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されど、空の深さを知る(6)

「……」

 結衣の大きな瞳から大粒の涙がこぼれたが、結衣の目は恵比寿のように細めて努めて笑顔のままだった。

「はぁ……?」

 初春は溜息のような声をうめくように小さく漏らし、眉間の当たりに手を当てた。

「何で俺なんだよ……普通女ならどう考えてもナオを選ぶだろ……」

「勿論ナオも好きよ。強くて、カッコよくて、昔から何でもできたナオを誰よりも尊敬している――でも――私はナオとは同じ視点では生きられない気がして……」

「え?」

「ハルは――自分が弱かったからこそ努力して――その度に出来なかったことをみんな克服してきた。だから自分より弱い人の気持ちが分かって、優しくなれる――私はそんなハルと同じ目線で歩けたらなって、思ったの……」

 本当はこの町に来た時点で、結衣は揺れていた。

 憧れていた直哉に告白されて嬉しかったものの、その瞬間の脳裏には初春のことが浮かんで。

 両天秤にかけるつもりはないけれど、結衣は確かめたかったのだ。

 この時結衣の心に芽生えた、初春への想いが何なのか。

「ハルはきっと、私にはわからない本当に大変な思いをしたんだと思う――それでも私のことを心配して、気遣ってくれて――それを見て思ったの。私はこういう、ハルの優しさを、ハルのいなくなった東京でずっと探していたんだって……」

「……」

「でも――ハルはもうこの町で新しい生活を始めているんだよね……そしてハルは――私やナオよりもずっと悲しくて、辛くて……そんな思いをしていたのに、もう必死に前を向いているんだよね……」

 その声は嗚咽に震えかけていたが、何とか聞き取れる声にしようと背筋をしゃんと伸ばしているように力んでいた。

「でも――それがいい。ハルはそうして目の前のことを頑張っているのが、一番ハルらしいもの。私がそれを邪魔しちゃいけないんだよね……」

「……」

「ごめんハル――甘えちゃって……」

「――お前、ふざけるなよ……」

 怒気を孕むような初春の小さな声が震えた。

「――え?」

「俺の手の届かない存在になってから、俺にそんなこと言うなよ……さっきから無防備丸出しで畳みかけてきやがって……こっちはお前に対してどうしていいか分かんなくなってたってのに……」

 もう頭が痛かった。

さっきからあまりにこいつが俺を警戒しないから……

 その無防備さに、自分の内に秘めた欲望が掻きむしられ続けていた。

 そしてそんな結衣が、俺を好きだと言う……

 本来好きな女にそんなことを言われたら嬉しいはずなのに。

「俺だってお前のことは好きなんだよ!」

 怒鳴るように初春は叫ぶ。

「今でもずっと――お前がこの町に来て、改めてお前の姿を見て分かった――それこそさっきからお前が目の前にいていっぱいいっぱいになってる――お前を欲しいと思ってしょうがないくらい……」

 それを言った瞬間、結衣の涙が止まり、目が見開かれた。

「本当はナオが言っていたことも少し違うんだ……あいつはお前が好きで――あの頃の俺もまだはっきりとは自覚できていなかったが、お前が好きだった――俺もナオと同じで、お前が好きだったんだ。だからナオは恨みっこなしの勝負をしようって、お前を賭けた勝負を提案したんだ。勝った方を祝福するって条件で……あいつは俺の気持ちを勝手に言うのを気を遣って言わなかっただけだ」

「う、嘘……ハルが……」

 結衣も混乱していた。

「だ、だってハル――そんな素振りなんて全然……」

「あぁ、そうだよ――俺には思想がない――俺は当時女を好きになることが何なのか分からなかったんだよ――まして惚れた女に何をしてやりたいのかのビジョンなんか、今も持ち合わせていない――情けないことだが、俺はそんなことも分からんような馬鹿な男なんだよ……それすら最近知ったことだけどな」

 初春は以前夏帆に訊かれたことがある。

 紅葉と雪菜のどちらが好きなのか、と。

 その時わかった。

 初春は紅葉は雪菜は勿論のこと、結衣にすら何をしていいのかという思想がないことを。

 初春は、女を――人間を愛することを知らない。

「そして、今の俺はお前のことをどうしてやることもできない――この町にいる間も俺なりに考えてみたけれど――お前を俺の手で抱いてやることも、守ってやることも、そばにいてやることも出来ねぇ。惚れた女の前で、傍観者に成り下がった俺の想いなんか邪魔で――お前は、ナオに幸せにしてもらえばいいって……もうお前達が幸せになっていて、祝福する準備もできていたんだ」

 そう、さっきまで初春はもう結衣と直哉の間にしゃしゃり出ても、何もすることなどできない。

 感情のままに結衣を求めて思い出を汚すことも、俺の弱者の理論で直哉達の王道を汚すこともはばかられて、俺は綺麗な思い出を残すくらいしかできなくて。

 だから何もせずに突き放すしかなかった。

 だけど……

「俺はお前が幸せそうに笑っているなら、それでいいんだよ。お前の隣にいる男がDV野郎でも借金野郎でも二股野郎でも、お前が笑うならそれを泣きながら見送る覚悟はできてるんだ。けどな――お前の今みたいな顔を何もしないで見送るなんてのは、真っ平御免なんだよ!」

 そう、あの夏帆の質問の時、初春は結衣にしてやることは何も思いつかなったが……

 あの時ひとつだけ、はっきりと分かっていたことがあった。

「俺は――惚れたお前に世界一幸せになってもらいたい! だからお前が泣いているんじゃ困るんだよ! 俺はお前のそんな顔だけは見たくない――お前を泣かせたままで終われなくなっちまっただろうが!」

「……」

 その初春の珍しく声を荒げるような真剣な声は、長い間一緒にいた結衣ですら見たこともない声で、静かな山にぴぃんと響くような声だった。

 結衣はその初春の言葉に、顔を覆って膝を突いた。

「ゆ、ユイ! どうした?」

 それを見て慌てて初春が駆け寄り、結衣の前に膝を突く。

「す、すまん、声を荒げちまって……怖かったか?」

「ち、違うの――」

 この時、結衣の胸にはとても熱いものが体中を支配するように駆け巡っていた。

 いつもどこか生きることを頑張らず、どんなに理不尽なことが起きても淡々とそれを受け入れてしまう初春は、怒る時でも淡々としていたのに。

 こうして真剣に怒るのを見たことはなかった。

 それが自分のことでそうなってくれるって……

 嬉しくて、胸が熱くなる。

 けれど同時に、結衣の胸に一抹の寂しさが去来する。

 結衣は初春の差し伸べた手を取り、竹刀ダコでごつごつした初春の体温を感じ取る。

「――やっぱり、ハルがそばにいるとすごく安心する……私の味方でいてくれるってわかるから――すごく心強い……」

 結衣は呼吸と鼓動を落ち着けて顔を上げる。

「でも、俺は騎士(ナイト)って柄じゃないぜ……精々雑用係か踏み台だ」

「そんなことないよ――」

「……」

 沈黙。

「ハル――でもやっぱりハルは――東京には――戻ってこれないんだよね……」

 その結衣の言葉は、まるで縋り付くように弱々しく、力なく初春の手を握った。

「……」

 初春は大好きな結衣の手に触れた喜びより先に、女の手の華奢さ、頼りなさに驚いていた。喜びより驚きの方が先に来るのは、初春もまだ動揺が完全に抜け切れていないという点が大であった。

「――あぁ。今の俺が何の後ろ盾もなく東京で暮らせる選択肢もない。まして――お前達と高校生活をするなんて選択肢も……」

「……」

 しばらく押し黙り。

 結衣は再び泣いた。

 初春はそんな結衣に、何の声もかけてやれなかった。

 ただ――結衣のためにできることを頭では必死に考えていた。

 どうしたらいい――

 俺に何ができる?

 焦れた頭を冷やすように空を見上げた。

「――あ」

 初春は空を見て顔を上げる。

 その声に、結衣も顔を上げて空を見た。

「わぁ……」

 二人の頭上の空には無数の星が光を瞬かせ、あちこちで光を起こし、流れ星になって降り注いでいた。

 1秒、2秒程度のラグで、次々に星が尾を引いてどこかに落ちていく。

「綺麗……」

「そう言えば――夏に流星群が見られるって言ってたっけ……」

 初春は以前の依頼を思い出す。

 もう毎日のように神庭町の星空を見ている初春も、流れ星を見るのは初めてである。

「すごい――今までの星空もすごかったのに、こんな流れ星まで見れるなんて」

 星の見えない東京の空の下にいる結衣は、涙で滲んだ目で流れ星を目で追った。

「思ったより速いんだな……」

「これじゃ――流れているうちに3回願い事なんて無理だね……」

「あぁ――消える前に3回願い事を言えば、願いが叶う、か……」

 初春は今も流れる星に目をやる。

「――星にお願いしたら、ハルもナオも、ちゃんとみんなが笑えるようになればいいのにね……」

 結衣は悲しそうに言った。

「欲張り過ぎだろ、そんな……」

 そう言いかけて、初春は言葉を止める。

「――ハル?」

 結衣は首を傾げ、初春は自分の首筋にある――無地の将棋の駒を触る。

「――そうか、そうだよ、欲張り過ぎなんだよ」

「え?」

「俺にできることはほとんどない――なのに今までの俺は、お前に出来ることを欲張り過ぎていたんだ。お前と一緒にいられない俺がお前に出来ることなんて――お前を不安にさせる原因を何とかしてやることしかなかったのに」

「え?」

 首を傾げる結衣の両肩を初春は両手で掴んだ。

「ユイ、しばらくこの町にいろ。お前が東京に帰るまでに――今お前が不安に感じていることを少しは取り除いてやる。

「ど、どういうこと?」

「ちょっと待ってろ」

 そう言って初春はポケットから携帯電話を取り出し、通話ボタンを押した。

 結衣に背を向け、初春は携帯電話を耳に宛てた。

『は、ハル?』

 電話の相手はすぐに出た。

「久し振りだな――ナオ」

「え?」

 初春の電話をかけた相手が誰なのか、結衣はその一言で察した。

「――随分としけた声だな。よっぽど調子が悪いと見える」

『な、何でそれを……』

「ユイに訊いたんだよ。今俺の隣にいるぜ。お前が心配なんだよ」

『……』

「お前何やってるんだよ」

 結衣も聞いたことのないような、初春の怒ったような声。

「俺はずっとお前がユイを守っていると思っていたし、お前はそれができると思っていたんだがな――お前はもうユイを幸せにすることを諦めちまったのか?」

『……』

直哉は自分の今の不甲斐なさをどういえばいいのか、少し言葉を探したが。

『――すまん』

 何も言葉が出ずに謝った。

 これは初春が自分のしたことを糾弾するという経験のない状況で、初春の迫力に気圧されたという部分が大きい。

「いや――俺に謝らなくてもいい。俺もお前と同罪なんだよ。ユイを悲しませたってのは俺も同じだ。俺がお前を責める道理もない。けどよ、それを知っちまった以上、俺は今俺の側にいるユイを安心させてやらなきゃならねぇ。俺はそうさせてもらうぜ」

『――そうだな、お前の方がユイの心に寄り添ってやれるのかもしれん』

「は?」

『あいつが求めているのは、自分と同じ目線に立ってくれるお前みたいな奴なのかもしれない……俺みたいな、自分のことしか考えられない奴じゃなく……』

「……」

 さっきのユイと同じようなことを言いやがって……

「それで俺がユイを取っちまっても文句ねぇのか?」

『え……』

「俺はお前に親友のよしみで確認とってるんだぜ。ユイは今、お前のことで悩んで弱ってる――しかも今日、ユイは俺の家にふたりきりで泊まるんだぜ。」

「え……」

 結衣はその初春のらしくない発言に思わず気色ばむが。

 初春が結衣に向けて、口の前で人差し指を立てる仕草をして声を制しているのを見て、言葉を止めた。

『そ、それは……』

「俺はお前と違って公明正大ないい奴じゃないからな。今後の俺の人生でユイみたいないい女を抱ける機会なんて二度とないだろうし――魔が差しても俺を恨むなよ?」

『……』

 沈黙。

「めっちゃ困ってるじゃねぇか……」

 初春は小さく笑った。

 15歳の男にとって、好きな女が別の男と一夜を過ごすことは、気が気ではないだろう。

「そうだよ、小笠原直哉はそんなに諦めのいい奴じゃねぇ。欲しいものは自分の力で手に入れるのがお前だよ。俺はそれに比べりゃ卑怯者だが、お前が不調だからってユイを自分のことにしても意味がない。それじゃ俺はよくてもユイの幸せにはならねぇからな」

『……』

 沈黙。

「て言っても――お互いこのままじゃユイを心配させ続けるだけだぜ。今の俺とお前――どっちもそれが本意じゃないって部分は同じだろう? お前がユイを諦めてないのであれば」

『……』

「そこで提案なんだけどよ――お前、改めて俺とユイを賭けて勝負しないか?」


ここ最近仕事が立て込んでいて更新が遅れています…しばらくこの状況が続きそうなのですが、何とか投稿は続けられるように頑張ります。

更新はまた遅れるかもしれませんが…

ていうかワールドカップを見ている時間が多くて時間を無駄にしていることも否めないんですけどね…

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