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俺の恋は悲劇にすらならない

 家に戻ってきた時には、庭では火車の息子が桶に入った水を飲んでおり、音々が玄関前で皆を出迎えてくれた。

「音々ちゃん、出られたんだね」

「はい――ついさっき。もうどうなるかと思いましたよ」

 苦笑いを浮かべる音々。

「お茶を入れてありますので、どうぞ……」

 今にはクーラーがかかっていて、夏の夕暮れの山にいた皆はひんやりとした風が気持ちいい。

 最後にこの部屋を出た時からまだ15分程度しか経っていない。だからまだ庭から夕暮れが縁側から差し込んでいた。

「お帰り」

 初春は居間の隅の壁に寄りかかって座っていた。その向かいにいる紫龍が煙管をふかしていた。

「神子柴くん、大丈夫? 何か立てなくなるほど疲れていたみたいだけど」

「問題ない――音々に治癒術もかけてもらったし、多少は楽だよ」

 そうは言っているが初春の声にはあまり張りがなかった。

「……」

 初春はどんなに辛くても、他人には「問題ない」と言い「助けてくれ」とは言わない。

 紅葉達がねんねこ神社を手伝うことも、今回の野球の件も別に初春は皆にお願いをしているのではない。提案をしただけだ。

 今でも初春は、ここにいる誰にも頼ってはいないのだ。さっきの説明を聞いた後だけに、皆それが分かった。

「しかしハルくん――すごく楽しそうだったわね」

 夏帆が初春の目を覗きこんだ。

「あんな風に笑っているのなんて初めてみたよ」

「そうでしたか。気づきませんでしたけど」

 これは照れ隠しではなく本当である。戦闘中の初春はほとんど自発的な感情を含まない。その場の衝動的な感情が無意識に色濃く出るだけだから。

「まあ、楽しいってのは確かにあるかな。元々鬼ごっこは嫌いなんだけど」

「しかし、次から次へとあんな力のない水や風で色んなことを思いつくものじゃ」

 紫龍が言った。

「水と風を操るのは、本来それらに思い入れがあるお前にぴったりなんじゃろうが、技を考え付く点では貴様は天才かもな」

「そんな大層なもんじゃないよ――あの『大河の一滴』だって人間に教わったのさ」

「え?」

「ちょっとした昔話だがな――昔の俺は足が遅くてさ――本当に、クラスで一番足が遅かったんだ。そんな俺が小学校の時、体育の授業でクラスで鬼ごっこなんてやらされてさ。でも当時の俺は友達もいなくて、鬼ごっこなんて入れてもらったことがなかったから、結構嬉しかったりしたんだけど」

「……」

 直哉と結衣はその冒頭で、初春の思いが分かった。

「鬼ごっこが始まると、俺は早々に捕まって次の鬼にされちまうわけ。でも足の遅い俺がいくら一生懸命走っても他の奴を誰も捕まえられなくてさ、走っても走っても届かなくて、そのうち息が切れて足が止まって――そうすると周りの連中がわざと近付いてきて、俺に捕まってくれそうな振りをするんだけど、直前で俺のタッチをかわして俺を余計に惨めにするわけ。そうしておちょくられ続けながら、周りの連中から心ない声が飛んだり、嘲笑われたり――全方向から人間に馬鹿にされていた気分になったよ。その時俺は情けなくてびーびー泣いてたけどさ、その時思ったんだよ。誰かを捕まえるような力が俺にあれば、って。その答えがあれだったってだけさ」

「……」

 初春は庭にいる火車の息子を見た。

「俺は本来鬼ごっこは嫌いだけど、お前とやる鬼ごっこは楽しいよ。お前は俺よりずっと足が速いのに、俺をのろまだって罵ったり、捕まえてみろって俺を煽ったりしたことはないから。お前は人間よりずっと優しいよ。だから傷つけるのが忍びないんでああいう手を取ったんだ」

「神子柴殿……」

 初春の語った昔話はあまりに悲しい思い出だったが。

 それを淡々と――何事もなかったかのように話す初春がその悲しさを更に冷たいものに感じさせた。

 それを淡々と話せるようになるまで心を殺す『無』――

 そんな心境になるまで、それだけこの人は泣いたのだろう。

 傷つけられてきたのだろう……

「まあ俺のことはいい――ナオ――俺がこの町に来てずっとやっているのはあんなやつだってのは、分かってもらえたか」

 初春は座ったまま顔を上げる。

「安心しろよ。お前との勝負では水も風も行雲も使わない――ありゃバランスブレイカーだからな。だが悪いけど、相手がいくらお前でもそんな弱腰でいたんじゃ簡単には負ける気がしないな――そりゃユイのことを考えて雑念入るのは分かるけど、目の前の俺をいつでも狩れると思わないことだな。じゃねぇと一瞬で勝負ついちまうぞ」

「さっきそう忠告したけどな」

 紫龍は言った。だが初春も紫龍の意図と同じ、それを伝えんがために自分の手の内を晒したことは他の皆にも伝わった。

「お前を雑魚だと侮ったことなんて一度もないよ」

 直哉は言った。

「悔しいがさっきの紫龍さんの話を聞いて改めて気付かされた――お前は俺の持っていないものを沢山持っている――そんなお前だから、ユイが惹かれているのも知っている」

「……」

「だが何でだ? 何でお前は俺にそうして勝ちを譲るような真似をする? さっきからお前、敵に塩を送るようなことばかりして――お前がユイを支えてやることだってできるだろう? あれだけの勝負ができるのに、何でわざわざ俺にとどめを刺さない?」

 若干激したような声で直哉は言った。

「……」

 初春はそんな激した直哉を少し力ない笑みを浮かべて見つめた。

「――今日さ、バイトでパートのおばちゃん達に訊かれたんだよ。ユイとどういう関係なんだって」

 初春の答えは静かに始まった。

「は?」

「昨日ユイがうちのバイト先に来て――それで俺と知り合いだってのを見ていたからな」

「……」

 正確には結衣ちゃんが抱きついたんだけど……

 ――という事は揉めそうだから言わない、と紅葉は思った。

「それ、おばちゃん達は何で訊いて来たと思う?」

「え? な、何でって――気になるからでしょ? 女は噂好きだから」

 その話を誤魔化そうと紅葉は答えた。

「違うな――俺がユイと一緒にいることが、社会的に見ておかしいからさ」

 その初春の言葉に、皆が言葉を失う。

「ハルくん――それはどういう」

「葉月先生なら多少分かるでしょう? 結婚相手捜すのに女性は男の年収でフィルターをかけるんだから」

「……」

「東京で日本有数の進学校に通って、文武両道、しかも読者モデルのスカウトも来るようなユイと、金も学もない、将来性もない非生産な俺が一緒にいるなんて、何か弱みでも握っていなくちゃありえない――人間にはそんな風に見えるんだって。対等な付き合いなんて、元々成立しないわけ。つまり、俺とユイの関係がどうかって聞くのは、暗に俺にあんな娘が側にいるのはおかしい、って言っているのさ」

「そんなこと……」

 紅葉がかぶりを振りかけたが。

「秋葉、柳、葉月先生も、ナオとユイが最初に並んで立っているの見て、思ったでしょ。このふたり、すごくお似合いだって」

「!」

「はは――秋葉も柳もすぐ顔に出るな」

 初春は力なく笑った。

「ナオ、お前今までの人生で、ユイとどんな関係だ? って訊かれたことある?」

「……」

「ないだろ。つまりユイの隣にいるのがお前なら、付き合っていようが友達だろうが、誰も何の疑問も抱かないからさ」

 この時雪菜は悟った。

 何故初春が私達を直哉と会わせたのか。

 先入観のない私達がふたりの並ぶ姿を見てどう思うか、それを証明するためだ。

 話をする前に先んじて言質を取っておく――初春の得意な手段だった。

 直哉と結衣を並んで見てお似合いだと思った時点で初春の狙い通りにリードされたのだ。

「そ、それは違うよ神子柴くん――こんな綺麗な子じゃ誰だって気になるし」

「違うな、実際俺はユイといちゃつく暇があるなら仕事ちゃんとやれ、って嫌味まで貰ったし――何より俺はその質問を東京にいた時から幾度となくされているからな」

 紅葉の必死の自己弁護にも似た言葉も、初春は非情に切り捨てる。

「え……」

「その質問をした奴はみんな同じ顔をしていたぜ――お前があんな人達と一緒にいるなんて生意気だ――そう顔に書いてあるような顔だな。この町に来て今日その質問するおばちゃん見て、東京で嫌って程見た人間のその顔を思い出したよ。あの連中、見下している俺がユイみたいなのと一緒に仲良くしていると、立場が逆転されたような気分になるんだろうな」

「……」

「東京で一応は同じ中学生ってくくりにいられた時ですらそうなんだ。華やかな場所にいるユイと社会の最底辺の俺――今となっちゃ余計にそうさ。あのおばちゃん達にとっちゃ、俺がユイと一緒にいるのは、俺がユイの弱みでも握っているか、ユイとあわよくば一発やれるんじゃないかと下心満々でいい顔して近付いている――よくて優しいユイの同情ってとこかな」

「……」

 さっきから、紅葉の心が痛む。

「別にそれはユイに限ったことじゃない――秋葉や柳と一緒にいたってそうさ」

「え!」

 後ろめたい矢先に自分の名を呼ばれて、紅葉は心臓がすごい音で鳴った。

「秋葉や柳も、俺には不釣合いだからな――俺は秋葉とやることしか考えてなくて――柳は言うことを聞いてくれそうだからたかろうとしている――傍から見ればそう思われてるかな。俺のこと、女にもてなくて性欲持て余しているサル同然と思っているだろうし。実際俺もこの立場になって何度か性犯罪者容疑をかけられたことがあるし。まあ秋葉も、俺に同情しているとあのファミレスでは思われてるんじゃないの」

「……」

 さっきから初春の言っていることが全て当たっているからだ。

 実際に紅葉はバイト先でそんなことを言われた事がある。

 学校にも行かずフリーターをしているというだけで、神子柴くんは自分に下心がある、鬱屈した性欲の捌け口を探しているのだと。

 思えば初春のことが初めて気になった時も、初春は妹の心を助けてくれたのに、幼女の誘拐犯扱いをされていた。

 神子柴くんの悪意に敏感な鼻は、その差別を言わなくても嗅ぎ取っている……

「他の人のことなんて関係ないよ」

 結衣が言った。その目には涙が浮かんでいる。

「ハルはハルだよ。それは私がよく知っている、だから」

「俺はお前に、何かを捨てさせる決断をさせたくない」

 初春は結衣の目を覗きこんだ。

「例えばさ、俺が今から東京帰ったとするだろ、それで何かものすごいラッキーが起こって――まあ神代高校(カミコー)は無理だろうが、普通の高校に通えるようになったとするじゃん」

「……」

「それで俺がナオに勝って、お前と健全なお付き合いが始まるとする――そうなったらさ、きっとお前のお父さんとお母さんとお前、喧嘩になるよ」

「え」

「俺がお前の両親だったら、俺が東京から消えたのはむしろ望ましいことだと思うだろうし――俺のことでお前が余所見をすることもなくなるし、ナオとお前の仲にとって、俺は邪魔だからな。大切な娘が将来性のない男に騙されてるって――目を覚ませって言うよ。そしたらお前、怒るだろ――きっと怒って泣くよ――それでお前、ボロボロになっちゃうよ」

「……」

「俺はそれ嬉しいけど、それで泣くお前のこと、どうすることも出来ないんだ。俺が東京に戻っても、俺はお前を守りきれないよ。お前は家族が好きなんだろ。俺のためにそんな家族と喧嘩なんてして欲しくないしな」

 初春が危惧しているのはそういうこと。

 こいつのことだ――もしかしたらもう、自分に話が来ているモデル事務所の誘いを請けて、それで稼いだお金を俺にカンパするとか言いだすかもしれない。

 確かにそれは結衣の善意だろう。

 だが世間がそれをそうは見ないことを初春は十分分かっている。

 それは俺が結衣を騙してたかったことになる。

 世間の連中はそれを聞けば、俺はこんな可愛い娘を働かせるだけ働かせ、言葉巧みに騙しながら、あまつさえこの清らかな肢体に穢れた手で触れ、欲情のはけ口にしている鬼畜という言葉も生ぬるい性獣のような姿を連想するだろう。

 そしていずれは結衣も、こんな将来性のない男に貢ぐ頭の悪い女と陰口を叩かれる。

 俺の社会的な立場が、結衣すら貶めるのだ。

 俺は直哉と結衣の差し伸べる手を取ってはいけない。

 今の俺では、二人のその優しさを汚してしまうから……

「だから、俺は別にお前に勝とうが負けようが、ユイを守る男にはなれない――ユイを守れるのは、お前しかいないんだよ、ナオ」

 寂しそうな顔で初春は笑った。

「……」

 結衣の目からは大粒の涙がこぼれる。

「それでいいのかよお前! そんな簡単にユイを諦めるのかって俺に言ったのはお前だろう?」

「もはや諦めるとかそういうレベルじゃない――俺に恋なんてものは最初から成立してないんだよ」

「は?」

「身分の違う男と女に、ふたりの仲を割く両親――確かに字面だけ見りゃシェイクスピアの名作みたいな悲劇さ。だが実際に人間が見たら、俺の恋は悲劇にすらならない――人生の敗者の薄汚い劣情さ。それこそ犬のさかりやサルの発情並みの話でしかないんだよ。人間にとっては。それこそ虫けらが人間様に恋をしたとか、よくてアイドルをストーカーして愛を叫ぶなんておぞ気狂うような話扱いさ――そんなのは恋なんかじゃないだろ」

「……」

「ま、それを俺が引っ込めるだけならただの汚らしい自分本位の欲情で人間共に馬鹿にされるだけだがよ、それを俺が完膚なきまでにお前に負けて、お前とユイが上手く丸く収まるなら――俺の思いも少しは意味のあるものになる――俺はそれで十分だ。ユイに近付く盛りのついた汚らしい豚を斬ることで、お前がユイを幸せにする腹を決めてくれるなら、それで十分だよ」

「……」

 直哉は言葉を失う。

 その言葉が別に未練も何も表に出さず、結衣と自分のため――

 二人を生かす為に、自分の心すら殺すという覚悟を既に定めた目をしていたからだ。

 俺が同じ立場なら、同じことが言えるか?

 結衣への未練で、俺とユイの未来のために犠牲になるなんて言えるか?

 こいつ――何でこんなに……

「おいおい、そんな深刻そうな顔するなよ。俺はこういう、欲しいものが手に入らないなんて状況、慣れているんだって。申し訳ないけど、俺はこの通り貧乏暇無しなんでな――未練にいつまでも悶えはしないと思うぜ。だから気にするなって」

「ハル……」

「別にただそれが一番自然だから諦めるわけじゃないぜ。俺はお前にならユイをちゃんと守れると思ったからそうするんだ。さすがにお前以外の男だったら、俺も未練が残りそうだしな。俺が諦める以上、ユイには幸せにしてくれる奴と一緒にいて欲しいし――それにお前なら、俺をこてんぱんにしてくれそうな気がしてさ」

「え?」

「なあナオ――お前と本気で想いをぶちまけ合えるのも、きっとこれが最後だ。最後はきちんとけじめつけて終わりにしたいんだよ。だからお前が俺の気持ちを終わらせてくれよ。小笠原直哉には敵わなかった――そして小笠原直哉は日下部結衣を生涯幸せにするってのを、俺に見せ付けていってくれよ。ユイを絶対幸せにするって、俺に見せてくれよ」

 それが紫龍の言っていた初春の最後の望み。

 初春はあのラーメン屋と同じく、結衣の想いを生産するだけの敗北を欲しているのだ。

 結衣のことを唯一任せられると思える直哉によって。

「うう……」

 不意に部屋の中で、うめくような鳴き声が聞こえた。

 皆が声の方を向くと。

「は、ハル様ぁ」

 音々が滝のような涙を流しているのだった。

「お、おい――何でお前が泣く?」

「だ、だって――ハル様が……」

「全く――お前は感情移入のし過ぎなんだよ……」

 初春は音々の肩を支える。

「――俺が泣けないって言うのによ……」

 そう呟いて初春は少し沈黙したが。

「――秋葉、柳、暗くなる前にお前達を送ろう」

 二人に背を向けたまま、初春は言った。

「ユイちゃん、今日はうちに泊まりなよ。元々私を訪ねて来たんだし、うちは私一人だしね。車で来たから、一緒に行きましょう」

 夏帆が立候補する。

「葉月先生――ありがとうございます。ユイもそれでいいか」

「――うん」

 結衣はまだ嗚咽を殺して泣いている。返事をするのが精一杯という状況だった。

「じゃあ荷物をまとめるようだな――ナオはこの家に泊まるし、とりあえず今夜の問題は解決か……」

 そう言って初春は、静かに嗚咽をこらえる音々をゆっくり立たせる。

「落ち着けって――ほら、お前は俺の部屋でいいから少し一人になって頭を冷やせって」

 初春はそう言って、音々を連れて自分の部屋に行ってしまう。

「ふーっ」

 紫龍が深い溜め息のように煙管の煙を吐いた。

「可哀想じゃが、小僧の方が現実を見据えておるよ。おぬしらの言っていることは理想論や綺麗事に過ぎん――小僧を助けようとすればおぬしらにも二次被害が及ぶ――被害を最小限に食い止めるには自分を切り捨てるのが一番いいと小僧は分かっておるのじゃよ。あいつは現実的な判断しか下さん――夢や理想で無駄な努力をしないからな」

そう言って、直哉と結衣の方を見る。

「せめてこの町に来るならおぬしらが上手くいっている時にして欲しかった――おぬしらまで弱ってあの小僧に助けを求めるようなら、あの小僧は生存確率の判断が早い――自分がおぬしらを駄目にしていると思って自分から死ぬことを望む――このままじゃおぬしらみんな揃って駄目になるくらいなら、自分を切り捨てておぬしらを生かす――あいつがそういう男だということを、知らないわけじゃあるまい。悪気がないのは分かるが――おぬしらは死にたがりの小僧の引き金を引いてしまったな」

「……」

「本当に助けなきゃならんのはあの小僧の方じゃよ――もう奴はいつ人を斬ってもおかしくない。それを今まで抑えていたのが、さっきの音々への同情と、おぬしらとの思い出じゃ。じゃから儂はおぬしらのことはまだまだ決着がついて欲しくなかったのじゃが――これでおぬしが小僧にあっさりと負けてしまいよったら、あいつはますます人間を下らん生き物じゃと思って、修羅となることに何の未練もなくなってしまうぞ」

 そう、紫龍がふたりがこの町に来たことを歓迎しない理由は。

 初春の人間を斬る衝動を抑える大きな理由が消えることを危惧してのことだ。

「別におぬしらを責めているわけじゃない。小僧が今人間と修羅の間にいるのはおぬしらのせいではない。むしろおぬしらがいたからあいつは今も踏みとどまっていた。そんなおぬしらが小僧の前に来てしまった以上、おぬしはあの小僧に惨敗や敵前逃亡なんて許さんぞ。あの小僧にとどめを刺してやれ――」

「坊やだって何も考えずに思考停止で決めた答えじゃないよ。ここにいる間、あんた達のことはずっと考えていたもの。坊やの言葉は冷たいけど、あんたたちのことを考える真心は乗っていた――その熱さくらいは、少しは感じただろう?」

「それは分かりましたよ――ハルのユイの幸せを願う気持ちは……」

 直哉は俯いたままそう答えた。

 だがその体がふつふつと震えているのが分かった。

 初春の覚悟と恋――結衣の幸せの重さを改めて感じたのだった。

 俺は親友の恋を終わらせなくてはならない。

 だが――それでいいのか。

 俺はいつも自分のことばかりで――回りのことを考える視野に乏しかったんじゃないのか?

 自分が熱くなれる場所を求めるだけで――そのためにハルとユイを振り回していたんじゃないか?

 俺よりもハルを――ユイが必要としているんじゃないか……

「……」

 俺は――俺に出来ることは。

「いきなり今日会った人にお願いすることじゃありませんが――紫龍さん。この町にいる間、俺に稽古をつけてくれませんか?」

 直哉は紫龍の前で背を正して畳に手を付いた。


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