮かべて元々の表情が笑顔に偏っているのか、その笑みが実に自然だった。
「挨拶代わりにドリンクと氷を持てるだけ買ってきたよ。足りないならみんなで飲んでくれ」
「……」
夏帆は首を傾げる。
「あの――皆さんの名前をまだうかがってなかったんですよね」
「あぁ……」
大男は頭を掻いた。
「この二人の名前は――ごめんなさい、言えないんです」
二人に助け舟を出すように女性が言った。
「私はシオリ、この子の名前はリュートっていうんですが――この二人の名前は、言えないんです」
「言えない?」
一同は首を傾げた。
特に夏帆は訝しむ。
この男性二人はどうもただならぬ雰囲気を感じるのだが。
どこかで見覚えのある顔をしているような気がしていたのだ。
「別にいいですよ、それは」
初春は言った。
「力を貸してくれるのであれば大歓迎ですから」
「そうかい、ありがとう」
大男をセンターに据えて、初春と雪菜を除く野手はそれぞれポジションに散った。
バッターボックスには童顔の男が立ち、その横にはグローブをはめた幼児がいる。
「いいかい、内野は捕ったらファースト、外野はセカンドに返してくれ。それをゴロでこの子に返す。まずはこの動きを確認しながら行くぞ」
童顔の男は外野にもよく聞こえるよく通る声で言う。
「打つ場所はいちいち指示しないからな。ちゃんとどのポジションも準備をしておくように」
そう言って童顔の男は右打席からボールを打つ。
打球はサードの真正面にゴロになって転がる。
紫龍はそれを一歩も動かず捕り、ファーストに投げる。
「うわ!」
その紫龍の投擲した送球は空気が摩擦熱で焦げ臭いにおいを放ちそうなほどの送球だったが。
ファーストの御伽は小さく押されるような仕草を見せながらも、胸にストライクで決まったボールをしっかりと受けた。
「ほぇ~、すげぇレーザービーム持ってますね!」
センターにいる大男が感嘆の声を上げた。
「力加減が必要だな……」
ブルペンで座っている初春はやり過ぎの送球に目を覆う。
御伽が下手投げでゴロで返すボールを、ホームベース近くでリュートが受け取り、童顔の男に返す。
「よし、次行こう」
童顔の男の次の打球はレフトへフライになって飛ぶ。
「わっ、私だ!」
運動神経のいい紅葉も飛んできた打球に慌てるが。
何度も落下点をすり合わせて、グローブを伸ばすとボールはすっぽりと網に収まった。
「落下点を確認するまで、グローブは構えないで! 落下点に入ってからグローブを出すんだ! 次行くぞ!」
そこからノックはどんどんとペースを上げて打たれ続けた。
皆ルーティーンに慣れ始めるとどんどんペースが上がり、童顔の男のスイング数も200を数え。
「よし、そろそろ水分を補給しようか」
ようやく休憩の合図が出た頃には、皆炎天下に汗をかき、息が切れていた。
「お疲れさま」
シオリが大男の買ってきたドリンクを皆に振舞った。
各々がそれを取り、天の助けとばかりに飲み干す。
「はあ、はあ」
紅葉や夏帆は外野でボールを追う機会が多いのもあって、少し息が切れていた。
「パパ、僕もパパの打ったボールを捕ってみたいです」
その中で童顔の男だけはベンチに戻らず、リュートとバッターボックス近くで話をしていた。
「あぁ。じゃあ少し離れてごらん。ゴロの捕り方はさっきので覚えただろう?」
童顔の男はリュートにセカンドのポジションに行くように促すと、緩いゴロを打ってみせる。リュートはまだ小さく、ボールもその小さな掌では握れないので、ゴロで投げ、童顔の男は素手で受ける。
「いいぞ。お前はまだ背が小さいから、落ちてくるところを狙って捕るんだ。跳ねたら頭の上を超えるぞ」
「はい、パパ」
「……」
その光景は実に微笑ましいが、童顔の男とリュートは、まるで親子というよりは友達や兄弟――まるでもう長い年月を経て関係を積み上げた知己のような空気が流れている。
「あの男、何者なんじゃ?」
ベンチで口を開き、シオリの方を見たのは紫龍である。
「え?」
「あの男の打球――最初はどこに飛ぶ打球も一歩も動かずに捕れるような球をどの守備位置にも寸分違わず散らしておった。正面定位置の打球を捕ることに慣れたと感じた守備位置の者から、徐々に、二歩、三歩動かないと捕れないような打球を左右に散らしはじめおった。その散らす範囲が徐々に広くなっていく……打球の鋭さも変えて揺さぶりをかけておったろう」
「い、言われてみればそうだったかも」
皆紫龍の言葉を聞いてから頷く。
「まず基本の簡単な型を確認させてから徐々に散らす――口で言うのは簡単じゃが、寸分違わぬ打球が飛ぶのでな。偶然とは思えん。それを狙えるだけの技術がある――おまけにあれだけ炎天下で打球を飛ばしたのに、息も切れておらんぞ」
「ははは……」
大男はサングラスをかけたまま汗を拭う。
「あの男、本当に足が悪いのか? あれだけの芸当をこなすというのに」
「はい――あの人の左足はまともに動かないんです……」
少し沈んだ笑みを浮かべてシオリは言った。
「数年前に火傷で大怪我を負ってね。リハビリをして少しは自力で歩けるようにはなったんだけどね。片足じゃ体重を支え続けられないんだ。だから走ったりはできない」
「……」
童顔の男はリュートになおも緩いノックを打ち続ける。
「ところで皆さんは、どうしてこの神庭町に?」
紅葉が訊いた。
「俺は仕事でね。この町にはこの前あった流星雨を撮りに来たんだけど、今は日本中を旅してその地域の人や自然を写真を撮る仕事をしているんだ。またすぐに次の町にあのキャンピングカーであてのない旅さ」
そう言って大男はセカンドにいるリュートを見る。
「それに――あの子に世界を見せてやってほしいって、あいつに言われてね」
「世界?」
「ああ。あいつ曰く、あの子は天才だって言って憚らないんでね。だから小さいうちから色んな可能性に触れさせてやりたくて、この一家は家を持たずに旅をしているってわけ。あの子のためにね」
「天才……」
しかしそれを言っても単なる親馬鹿と思わせない説得力がリュートにはある。
喋り方も感受性も、観察眼も小学校に上がった秋葉心よりも洗練されているかもしれない。もう紳士としての度量がしっかりと根付いており、運動においても飲み込みが早い。
「あいつはあの子の才能に惚れていてね。だからいつも新しい町に来てはこうしてリュートと一緒にその町で起こることに首を突っ込んじまうんだ。お祭りなり、スポーツ大会なりに参加したり、町の古い銭湯や居酒屋に行ったり、義賊の真似事で人助けをしたり――あいつもとある事情で数年間働き詰めだったんでね、子供と一緒に遊んで楽しんでいるんだ。俺の仕事がそれで面白くなるから俺としてもそれは歓迎しているんだけどね」
大男はそう言った。
「――ふん、あの男、おぬしの見習いとか言っておったが、どうやら嘘っぱちじゃな。おぬしとあの童顔男に上下の関係を感じん――むしろおぬしの方があの童顔に男として惚れておるように見える」
紫龍はすぐにその真意を見抜いた。
「旅をするにも先立つものもいるはずじゃろうし――おぬしのその仕事の出資者は、あの男じゃな」
「――御想像にお任せしますよ」
大男はそう言うと、ベンチに置いてあったカメラを構えて、野球の指導に夢中になる童顔の男とリュートにシャッターを切った。




