ある昼下がりの誘惑(2)
3時起きの初春は今日も牛達の世話をしている。
相変わらず夏バテ気味の牛達のために来ればいつも水で体を洗ってやる始末だ。
牛小屋の屋根だけでなく壁の補修もして、なるべく直射日光が牛達に当たらないようにもした。そのせいか毎年夏には落ちる牛乳の搾乳量も例年よりも多いらしい。
そしてそれが終わると、初春は夏を迎え最盛期になっているトウモロコシ畑の収穫に借り出されている。
ただ根元からもぎ取るだけなのだが、ずっしりと重いトウモロコシを適宜収穫するのはなかなか腕が重くなる作業である。
「――うお、トウモロコシってこんなに甘いんですか」
今日の収穫を一段落させた初春は秋葉の祖父母の家に戻って、トウモロコシ尽くしの朝食をいただいていた。
網で炙って焼き、醤油をかけただけのトウモロコシがまるで果物のように甘い。
「豆類は収穫と同時に糖度がズンズン落ちていくからね。この味は東京のスーパーで買ったんじゃまず食えないね」
「そうなんですか?」
「アスパラなんかも収穫した瞬間に鮮度が落ちていくよ。魚と一緒で野菜もちゃんと生きてるってことさ」
初春はお婆さんの作ったトウモロコシのかき揚げでご飯を頬張る。具がトウモロコシしかないのにご馳走みたいだった。
「本当にいつもおいしそうに食べてくれるから、作りがいがあるよぉ」
おばあさんが初春の姿を見て言った。
音々の料理も随分頑張って現代の味付けを研究しているが、その出来はばらつきがある。ファミレスの料理は全て自分で作るし、全種類を食べたからもう味の期待はない。
ここの料理はいつも想像を超える出来のものが出るので、初春の数少ない楽しみの一つだ。
「神子柴くんが来てからまだちょっとしか経ってないけど、大助かりだぁ。孫とお花見も出来たしねぇ」
おじいさんおばあさんはこのわずかの期間の初春の働き振りから、初春の仕事ぶりや人柄を認めていたのである。
人間嫌いの初春もご飯を毎回ご馳走になっているし、初めは人と一緒にする食事が不慣れだったが、いつも新鮮な野菜を使った料理に目から鱗の落ちる思いの連続で、退屈しなかった。
「しかし神子柴くん、明日はいよいよ野球の試合だねぇ。大丈夫かい?」
「まあ――最善は尽くしますよ。秋葉達も手伝ってくれますし」
「頼むぞ! あの鬼灯町の連中の鼻を明かしたいんじゃ! 今度こそ奴等に勝ってどっちが本当の過疎地か証明してやる!」
「……」
そこはかとなく悲しさの漂う争いだった。
「まあ頼もしい味方自体はいるんで――それよりもあと一人、神庭町から誰か出場する人を用意してくれませんか」
初春の当面の問題は、チームに足りないあと一人を探すことである。
「出来ればその人、打てなくてもいいんで守備の上手い人がいいんですが……」
「むむむ……そんな人がうちの町にいるか……」
お爺さんは難しい顔をして首を傾げる。
「ほら、うちの町が人を用意できないんだから、神子柴くんにだけプレッシャーかけちゃダメだよ、おじいちゃん」
不意に家の縁側の外から声がすると、紅葉が立っていた。
単に親戚の家に来たとは思えないようなよそ行きの服装――何より行動派の紅葉がスカートをはいているのを初春は初めて見たし、メイクもばっちりだった。
「秋葉――」
「神子柴くん、おはよう」
「おやクレハ。こんな早くにどうしたんだい? ご飯食べていくかい?」
「ううんおばあちゃん、今日はね、二人に頼みたいことがあって来たの」
いつになく真剣な表情の紅葉を初春は茶碗を持ったまま見ていた。
「おじいちゃん、おばあちゃん――もし明日の試合に勝ったら――神子柴くんをふたりの養子に迎えてくれないかな」
「ぶっ!」
初春は飯を噴出しかけた。
「あ、秋葉?」
「神子柴くんには、この先どうしても大人の名義人が必要なの! 神子柴くんはそれさえあればもっと……」
「……」
おじいさんおばあさんは孫の言葉に呆気に取られている。
「ちょ、ちょっと待て――来い」
初春は食事を残したまま座を立ち、縁側に出て紅葉の手を取って家の裏へと導いた。
「どういうつもりだよ――ありゃいくら孫の頼みでもドン引きだぞ」
初春は困ったような顔で後頭部を掻いた。
紅葉は口を真一文字にして、初春を見る。
「――夏帆ちゃんに昨日相談されたんだ。神子柴くんを誰かの養子にできれば、もしかしたら神子柴くんは高校にも通えて、もっとやりたいこともできるんじゃないかって……うちのおじいちゃんもおばあちゃんも、神子柴くんのことを気に入ってるし……」
「あの人は……」
初春は目を覆う。
もう無理だと諦めたと思っていたが、夏帆は昨日閃いたことをすぐに相談したのだった。
「――あのなぁ。俺を養子にするっていっても、俺が高校に行くためには奨学金が必要なんだ。だからその引き取り手は数百万単位の借金をするってことと同じ意味なんだぞ。しかも見ず知らずの俺のために――お前、いくら身内でも冗談が過ぎるぞ。あんなこと言ったらお前、二人との関係とか……」
「それは駄目なら私が謝ればいいだけだから」
紅葉は強い目で初春の言葉を遮る。
「私が神子柴くんを助けたいから、やれることをやる――それは私が決めることだから」
「……」
その強い目は、初春の人生の中で一度も見たことのない人間の目だった。
自分のために一生懸命になっている人間の目の輝きの熱さに、初春の水のような静かな目が沸き立つように疼いた。
「神子柴くんは――こんなところで馬鹿にされていていい人じゃない――私はそう思うよ。だから――私は神子柴くんに未来をあげたいの」
「はぁ……」
どうしていいか分からなくなって、初春は目頭を掌で覆って天を仰ぐ。
「……」
昨日の帰り道、紅葉は思った。
好きな人の悲しい思い出や、人から馬鹿にされていることが、こんなにも自分の心さえも悲しみで締め付けるなんて。
そして――鍛錬の時に笑っていた初春を見て思った、
この人の笑顔をもっと見たいと。
――そんな言葉は喉の奥まで出かかって、恥ずかしさにせき止められる。
そのあなたの未来の中で、私はあなたの特別になりたい、という気持ちが。
「――迷惑だった?」
「――いや――もう俺にも何が正しいかなんてよくわからんから――ユイ達のことにしても、是非じゃなく、やれることをやっているだけだ。だからお前達のやることに文句も言えないんだが……」
「ねえ、神子柴くん――私も本当に神子柴くんに何をしてやればいいかなんて、おじいちゃん達にあんなことを言った今でもわかんないよ――多分セツナも夏帆ちゃんも、結衣ちゃん達もだと思う」
「……」
「でもさ、だからこそ知りたいんだ。自分のことも、神子柴くんのことも――だからね――お互い分からない者同士、もう少しあなたに踏み込ませてくれないかな」
「……」
初春には理解できなかった。
「秋葉――お前は俺がこの前何をしたか知っているし――お前をあんなに怖い目にあわせたんだぞ。なのに何で俺から離れないんだよ」
「……」
「俺は人に嫌われる才能があるらしいからな――また俺を恨むような人間に同じようなことされてもおかしくない――次そうなっても、どうなるかの保証もないんだぞ」
「それでも――私は神子柴くんを信じるよ」
何の迷いもなく紅葉は言った。
「私は結衣ちゃんみたいに幼馴染でもないし、セツナみたいな頭の良さも、夏帆ちゃんみたいな大人の包容力もないけど――だから、そこだけは負けたくない。私にとって、神子柴くんは……」
そこまで言うのが今の限界だった。
自分が恥ずかしいというのもあるけれど、この場で自分の想いをぶつけてしまったら、結衣を忘れようとしている初春をもっと混乱させることになる。
それが分かったから。
「と、特別な人、だから……」
精一杯の想いで、それを伝える。
「……」
「私じゃ――そんなのにはなれないかな……」
紅葉は沈黙して目を覆う初春に訊く。
「――俺にそんなことを言う人間ってだけで――俺にとって十分『特別』だっての……」
初春は言うのを恥ずかしがるように、苦々しい口元をした。
「ほ、本当?」
「あぁ――ていうか色々あって――最近お前達のことでも悩んで……」
「あ――ちょっと待って。もしそれ話してくれるなら――どこか別のところに行って話さない? もう仕事、終わりなんでしょ。今日って午後の野球の練習まで時間あるの?」
「あぁ――あるけど――俺この通り汗だくだし、牛の臭いが染みついてるぜ。行くったってどこに……」
「じゃあ海に行こうよ。一緒に」
「すげぇなここ、平日の午前中に電車が30分に1本とは」
電車を使って直哉と雪菜は隣町のアウトレットモールに来ていた。
神庭町の人間は服や雑貨を買うためには、少ない電車に乗って片道1時間弱かかるこのアウトレットに来るしかなかった。
そして神庭町民の数少ないデートスポットである。
「うわぁ……」
しかし地元民の雪菜でもここにはあまり来たことがない。体型や身長が小学校の高学年からほとんど変わらない雪菜はほとんど服を入れ替えずに着てしまっており、両親と来る以外でここに来るのは初めてである。
「ほぉぉ、朝一で来たけど結構賑わってるな」
今は夏休み限定のセール中で、モールの中央広場では毎日日替わりでイベントが行われているようだ。子供達の遊技場も併設されていて、スポーツ関連のイベントも行われている。
「どれどれ――80店舗もあるのか、ここ」
「……」
モールの中央広場で場内地図を見ながら、雪菜は感じていた。
その目立つルックスの直哉に向けられる、無数の視線に。
――どうしよう、ものすごく場違いな気がする……
「あ、あの!」
不意に直哉に声をかける者がいた。
紅葉よりも更に派手な茶髪の、見た目の可愛らしい女子二人のグループだった。
「おひとりなら――私達と一緒に回りませんか?」
もじもじと恥ずかしそうな表情で、勇気を振り絞って言ったという様子。
「――悪いね。隣の娘が俺の連れでね」
直哉はそう言って、雪菜を見た。
「え……」
二人は意外そうな顔で雪菜を見る。
「……」
――そりゃそうですよね――こんな人の連れが私なんて――
「さあ、行こうか」
そう言って直哉はまるで姫でも扱うような優しさで、雪菜の手を取った。
「!」
男に触れられることに慣れていない雪菜は一瞬驚いたが、その自然な優しさが嫌じゃなかった。
直哉の手に優しく引かれるまま、直哉の後をついていっていた。
それでも胸はドキドキと早くなっていく。
「あ、あの――いいんですか? 折角勇気を出して声をかけてくれたのに……」
「ありゃ多少芝居入ってるよ――情に流されない方がいい」
「え、演技ですか、あれが……」
――全く気づかなかった。
「まあ安心しなって。ハルはああいう演技は俺以上に見抜くから。ああいう可愛い振りはあいつに通用しない」
「な……」
女子力の高さに驚いていた雪菜は、頭の隅を掠めた考えを言い当てられてたじろぐ。
「――さて、問題は予算だなぁ……」
直哉が場内地図のパンフレットを開く。
「わ、私に使うなら神子柴くんに使った方が……」
「ハルには俺が後で働いて返すよ。あいつの場合現金の方がいいだろうし――それに予算に関しては、このパンフレット見る限りは何とかなりそうだよ」
「決まったー! 5連続フリースロー達成!」
「ビーチフラッグス、圧倒的な強さで優勝!」
「ストラックアウト、パーフェクト達成です!」
直哉は場内で行われていたスポーツイベントの種目で次々に最高記録を更新していく。
「こちら景品の、モール内商品券1万円分になります」
そしてイベントの景品であるモール内での商品券を稼ぎまくった。
「よし、とりあえず5万円分商品券がとれた。予算としては十分だな」
直哉の手には札束よろしく商品券が握られている。
「……」
雪菜はその光景に呆気に取られた。
バスケットボールをまるでリングに吸い込まれるような軌道で投げる姿も、文字盤にボールを投げ込む姿も実に堂に入っており、華麗で滑らかなフォームから繰り出された。
そして何より、足がものすごく速い。
ビーチフラッグで、相手に競り合うことも、飛び込むこともせずに旗を取ってしまうのはまさに圧巻の勝利だった。
あまりの美しさにギャラリーがどんどん増えていく始末で、このモールの客の全部がここに集まるかと思う程だった。
「……」
その姿をみて、雪菜の目も直哉にくぎ付けだった。
そして思う。
初春が自分を直哉の劣化コピーだといった理由が。
本当に初春の基本の動きが直哉にそっくりなのだ。なのにパワーもスピードも全ての面で直哉がそれを上回り、動きを洗練させている。
時々トリッキーで泥臭い動きをする初春に比べて、その所作がまるで崩れない。俳優がシナリオを追うが如く、初めから約束された勝利に向かって時間が進んでいる感じだった。
「こういう場面ならできるんだけどな……」
「ほ、本当にあれでスランプなんですか?」
「こういう負けてもノーリスクな場面なら全然いけるんだけどね……」
直哉は自分の右手を開いて見つめた。
「でもいつからか、失敗できないって場面で妙に体や頭が動かなくなるようになってね――昨日もそうだった」
「――そ、その分野には詳しくないですが――イップスというものですか?」
「両親が成績が落ちたから心配して、一応心療内科に行ったんだけどね。俺もそんなもんかなと思ってたけど――イップスっていうのは練習でもその動作が出来なくなることだからそれとは違うって言われた」
だが、医者の言うことを聞かずとも自分で実感している。
「俺は自分の才を過信していたんだよ、自分に手に入らないものはないと思っていたんだ。そんな俺がユイの心を掴めなかった」
「……」
「そして俺は、自分のはるか後方にいたハルを過小評価して、そいつにユイの心を射止められたんだ。その敗北ひとつでここまで簡単に崩れる男だとも思っていなかった」
「……」
「井の中の蛙だったのは、むしろ俺の方だな――」
「冬の寒きを経たざれば、春の暖かきを知らず、ですよ」
雪菜が言った。
「私の好きな言葉なんです。きっとそういう思いも、小笠原くんの次の進む力になるんだと思います――」
「……」
「少なくとも神子柴くんは、悲しい思いを沢山したから、優しいことも出来るんです――そんな神子柴くんが信じる小笠原くんなら、きっとできますよ」
「そうかな……」
直哉は本当に女の扱いを無意識に学んでいるような男だった。
とにかく常に穏やかに笑い、細かいところに気が付き、一緒にいる女を姫のように扱う。
雪菜の着る服を選び、化粧品売り場でメイクを施してもらい、遠目から見ると前髪を下ろして陰気にさえ見える雪菜の姿は、どんどん艶やかになっていく。
「うん、オッケー」
試着室でようやくベストのコーディネートが完成し、出てきた姿を見て直哉は頷きながら両手の親指を立てた。
幾度となく褒めてくれたが、それが社交辞令らしさも過剰さもなく、全てにおいて雪菜の心に丁度いい。
無愛想な初春に比べると実に爽やかだ。
「あとは――その髪の毛だね」
直哉は試着室から出た雪菜に、買ったばかりのヘアピンを差し出した。雪の結晶の意匠が小さく施されている。
「これ……」
「試着室にいる間に買ってみた。柳さんの名前見て、いいなって思ったんだ」
その微笑があまりにも邪気がない。
初春の腹に一物含んだような笑顔とはまったく違う笑顔があった。
「これで完成だ――どうだい?」
直哉はその姿を前にある全身用の鏡を指して言った。
「……」
生まれて初めての化粧を薄く施され、肩が見えそうなくらい袖の薄い服に、素足の見えるスカート。
ほんの少し前までは恥ずかしいと思ったくらいだが。
「何だか――別人みたいです」
「大袈裟だな。折角稼いだ商品券、半分も使ってないよ」
「……」
ふいに雪菜は、そうして笑っている直哉の爽やかな笑顔に目をやり。
心臓が小さく速く、自分を叩いていることが分かった。
素敵な人だな――こんな引っ込み思案の私の手を引いて、私を簡単にこんなに変身させてしまった。
まるで――神子柴くんみたいな人だな……




