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されど、空の深さを知る(2)

客もいないファミレスの中は異様な静けさに包まれた。

 既に知らせを聞いた他のパート達も様子を窺いに来ている。

 その視線で初春が我に返った。

「と、とりあえず、離れろ」

 初春は両手で結衣の両肩を抱き、自分の体から引き剥がす。

 涙目で初春を見上げる結衣。

「……」

 思わず初春は目を背ける。

「一応ここ、職場だからな……」

「う、うん、ごめん。そうだね……」

 結衣も涙を拭って自分の感情を仕切り直す。

「……」

「お、おかしいな。さっきまで話したいことがいっぱいあったのに、全部頭から飛んじゃったよ……えへへ……」

 照れ笑いを隠すようにはにかむ結衣。

「……」

「あ、あの――」

 そんな二人の埒の開かない歯痒さに、若干顔の引きつった紅葉が声をかける。

「あの、二人って一体どんな関係……」

 だが間に誰かが入ったことで、初春はいきなり結衣が来たという不測の事態の混乱が緩和し、頭が冷えた。

「あぁ、こいつは……」

 初春は指を顎に当てて暫し思案する。

「――何だろ。適当な表現が思いつかないな……」

「えぇ? 幼馴染でしょ?」

 結衣が戸惑うように言った。

「あぁ――そうか、東京を出たからそう名乗ってもよくなったのか」

 初春は納得するように頷いた。

「東京じゃお前等と俺が幼馴染なんて同列のくくりに立つと、みんな嫌な顔をしたからな。へりくだった方がいいのかと思ってな……」

「……」

 結衣はその意を汲み取ったが、紅葉と雪菜は首を傾げた。

「あの――もうひとついいですか?」

 紅葉が続けて結衣の方を見た。

「あなた――読者モデルをやっていませんか?」

「え?」

 紅葉は手に持っていた、愛読しているファッション雑誌を持ってくる。

「これ――2ヶ月くらい前から私の読んでいる雑誌の読者が、すごく可愛い新人モデルさんが入ったって、SNSとかで話題になってましたから。その娘にそっくりだなって……」

 そう言って雑誌のページを開くと、そこには街路樹の前で笑顔で写真に写る結衣の姿があった。私服姿の結衣は、この頃はまだ春服を着ている。

「……」

 初春も驚いた。こうして雑誌に結衣が出ていると、本当に他に写っている女の子が霞んで見えるほどだ。これでは一目でちょっとした話題になるのも無理はない。

「あぁ――これは町で声をかけられて写真に撮ってもらっただけで――正確には『読者モデル』ですらないんですけどね……」

「で、でもあなたは今有名人ですよ? 『次回はこの娘を表紙で!』なんて声も上がっているのに」

「へぇ――結衣、お前モデルをやるのか?」

「――ま、まさか。本腰入れてプロにならないかっていう芸能事務所とか、読者モデルでもいいからやらないかって出版社から声はかけられてるけど――保留中。学校の許可もいるしね」

「学校って――神代高校(カミコー)か」

「――うん」

「……」

 初春は記憶を反芻する。

「よく考えたらお前がちゃんと高校に合格したか、確認してなかったんだな――おめでとさん」

「あ、ううん……」

 不意にレストラン内に咳払いが響く。

 初春も紅葉も休憩中で、知人しか客はいないとは言えホールであまりにオフになりすぎている初春を諌めるため、他のスタッフのしたものであった。

「――悪い。一応勤務中なんでな」

「うん――終わるまで待ってるよ」

「そうか……じゃあ長時間の客になるから何かオーダーしておいてくれ。俺が奢ろう」

「え? いいよそんなの」

「いいからそうさせてくれ。俺を待つことでお前がここの連中から迷惑そうな顔をされるのは忍びない」

 そう言って初春は一度控え室に戻っていった。

「……」

 その言葉を訊いて、結衣はある程度察したように影で自分のことを見ていた店員達を見る。その視線に店員達はさっと隠れた。

「相変わらずの人間嫌い、か……」

「わ、分かるんですか?」

 雪菜がそのフレーズに驚いた。

「どうやらこの店の人は、ハルの仕事をあまり評価していないみたいですね」

「……」

 ウエイトレス姿の紅葉は何もフォローできなかった。

「でも、ハルはどんな仕事でも絶対に最後まで投げ出さないんですよ。向いてないと分かっている仕事でも絶対に諦めずに最善を尽くしてくれるんです。それを分かってくれる人に出会っていたらと思ったんですけど……」

「――わ、私は、知ってます」

 紅葉は言った。

「神子柴くんがそういう真面目な人だって……」

「――そうですか? ありがとうございます。東京じゃそれに気付く人が少なかったから、嬉しいです」

 それを聞いた結衣は嬉しそうに微笑んだ。それから雪菜の方を見る。

「ねえ、迷惑ついでなんですが、ハルを待っている間、この町にいるハルのことを聞かせてくれませんか?」

「え?」

「見たところあなた達はハルのことを知っているみたいだし……あなた達が見たハルのことを聞かせてくれませんか? 何か少し雰囲気が変わっていたみたいだし……」

「……」

 ――そんな話を結衣達がしている最中、初春は一人スタッフの控室に戻り、自分で作った賄いにも手をつけずに椅子に深く腰掛けて俯いていた。

「――くそ」

 ――頭がどうにかなりそうだった。

 最近の俺は仕事の空振りから改めて自分の歩く道が見えなくなり。

秋葉達との関わりが増えたり、夏帆には高校に行くように勧められたり、生活がまた急激に変わってきて。

 自分のことで手いっぱいだったというのに。

 結衣がそんな時に……

 もう二度と会うことはないかもしれないとさえ思っていたのに。

 そして――

 高校生になった結衣は、ずっときれいになっていた。

 一瞬見ただけで、俺の心は珍しく動揺して。

 俺の胸にあいつが飛び込んできた時なんて……



「――そうかぁ。ハルも色々と頑張っていたみたいだね」

 結衣は頷いた。

「……」

 雪菜はそんな結衣ともう3時間近く話をしている。

 そんな話をしているうちに段々と打ち解けていき、結衣は敬語をほとんど使わなくなっていったが。

 話していても分かる。

 この()――なんて素敵なひとなんだろう。

 優しい声をした話し方は生徒会長のスピーチ仕込みで淀みなく爽やか、聞き手に回る時の相手への気遣いや、話しやすい空気の作り方――

 人見知りの私がこんなに二人きりで話して嫌じゃないのは、神子柴くんに次いで二人目だ。

 相手を慮らないわけでも、必要以上に卑屈でもない。リアクションもなさすぎずわざとらしくなく、その全てが丁度よく雪菜の胸に収まる。

 会話を『キャッチボール』と表現することがあるけれど、その表現が使われる意味が、毎回胸に返される結衣との会話で分かった気がした。

 結衣は初春のことの他にも、東京のことや、雪菜に合わせて好きな本の話もした。

 話を聞いていても、この人がものすごく頭の回転が速いことが分かる。だけどそれを鼻にかけないような、年相応の女の子のような空気を作ってオブラートに包む。

 色々な意味で絶妙――そんな優しい空気を持った人だと安心感さえ覚えている。

 ――初春より1時間早い5時に仕事を上がった紅葉は、仕事を終えるとすぐにそんな雪菜と結衣のいる席へと向かった。

「く、紅葉ちゃん――お疲れ様です」

 雪菜の表情は明るい。

「セツナちゃんから聞きました。あなたもハルと仲良くしてくれているみたいで」

 結衣は紅葉に微笑みかける。

「それと――『何でも屋』のことも」

「え?」

 それを聞いた瞬間、紅葉は隣の雪菜に耳打ちした。

「セツナ、あなた音々ちゃんやあの家のことを――」

「い、言ってないです。それは秘密だって……」

「どうかしました?」

「う、ううん。何でもないです、あ、あはは……」

 ひきつった笑みをこぼす紅葉。

 ――どうしよう、私はいまだにこの目の前の超絶美少女とどう向き合えばいいか分からない。

 恋らしい恋をしたのも初春が初めて――そんな人がこんな美少女を連れてきて、ただならぬ関係という場面の経験など勿論ない。

 こういう時、少女漫画とかだとどんな風になるんだろうとか、自分の持っている限りの知識で対応を導こうとする。

 ――だけど。

 ホールで見ていた限り、あの人見知りの雪菜が緊張した顔を見せるどころか、小さく笑みを見せる場面もあるくらいだった。

 それを見ただけでも、紅葉も結衣に対する興味が募り、仕事中も気もそぞろだった(おかげで2個もコップを割ってしまった)。

 そんなことを考えている時に、新規入店のチャイムが聞こえた。

「ふぃー、おなか空いたよぉ」

 今にも倒れそうな雰囲気で葉月夏帆がファミレスに入店してくる。夏休みの間の教師の研修で一日勉強会に出ていた夏帆は、退屈な話に一日耐え忍び、心身ともに消耗しており、クーラーの効いた部屋で食事を摂りたかったのだ。

 紅葉と交代したホールスタッフが入り口でお好きな席を、と言われた夏帆はまず落ち着けそうな席を探す。

 すると客席で、雪菜と5時にバイトをあがったばかりの紅葉、そして見たことのない美少女の座る席を見つける。

「夏帆ちゃん」

「あら、二人ともおそろいで――って、そちらとんでもない美少女ね」

 夏帆も思わず目を丸くした。

「あ、あの、この方がゆ、結衣さんの探していた葉月先生です……」

「え? この方が葉月先生?」

 雪菜からそれを訊いて、結衣は思わず立ち上がった。

「すみません。私――日下部結衣と申します。白崎先生からハルがこの町にいるって葉月先生から連絡があったって聞いて、それでセツナちゃんにここまで案内を頼んで……」

 そう挨拶をしながら、結衣はしげしげと夏帆のことを見た。

「てことは、ハルくんのお客様ってことか……」

「あの――すごく御綺麗ですね……」

 結衣は目を丸くしている。

「何となくイメージで、葉月先生ってもっと高齢の方かと……それがこんな綺麗な人なんて……」

「いやぁ――コメントに困る……」

 さすがの夏帆も驚いた。あの女っ気のない初春にこんな娘が訪ねてくるなんて……



 結衣達の隣の席で夏帆が注文したタコライスを食べている頃、着替えを終えた初春が私服で出てきてホールに出る。

「葉月先生……」

 挨拶代わりに会釈を返す初春。

「ハルくん――この展開は想定外だよ。ハルくんにこんな可愛いお知り合いがいるなんて……」

「――すげぇ楽しそうですね」

 初春はその夏帆の満面の笑みに、厄介な状況で厄介な人がいると思った。

「――ユイ、悪かったな。何時間も待たせて……」

「――ふん」

 しかし結衣はそんな初春の視線をふくれ面でかわす。

「――ん? どうした?」

「私の連絡をずっと無視して、どんな生活を送っていると思ってきてみれば――こんな可愛い娘達と仲良くなっているなんて――」

「はぁ?」

「道理で私の連絡にも答えないわけだわ……」

「……」

 夏帆はにこにこ顔だ。

「――すまん」

「――何で謝るの?」

「お前に言い訳はしないよ。そう思われたのならそう思われる俺の器の問題だ」

「……」

 その大真面目な初春の目に結衣は苦笑いを浮かべた。

「――相変わらずだなぁ。そういう誤解を解くことを早々に諦めちゃうの」

 結衣の脳裏には、幼い頃からそうした状況で初春が無実の言いがかりで大人達に怒られ泣いていた、幼い頃の初春の姿を思い出す。

「いつからかハルはそういう言い訳や弁明を全然しなくなっちゃったね……」

「人間相手にそんなことしても無駄だろ。話す前から白か黒か決めてるし、騒げば騒ぐほど面白がるし」

 初春はさらりと言った。

「水は方円の器に随う――結局は他人の状況に合わせることに変わりないなら、他人の心境の変化に期待するよりも自己完結できる方が気分的に楽だ」

「ふふ……」

 その口ぶりに、結衣は嬉しそうに笑った。

「何だ?」

「そのハルの口癖――久し振りに聞いたよ。その口癖こそハル、って感じだね……」

 懐かしいフレーズが初春の口から出て、結衣はほっとしたように微笑んだ。

「さっきのは冗談よ、ちょっと連絡をしてこなかったことに、意地悪をしたくなっただけ」

「そうか」

「ごめんハル――忙しいのに勝手に来ちゃって」

「それはいいが……何でこんなところに。ていうか何でここに俺がいるって」

「白崎先生から聞いたのよ。ハルがこの町にいて、高校入学の手続きをするかもしれないって、葉月先生から連絡があったって」

「……」

 初春は夏帆の方を見た。

「――ごめんハルくん。どうしても中学時代の書類は必要だから」

「――いえ、別にいい悪いの話じゃないんで」

「……」

 初春が神庭高校の入学を夏帆の斡旋で勧められていることは、結衣と夏帆の話から紅葉と雪菜も先程知ったところだった。

「だから卒業証書を届けに来たよ。卒業アルバムも」

 そう言って結衣は自分のトラベルケースから卒業証書の入った黒い筒と、卒業アルバムを取り出した。

「……」

 初春は呆気にとられた。初春には卒業アルバムを見て懐かしむような中学校生活の思い出が特にないから、アルバムを貰っても自分ではまず開かないだろうし。

「だが――これだけのためにここまで来たわけじゃないだろ」

 初春は首を傾げた。

「いいじゃない。私達ほぼ1年会わなかったのよ。なら会いに来ても……」

 初春は両親が離婚し、団地を引き払い親族の家に預けられた頃からもう中学に通わなかった。それが大体去年の10月頃で、今は7月の終わりだ。確かに結衣とこうして会うのはほぼ10か月ぶりである。

「そんなに経ってたか……」

「それに――私もハルに謝りたくて」

「は?」

「――ハルが一番辛い時に私、何もしてあげられなかったね……おばさんが離婚したことも、ずっとハルの家がそんなになっていたことも、全然知らなくて……」

「お前が気に病むことじゃない。むしろこれが普通だ。どっちみち俺はお前と同じ学校に通うのは中学が最後だと思っていたんだ。束の間の夢を見ていただけのことだ。」

 初春は言った。

「井の中の蛙、大海を知らず――俺はお前みたいな奴の横で同じ道を歩くにはあまりにも視野が狭過ぎた――それだけのことさ」

 自嘲ではなく、これは初春の本音であった。

 特に最近になって自分の未熟さ、視野の狭量さ、思想の乏しさを痛感しているところだ。

 俺はこいつの隣で未来を見るには、あまりにも夢がなさ過ぎた。

 こうして目の前にこいつがいる今でさえ、俺は何も見えていないんだ。

「井の中の蛙、大海を知らず――」

 不意に結衣が初春の台詞を反芻した。

「されど、空の深さを知る――ハルの目はちゃんと大事なものが見えているってこと、私は知ってるから」

「……」

 その結衣の答えは、多くの思惑の蠢いていたファミレス内の空気を清新に洗い流すようであった。

「――くそ」

 しかし何故か初春は歯噛みして、目を背けながら右の掌で視界を覆った。

「俺にそんな過ぎた評価をするのはお前くらいだからな――調子が狂う」

「……」

 そんな二人のやり取りを見て、紅葉と夏帆も先刻雪菜の見抜いた結衣の爽やかな雰囲気に思わず目を奪われてしまった。

 初春の自虐をやんわりとなだめながら、たった一言で初春の本質を言ってみせた。

 それはかつて自分達にはできなかったこと。

 初春の中にある『悪』に身が竦んで、初春を信じることに弱気になってしまった経験が、紅葉達にはある。

 自分達のできなかったことを、今日ここに来たばかりの結衣がやってのけたのは、素直に感服するしかなかった。

 そして――それを受けた初春も……

 結衣を見た瞬間から、初春は紅葉達の知らない初春になっていた。

 普段は人を路傍の石ころ程度にしか思わない初春の対応が、結衣を前にするとあの超然とした初春とは思えないほど余裕がなくなった。

 だから、結衣の一言にはああして初春は妙な反応をする。

 普段だったら『別に構わない』『人間のやることは分かっている』とか言って流しているのに。

 人間を相手にあんなに初手から戸惑う初春を見るのは初めてだった。

 あれは苦手な人間に抱きつかれたから起こった反応じゃない――その前――結衣を見た瞬間からおかしかった。

 誰がどう見ても、初春にとって結衣が特別な存在であると、その態度だけで分かってしまった。

「――あ」

 不意に初春は嫌な予感に気づく。

「ユイ――お前トラベルバッグを持っているってことは、今日はこっちに泊まるつもりだったのか?」

「うん……」

「――今日の宿は?」

「まだ決まってないの。こっちで見つかるかな、と思って旅行がてら探そうと思っていたんだけど……」

「え? それまずいんじゃないの……」

 紅葉が目をきょろきょろさせる。

「こ、このあたりに当日で泊まれる宿なんてありませんよ。しかも一人じゃ……」

「え? そうなの?」

「……」

 初春は分からないでもない。東京から来た者からすればカルチャーショックを受けるほど神庭町はド田舎なのだ。

 東京なら当日チェックインでいくらでも宿は探せる。東京生まれ東京育ちの結衣が簡単にこの町で宿が見つかると思っていても無理ないのである。

元々観光客の繰るような場所ではないため、宿自体がない。山間部に温泉宿があるがここからは遠い上に、元々客が少ない為に当日の宿泊準備はしていない。

「ここの終電も7時で終わるからな……もう今からこの町を出て宿を探すのも難しいぞ――」

 初春は外を見る。真夏の午後6時過ぎはまだ明るいが、時間の問題ですぐに暗くなるだろう。

 うっかりしていた――結衣が来たことの驚きとキッチンの暑さにやられた思考で注意力が散漫で、結衣の今夜の宿のことをまったく考えに入れていなかった……

「ど、どうしよう……」

「……」

 この瞬間、ここにいる全員が嫌な予感を共有した。

 そしてその予感が的中することになる。

「は、ハル……」

 結衣が遠慮がちに初春に声をかける。

「――まあ、それしかないか……いいぜ。泊めてやるよ」


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