人間が誰一人認めないからさ
「ほら、もう泣くなよ」
自分の部屋のベッドに音々を座らせて、初春はしゃがみこんだ。
「ご、ごめんなさい、ハル様……」
「いや、いいって。むしろお前が代わりに泣いてくれたおかげで少し助かっている」
初春が手を伸ばして、音々の頬の涙を指で拭った。
「ハル様――本当にいいんですか? 結衣様のこと、諦めてしまって」
「……」
「私はハル様が本当に結衣様を大切にしていること――この部屋のアヤカシに聞いて分かります。なのに……」
「音々、別に俺は結衣のことも、自分の人生も諦めたわけじゃないよ」
初春が言った。
「諦めたらそこで試合終了、なんてことを言う奴もいるけど、試合に出てなきゃ諦める前に試合が終わっている――諦めたら終わりなんて、試合に出ている奴に許された贅沢なんだよ。俺には諦めるような権利もなく、ユイと一緒にいることが許されていないのさ」
「それって……」
「葉月先生にも言ったけどさ、俺が高校に行かないのって何でだと思う?」
「え――ハル様に、お金がないからですか」
「それもある。でも普通の人間なら奨学金を借りるって手もある。そして俺は葉月先生曰く、返済不要の奨学金を借りられる程度の成績も持っているんだそうだ。でも俺は高校には行けない」
「――な、何でですか」
「俺が高校に行っていいって権利を、人間が誰一人認めないからさ」
「え……」
「俺が高校に行けないのは、高校に行くために俺の身元を保証してくれる人の不在って問題を解決するのが絶望的だからだよ。俺の意思なんて問題じゃない」
「で、でもそれなら皆さんにお願いすれば」
「未成年の保証人ってのは、基本的に近親等――つまり肉親か親族じゃないと駄目なんだよ。奨学金もほとんどが6親等以内の親族って決まってる――葉月先生とかに頼んでも駄目なんだよ。そして俺はその肉親に親族会議で満場一致で、死ねって言われたも同然の身なんだ」
「……」
「生活保護貰っても、『生活保護世帯の子供』であれば学校に行く権利は認められるが、生活保護者が俺自身じゃ、学校行かずに働けってなるし――と言っても、俺は身元を保証する近親の保証人を提出できない。だから内定を貰ってもまともな就職はほぼ絶望的だ――だからこうしてアルバイトしているしかなくなったんだ――人間様には憲法で学問の自由も職業選択の自由も、生存権も教育を受ける権利も認められているけど、俺みたいな虫けらは自由や権利なんてない――人間扱いされてないってのに、人間様に都合のいい納税と勤労の義務だけが課されているのさ」
「……」
この部屋のアヤカシの声が、初春の真意を補足して音々に伝える。
それだけのことを初春が知っているというのは、初春もその可能性について調べたということ。
本当は、初春だってそうしたいのだ。直哉と結衣を守れるくらいの男になりたい――その思いだけで、初春は落ちこぼれから強くなったのだから。
初春がそう出来ないのは、自分の意思よりも、それが許されていないことの方が大きい。
それが初春に、果てしない絶望を見せていることを……
「色んな事態は想定したよ。俺が生きるってことも含めて、あいつらと笑う方法は色々考えた。でもさ――考えれば考える程、俺が邪魔っていう結論が出ちゃって、俺自身もそれに納得できちゃうんだよね。俺が東京に帰っても、周りはナオとユイの邪魔としか見ないだろうし。実際ユイは俺に頼る気持ちを俺を好きだと思ってしまっているし、ナオは俺のせいでスランプになっちゃってるし――俺に助けてくれ、って依存している時点で、俺はあいつらのためになっていない――現状の俺達は、俺の存在が話をややこしくしている――俺がいない方が話が丸く収まるって、その結論に俺も納得できちゃうんだよね」
今回のことを考えているうちに、初春は自分の立ち位置を再認識していた。
今の自分は完成したパズルの予備ピースのように、あることが逆に混乱や不調和を生む異物なのだ。
どう考えても、直哉が結衣を守れるのが一番いい道で、むしろ俺がいることであのふたりにおかしな選択肢を与え、依存し、迷わせてしまう。
もう自分は無害ではなく、邪魔にさえなり始めている。
考えれば考える程、思い知ってしまった。
人間の世界に、自分の居場所がないことを。
俺が願っていればあの二人の場所にいられるというような話ではないことを。
「人はひとりでは生きていけない、っていう言葉があるけどさ――あれって正確には『人はひとりでは人間として生きていけない』なんだよな――自分が人間だと認めてくれる人がいないと、人は人間扱いしてもらえない――俺も親がいなくなって知ったことだけどな。人間として認めてもらえない人間は、虫けら同然だよ。自分で自分のことを決められない」
「……」
その力ない声から発せられる言葉は、もう結論として揺るぎないものになるまでに悩み抜き、幾分もぶれないものであるということが音々にも分かった。
「でも音々――ありがとな、俺の分も泣いてくれて」
初春は力ない笑みを浮かべていた。
「俺はお前みたいに優しくないからかな。こういう時に泣こうにも涙が流れなかった」
初春は音々の涙を見た時、呆れながらも音々の優しさが少し嬉しかった。
「は、ハル様だって、泣いていいんですよ。辛い時は……」
「そう出来ればよかったんだが――俺はそれとは別の発想が沸き起こってるんだよ」
そう静かに言うと、初春は一瞬怖い顔をしたが、自分でもそうなっていることを悟ったように音々から目を背けた。
「俺は別に人間に陰口叩かれようが笑われようが、今更人間に期待もいていないし大抵のことは見逃してやる気でいたんだがな――だが、俺は人間にあいつらとの未来を奪われたってことがはっきり分かったら、改めて人間に対して頭に来出したんだよ……」
その初春の声も、肩口も怒りに震えているのが目視でも分かる。
「俺は今の今ほど、人間全てをぶっ殺してやりたいと思ったことはねぇよ……あいつらのことがある以上、今は抑えるが、それが終わったら本当に俺、どうなるか自信がないぜ……」
「……」
その時音々は感じた。
さっきまで自堕落に厭世的に見せていた初春の表情は演技で。
本当は今すぐにでも皆の力になって、結衣を自分の手に抱きしめてあげたいのに、それを自分の意思とは関係なく出来なくした人間への憎悪を、血の涙を流すような思いで隠していたのだと。
すべては結衣を笑顔にするため、その憎悪も殺してひとまず結衣を安心させたいと決意していたことを。
「ハル様――本当にひ、人を……」
「わからん――俺は小市民だからな。ユイのいない世界でも、何となくそれに慣れて生きていってしまうかも知れないけれど、そのことは先にお前には言っておくよ。俺はお前の従者だからな。俺が瘴気を出せばお前は危険みたいだし」
実際紅葉や雪菜の記憶を消したときはそうだった。
ふたりの記憶を消した直後は酷い気持ちや喪失感に苛まれたが、時間が経ってしまうとその痛みにも慣れてしまった自分がいた。
でも――ユイのことはどうだろう。
ふたりと共に歩くに足る男になる、それだけで強くなりたいと思った俺にとって。
ユイのいなくなった世界にも何か意味はあるかもしれないが。
ユイのいなくなり、人間としても生きられない、そんな世界なんて……
そんな思考を巡らせていると。
不意に庭から、ぱぁん、と乾いた音が聞こえたのだった。
「何だ?」
初春は気になって部屋を出て、階段を下りていく。
「……」
そんな初春を音々は涙で潤んだ目で見送った。
ハル様――怖いくらい人間に対して怒っていたけれど。
――何故だろう。
瘴気が出ていなかった。
お師匠様もこの部屋に飛んでこないということは、誰もハル様から瘴気を感じていないということ。
あんなに人間を憎むような表情をしていたのに……
もう人間を斬ることを、単なる怒りや憎しみではない、当然のこととして受け止めているからなの?
居間に戻ると竹刀を持った直哉が錫杖を持った紫龍に打ち掛けを行っていた。
ぱぁん、という音は、直哉の竹刀を錫杖で受ける音だったのである。
体の大きな妖怪達は庭に出て、小さな神々や結衣達人間は皆、縁側でその様子を見ていた。
「何してんの?」
初春は後ろからギャラリーに声をかけた。
「あの子が紫龍殿に稽古を申し込んだんだよ」
比翼が答えた。
「そしたら、お前の剣を見てやる、って言って――ナオくんに打ち込ませてるの」
夏帆が説明を補足した。
「……」
初春はそれを聞いて結衣の表情を見る。
不安げで、何かに揺れ動くような表情をしていた。
中学時代の直哉の剣道を見る時に、結衣はこんな顔をしたことはなかった。
大抵の場合、もう勝利をほぼ確信して、安心しきって見ていたのに。
「お前のその表情を見るに、芳しくないのか」
「え?」
「ま、俺もあいつの今の剣を見たかったから丁度いいけど」
直哉はそんな初春の言葉を横目に、紫龍に面を打ち込む。
紫龍は右手一本で、竹刀の半分ほどもない太さの白木の錫杖で、直哉の面を難なく受け止め、払っていく。
「……」
その剣を見て、初春の目が途端静かになる。
どうやら初春がまたその目で人間観察をはじめたことを、結衣と雪菜はすぐに見抜いた。
「相変わらず重そうな剣を打つなぁ。受ける時の音が違う」
初春はそう呟いた。
そう、それは剣道の素人である紅葉達にも分かった。
直哉のその全身がバネのようにしなる腕や背筋から繰り出される剣は実に速く、重い。
紫龍が錫杖で受ける音も、先日初春が神庭高校の剣道部員の剣を受けた時とは段違いに大きい。まるで銃声のように竹が乾いた音を残響させる。
それが直哉の剣である。
小さな初動から隙の多い場所へ速い剣を繰り出したり、後の先を取って相手の隙を突く初春に比べて、直哉はその力で相手の体勢を崩していく正面突破の剣だ。剣を受けるだけで相手は体力や握力を消耗し、やがてバランスを崩していく。
その重い剣で反撃の糸口も掴めぬまま、相手に防戦一方になるイメージを植えつけ、一気に押し切る。
初春も練習でその直哉の剣を受ける度に何度も腕を痺れさせていた。
――だが、そろそろ気付くだろう。
怒涛の打ち掛けを行っていた直哉は一息入れるために一度距離をとる。
「はあ、はあ……」
直哉の思考は、紫龍の右手一本に向けられていた。
さっきから自分の剣を受けるのに、この人、片手一本で衝撃を受け止めている。
その剣を持つ手首は、まるでコンクリートで錫杖を固定しているようにびくともしない。
その強靭さの常人離れした強さで握る剣は、振り下ろせば当然自分の竹刀すらへし折るような一撃を繰り出すだろう。
その一撃を想定し、生唾を飲んだ。
「うーん」
小さく初春は唸る。
直哉の思考は、その紫龍の腕よりも先回りする術を何か探していた。
フェイントのパターンや、体の動き、抜き面などのシミュレーション――払い小手などはあの鉄みたいな手首を崩せる気がしないから……
「長考するのぉ」
紫龍がその直哉の思考を払った。
「それだけの剣がありながら、何故立ち止まる? 戦場の空気の流れは止めた方が川下じゃよ」
「え?」
「どうしても勝ちたい思い――それがお前の思考を遅くしておるのぅ」
そう言って紫龍は一気に一足で間合いを詰め、一瞬で直哉の眼前に迫った。
「う!」
攻勢に出ることで守勢の準備を解いてしまっていた直哉は思わず横薙ぎの胴を打ち、紫龍の近距離の詰めに対抗しようとしたが。
紫龍はその竹刀を錫杖についている遊環にまるで針の穴に糸を通すように差し込むと、握った錫杖を空に向けてねじ上げた。
とっさの反応で握力が十分にこもっていなかった直哉の竹刀は、紫龍のねじ上げる力に負けて竹刀が手から跳ね飛ばされただけでなく、身長185センチある直哉もその衝撃に後ろにしりもちをつくほどだった。
「ぐっ!」
大した衝撃はなく、直哉はすぐに起き上がろうとしたが。
もう既に紫龍が自分の竹刀と一緒に跳ね飛ばした錫杖を空中でキャッチし、直哉の眉間にその先を突きつけていたのだった。
「ま、参った……」
「……」
それを見ていた結衣達も言葉を失う。
目の前にいる紫龍が、すぐ折れてしまいそうな錫杖一本で直哉の竹刀を少し払っただけだというのに、体に触れもしないで、185センチもある直哉が簡単にバランスを崩した。まるで気功か合気道でも使ったかのような静かな動きだった。
「な、何だ今の――」
稽古を所望して、力を見せてみろと直哉との立会いを受けた紫龍だったが、その圧倒的な力に直哉本人も、傍で見ていた結衣達も呆然としていた。
特に直哉はさっきから錫杖を持つ右手一本で自分の剣をいなした紫龍の手加減を見抜いていただけに、その力の差に絶望さえ覚えた。
「……」
紫龍は自分の右手を確認する。
「す、すごい――右手一本でこんなに」
「小僧は初めての立会いで儂に左手を使わせたがな。それからまだ三月、儂に一太刀も浴びせておらんが」
「え……」
直哉は紫龍から『死合うつもりで来い』という条件を出されていたので、本当に全力で紫龍に打ち込んだつもりだったのだが、それを片手でしのがれた直後に聞かされたら、二重のショックであった。
「ま、そういうことだ。稽古じゃ俺と火車の二人掛かりでかかってもそのおっさんに一撃も入れられねぇんだ。そのおっさん、でたらめな強さだから」
「じゃが別におぬしが小僧に劣っているわけではない――剣を受けた時に感じた手の痺れ――剣速も剣圧もおぬしの方が小僧よりもはるかに上じゃ。あの小僧の剣にはアヤカシを断ち斬れる『剛』が不足しておったが、おぬしの剣にははじめからその『剛』が備わっておる。おぬしは十分強い」
初春も頷く。
約1年ぶりに見る直哉の剣だが、その速さ、重さ、技術の全てに磨きがかかっている。その剣は中学時代よりも確実に洗練し、前進している。
「じゃが、今のおぬしの剣は、本来のおぬしの剣を見失っておる。だから小僧より剣速も剣圧も上なのに、儂を崩せんのじゃ。それに気付けばすぐにでも儂の左手くらいは使わせられる。おぬしはそれが見えておらんのじゃ」
「俺の剣……」
直哉は泥を払いながら立ち上がる。
「教えてください、それって一体何なんですか?」
「口で言うのは簡単なんじゃが――言っただけですぐに変わるものでもない。小僧も恐らくそれを分かっているからこそ、直接的なことは言わないのじゃ」
「そうなの? ハルくん」
夏帆が訊く。
「まあな――でも腕自体は全然鈍ってないよ。むしろお前、強くなっているよ。でも、お前はその強くなった剣を生かしきれてない」
「……」
「何をそんなに焦っているんだよ」
初春は直哉の目を見て訊いた。
「さっきの立会いも、単なる稽古なのに結果を求めすぎて長考に入っちまって、本来のお前の剣道の流れじゃなかった。お前らしくもない判断の遅さも気になった。駄目ならしょうがない、でよかったのに……力が入り過ぎだ。そんな力み、見たことがない」
そう、紫龍との初の立会いの際に、初春のその判断は実に早かった。もう紫龍に攻撃が当たらないことを悟り、すぐに最善の行動に転換できる。
直哉は今のままでは攻撃が当たらないということは気付けたが、そこから攻め手を変えられず、多くの選択肢から一つを選べなかった。
紫龍はそれを見抜いたのである。
「今の悪い状況でユイに告白したとか聞いた時点で、お前らしくもない行動だ――その時点でお前が焦っているのも分かっていたけどさ」
そう言って、初春は小さく息をつきながら後頭部を掻いた。
「まあ、その理由の一部または全部が俺なんだろうな、ってことも分かっているけどさ――俺なんかを警戒するなよ。小笠原直哉は」
「え……」
「一時劣勢でも、いつかは必ずお前は勝つ――小笠原直哉はそんな星の下に生まれた男だと思ってるけどな、俺は」
「――相手がユイのこととなると、そうはいかないよ」
直哉は力なく笑って言った。
「この町に来てお前にあって、改めて分かった。お前は自分がどん底にいても、俺やユイのことを心配して、体を張ってくれる――確かにお前は俺よりも力は劣るかもしれない。未来を見ることも下手で、生きるための視野も狭いかもしれない――でも、井の中の蛙、大海を知らず――されど空の深さを知る――お前はそういう奴なんだ。そういうところをユイがずっと頼りにしていて――ユイがお前に惹かれているのも分かっていた」
「え……」
それは結衣も知らなかったことであった。
「俺はずっとお前が羨ましかったんだよ――ユイと同じ視線で歩けるお前が」




