ある昼下がりの誘惑(4)
ショッピングモールで一通りの買い物をした雪菜は、買ったばかりの服に袖を通し、メイクも施されたままモールを歩く。
「あ、あの、さっきイベントで優勝されていた方ですよね」
商品券をイベントで荒稼ぎした直哉は今日このモール一番の有名人だ。どこに行っても女の子達から声をかけられる。
「ごめん、今日はこの子と一緒で、もうすぐ帰らないといけなくてさ」
その度に直哉は横にいる雪菜を見て、好奇の目で近寄る女子達をかわしていく。
「あ、そ、そうなんですか……」
それを見ると女の子達も割とすぐに引き下がっていく。
「な? 結構女の子達の見る目も変わってきただろ?」
直哉の言うとおり、さっきまで直哉が雪菜を紹介するとあまりに不釣り合いだと相手の女の子達が苦い顔をしていたが、化粧を施した雪菜は直哉と並んでもそこまで遜色がない。
それどころか同世代の男子が雪菜の方を振り返るのだ。
「柳さんはちゃんとお洒落をすれば、十分可愛いよ」
「わ、私こんな格好、恥ずかしいんですけど」
学校の制服さえ素足を見せないようスカートを長めにしている雪菜にとって、膝あたりまでのスカートでも十分冒険である。肩口の袖もないワンピースも実に不安をあおった。
だが雪菜自身の素材は決して悪くはない。確かに紅葉のようにスタイルがいいわけではないけれど、小柄で肌が雪のように白く、目がどんぐり眼でくりっとしている。見るからに優しそうな丸い目と丸顔、それを少し長く垂らした前髪で隠していたから目立たなかったけれど。
「そうか――うーん……まだ商品券が残っているし、もう少し肌の露出の少ない服も見に行こうか」
直哉は残っている商品券を出す。まだ荒稼ぎした半分程度――残りは3万円弱分もある。
「……」
雪菜はそれを聞いて、しばし黙り込む。
「あ、あの――折角ですけど私、もう十分ですから。そ、それよりも――その残った商品券、神子柴くんのために、使いたいです」
「え?」
「こ、これから冬も来ますし、神子柴くん、外でのお仕事も増えると思います――その時にきっと服とか、入り用になると思いますから……私よりも、神子柴くんのために使ってください」
「……」
直哉は目をぱちくりさせる。
「す、すみません。私が言うことではないと思うんですけど……」
「いや――確かにその方がいいかな……」
直哉は力なく頷く。
「健気だなぁ……」
「え?」
「何でもない――じゃあ買い物はここまでにして、お昼を済ませて戻ろうか」
入り口付近のオープンカフェにある窓側の席に座り、二人はBLTサンドとコーヒーセットの昼食にありついていた。
「服が汚れないように、ナプキンを敷くといい」
「あ、ありがとうございます……」
直哉は本当に柔らかな笑顔で雪菜の細部まで気を遣う。
慣れない靴を履いている自分がここまで歩くのにも、何度も気にかけて歩くスピードを自分に何も言わずに合わせてくれたり。
「――お、小笠原くんって、とても紳士な方ですね」
「俺、団地生まれ団地育ちだからね? 両親も普通のサラリーマンだから」
直哉も結衣もその中で本当にご両親に大事に育てられて、きちんとした教育を施されたのだろう。
確かに言動も思考も全然違うけれど。
「す、すみません――今日は色々お世話になってしまって……」
「いや、いいんだよ。俺の友達と仲良くやってくれているんだ。こんなこと初めてだから俺も嬉しいんだから」
直哉はにこりと笑う。そう言ってアイスコーヒーに手を付けた。
「で、でも――小笠原くんって本当にすごいんですね――あのビーチフラッグとか、本当に疾風の如くって感じでしたよ」
雪菜はいっぱいいっぱいになりながらも、直哉に感謝を伝えようとした。
「私なんて、足は遅いですから――あんな風に速く走れるって――どんな風に世界が見えているんだろうって、思います……」
「……」
直哉はストローから口を離す。
「はぁ……ごめん、初めはそのつもりだったんだけどな……」
「え?」
「俺はこの町でハルが柳さんみたいな娘と仲良くなっているのを見て、普通に嬉しかったんだ。東京にいた頃のハルは本当に周りから評価されてなかったし――」
直哉も結衣と同じく、初春の努力を一番見ていただけに周りから蔑まれる初春が不憫でならなかった。
だからこの町で初春が人のためになっていることが、嬉しいはずなのに。
「けど――俺はこの町でハルに会ってから、俺にはまだ見えていないもの、足りないものがあったって思い知らされちまって――正直今、俺はあいつに嫉妬もしているのかな……」
「――日下部さんのことですか?」
「……」
直哉は黙って頷いた。
「昨日さ、柳さん達が帰ってからあいつに不意に聞いたんだよ。柳さんや秋葉さんと付き合う気はないのか、って」
「へっ……」
雪菜は心臓がドキリと鳴る。
「そしたらさ――怒られたよ。ユイを手に入れるのに、俺にそんな行動を期待するなって」
「あぁ……」
雪菜にとってその言葉はあまりありがたくない言葉であるはずだが。
「――神子柴くんらしいですね」
「あぁ――さっき柳さん、言ったろ。あんな風に速く走れる人は、どんな風に世界が見えているのか、って――でも、ハルは柳さんと同じ世界を知っていながら、今も走り続けられるんだ。それがあいつの強さで――ユイが誰よりも信じられる力なんだよ」
「……」
そう。それは雪菜もどうしようもなく初春に夢中になってしまう理由だ。
人を関わるのが苦手で、体力もなくて――そんなところにコンプレックスがある自分を受け入れ、差別をしない。
それが雪菜にとって、どれだけ心強く、救われているだろう。
「優しい人ですよね。神子柴くんって……」
「……」
「でも私は、あの神子柴くんが守ろうとしている日下部さんも、その日下部さんを託そうとしている小笠原くんも、きっと日下部さんを守れると思いますよ。あの神子柴くんが人を信じるなんて、そうじゃなかったらしないと思いますから」
「……」
そう言った雪菜の顔を見て、直哉はふっと笑った。
「な、何か変だったでしょうか」
「いや、本当にハルに一途なんだなって思ってね」
「え……」
「柳さんは、ハルに告白とかをしないのかい?」
「こ、告白――ですか?」
「別に俺のためにハルとくっついてほしいってわけじゃないんだ。君みたいな健気で一途な娘がハルのそばにいてくれるってのは、俺としても嬉しいし――何より君は俺のことを応援してくれているみたいだし――君のことを応援したくなってね」
「……」
雪菜の瞳が沈む。
「私なんて――神子柴くんをまだ目で追うだけで精一杯ですから。日下部さんやクレハちゃんや、葉月先生みたいな素敵な人の中じゃ私――勇気がないから」
「……」
「それに――神子柴くんは音々さんをすごく大事に思っているみたいですから。自分が見捨てたら消えてしまう音々さんを見捨てて、誰かのことを選ぶなんてこと、できない人だと思います」
「それでも、ハルのことを想い続けるのか?」
直哉は訊いた。
「見た限り、あいつ――秋葉さんもだけど、柳さんの思いにも全く気付いていないみたいだったけど――それでも?」
「どうでしょうか……神子柴くんじゃないですけど、水は方円の器に随う――そんな感じかもしれません。この想いを忘れることもできないし――今は時の流れに任せるしかないのかも」
「そうか……」
ふっと直哉は笑う。
「お互い敗色濃厚の恋をしてるんだね」
「お、小笠原くんはきっと、これからも沢山の恋が待っていると思いますよ。勿論日下部さんとだって……」
「――はは」
また直哉は笑う。
「いい子だなぁ柳さんは」
「え?」
「……」
直哉は不意に小さな思いが胸を突く。
「お互い振られたら――俺達、付き合っちゃおうか?」
「えっ?」
「一つの可能性の話さ――」
「……」
その言葉の意味を雪菜はすぐに推し量ることができた。
自分もずっとそうだった。
紅葉や夏帆と比べても自分は可愛くなくて、積極的なアピールも出来なくて。
この想いが初春に届くわけもなくて。
でも――忘れたいと思っても、どんどん初春に心を支配されて。
怖いくらいに心が溺れてしまって。
一人ではどうしようもできないような想いがあって。
それを直哉も抱えているのだろう。
その怖いくらい大きくなる想いを――同じ想いを知る人に抑えつけてほしい。
そんな願い、私だって……
「勝負の内容は何でもいいぜ。あんたの気の済むものなら何でも受けて立ってやるから。その代わりに難癖をつけるのをさっさとやめてほしいものだな」
「み、神子柴くん……」
紅葉はリョウという男を見た。
「リョウ、神子柴くんを悪く言うのはやめて! この人は」
「いいって、秋葉」
初春は二人の間に入る紅葉を制した。
「で、何で勝負する?」
「……」
リョウはその初春にあまりに落ち着き払った――だが酷く好戦的な目に少し気圧された。
だが……
「じゃあ、せっかくの砂浜だ。ビーチフラッグでどうだ?」
「え?」
「うん、それでいいなら」
「うわ、リョウの奴、本気で勝つつもりね」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
紅葉は初春に駆け寄る。
「ダメだよ神子柴くん、リョウは陸上部で、中学の時は学校で一番足が速かったの。絶対に不利だわ」
「ふぅん、まあそんなものじゃないの。相手に勝負の題目決めさせてるんだから」
「え……」
「それ潰すくらいじゃなきゃ頭冷えねぇだろ。ああいう手合いは」
初春はそう言って着ているT,シャツを脱いで、チノパンの裾を膝あたりまでまくり上げる。
「おぉ……」
里穂や他の女子達もその初春の絞られた体に声を上げる。リョウも陸上選手らしい流線型の体をしているが、初春も実にしなやかな体をしている。
少なくともこの砂浜で一番いい体をしている二人と言ってもよかった。
初春は自分の靴を砂浜に適当に置く。
「あれが旗の代わりでいいだろ」
そう言って適当に距離を取って、靴に足を向ける形でうつぶせに寝転がって、すぐに戦闘態勢に入る。
「……」
飄々とした構えですぐに戦闘態勢に入る初春に面くらいながらも、リョウもすぐに駆け寄って隣で体勢に入る。
「秋葉、適当に合図頼むわ」
初春はそう言った。
「う、うん……」
すいている砂浜は目標の靴まで何の障害物もない。
リョウは50メートルを余裕で7秒を切れる足がある。何とか7秒を切れる初春と比べると、随分な俊足と言えるだろう。
普通に考えれば俺が負けるはずがない勝負……
だが。
初春に言い当てられた通り、リョウはずっと前から異性として、紅葉のことが好きだった。
そんな初春が紅葉におかしなことをしているのではないか、悲しませているのではないか。
そんなことをしていることがどうしようもなく腹が立っていた。
あんなことをした奴と一緒に紅葉がいたら――必ず危険な目に合う。
それを止めなければならないんだ。
そう思っていた。
なのに……
「……」
隣で構えているこいつの、なんて落ち着いていること。
まるで一人熱くなってる俺が馬鹿みたいじゃないか。
くそっ、それがまたムカつくぜ。紅葉のことなんかそんなものだってのか。
「で、では行きます。用意……」
紅葉は手を手刀の形にして腕を下ろす。
「は……」
「動くなっ!」
紅葉が声とともに腕を上げた瞬間。
今まで静かに構えていた初春から、周りの空気を震わせるような大声が飛んだ。
その声は砂浜中の人間を振り向かせ、近くにいる者は心臓が口から飛び出るほど凄絶な声だった。
特に一番近くにいたリョウは、その声に一瞬心が怯んだ。
思わず襲い掛かられるような恐怖を感じる――そんな殺気に満ちたような声だったからだ。
その隙を見て初春は同時に好スタートを切る。
リョウもそれに気付いてすぐ立ち上がるが、もう俊足があっても時すでに遅し。
初春はスライディングすらせずに悠々と自分の靴を取ったのであった。
「うわ、あんなのあり?」
「ずるっ……」
紅葉の後ろにいるグループからも否定的な声が飛ぶ。
「俺の勝ちでいいな」
「き、汚ぇぞ! そんなのありかよ!」
「勝負は一回限りの真剣勝負だぜ。あれが本当の戦闘ならお前は秋葉を守れないまま死んでるんだけど?」
「う」
「少なくとも俺は守るものがあるならどんな卑怯な手でも使うぜ。それ以外のものからどう思われようが関係ない。そのくらいの気持ちでやってるけどな」
「……」
リョウは返す言葉もないが、納得できなさそうに唇を噛んでいた。
「俺に納得できないのはいいけど、秋葉を困らせんなよ」
初春は面倒そうに言った。
「こいつは好きになったらその人のことをずっと好きでいたいって思い続けるような一途な奴なんだ。だから人を蹴落としてこいつを振り向かせようなんてやり方したって無駄なんだよ。お前が秋葉を惚れさせりゃそれで済む話だろうが」
「そ、そんなつもりは」
「だったら、何でこいつを困らせるようなことをするんだよ。秋葉はさっきから困ってただろ。好きならこいつの心の整理をする時間くらい与えてやれよ」
「く……」
「本当にこいつが好きなら、こいつがどんな人間なのかをもっと見てやれよ。俺にたぶらかされてるとか思っている時点で、こいつの人を見る目を信じてない証拠だから」
「……」
畳みかけるような初春の指摘にリョウは返す言葉もない。
周りの人間もすぐにわかった。
本当に初春は勝敗なんてどうでもよかった。
紅葉のためにリョウにこれを言うために。
リョウの頭を冷やして間違いを正すためにこの勝負を受けた。
はじめから勝負の先を見て、紅葉の負担を減らしたのだと。
「秋葉、話があるなら別のところに行こう。気持ちの整理する時間がいるだろ」
「う、うん……」
紅葉は初春が歩いていく、砂浜の向こうの岩場の方にちょこちょこ歩いていく。
「ごめん、今日のところはまた――ちゃんと後で連絡入れるから」
紅葉は敗北に打ちひしがれるリョウの方を一瞥したが。
「……」
何も声をかけられず、歩いていく初春の背を追った。
「うわぁ……ちょっとカッコいいかも」
里穂が頷いた。
「クレハ――ずっと好きでいたい人、見つかったんだね」
岩場の方に来るとめっきり人が少なくなる。
「み、神子柴くん。ありがとう――」
「ん? 別に礼言われることなんて何もしてないぜ」
「で、でも、リョウを止めてくれたから」
「あぁ――昨日秋葉が言ってただろ。好きな人をずっと好きでいたいって。だからああいうやり方したって無駄だってのを知ってたからやっただけだ。お前が好きになるのって、そういう勝った負けたの話じゃないだろ」
「……」
ぶっきらぼうだけど、ちゃんと私のことを考えてくれていたんだ。
学校の仲間も大事だけど、そういう風に私のことを考えてくれる人は神子柴くんしかいない。
だけど……
自分の前を歩く初春が、自分のことを見てはいないことも分かっている。
今は結衣ちゃんのことで頭がいっぱいで。
あんなことに時間を取られたくなかっただけなんだ。
それでも――
嬉しいよ……
「あぁ~なんかどっと疲れたぜぇ」
岩場の水辺沿いに初春は腰かける。遠くで釣り人が糸を垂らしているのがわずかに見えるだけで、こちらが何をしているのかは見えないような場所に人がいる以外、誰もいない。
「うわ、水が冷たくて気持ちいいぜ」
岩場から足を下ろしてくるぶしあたりまで海水につけてバシャバシャと白波を立てる。
そう言って紅葉が買ってくれたコーラのペットボトルのふたを開けて一口口に含む。
「うわ、もうぬるくなってるな……」
初春がそのコーラのぬるさに顔をしかめた時。
後ろから紅葉が初春の体を押した。
「うおっ!」
初春はコーラを持ったまま海水にドボンと落ちた。それに続いて紅葉も海に飛び込む。
「うわぁ、勿体ねぇ……全部流れちゃったよ」
初春は海に流れてしまったコーラのペットボトルを見て、がっかりした表情をした。
「秋葉、落とすならせめて一声かけてくれよ……」
初春達の落ちた先は、紅葉の方が首までつかるくらいで足も付くような場所だったが。
海の中で紅葉はじっと初春の方を見つめていた。
「秋葉?」
「神子柴くん……結衣ちゃんのこと、諦めるなら……他の女の子じゃ、駄目なの?」
「は?」
「……」
紅葉の言葉の意図が分からない初春だったが。
整理がつかないまま、紅葉は初春の前に来て、初春の体を水中で抱きしめた。
「このまま――キスとか――してみない?」
「は?」
「きっと――このまま神子柴くんがただ結衣ちゃんを諦めるなら――私……」
不意に熱に浮かされたように、頭が火照る。
胸のドキドキが、初春にも伝わっていないか、不安で恥ずかしくて。
自分の言葉を正当化しようにも、そんな言葉を出す余裕ももはやない。
今の行動は結衣ちゃんを諦めさせてあげようとか、そんなことじゃなくて。
もう100%私のわがまま。
結衣ちゃんしか見ていない神子柴くんを、黙って見送れなくて。
でも……
ずっと想っていた神子柴くんに、今こんなにくっついている。
思ったよりずっとごつごつして、しなやかで、自分の体と全然違う体つき。
勇気を出してでも、知りたくなっちゃったよ……
この人を困らせると分かっていても、止められないこの気持ちが。
もうどうにでもなっちゃえって振り切っちゃったら……
私と、私の未来って、どう変わるんだろう……
「キス――しようよ。誰にも言わないから……」
紅葉は初春を見つめながらきゅっと目を閉じた。




