されど、空の深さを知る(4)
「『あれ』ってのは、カレーか……」
「だって一人暮らしだとカレー余らせちゃうでしょ? カレーは人がいるから作れるからね。いっぱい作った方が美味しいし」
部屋着に着替えた初春と結衣はキッチンで言葉を交わしながら、カレーの準備に取り掛かっている。
「でもこの量だと、明日の飯もカレーだな」
「カレーは翌日の方が美味しいんだよ、一日で食べきったらもったいないじゃない」
「――そんなもんか」
初春は東京にいた時から、レトルトではないルウから作るカレーを作ったことも食べたこともない。満足に肉も野菜も買えない食費で空腹を満たしていた初春にとってカレーは高級料理の一つであったから、カレーを作ることに興味があった。
「今日一日お世話になるから、私がカレー作るよ」
「だからいいって――お前はゲストなんだから。大体お前、料理できるんだっけ」
「お母さんの手伝いとか、女子同士でお菓子作りくらいはするよ」
「……」
結衣のお母さんか――結衣には言わないが、俺は苦手だったな。
同じ団地に住んでいても直哉が結衣の所に来れば喜ぶが、自分が来ると扱いがいつもぞんざいだった。小さい頃に直哉にお菓子やジュースを出して、自分には出されなかった、なんてこともあったな。直哉の両親も俺に対してはそんな感じだったけれど。
今思えば俺の両親が団地の連中からよく思われていなかったことも一因なのかもしれない。母親はどうやら俺が生まれた頃から不倫をしていたようだったし、旦那以外の男を連れ込んだとか、子供が小さいのに着飾って出かけたとか、見られていても何の不思議もない。
あの頃は小さくてそんなこともわからなかったし、そもそも母親と話をする機会もなかったので、俺も母親がどんな人なのかよく知らなかった。
そんなよく分からない人と運命共同体になっていたことさえ知らなかった。
初春はジャガイモの芽を取り、結衣は人参の皮を剥く。
「人参の皮は剥かない方がいいらしいぞ。普通に食えるしそのあたりに栄養が多いって聞いた」
農家のアルバイトで野菜に対しての知識が増えた初春であった。
「私は舌触りが悪くなるから剥いた方が美味しいと思うけど――」
「舌が肥えているんだな」
「だって、折角人に食べてもらうなら、美味しい方がいいでしょ?」
「……」
「ハルには実際の栄養よりも、美味しいって心の栄養の方が必要なのかなって思うよ」
初春の心はまた結衣の笑顔に抉られるような感覚を味わいながら。
以前解決したラーメン屋の依頼を思い出す。
あの依頼主も、きっとこんな風に諦める為に葛藤があったのだろうか――
この笑顔を自分のものにしたい――
そんなことを思っても、何もできないことも分かっている。
結衣を守る力も、人並みの暮らしをさせる金もないし――結衣が東京に帰れば俺は結衣のそばにいることもできない。
諦めることがこんなに難しいと思うことが、今まで負け続けの人生を送ってきた俺にもあるとは思わなかった。
――だが。
初めて気になった。
今の俺は、目の前の人間にどんな顔ができているのだろう。
心配をかけていないだろうか――気を遣わせているのだろうか。
――そんなことをこいつに思ってしまうのは。
俺が中卒で、親もいない、金もない――社会の底辺だからなんだよな。
下ごしらえを終え、煮込んでいる間に少し手が空く。
「さすがにガス点けると暑いね――」
結衣はレースのブラウスをパタパタさせる。
初春はコップに冷たい麦茶を出し、今のちゃぶ台に置き、畳に座った。
「時間空いちまったな――待っている間に風呂でも入ってきたら?」
「……」
「どうした?」
「ううん――」
結衣は軽く顔を赤らめてかぶりを振った。
「……」
少し遅れて、初春が自分の言動に照れたというのに気づく。
「……」
――というか、気付いた理由はさっきからこの居間の隅で俺達の様子を見物してたむろしている比翼達野次馬の顔を見てなのだが。
「さあさあ、今日坊やがこの娘に手を出すか出さないか、賭けないかい?」
娯楽のない神や妖怪達は面白がって、縁側から庭で賭けをはじめていたりする有様であるから、やたらと好奇の目で見られている。
「――悪い、今後お前を不安にさせる言動には気を付ける」
「――ううん、それは別にいいんだけど……」
沈黙。
「ハルってさ――何か雰囲気が変わった? こんなだったっけ……」
「んなこと言われても――『こんな』ってのがどんなか分からないんだが……」
「なんか、雰囲気が甘いって言うか……」
「は?」
「この町に来て、女の子と一緒にいるようになったからかな……何か……」
「ファミレスでも言われたけど、引っ張るね、それ」
「――ごめん――変なこと言って」
結衣はコップの麦茶を飲み干す。
「やっぱりお風呂、借りていいかな……」
「――どうぞ。バスタオルはもう脱衣所にあるから。適当に使え」
「うん――ありがとう」
そう言って結衣は一度自分の部屋着を取りに初春の部屋に置いた荷物を取りに行った。
沸かしたての一番風呂に浸かる結衣は湯の中で膝を抱えて、思案に耽っていた。
「はぁ……私、色々おかしいな……ハルが鈍くて助かるけど」
まだこの家に来て30分程度しか経っていないのに、もう自分の中で感覚のずれが起きていて。
初春を前に自分の言動がおかしくなっているのが分かる。
東京にいた頃のハルは、私以外の女の子と話していることなんてなかった。
そして神代高校の入学を取り消され――私達のことも忘れて東京を去り、この町に住むなんて、失意のどん底だっただろう……
もっとひとりぼっちの荒んだ生活をしているんじゃないかと心配していたのに。
来てみたら、私以外の女の子と友達になっていて。
東京のことをうじうじと悩んでいるわけでもないどころか――もう東京のことなど忘れているかのように、この町で新しい生活を始めているじゃないか。
ちゃんと仕事をして、勉強もして――東京にいた頃には見たことない料理なんかも覚えちゃって。
そして――体つきを見ても分かる。
中学時代毎日早起きしてやっていた鍛錬もちゃんと続けていて、中学の頃よりまた一回り逞しくなっている。
もう初春は前を向いていたんだ。
「……」
幼い頃の初春は本当に何も持っていなかった。
でも今は逆境にも折れず、歩き続けるサバイバビリティを身に付けている。
これが小さな頃から今まで、幾度となく人間に踏み潰されても立ち上がり続けた初春の強さ……
結衣は誰よりも初春を知っているつもりでいたが、それを過小評価していたことをこの数時間で思い知らされた
それを認識してから、結衣の中で初春が妙に強大に見えた。
ハルは強くなった。
強くなったから――私に対しての優しさが一層甘くなった。
他人に甘くできるのは、強くなったから……
それが結衣には分かったのだ。
――いや、本当はもっと前から分かっていた。
もうハルは――私が心配するような弱虫じゃなかったんだ。
寂しいとか心細くなんて、なかったんだ。
寂しくて、心細かったのは、むしろ……
むしろ……
――さっきも強がっちゃったけど、本当は図書館で柳さんみたいな女の子の友達ができていた頃から私はおかしかったんだ。
ハルに自分以外の女の子が近づくことなんてなかったし、ハルも女の子なんて近づけなかったから、全く考えていなかったけれど……
自分以外の女の子――あんなに連れて――しかもみんな可愛くて。
それで自分の電話にも出なくて。
ハルが他の女の子と仲良くするの――見てたら……
これって、もしかして……
嫉妬とか――ヤキモチなのかな……
「うぅ――何か分からなくなってきたよぉ……」
そう考えたら恥ずかしさが一気に込み上げてくる……
これからどんな顔して一晩ハルと過ごせばいいか、分からなくなってきた……
「あぁ……生々しいな……」
結衣が風呂の湯船で膝を抱えて恥ずかしさに一人悶えているのと同じころ、初春も居間で、自分の家で結衣が風呂に入っているという現実の生々しさに、体が勝手にそわそわしていた。
「さっきから神子柴殿は、煩悩と戦っておるなぁ」
「しかし女に興味がないんじゃないかとも思ったが、やはり人間よの」
からかい半分の中級神の声が飛ぶ。
「ユキクモ」
それを見るや否や、初春は首の『行雲』を太刀に変え、右手で柄を、左手に鞘を持った。
「お前等斬るぞ。これ以上あいつを巻き込んで下世話な話をしたら」
初春の目は本気である。
「じょ、冗談ですのに……」
さすがにやっかみすぎたと中級神達は苦笑いを浮かべる。
「坊やが八つ当たりなんて珍しいね」
だが比翼がおかしそうに笑った。
「この前あの娘達にも風呂を貸したじゃないか。その時はなんでもなかったのに」
「あの時は――あいつらがこの後帰ることが分かっていたから……」
「なるほど、初夜を前に緊張しているのか」
「しょ……」
初春と音々が声なき声を出す。
「やめろ――変なことを考えそうになる……」
今自分がいる場所から10メートルも離れていない場所に裸の結衣がいると思うとまた生々しいことを考えてしまう。
それを考える度に、憎らしいことに、自分が男であり人間であると実感する。
結衣のことを心だけでなく、その体も、全てが自分を揺さぶってくる……
中級神や妖怪達も、あの人間を路傍の石程度にしか見ない初春がこれだけ人間相手に動揺している姿をいまだかつて見たことがなかった。
「しかしあの娘も神子柴殿を信用しているとはいえ、よく男の家に泊まるといったものだな」
「これは正直、『据え膳』じゃな」
周りの中級神も初春の背を押す。
「み、皆さん……ハル様を焚きつけるようなことは」
「なんだい、お前だって坊やに体でお礼しようとしたじゃないか」
「あ、あれは比翼様が!」
音々は顔が真っ赤になる。
「――まあ確かにな。これは普通に考えたら『据え膳』なんだろうな」
初春も頷いた。
「は、ハル様も……そんなの本気にしちゃ……」
「だが――俺はたとえあいつと救助の来ない無人島にふたり流されたとか、核戦争で俺とあいつ以外の人類が死滅したとかいう無法な状況でも、あいつに手を出せないんだろうな……」
俺は無人島で女と二人流れ着いても、女と子を儲け、自分の国を作ろうなんてことはしないだろう。
妊娠した女は労働力にならない上に食糧だけ減らす荷物になるから。
俺は核戦争で俺と女の二人が残されても、人類存続のために子作りをしようなんて考えないだろう。
俺は人類の未来に興味がないから。
そんな場面でもせこせこ自分が生きるだけで精一杯で、生存確率の計算をせせこましくやっているような男だ。
俺はそんなつまらん男なのだ。
「改めて俺は小市民なんだな。この町でせせこましく生きることに満足して、あいつと一緒にいるような生活が見えない……」
この町に来て、自分の思想のなさにうんざりすることが多くなったが。
結衣が来て、改めてそれが歯痒くなった。
あいつのために何をしてやれるか。
さっきからいくら考えても何も思いつかなくて。
今の俺は、今までの思い出を綺麗なままで終わらせられるか……
その程度のことで精一杯になって、『据え膳』を見送ってしまうのだろう。
そんな低いところ――地べたを這いずり回る蟻のように低いところにあるものしか見えず、好機であるかもしれない場面で立ち尽くしている。
結衣への懊悩を抑えることよりも、それが辛かった。
俺は結衣の裸体を見るよりも、もっと見たい景色があったはずで……
「――くそ」
初春は半ば不貞寝気味に畳に大の字に倒れた。
こんなポンコツ思考になった神子柴殿を見るのは初めてだ。
その姿にある者は面白がり、ある者は呆れていたが。
比翼は珍しく苛々していた。
この坊やは――何故そのひとつの可能性を考えないのだろう。
それに気付くことができないのだろう。
そういうことに気づいて欲しいと思って、あの娘達と関わるように誘導したが……
あのお姫様がここに来るのは少し早すぎたかもしれないね……
「――美味いな、このカレー」
「でしょ、インスタントコーヒーを隠し味に入れてるんだ。うちはいつもこれなの」
風呂から出てマキシ丈のワンピースに着替えた結衣も初春も互いに自分の気持ちを立て直して夕食の席を囲んでいた。
「ああ、これすごく美味いよ。これなら何杯でもいけそうだ」
「そう? どんどん食べて? よそってあげるよ」
初春は一人で1合半ほどあるカレーを平らげ、その食べっぷりに結衣は爽快感を覚える。
「……」
だが、やたらカレーのことを一通り語り尽くすと途端に二人とも、会話が途切れ途切れになり、沈黙が目立ち始める。
この時二人ともカレーを頬張り、話ながら脳裏で同じことを考えていた。
なんか変だ――今まで二人きりでいて沈黙が来ることなんて普通だったのに。
今は何か、沈黙が来ることが怖い……
それが来たら、何か自分は取り返しのつかないものを踏んでしまいそうで……
そんな目に見えない何かに覚えながら、言葉をでたらめに紡ぎ続けた。
時計をチラチラ見て、こんなに夜が長いと感じたこともなかった。
だが――お互いの想い空しく、カレーを限界まで食べ、カレーでつなげる話も尽きた夜の8時半過ぎ……
一緒に洗い物をして、最後の悪あがきのように時間を使う。
「ありがとう、手伝ってくれて」
初春が食後の麦茶を入れ直して結衣に渡す。
「ありがとう……」
結衣がそれを受け取り、お礼を言った瞬間。
「……」
その沈黙はやってきて――
自分の体温と心拍数が上昇していくのが二人とも明らかに分かった。
初春はもうマキシ丈のワンピースから見える結衣の足も首筋にも目をやれなかった。
結衣も初春の方を見ようとすると、わけもわからない程、顔が紅潮した
「は、ハルはこの家で時間が空いたら、何してるの?」
先に結衣が口を開く。
「うーん、とりあえず体を動かすか、勉強かな……」
今にテレビがあるものの、初春はほとんどテレビを見ない。どちらかと言うと外に出られない音々の世間の勉強用に使われているくらいだ。
「ごめん――この家、娯楽になるものがなくて」
「ううん――いいんだ」
「……」
二人とも喉の奥には無数の言葉があるのに。
もう一周のキャッチボールで会話が止まる程余裕がなかった。
その言葉すら表面的なものに変わりかけていることに互いに気付いていた。
「何か――こんなの変だね……」
「え?」
「私とハルの間で、こんな風に言葉が薄っぺらくなるのって……」
「……」
その言葉の真意が、初春には伝わった。
その言葉を理解して初春はようやく、結衣と自分が今まで同じような感覚を共有できていたことが理解できた。
「――ユイ。俺は口下手だからお前を小粋に和ますことはできない」
それが分かって、初春の中で一つだけクリアになった思いがあった。
「だから単刀直入に、一番気になっていることを訊いていいか」
「う、うん……」
結衣も、何かが動く予感を感じて少し身構える。
「今――お前は幸せなのか?」
「え?」
「お前が幸せに生きているなら、お前がいくら優しくてもこんな町に一人で来たりしないだろう? まして男の家に泊まろうなんてさ……」
「……」
「何か、困っていることがあるのか?」
「……」
結衣はしばし沈黙したが。
「――かなわないなぁ、ハルには」
苦笑いを浮かべる結衣。
「私のこと――お見通しなんだね」
「……」
初春にはこの町で結衣を見た時から一つの違和感があった。
「お前――さっきからナオの話をほとんどしなかったからな。俺達の間柄じゃ嫌でも話題に上がるあいつの名前を、意図的に出さない感じがした」
「……」
結衣の表情が沈むのを見て、初春は思った。
これは厄介なことになった、と。
「うん――私ね、その話をハルにしたくてこの町に来たの。聞いてくれるかな……」
「ああ」
初春は胡坐を整えて結衣に正対した。
「ハル――私ね、ナオに告白されたんだ……」




