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されど、空の深さを知る(3)

ベッドに座り、初春は結衣の話をただじっと聞いていた。

「そうか……それは悲しいな……」

「ごめん――ハルにしか話せる人がいなかったの……」

 隣で涙を流す結衣の肩を、初春はそっと抱き寄せる。

「いいって――少なくとも俺はお前を傷つけないから……泣きたいなら泣いていい」

「ハル――私――ハルに東京に帰ってきてほしいの、私……ハルがいないと……」

「ユイ……俺もお前のことを、ずっと……」

 初春は結衣の体を抱き寄せたままベッドに倒れ込んだ……



「なんてことになってたら、はわわ……」

 紅葉はさっきから気が気ではなく唇を噛んだり手を組んで指をそわそわ動かしたり、じっとしていても体の動きが慌ただしかった。

「……」

「ほらほら、くよくよしたってどうしようもないよ。今日は先生が奢るから、とりあえず忘れよう、ね?」

 夏帆はファミレスでパーティー用のおつまみプレートをテイクアウトで頼み、それをテーブルに置いて、イカゲソのフライを一口つまんで冷蔵庫から出した缶ビールをあおった。

 初春と結衣が二人で家に帰っていったのを見送りながらも、もう紅葉も雪菜も心中穏やかでないことを察した夏帆は、どうせならパーっとやろうと二人を自分の家に誘ったのであった。

「一応明日の朝様子を見に行くけどさ――こりゃ二人はついてこない方がよさそうね」

 夏帆は二人の心中を察して、一応そう言って初春に何もしないよう釘を刺しておいた。本当は紅葉達とみんなで初春の家に泊まると提案したほうが面白いとも思ったのだけれど、初春の家に人数分の布団はないだろうし、言わなかった。

 ハルくんの行動次第では、明日は修羅場かもね……

 ――最初はそんなノリで、初春に昔の女が訪ねてきたという急展開に自分だけその様子を見れないのは悔しいという面白半分だったのだが。

「……」

 二人ともどんより本気で落ち込んでいるので今は茶化す気も消え、夏帆は夏帆なりに二人の心のケアに努めていた。

「……」

 雪菜はさっきから部屋の隅で膝を抱えて蹲っている。

「で、でも神子柴くんだって男の子だよ? あんな可愛い娘が一緒にいて――うちのクラスの男子だったら間違いなく手を出すよ! そうなったらさぁ……」

 紅葉はその人当たりの良さから学校に昔から仲のいい男子もいたが、もう男子と言えば女のことを性欲のはけ口としか思っていない。

 特に紅葉はその豊満なプロポーションからそのような淫欲に駆られた男の目に晒されることが多く、男子の理性をあまり信用していなかった。

「うーん、人間に触られると嫌がるハルくんは、いくら可愛くても女子に手を出すとは考えにくいけどなぁ――家には音々ちゃんだっているし……」

 むしろ夏帆は、生々しい情事の場を間近で見せつけられるかもしれない音々のことを慮っていた。できるなら音々もここに呼びたかったけど、彼女は一晩もあの家の結界の外に出られない。

 夏帆は適当にパーティーセットを皿に取り分ける。

「ほら、柳さんもさっきからずっと心配しているみたいだけど、食べようよ」

 夏帆はビールを持ったまま雪菜の隣に行く。

「大丈夫よ。とりあえずハルくんのそういうところの真面目さは信じてもいいと思うけど……」

「だ、大丈夫です――私も神子柴くんは、自分の欲望だけでそういうことをする人じゃないって思いますから……」

「な、何でよ、セツナ……」

 紅葉は何度か雪菜の慧眼で視点が変わったことがある。今の自分の不安を少しでも消してくれそうな雪菜の考えに助け舟を期待した。

「も、妄想は、『こうなってほしい』って願望がなければ成立しませんから……」

「どういうこと?」

「み、神子柴くんは人間に『こうしてほしい』って願望がないですから――ゆ、結衣さんを自分の都合で好きにしていいとか――そういう自分都合の思考がないんだと思います……」

 雪菜は何となく、初春の『人間嫌い』の考え方が分かりかけていた。

 初春は人間に勝手な期待をしない。

 だから都合のいい妄想もしないし、願望を押し付けない。

そんな自己都合での暴走をしない――全て相手の行動があってからの善処だ。自己都合では多分何もしない。

 初春の本質は、流れる水や風のようにその場で形を変える自由さなのだ。

「何だ、柳さんは心配はしてないんじゃない。すごい落ち込んでいるのかと思ったけど」

「――頭では、分かっているんです……」

 肩に差し伸べた夏帆の手は、雪菜が小さく震えているのを感じた。

「でも――今あの二人が一緒にいるってこと――間違いなくそうしているって――それを考えるだけで、何だかすごく不安で、怖くなるんです……」

「……」

「私――分からないんです。こんな気持ち――小説の中だと恋ってもっと楽しいものだと思っていたのに……誰かを好きになると――こんなに辛いなんて――こんなに身勝手な気持ちになるなんて――」

「セツナ――ちょっと、やめてよ……」

 膝を抱えて声を抑える雪菜のことを、紅葉は抱きしめた。

「わ、私だってすごく辛かったんだから――神子柴くんのあの娘を見る目――あれは特別な人を見る目で――私達にはあんな目をしなかったもの――あんな目を私達にもして欲しいって思って……すごく嫉妬しちゃった……」

「……」

「私だって――あんなのただ見てるだけなの、辛いよ……神子柴くんと手を繋いだり、おしゃべりしたり、もっとあの人の側に行きたいよ……」

 二人のか細い鳴き声が、部屋の中に響く。

 夏帆はその隣でビールを飲みながら、泣いている二人に黙って寄り添っていた。

「ハルくんめ――今自分が女を泣かせているってことにも気付いてないんだろうなぁ……」

 でも――確かにハルくんは自分から結衣さんに手を出すようなことはしないだろうとは思う。

 ファミレスで見たハルくんの結衣さんを見る目は、絶対に彼女を裏切らない、傷つけない、という慈しみに満ちた光を秘めていた。

 確かにあんな顔、私達や音々ちゃんにもしない――それを見ただけで、結衣さんがハルくんにとって特別な(ひと)だというのも分かる。

 だから絶対に傷つけるような手出しはしないはずだとは思う。

 けれど、ひとつだけ間違いが起こりかねない場合がある。

 それは……



 夏帆の部屋でそんな女子会が開かれている少し前。

 初春と結衣は家に向かう途中、駅近くのスーパーに寄っていた。

 スーパーといっても東京にあるような大型のものではなく、個人経営の小さな複合ショップのようなものである。

「へー、ほー」

 結衣はこの町の小ぢんまりした設備のなさに驚きながらも珍しそうに見ていた。

「――別に東京にいたらここに珍しいものはないだろ」

「ううん、ハルが住む町だからどんなところか見るのは面白いよ」

「……」

「そう言えば、私お昼ご飯あそこで食べたけどハルの作った料理を食べたのかな」

「お前がランチとか食ったならそうだろうな」

「ハルはいつの間にか料理もできるようになっちゃったのね。何かちょっと意外な感じがするけど……」

「……」

 口には出さなかったが、初春もほぼ1年ぶりに逢った結衣との距離感が上手く掴めずにいた。

 高校生になった結衣は、少し私服も大人びてお洒落になって見えた。

 高校で千川から出たこともあるのか、垢抜けた雰囲気になった。

 紅葉のファッション雑誌に載っていた結衣の写真もそうだったが。

 改めて、この幼馴染がきれいだと思った。

「今夜よければ、お前の好物を作ろうか――」

 不意にそんな優しい声が初春の口を突く。

「ホント? でも折角二人いるんだし、今日はあれにしようよ」

「あれ?」

「そう、じゃあ早速材料を揃えないとね」

 そう言って、スーパーで笑顔を見せる結衣。

 そんな結衣を、スーパーの客は子供も大人も皆が振り向いている。

「……」

 こんな風にいっしょに歩けば誰もがうらやむ女が、今夜俺の家に泊まる……

 初春はいまだにその意味を分かりかねていた。



「ここがハルの部屋……」

 結衣は初春の部屋をきょろきょろと見回す。

 正直一人暮らしというからどんなに狭い部屋かとも思っていたのだが、来てみたら一軒家だった時点でも結衣はかなり驚いていたが、中に入って景色のいいバルコニーがあるのを見て、改めて驚いた。

 初春は換気のために窓を開ける。

「とりあえずこの部屋を使ってくれ。冷蔵庫の中のものは勝手に飲み食いしていい。さっき一緒に買い出しに行ったから、色々入っているし……特に暑いから水分はまめに取れ」

「……」

「風呂は30分後には沸くようにしておくから、好きに入ってくれ。追い炊きもあるし。トイレは一階の廊下の風呂の隣のドアにある」

そう言って初春は買ったばかりの除菌消臭スプレーを結衣に手渡した。

「人を泊める準備をしていなかったから俺の部屋で申し訳ないが――不満ならこれを使え」

「ハルはどこで寝るの?」

「俺は居間で寝るよ。布団はないけど畳と寝袋があるし」

 東京にいた頃に野宿を少ししていたので、神庭町でも(ねぐら)が決まるまでは野宿覚悟だったので持ってきていたものだ。

「――何でハルの部屋を私に貸すの? ハルがこの部屋を使うべきなのに」

 結衣が首を傾げた。

「何でって――この部屋は2階だし、ドアに鍵が付いているから」

 風呂とトイレを除き、この家の部屋では2階のこの部屋だけが鍵がある。

「男の家に泊まるんだ――お前も鍵のある部屋の方が安心できるだろう?」

「いいよ別に、そんな気遣いしなくても。私が勝手に来たんだし……そもそも今日泊まらせてもらうって頼んだ時点で、同じ部屋で寝ることになると思って来たもの。想像以上に立派な家でびっくりしたけど」

「……」

「何なら、一緒の部屋で寝よっか。昔みたいに」

「……」

 初春は顔を覆った。

「――お前さ、少しは自分のことを自覚しろよ」

「ん?」

「俺がお前に何するか分からないだろうよ。もっと警戒しろよ」

「ハルはそんなことしないよ」

 結衣は心配そうな顔をする初春に微笑みかけた。

「私達3人の中で、ハルが一番私達が仲良くできるように心を砕いてたもの。いつも私とナオが喧嘩をすると、ハルは『仲直りして』って言うの。私達がずっと気まずいとハルは泣いちゃってね……」

「……」

 不意に昔のみっともない記憶が蘇る。

 そう――昔の俺はいつも直哉と結衣の後についていくだけの味噌っかすで――二人が喧嘩をして離れてしまったら自分もひとりぼっちになってしまうような気がして。

 俺は二人が喧嘩をする度に、仲直りを頼んでいた。

「私――この状況でナオと一緒だったら、きっとすごく緊張していると思う――ハルがいなくなってみて、改めて分かった気がするの。もし小さな頃に、私とナオと二人しかいなかったら、きっと私達は今もそんなに仲良くできてなかったと思う――お互い自分のことを自分で決めちゃうタイプだったし、我が強くて喧嘩ばかりしてたしね。ハルが間にいたから、私達は仲良くやれてたんだ、って」

「――別に俺は何もしていない」

「いいのよ、私がそう思っているだけだから。ハルのおかげで私達は上手くやれてきたって」

「……」

「そんな、私達のことを壊さないように気を遣ってくれていたハルだから信じるのよ。誰にでも同じようなことは言わないわ」

「……」

「でも、心配してくれたんだね。嬉しいよ」

「……」

「でも、自分のことを自覚しろって――ハルに言われるなんて、おっかしいんだ……」

 結衣は思い出し笑いを浮かべる。

「ハルだって、もう十分すごくなってるのに気付いてないんだから――髪形とか、中学の頃と変わってカッコよくなってるし――私の言ったとおりだったでしょ? ハルは髪型とか服装に気を遣えば、モテちゃうって」

「――別にモテたいわけじゃないんだけどな……」

 初春は深い溜め息をついて結衣に背を向ける。

「――とにかくお前はこの部屋を使え。それと10分だけこの部屋にいてくれ。風呂の準備をしてくる」

「折角お世話になるんだから、お風呂掃除くらいやるよ? ハルは仕事上がりなんだし……」

「結構だ――お前こそ長旅と待ちぼうけで疲れているだろ。少し休め……」

 そう言って、初春は静かにドアを閉めた。

「……」

 初春の部屋にひとり残される結衣。

「はぁ……」

 初春がいなくなった途端、深い溜め息を吐く結衣。

 あれだけ女の子に囲まれていても、女の子を連れ込んだような形跡のない部屋。

 家に着いて少しも片付けもせずに私を中に入れたことがそれを裏付けている。

「――私、やっぱりハルに女扱いされてないのかな……」

 ベッドの横に、初春が中学時代に使っていた竹刀がある。

 そして本棚に、高校課程の参考書が一通り入っている。

 結衣はその中から数学の参考書を選んで取り出し、中を見た。

 もう何度も読み返した跡があり、練習問題もしっかり解いてある。

「やっぱりハル――中学の時のハルのままだね……ちゃんと頑張ってたんだ」



 結衣がそんな初春の努力の跡を見て安心している頃。

「はぁ……」

 初春は風呂場と脱衣所を隔てる段差に腰を下ろして、シャワーが水からお湯に変わるのを待ちながら、がっくりうなだれていた。

「ハル様――あの方は」

 帰る前に音々には今日客人を泊めるとメールを入れていたが、帰ってくるなり見知らぬ女を連れてきた音々や紫龍達は皆挙ってさっきからの様子を見物していた。

「あいつ――無防備に俺のことを信じ込みやがって……」

 この家に着てから初春の脳裏には、自分の中から焦げ臭い臭いがするほど、思考の箍をきっちり締め付けていた。

「あれは思春期にはきついねぇ。無防備に信じられると、つい理性が揺らぐだろう。たとえ押し倒しても受け入れてくれそうな期待なんかしちゃうだろう」

 比翼の言うとおりだ。

 さっきから初春は結衣の仕草や自分を信じているという言動の度に心を抉られ、奥底に封じ込めていた未練が溢れ出てきそうなのに、必死に耐え抜いていた。

 普段は感じない自分の心の在り処が分かるようだった。

 でも……

「それだけじゃないな――これは……」

 初春を乱すものが、単に結衣への劣情だけでないことは、人の心の機微に疎い初春にも認識できた。

「男の部屋に来て、あんなに普通に落ち着いていられるんだ。俺があいつに男として見られていなかったのは分かっていた。俺だって今更あいつに自分の気持ちをどうこう言うような立場じゃないことも分かっていた……」

「……」

「けど――それを変えることすら今の俺にはできない……隣を歩くこともできないどころか、俺はあいつに、何をしてやればいいのかが分からない……」

 約1年振りに見た結衣は、垢抜けて綺麗になっていた。

 あいつはこれからどんどん綺麗になって、その美貌と才能でどんどん上に行き、いつかは俺の手の届かないところに行って。

 直哉と幸せになるんだ。

「それなのに――俺はもうあいつに何もしてやれないなんて……何頑張っても、あいつの隣にはもう行けないなんて……」

 あいつの存在が、俺の弱さを抉る。

 改めて逢ってみて、すぐに分かった。

 俺は結衣のことを――本当に思っているのだと。

 人間を嫌う俺だけど、結衣の事だけは何よりも信じられる。

 両親にも見捨てられ、人間に疎まれる俺に、結衣だけが優しさとぬくもりをくれた。

 そんなあいつの幸せを、誰よりも願いたい……

 それなのに……

「何もできないことが、こんなに悔しいなんて――自分の弱さがこんなに歯痒いなんて、知らなかった……」

 東京で負けに負け続け、最初は結衣のことも直哉に譲ろうとしていた初春だったが。

 今は何もせずに結衣のことを見送るしかできない自分の弱さに怒りを覚えていた。

 今でも王道を進んでいる結衣に対し、俺は何と醜いのだろう……

 こんな人間の世界を這い回るような生き方をして、先日は暴力でこの手を汚した。

 そんな俺があいつの力になろうとしても、もう邪魔なだけだ。

「……」

 それは普段感情の薄い初春が初めて感情の濁流に翻弄されている姿で、音々達は思わず声を失う。

 もう結衣のために何もできない自分の弱さへの怒りと、直哉と結衣をかけての勝負ができなかった未練に、初春は身悶えていた。

「……」

 比翼だけが天井を見上げて鼻を動かし、首を傾げていた。


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