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この小僧には勝てんぞ

 ファミレスのバイトに入った初春は、開店準備をしている段階で既に汗だくである。

 今日も担当はキッチン。しかも朝一のこの時間は農業に従事する人間の多いこの町ではほとんど来店がないので初春のひとり営業である。

 そして御丁寧に、今日も冷蔵庫の仕込みはほとんど空だ。

 夏になってキッチンを希望する人間がおらず人手不足だというのもあるが、初春が入る時はいつもこうである。初春が文句を言わないことで、ディナーの連中があからさまにサボっている。

「……」

 初春はだらだら続く小さなオーダーを処理しながら、ランチに向けての仕込みを黙々と進める。

 10時を回った頃になるとランチタイムに入る主婦層のパート達がやって来る。

「何よ、全然仕込みができていないじゃないの! こんなんじゃ仕事にならないわよ!」

 来て早々、キッチンの状況を見てパート達は初春に文句を言った。

 何品目もある仕込みをオーダーをこなしながらたった2時間で終わらせるなど不可能である。

「すみません」

 初春は謝りながらも仕込みの手を止めない。

「ところで神子柴くん、昨日来たあの娘とどういう関係なの?」

 お喋り好きそうな主婦パートが初春に訊いた。

「随分親しそうだったけれど――あんな娘、どうやって知り合ったの?」

「女の子と店でいちゃつく暇があるなら、仕事をちゃんとやってからにしてね」

「……」



 その後仕込みの不足で食材が不足したり、トラブルが起きながらも何とかクレームを起こさずにランチタイムを凌ぎきる。

 1時を過ぎると初春はようやくここで休憩を取り、昼食の時間だったが。

「神子柴くん」

 控え室には、10時からホールに入っていた紅葉が待っていた。

「お疲れ。賄いも作ったぞ」

 そう言って初春は、紅葉の前にお盆を置く。夏限定のゴーヤチャンプルー膳だ。ライスは雑穀米で小盛りを希望。

「秋葉が甘いものじゃない賄いなんて珍しいな」

「ちょ、ちょっと思うところがあって」

 紅葉はモデルのスカウトをされる結衣を見て、少々自分の体型に危機感を持ったらしい。

 それでも紅葉も十分スタイルがいいのだけれど、胸が大きいことで太って見られがちなことにコンプレックスがあった。結衣のバランスのいいスタイルが初春の好みなのかと思ったら、自分の体型を少し絞りたいと思ってしまったようだ。

 初春はこのうだるような暑い中、熱々の鉄板に乗ったハンバーグを持っている。

「うえ、神子柴くん、こんな暑い日にハンバーグ?」

「キッチンの仕込みが空なんだよ。こいつが仕込み食材を一番使わないメニューだから節約のためにな」

 そう言って初春はライスにデミグラスソースを染みこませて、ハンバーグをライスと一緒にかき込む。

「……」

 キッチンのことを考えて、自分の食べたいものは後回し。

 紅葉はこうして初春が分かりにくいところで何かに気を遣っていることを知っている。

 そういう気配りの出来るところも、紅葉が初春に夢中になる理由なのだけれど。

 ――珍しく初春が食事中に携帯電話を見ている。

「――ねえ、神子柴くん――結衣ちゃんのことなんだけど……」

「ん?」

「その――神子柴くん――結衣ちゃんのこと――す、好きなんだよね」

「――ああ」

「……」

 改めて訊くとやっぱりショックが大きい。

「そういえば、あれからユイはどうしたか知ってる?」

「あ――セツナに町を案内してもらうって言ってたよ。夏帆ちゃんは学校で仕事だって……」

「――そうか」

 しばらくこの町にいろ、と言っておいて、いきなり放置してしまったことに後ろめたさがあったのだけれど、雪菜がついていてくれるならとりあえず安心だ。

「……」

 紅葉も、ここにいない雪菜もそうだが、ふたりの心中は初春同様に乱れていた。

 好きな人の口からはっきりと別の女性が好きだという話を聞いて。

 本当なら落胆の渦に飲み込まれ、メイクも落ちる勢いで泣きたいところなのに。

「夏帆ちゃんも気にしていたけれど――神子柴くんは、結衣ちゃんと付き合う気、ないの?」

「は?」

「だ、だって――好き――なんでしょ……」

 今紅葉は期待してしまっている。

 初春が結衣のことを諦めるつもりでいることを。

 紅葉は昨日初春と結衣に何があったのか、結衣には聞いたけれど細部は分からない。

 ただ分かっていることは、初春が結衣を好きなことと――それでいて初春は結衣と一緒にいることを諦めているかのような様子を示しているということだけだった。

 それは紅葉にとっては喜ばしいことのはずなのに。

 ――それを考えれば考えるほど、気持ちが沈むのは何故だろう。

「――秋葉、これから来る奴にも会ってみる?」

 初春の携帯には、夕方前に神庭町に到着するという直哉からのメッセージがあった。

「そいつに会えば分かるかもよ。俺がユイを諦める理由がね……」

「それ、神子柴くんが朝言っていた、結衣ちゃんの騎士(ナイト)様って人のことだよね。どんな人なの?」

「一言で言えば――化け物だな」

「え?」



 15時過ぎに仕事の上がり時間が来て、紅葉と一緒にレストランを出ようとすると。

 結衣と雪菜が二人を店内で待っていた。

「悪いなユイ。見ず知らずの町に放置しちまって」

「ううん――それはいいんだけど――ハル――ナオがこれから神庭町に来るって……」

「お前のところにもメッセージがあったのか」

 結衣は浮かない顔で頷いた。

「――お前、もしかしてナオと顔合わせるの、気まずいの?」

 初春は訊いた。

「まあ、あいつの告白を保留してるんじゃ無理ないけどさ――気まずいならとりあえず、家で待っていてもいいぜ」

「ううん、行くよ――私の持ち込んだ問題だし」

「そうか――まあいいけど、きついなら言えよ。あいつを呼んだのはそれこそ俺の問題だから」

「あ、あの、いいんですか――私達も一緒に行ってしまって」

 雪菜は勿論初春達のことが気になるものの、幼馴染同士の込み入った話に同席していいのか、気が引けた。

「いや、柳達にも少し頼みたいことがあるから。いてもらえるとありがたい」

 初春はそう言ってファミレスを出、神庭駅へと向かっていく。

 まだ日も高い時間――神庭駅に初春達が着いた頃には、神庭町の一時間半に一本の電車が丁度駅のホームに停車しているところだった。

 無人駅の前の小さなロータリーでそのわずかに降りてくる人間の最後に、そいつはやってきた。

 端正な顔立ちをした、長身の少年が。

 その少年を見て、思わず紅葉は息を漏らした。この田舎町に場違いな美少女である結衣を見たのと同じ驚きがあった。

 長身の少年は、初春の姿を見るなり足を止めた。

「ハル……」

「え? じゃあこの人が?」

「あぁ――言っただろ、化け物だって」

 初春は紅葉に皮肉めいて言った。

 しかし本当にその言葉の意味に頷いてしまう。

 小笠原直哉は本当に下手な芸能人のアイドルよりもその佇まいに華がある。そしてその切れ長の目には結衣と同じく高い知性を感じさせる。

 単に顔や見た目が綺麗というだけではない、一目見ただけで結衣と同じく人の心を掴む佇まいの美しさが直哉には合った。

 初春は直哉の方に足を進める。

 その時。

 他の者には気付かない、初春にだけわずかに見える程度の差で、直哉の足がほんの半歩ほど後ろに引いたのが分かった。

 初春は自分の拳の間合いの一歩外から、右拳を前に出す。

「……」

 その拳は直哉の眼前から50センチも離れている。

「何だ、お前、ユイを泣かせてたからって、いきなり俺がお前を殴るとでも思ったのか?」

「あ、あぁ……」

 皮肉めいて笑う初春に若干拍子抜けしたように、直哉は初春の拳にグータッチする。

「安心しろって。さすがに俺が人間嫌いでも、無抵抗の相手をいきなり殴るほど俺はアクティブじゃない――まして恩があるお前を殴るなんてことはしないよ」

「……」

 この時直哉は、結衣がこの町で初春と会った時と同じ感覚に捉われていた。

 失意のどん底にいると思っていた初春は思いの他飄々としており、むしろ東京にいた時よりも空気が穏やかなくらいじゃないか。

 そう感じながらも、長いこと一緒にいたから分かる。体つきも少し大きくなったし、最後に会った時よりも心身共にまた強くなった雰囲気を感じる……

 何より中学時代、初春が決して自分に寄せ付けなかった人間を連れている。

初春の後ろにいる二人の少女を見て、初春が何か変わったことを直哉はすぐに察した。

「しかし――今の感じで足も引けるわ、俺に殴られるんじゃないか警戒するわじゃ、お前随分調子崩しているな」

「え?」

「剣道をやっていた頃も、あんな不自然にお前の腰が引けたのは見たことなかったぜ。随分と弱気なことで――」

 直哉は一瞬で、その初春の自分を観察する目に驚嘆した。

 勿論初春は直哉を気圧すつもりで不自然な間合いの詰め方や、グータッチ用の拳の前出しを行ったのだが。

 初春は右手を伸ばして直哉の肩を抱き寄せるように強めに叩いた。

「まあ――遠路はるばるよく来たな。久し振りに会えて嬉しいよ」

 初春は小さく笑った。さっきまでの皮肉めいた笑みではない。笑みこそ小さいが確かに穏やかに笑っていた。

「……」

 紅葉と雪菜にとっても、そのひとつのやり取りで、初春がこの美少年と気の置けない関係であることは分かった。

「――すまんハル。お前は……」

「――まあ待て、結論を急ぎ過ぎるなよ」

 初春は何か言いたそうな直哉を制した。

「お前にも事情があるのも分かるし、折角この町に来たんだ。早々に決着をつけておしまいじゃ味気ないだろう?」

「え……」

「それに、俺達がギスギスしたままユイを取り合ってもしょうがねぇだろ。俺も折角体張る上に、待ちに待ったお前との勝負だってのに、そんなんじゃ勿体ねぇし」

「……」

「色々考えたけどさ――俺とお前との間じゃ、かかっているものがユイだとしても、お互い殺気立ってユイを奪い合うって展開にはならないと思うよ――俺は人間をぶちのめすのはそれほど嫌いじゃないけど、そんな俺でもお前と殴り合ってまでユイを奪うなんて、ぞっとしねぇ話だしな。それよりは、楽しい中で真剣になった方がずっとお前らしい――お前の好きな『激アツ』ってのは、自分が楽しいと思える時――だろ?」

「……」

「俺は少なくともお前とそういう立会いを望んでいるぜ。もうお前みたいな強い奴と今後の人生で二度と立ち会う機会もないだろうからな――お前を立ち直らせるなんて言ってはいるけど、実際は俺も楽しむ気満々なんだ。そんな簡単に終わらせるなって」

 その初春の提案は、今まで色々と考えをめぐらせていた直哉の思考を弛緩させた。

「――お、お前、結局何が望みなんだ?」

 思わず直哉は訊いた。

「ん? まあ強いて言えば――少し俺と遊んでみないか?」

「は?」

 そう言って初春は結衣の方を見る。

「ユイ、実はお前にも昨日言ってなかったことがあるんだ――ナオにも話すし、一緒に見てもらいたいものがあるから、一緒に家に来てくれないか」



「う、うわっ!」

 初春の家に戻り、居間に通された直哉と結衣は腰を抜かした。

 初春に、驚くなよ、と言われた直後、部屋中や庭に沢山の人ならざる異形の生き物が現れたのだから。

「こ、これは驚くよね……」

 紫龍から貰った翡翠を首に下げて、その様子を見ていた紅葉は自分達も初めて見た時はこんなだったのかな、と思うと少し恥ずかしかった。

 結界を強めた紫龍や比翼達が、初春がこの家に来てからの説明をしてくれた。

「――じゃあ、ハルはこの町でここにいる神様と一緒に何でも屋を……」

「正確にはこの音々の手伝いだけどな」

 初春は音々の方を見た。

「よ、よろしくお願いします――私はお二人のこと、ハル様の私物から聞いているので結構知っているんです――私には、ものに宿るアヤカシの声を聞くことができるので」

「……」

 結衣は初春の横顔を見る。

 紅葉、雪菜、夏帆――どれもみんな三者三様の可愛さだったが、またとんでもない可愛い娘が現れた。

 ハル――どうしてこの娘を助けるなんて――やっぱり、可愛いからなのかな……

 本当にハルは東京の頃のハルとは別人みたいに変わった。

 この娘だけじゃない。私の知っているハルなら、こんなに沢山の人(?)との関わり合いなんて絶対持たなかったのに……

「で、この紫龍っておっさんは戦神なんだそうだ。俺はこの町でこのおっさんに稽古つけてもらってる」

 飄々とした顔で初春は言う。

「……」

「――まあ、と言っても何のことか分からないよな」

 ふたりの怪訝な表情に、初春も苦笑いを浮かべる。

「俺の提案なんだが、お前達がここにいる間、俺の仕事を手伝ってみないか?」

「え?」

 後ろにいる紅葉達も、その提案にきょとんとする。

「俺もこの仕事で人手が欲しくてね。お前達に手を貸して欲しいんだよ」

「み、神子柴くん、それってまさか……」

 雪菜はそれを訊いてすぐに意図を察した。

「そうだよ。ナオ、ユイ――俺と野球をやらないか?」

「や、野球?」

「ああ、秋葉と柳も一緒にやらないか? 人数が足りてないからな」

「わ、私達も?」

「ああ」

 初春は頷いた。

「このあたりの町同士で野球の大会が今週末にあってね。神庭町のライバルは高校球児を集めてガチで挑むらしい――それでこっちは人手もいないしで、俺にお鉢が回っててね。普通に考えりゃ敗色濃厚な負け戦なんだが――ナオ、お前と一緒にやれば結構いい勝負ができるんじゃないかと思ってね。公立中学が中学剣道でばったばったと強豪私立をぶっ倒すことに目を輝かせていたお前なら、こういう勝負、好きかな、と思ったんだよ」

「……」

 それを訊いて、結衣は少し胸が躍った。

 初春の成長が中3になってようやく直哉に追いついてきたこともあり、実際の期間は短かったけれど、直哉と初春は間違いなく名コンビだった。

 奔放な直哉と堅実な初春は互いの不足を補いながら切磋琢磨する関係で。

 あの頃に直哉を引き戻そうとしている初春の心を感じたのである。

「仕事を手伝ってもらえりゃ、お前達の寝床と帰りの旅費は面倒見てやれる――秋葉と柳には、ユイが帰る日まで、お前達の家にユイを泊めてやって欲しいんだ。俺の家にナオを泊める――女のユイを俺達と一緒に泊めるわけに行かないしな」

「そ、それは構わないけど……」

「……」

 しかし当の直哉は返事がない。

 まあ確かに、異形の生き物だらけの家で正常な思考を働かせろというのもなかなか無理のある話ではあるのだが、直哉の反応は初春の期待したものに比べて随分薄かった。

「ふぅ」

 その様子を見ている紫龍は煙管の煙を吐いた。

「お主、随分と青いな。その女子やその小僧の前で情けない自分に憤っておるのが見え見えじゃぞ」

「え?」

 紫龍に自分の心情を言い当てられ、直哉は気色ばんだ。

「儂らはお主やその女子のことはそこの音々に聞いて、この町にくる前から知っておる。その小僧の思考でお前達のことを少しは見えたからな。じゃが正直お主にはがっかりしておる――その小僧が一度も勝てなかった相手だったとは思えん」

「おっさん……」

「今のままでお主がこの小僧と真剣勝負なんて、自惚れるな。今のままやれば、おぬしの負けは必定じゃ。今のお主ではこの小僧には勝てんぞ」

「そ、それは……」

 結衣は驚いた。

 確かに初春が強くなっているとは言え、初春が直哉をそんなに簡単に負かせるというのはにわかには想像できるイメージはない。

 結衣の言葉を待たずに、紫龍は錫杖を持ってすっくと立ち上がる。

「小僧との鍛錬の時間じゃ。こいつの儂との鍛錬の様子を見れば、お主達にもすぐに分かるじゃろう――そのために儂等に姿を現せと言ったのじゃからな」

「そ、そうなんですか? ハル様」

「まあな……じゃあ申し訳ないが、興味があるなら少し裏山までご足労願おうか」


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