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今は、それだけで十分

 農協の集会場は本当にただ広いだけのぼろ家だった。20畳程度ある古びた畳の和室と簡単なキッチンがあるだけ。年季の入った瓦屋根もそろそろ補修が必要だろうと思われた。

「あぁ、神子柴さん」

 今日の農作業を日没直前に終わらせたばかりの秋葉家のお爺ちゃん達と他の農夫達の中で、一人だけスーツの御伽士狼が声をかけた。相変わらず7月の夕暮れの蒸し暑い時間だというのにスーツのジャケットにネクタイまでしている。

「どうも」

「やあ神子柴くん――なんだ、クレハも来たのか」

 秋葉のお爺ちゃんは付き合いの酒も入ってほろ酔いの様子だった。確かに縁側が開け放たれている集会場の和室のテーブルには神庭町の海の幸山の幸でこしらえた刺身やら山菜の天ぷらやら、美味そうな酒の肴の類が乗っている。ファミレスのメニューにはないような素材の味重視の調理だった。

「神子柴さん、メンバーは集まりましたか?」

「まあ8人までは目処つけましたよ。つっても――勝てるかどうかってメンバーじゃないですけど」

「そ、そうなのかい?」

 お爺ちゃんは酔いもさめそうな顔をする。

「実際見つけたひとりってのは、秋葉ですから」

 そう言って隣にいる紅葉を見ると、お爺さんも驚いた顔をする。

「く、クレハ、確かにお前は運動は昔から得意だけど、女の子なんだぞ。今回の野球大会、鬼灯町は高校や大学の経験者ばかりを並べているチームなんだぞ」

「お爺ちゃん、どうせ神庭町には人がいないんだから、神子柴くん――ううん、神子柴くんの何でも屋を信じてあげてよ。私達も頑張るから。お願い……」

「クレハ……」

 その紅葉の真に迫る表情と声が、お爺さんの不安を払いのける力があり、お爺さんは意外そうに目をしばたたかせた。

「……」

 横にいた初春も意外だった。実際女性が半数を占めるこのメンバーでは物笑いの種になったり、文句を言われることも覚悟していた。

 そういう時にかばってくれる人間がいる経験を、初春は人生でほとんどしたことがなかった。

「御伽さん。素人ばかりなんで、試合の前に練習をさせてもらいたいんですが、野球道具とグラウンドの手配は出来ますか?」

「そう言うと思って、明日の午後、少しの時間だけグラウンドを押さえてありますよ。いくつか道具もこの集会場に運んであります」

「ははは、随分人集めに苦労しているんじゃなぁ」

 初春達の背中に豪快な笑い声を浴びせる者がいる。

 振り向くとそこには胡麻塩頭の初老の男性だが、農作業で日に焼けた精悍な男が立っていた。

「鬼灯町の町長さん――学生時代から隣町の高校でお爺ちゃん達と仲が悪かったんだって」

 紅葉が初春に囁いた。

「大丈夫か? うちは鬼灯高校の現役の野球部や、夏休みで帰省している大学の野球経験者を集めたんだよ? どうせ勝てないからって、女も入れての言い訳なんて勘弁してくれよ」

 取巻きの鬼灯町の連中も既に勝った気でいるように薄ら笑いを浮かべている。

「ぐぬぬぬ……」

 本当に町同士で犬猿の仲のようで、神庭町の人間は早くも地団駄を踏みそうなほどに眉間に青筋を立てている。

「……」

「さっきくじ引きを行いました。参加は4チームで、1回戦は神庭町、鬼灯町は別の相手との試合になります。あくまでもレクリエーションなので、実力の差が出やすい盗塁はなし、リードはあり、10点差がついたらコールドとします」

 御伽の大会説明を、その場にいた4チームの代表達は耳を傾けて聞いていたが。

 もう既に初春の頭は直哉のことを考えていた。

 こりゃ――あいつに立ち直ってもらわないと色々まずいぜ……



 集会場にいたのはほんの30分程度だが、初春は一通りの料理をつまんでいた。

 皆にメッセージを飛ばして、明日の午後に野球の練習(自由参加)と伝える。

「お酒が飲めないと、ああいう席に行っても退屈だよね」

 初春も長居しても馬鹿にされることが分かっていたので、紅葉を送る口実で早々に抜けてきてしまった。

「でも――ごめんなさい。神庭町の人が満足に出られないから神子柴くんを頼ったのに、味方にまで疑われて」

「まったくだ。分かってないなぁ」

 初春は紅葉の家までの道を歩きながら言った。その左手には御伽から借りた古びたグローブをつけて、軟式の野球のボールを右手で弄んでいる。

7月の夜空は集会場で過ごした時間を過ぎて夜の7時を迎えようとしているのにまだ夕焼けの明かりが多少残っていて、白いボールがしっかりと見える。

 また農道に差し掛かり、背の伸びた苗の葉が風に揺れる音がする。

「ああいう思い上がった連中を本番で青ざめさせるのが面白いのに――なめられてる位で丁度いいのにお爺ちゃん達、本気で相手しちゃうんだからな。今はどうせだったらへいこらしているくらいの方が本番で面白かったのに」

「――な、何でそんなに落ち着いてるの? 負けたら鬼灯町にはバカにされるし、神庭町だってがっかりするのに」

「負けた時に酷い目に遭うことを考えずに勝負事をする奴は実に醜い――勝負事でやる前から負けることを考える馬鹿がいるかって、伝説のプロレスラーは言ったらしいけど、そりゃ強い人に許された権利だ。俺は弱いから、負けた時のことを考えて腹くくってるのさ」

「――それも、人間に教わったの?」

「まあそんなとこ。とは言っても今回はお前達やナオ達まで巻き込んじまったから、何とか勝たないとな――」

「……」

 確かにこの人にはそういうところがある。

 この人はひとりでいるなら、いざとなれば自分が酷い目に遭って話を納めればいいって――そう考えているんだ。

 この前――この人は人間に弱みを握られることも、裸にひん剥かれることも、糞尿を撒き散らして辱められ、痛めつけられることも経験して、それが『普通』とまで言い切った。

 きっとこの前の依頼も、自分が負けたらそうされることも想定していたのだろう。

 自分が見た地獄と比べたら、負けた時に暴力を振るわれないなんて上等過ぎる――ということなのだろう。

 十分耐えられると。

「……」

 今日、あの幼馴染の二人といるのを見てから、初春の生き方の悲しさばかりが紅葉の目を捉えるようになっていた。

 それでいて、助けてくれ、という素振りのひとつも見せない。

 何かこの人の力になってあげたいと思うけれど――助けてくれ、という素振りもない以上、何もできない……

 紅葉は次々に悲しい思い出をそ知らぬ顔で繰り出す初春に対して、もどかしい思いでいっぱいだった。

「あぁ、そうだ。まあ気休めにもならんことだが――俺――秋葉にも言っておかなきゃいけないことがあるんだ」

 そんな紅葉の思考を初春の声がせき止める。道の途中で立ち止まり、紅葉の方を向いた。

「俺、自分から秋葉の嫌がることをするつもりはないから」

「……」

 ヒグラシの鳴き声と、水田の稲穂を揺らす風の音。

「俺があのファミレスで陰口叩かれていることも知っているし、秋葉も俺と一緒にいたら色々言われているのもまあ何となくは分かっているけど――とりあえずその噂が言うほど秋葉に下衆いことはしないよ、多分」

「――多分なんだ」

「俺は元々性根が腐ってる上に、育ちが悪いからな。知らないうちにお前に無礼があるかも知れん。不可抗力については保証できないって意味さ」

 紅葉はその初春のジョークに呆れるように笑った。

それは本当に自分の気持ちを知らないでの発言に対する自嘲じみたものだったけど。

「でも――段々分かってきたよ。神子柴くんは人の噂話の通りの行動をとるのとか、絶対嫌だろうし……」

「口約束じゃ何の気休めにもならないだろうが――それでも不安なら何か誓約書を書いてもいいぜ。て言うか俺が変なことしたら、誓約書よりもあのおっさんのところに駆け込むのをお勧めしておく――俺に法の裁きよりもエグいお仕置きができるから、警察に突き出すよりスカッとするぜ。それは先に言っておく」

 初春はジョークめかして言ったが、頭の中で自分の体が紫龍の『玄武』あたりにネギトロみたいにすり潰されてぶちまけられる様を想像した。

「俺は人間が嫌いだけど――お前と柳には借りがあるしな。記憶を一度、勝手に消したってのもあるし――その上でお前達の嫌がることをするってのも後味悪いし――仕事にも協力してもらっているしな、そういうのを仇で返すのは礼儀礼節に反するしな」

「……」

「だから――今回の件に関しては、俺が絶対にお前達を守るから――今回の仕事、本気で勝つつもりでやるからそこは安心してよ」

「……」

 この人――私の気持ちに対して全然的外れなことばかり言っているけれど。

 ちょっと他の人よりも特別扱いされているっていうだけで、私はこんなに嬉しくさせられてしまう。

 普段はそっけないけど、たまに無自覚に優しかったり、気遣ったりされる。

 ――久々に思い出した。この悔しい感じ……

 この人を好きになって、私は感情の起伏が激しくなった。

 この人の他の女の子の態度がやたらと目に付いたり、ちょっとしたことで嫉妬したり……

 それはあまりいいことばかりじゃないけれど――離れがたい……

 もっとこの人の近くに行きたいって――強く惹かれてしまう。

「まあ秋葉は気にしてないかもしれないけど、一応そう断っておこうと思って。あのファミレスの連中に俺のことを何か言われるのは別にいいけど、秋葉に嫌な思いをさせたくなかったんで、気休めとして言っておく」

「……」

 紅葉は喉の奥まで来た言葉を飲み込むかどうか迷う。

 でも――抑えられなかった。

 気になって仕方がなかったから。

「どうした?」

 そうして黙り込む紅葉をいぶかしむ初春の反応が思ったより早く、言葉を飲み込むタイミングを逃してしまった。

「――結衣ちゃんにはそういうこと――しそうだったの?」

「は?」

「だ、だって今日、玄関で寝てたし……神子柴くん、危険だったって言ってたし……」

「……」

「私にはそんなことする気はないって即答できるけど――結衣ちゃんに対してはそうじゃなかったの……」

 反応が見たかった。

 自分と結衣の違いはそんなにも埋めがたいのか。

 それよりも、もっと色んなこと……

 この人のこと――何でもいいからもっと知りたい……

 ――初春は目を細めて少し黙り込む。

「あれは――念のためさ。お前達が来るのは分かっていたし、俺は少しでもいかがわしい行動を取ったらお前達に袋叩きにされそうだったし」

 言いながら初春は思う。

 昨日はあまりにも自分の精神にとって刺激的なことがありすぎた。

 ずっと憧れていた幼馴染との再会と、その幼馴染に抱きつかれたり、一晩を一つ屋根の下で過ごすことになったり。

 ――挙句の果てに、その幼馴染が自分のことを好きだと言う。

 あの無防備なお姫様が、俺の煩悩や未練にどんどん畳み掛けてきやがった。

「まあ――冷静でいられてなかったのは確かかな――」

 あの状況で、落伍者の最後の思い出として結衣のことを抱いてしまうことも、チラッと頭を掠めた。

 今思えば、人間嫌いの俺がそこまで持ち込むロマンティックなピロートークなど持ち合わせていないと振り返れるが、それも分からなくなる程度にはその可能性を意識していた。

「それって――いけないことなのかな……」

「え?」

「少なくとも――神子柴くんは結衣ちゃんを好きなのは分かる――結衣ちゃんも――お互いがお互いを好きだってこと――神子柴くんは結衣ちゃんを好きだって気持ち――瑣末な問題って言っていたけれど……結衣ちゃんはきっと――神子柴くんに側にいて欲しかったんじゃないのかな……」

 ――あれ? 私何か、好きな人を別の女に焚き付けるようなこと言ってない?

 それに紅葉が気付いたのは口に出してからだったが。

「好きな人と一緒にいられるって――きっと――とっても嬉しいことだと思うの」

「そうか……」

 そう呟くと、初春は空に向かって持っていた白球を投げ、そのフライを自分でキャッチした。

「秋葉はどうなの? 好きな奴がいたら何かしたいこととかあるの?」

 初春はまたボールを空に投げる。

「……」

 この人――本当に気付いていないんだな。

「まだよく分からない――私もまだ、誰かと付き合ったことないから」

「え? そうなのか?」

 初春はちょっと驚いた顔で紅葉を振り返った。

「――前から思っていたけど、神子柴くんってセツナに比べて私のこと――男慣れしていると思っているでしょう? セツナには過保護だけど、私は扱い雑っていうか……」

「そりゃ――あの柳と比べりゃ大抵の女子はそうなるんじゃないか……それにホールで仕事しているお前を見ていてもそう思うぜ。客のおっさんのセクハラだってかわしてる。下手に俺が間に入る方が人間関係はややこしくなりそうだしな」

「わ、私だって変わらないよ? だって私もまだバ……」

 初春に男慣れしていると思われるのが嫌で、激した勢いでとんでもないことを口走ってしまいそうになったのを必死でブレーキをかける。

「な、何でもない……」

 紅葉は真っ赤になった初春から目を背ける。

「何を言いかけたんだ?」

 初春はまた首を傾げた。初春は女子とこの手の話題で話したことは結衣とすらないので、会話のシミュレーションがない。

「気にしないでっ」

 紅葉はもうこの話題に触れないよう釘を刺した。

「まあいいけど……」

 初春も相手の嫌がることをしないと宣言したばかりである。深追いはしてこなかった。

「……」

 沈黙。

「――さっきの質問だけどさ」

 紅葉がまだ初春の顔を見られないまま言った。

「私は――好きな人としたいことは色々あるの。映画を見に行ったり、旅行とかしたり」

「……」

「でも――それより何よりも――その人のことを、ずっと好きでいたいな……」

「え?」

「私はその人のことを、変わらずずっと好きでいたい――おばあちゃんになっても」

「『好きでいて欲しい』じゃなくて、『好きでいたい』なのか?」

「うん――誰かを一度好きになった気持ちが消えちゃうのって――何だか怖いな、って思う……最初は好きでも、その気持ちが段々なくなっていくって考えると、何だか自分が自分でなくなっちゃうような――そんな感じなのかなって、思う……相手に嫌われちゃうのは自分のせいかもしれないから仕方ないって思えるけど、自分が変わらずに好きでいたいと思ってもそれができなくなるとしたら、何だかすごく不誠実なことをしている気持ちになる……」

「――それ、結構変わってるって言われるんじゃないのか。女って基本相手から大切にされることを求めるだろ」

「よく言われる――恋に夢見過ぎだとか、重いとか言われちゃったりしてね。ふふ」

 紅葉は自嘲しながら初春の横顔を見る。

 でも――神子柴くんには初めて会った時からそれを感じたの。

 永遠とか心とか――そういう移ろいやすいものが変わらないような予感がした。

 それくらいあなたの目が自分の信じる道に向かってまっすぐだった。

 学校の男子みたいに、一度関係を持ってしまったらすぐに冷めてしまったり、それしか求めなくなりそうな感じとは違う。

 本当に川を流れる水のように、その流れがずっとこの先、時間が流れても変わらないような――そんな清流のような雰囲気を感じた気がした。

 だから私は、今もあなたが好き……

 そしてもう、これからの人生であなたみたいな人に、もう会えないような予感さえしている。

 だから、あなたが結衣ちゃんのことを好きなことを知っても、私はいまだに……

「でも――いいね、そういうの」

「え?」

「それ、ちょっと分かるよ。俺も――大して人と関わってないけど――好きな奴のことは、ずっと好きでいたいって、思うよ」

「本当? 私に気を遣って、嘘ついてない?」

「そんなことして何になるよ。俺だって、ナオやユイを嫌いになることはあまり考えられないしな」

「でしょ? だよね」

 紅葉は初春が持論に共感してくれたことが嬉しくなる。

「少なくとも、忘れるためや、嫌いになるために好きになるわけじゃないもの」

「……」

 その言葉――ラーメン屋の依頼の時にも聞いたな。

「結衣ちゃんだって、きっとそうだよ。神子柴くんが遠ざけたって――神子柴くんのこと、嫌ったり忘れたりは出来ないよ。だから――好きな人に遠ざけられたら、悲しいよ」

「……」

 その紅葉の邪気のない言葉に、不覚にも初春はジャブを食らったように視界をよろめかせた。

 ――けれど、現実がいつも初春を押し戻す。

「――俺のことをユイが好きって言ったのは、状況がそう言わせた可能性もあるから」

「え?」

「俺に同情したとか、突然いなくなってその人のことを大切だって思ったとか――俺が東京にいられたままだったらそうはならなかった可能性もある――ユイが混乱しているってのは見て分かったし――」

「――それ、結衣ちゃんに言ったらきっと怒ると思う」

 紅葉は思い切って言った。

「自分の気持ちは自分のものだもの。それを好きな人に疑われちゃったら――悲しいよ」

「そうだな――分かってるよ、そんなの……俺が決めていいことじゃないってのは」

 初春は群青色の空を見上げた。

「ただ、俺はそういう気持ちであいつと向き合いたくないんだよ。あいつの心をちゃんと受け止められているか――それが分からないうちに変なことをしたくなかった」

 そう言う初春の目が本当に真剣で、紅葉はその澄んだ目に驚かされた。

「――偉いね、神子柴くんは。うちの学校の男子だったら、神子柴くんの状況になったら結衣ちゃんのこと……」

 その先ははしたないと思って口をつぐんだ。

 紅葉の大きな胸がどきどきした。

「気持ちは分かるよ――俺も男だからな。正直俺も少し考えた」

 初春は言った。

「だが――俺は人間のそういう感情で生まれちまったから」

「え?」

「俺の両親は、俺が母親の腹の中にいる頃には両方とも不倫をしていたらしいんだ。俺が生まれたことで離婚が出来なくなって、お前さえいなければ――生まれてこなければ私達はもっと幸せに生きられたのに、って言われたよ。だったら作らなきゃよかっただろ、って言ったら逆ギレする始末でよ」

「え……」

「その末路が今の俺――両親から事実上『死ね』って言われたような下らん命さ。俺は俺を無責任な感情で作っておいて、責任も取らずに放置した両親を人間の中でも特に軽蔑している――だからそんな曖昧で無責任な感情でそういうことをすることに抵抗があってさ――まるで俺もあの両親みたいなことをしているなって感じて」

「……」

「そういうことをユイに対して思った自分に少し腹が立って――戒める意味で玄関でああしてたんだよ。本当に――昨日は魔が差しそうで、コントロールできてなかった……」

「……」

 その言葉に、紅葉はまた泣きそうになる。

 そうか――神子柴くんが女性に触れられるのを嫌がるのって――そういう一面もあったのか……

 神子柴くんはその時のことをほとんど語らないけれど。

両親に捨てられてこの町に来たのだ。

 そんな両親から生まれた神子柴くんは、その無責任から生まれたことで味わう不幸の辛さを知っていて――心底憎んでいる。

 そんな彼が女の子に――それも大切な娘に欲望だけでそんなこと、できるはずがないのに。

 そんな人が今、自分の境遇から性欲を持て余して女の子に何をするか分からないと、あのファミレスで陰口を叩かれている。

 その無責任な陰口をこの人はいつものように涼しい顔で流しているけれど。

 それがどれだけこの人にとって屈辱的なことだろう……

どれだけこの人の正直さを踏みにじったのだろう……

 自分を無責任に作った両親と同類だと、よく知りもしない人間から烙印を押される。

 そんなことを言われてしまうことは、どれほど辛いものだったのだろう……

「まあ、魔が差しかける時点で俺も全然だけどさ――あのおっさんに言われたけど、俺にも人並みの欲望があるってのはままならんもの……」

「――当然だよ……」

 初春の淡々とした声を、紅葉の静かだが鬼気迫る声が遮った。

「――秋葉?」

 首を傾げる初春。

「そんな思いをして――神子柴くんが人間を嫌うのは、当然だよ……」

 紅葉の目から大粒の涙が零れ出す。

「ごめんなさい……神子柴くんのこと、全然守ってあげられなくて……」

「お、おい――何で秋葉が泣く? 何でお前が謝る」

「ごめん――ごめんね……」

 紅葉はわけもわからず初春に詫びたかった。

 人間として――この人に何か心を伝えたいと、強く思った。

「私――今まで神子柴くんの人間嫌いを、何とか変えたいとか――そんなことばかり考えてたよ……もっと人間を好きになって欲しいとか――そう、思っていたけれど……神子柴くんが人間を嫌いになる理由があること――考えられてなかったよ……」

「は?」

「そんな思いをして――ずっと何も言わずに我慢してたんだね……すごく、憎かったと思う……私なんかが、わかるなんて言える世界の話じゃないけど……」

「……」

 その紅葉の涙は、飄々とした初春を黙らせるだけの力があった。

「神子柴くん――ごめんね……」

 嗚咽の中に、また詫びる言葉が混ざった。

「――音々もそうだけど、何で秋葉が謝るんだよ……」

 困った顔をしながら初春は後頭部を掻いた。

「何か――申し訳なくって……」

「はぁ……」

 初春はしばらく言葉を失ったが。

「……」

 不思議とそんな紅葉の涙を見て、心が安らいでいるのを感じていた。

 泣こうにも上手く泣けない自分の代わりにこうして泣いてくれる人がいる。

 それが嬉しいのかは分からないけれど。

 自分から結衣との未来も奪った人間を許せないという怒りの毒気が削がれる。

 それが――嫌な感じがいない。

 むしろ自分の邪気を認識して、自制の念が働く。

 初春は手を伸ばして、俯く紅葉の頭に手を伸ばして、綺麗な茶髪を撫でた。

「とりあえず泣きやめ――俺の立場で町中で女泣かせてるのって、割と洒落にならないし」

 思わず手を伸ばしたのは、音々が泣いたり落ち込んだりする時にこうするのを反射的に紅葉にもやってしまったのだが。

 紅葉は初めて触れられた初春の手の感触と、自分の髪が絡みついている指の感触に、心臓が一度すごい音で鳴ったのだった。

 顔がどんどん熱くなって、もう泣きやむどころではない。

 初春の顔が、今までの距離で一番近い……

「――何か俺、秋葉に泣きやめってプレッシャーかけてる?」

 相変わらずきょとんとした、丸い目で首を傾げていた。頭を撫でる手が離れる。

「そ、そんなことないよ……」

 手から頭が離れた名残惜しさが、紅葉の頭を冷やす。

 くそぅ――悔しい。こんなにドキドキさせられて――この人は平常運転だ……

 一瞬だけ腹いせに不機嫌な顔をして初春のことを睨む。

「悪い――俺はどうも人を逆撫でする才能があるらしくてな」

 初春は会釈するような礼をした。

「昨日もユイがそうして泣いてた――でも何も出来なかったよ――俺」

「でも――仕方ないよ。そんなに人間が嫌いなんだもん……悪気がないのも分かるし」

 そう、こんなにやきもきさせられ、ドキドキもさせられ、ハラハラもさせられても。

 私はこの人を、どこか憎めない。

「それに――いつも一生懸命なんだもん」

 一人で何でもできそうに見えて、ほんの時たま、繊細な一面を見せて戸惑うことがある。

 いつも飄々とした顔をしているから分からないけれど。

 本当はいつも肩肘張って、背伸びして必死に立っているのかもしれない。

「ねえ、神子柴くん――そんな思いをして、人間を好きになるとか、理解しようとするとか――無理にしないでいいよ。そうしているうちに、神子柴くんが疲れちゃうと思うから……」

「……」

「でも――私達を――人間全部を、嫌いにならないで……今は、それだけで十分……」

「……」


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