されど、空の深さを知る(1)
少女はその駅前ロータリーの閑散振りに目を丸くした。
「駐輪所でお金取られないんだ……」
ひとまず暑いので自販機を探し、ひとつだけあった自販機で冷たいお茶を買った。
「さて――白崎先生は、神庭高校の葉月って先生から聞いたって言ってたから――その先生に会えれば分かるけど、その前に」
少女はそう思い、神庭高校の場所を調べる為に携帯の地図アプリを起動させようとしたが、携帯が自分の場所を特定してくれずに接続が切れてしまった。
「……」
奇しくもこの少女はこの町に初めて降り立った初春と、今のところ全く同じことをしていた。
すると駅前に交番があるのを見つけ、警官に質問をした。
「すみません。このあたりに図書館ってないですか?」
図書館にやってきた少女は中に入ると、夏の日差しをようやく逃れ、クーラーの効いた図書館の涼しさにほっと一息ついた。
受付にいた『ヒノさん』が思わず目を丸くする。
「すみません」
そんな『ヒノさん』に少女は声をかけた。
「実はこの町で人を探しているのですが――この人をこの図書館で見たことはありませんか」
そう言って携帯のメモリーから写真を選択して、液晶画面を『ヒノさん』に向けた。
その写真にはブレザー姿の目の前の少女が真ん中でVサインをしながら、両端に学ラン姿の男子がいる。
一人は長身の美少年、そしてもう一人は少し長めの坊主頭をした学ラン姿の初春であった。
「……」
それが初春であることは『ヒノさん』もすぐに察した。
「どんな些細なことでもいいんです。元気そうだったかどうかだけでも……」
だが。
「ちょ、ちょっと確認したいことがあるので、待っていてくれませんか?」
そう言って『ヒノさん』は受付を出て、そそくさと2階の読書室へと向かった。
今日もまばらな利用者の中で、数学のドリルに頭を悩ませていた雪菜の席に一目散に駆け付ける。
「ちょ、ちょっと雪菜ちゃん! あ、あなたの王子様にとんでもないお客様が!」
「――は?」
「と、とにかくちょっと来て!」
そう言って返事もないまま雪菜は『ヒノさん』に手を引かれて図書館のエントランスに行き、受付の前で立っている少女の姿を隠れて窺った。
「綺麗……」
白のレースのブラウスに、ミルクティー色のハイウエストのロングスカートというシンプルな夏服だが、それが彼女のスタイルのよさと女の子らしい大きな瞳、白い肌、優しそうな笑顔の柔らかさを更に引き立たせていた。
こんな可愛い娘、見た事ないよ……
「あの娘が、あの何でも屋の彼のことを知らないかっていうのよ。あの娘のこと、何か知ってる?」
「い、いえ……」
この田舎町で育った人間にはない、都会人の雰囲気が少女からは漂っている。
「――どうする? 私は雪菜ちゃんのことを考えたら、あの彼のことを黙っていた方がいいかな、と思ったんだけど……」
「……」
雪菜は確かに心穏やかではない。
だけど――
困っている人を見たら放っておかない――そんな初春のことを頭に思い浮かべたら、それを隠すことをする自分が卑小に思えて。
あの人を追うからには、こういう時に動けないといけない――そんな思いに背中を押された。
「――お話しましょう」
「そう?」
雪菜の言葉で二人はエントランスに出ていく。
「お待たせしました。この娘がその彼のことをよく知っていますので」
「ほ、本当ですか!」
さっきまでの柔和な空気ではなく、息巻くような様子に豹変する。
「お願い! ハルのこと、何か知っているなら教えてください!」
「……」
「あ――す、すみません。つい興奮しちゃって……図書館なのに」
「い、いえ」
少女に詰め寄られたことにびっくりした以上に雪菜の胸が痛んだのは……
こんな可愛い女の子がこんなに必死で探すような初春に、少しでも近付こうなんて……
また自分の中の臆病の虫が鳴きだしたことが分かった。
そんな可愛いこの娘に、私は嫉妬したのだろうか……
「あ、あの……」
それまで雪菜も、今日は図書館に行こうか初春のファミレスに行こうか悩んでいたくらいだった。
昨日の初春のくれたメモ用紙を家で読み返していたら、今日も会いたいなんて……
そんなことを思っていることを知られるのが恥ずかしかったけれど。
そう、思ってしまったのだ。
「た、多分今は、仕事中だと思うんですが……」
「暑い……」
初春は今日もオーブンとグリドルの前でひたすらランチのハンバーグと格闘していた。
基本初春のバイト先のファミレスでは、ランチはハンバーグ&エビフライとか、ハンバーグ&鳥の唐揚げとかそんな組み合わせをローテーションしている。
ランチメニューのグリドル担当はその中でひたすらハンバーグを焼くのが常であった。
今日は他のサラダなどを作る場にいつも入っているパートの一人が入っている。
必要以外のことを話そうともしない初春のいるキッチンは常に静かだ。淡々とオーダーをこなしていき、滞ることがない。
初春は一人でグリドルを動かしながら、一人でパスタ場も動かす。
「神子柴くん、1-3の卓のエビフライ、タルタルソース抜きで」
今日ランチに入っているホールの紅葉の声が提供台から聞こえる。
「了解。4-2のランチ3枚出るぞ。あと一分で2-3も出る。運んだらすぐ戻って来てくれ」
「う、うん」
初春の指示が飛ぶおかげで紅葉も忙しくても思考が整理され、働きやすい。
初春の料理提供は速い。マニュアルで提供時間が指定されているが、どんなに忙しくてもそれを超過したり、抜けや漏れを作ったのを紅葉は見たことがない。
「……」
本来キッチン担当は上下とも白のコック服だが、初春はいざとなればホールも出来るためホール用の黒の前掛け、黒のパンツ、黒のローファーでキッチンをこなす。
そんな姿で目まぐるしくキッチン内で動き、滞らない初春はまるでキッチンでステップを踏むように軽快で、紅葉はいつも目を奪われる。
指示の通り提供台の料理を提供し尽くし、小康状態に入る。12時半を過ぎるとオーダーのピークが終わり、あとは片付けや補充に備える時間となる。
店内に新しい入店のチャイムが鳴ったのは、そんな頃だった。
紅葉が案内のためにレジ前に向かうと、そこには雪菜と見目麗しい少女が立っていた。
「セツナ――」
その雪菜の表情が、何か大きな波紋を呼ぶ何かを連れてきたことは紅葉もすぐに察した。
そうでなくても、雪菜の隣にいる少女は、同性の紅葉から見ても目が覚めるような美少女だ。それを見ただけでも驚く。
「あ、あの――く、紅葉ちゃん……」
最近こう呼び始めたばかりでぎこちない雪菜の口調。
「み、神子柴くんは今日、ここで働いているんですか……」
「う、うん。今キッチンにいるけど……」
「こ、この方が神子柴くんを探しているみたいで……」
「――お願いします。休憩時間になったらでもいいので、ハルを呼んでいただけませんか?」
「ハル……」
その呼び方だけ聞いても、この少女が初春と知り合い――しかもかなり見知った仲ということは、紅葉も察する。
その事実が、紅葉を実に不安にするけれど……
「と、とにかくそれまでどうなさいます? あと2時間くらいありますけど――店内でお待ちになりますか?」
「お願いします。実は今日神庭町に来て、おなかペコペコで……」
にこりと笑う少女。
「読書の邪魔をしてごめんなさい――ここまで案内してもらったお礼に、あなたにご馳走させてくれませんか?」
少女は雪菜ににこりと微笑んだ。
デシャップに戻った紅葉はまだ断続的に続くオーダーをこなす初春を覗いた。
「ねえ、神子柴くん」
提供台に体を乗り出して、紅葉は初春に声をかけた。
「今神子柴くんを訪ねてきた人がいるの――」
「は? 俺に?」
初春は振り向いて意外そうな顔をした。
この町に知人のいない、いたとしても大抵紅葉の知っている人ばかりである程度の人脈の初春に訪ねられる心当たりなどない。
「うん、すっごく可愛い娘よ――何か会う約束とか、心当たりないかと思って」
「あるわけないだろ――」
「神子柴くんの休憩まで待つって言ってるんだけど。終わったら顔出せるかな」
「あぁ、いずれにしてもそれまでここを離れられないからな……」
「……」
紅葉はホールを見ると、雪菜と少女は店長に同じ席を案内されていた。
「何でも注文してください。私のおごりですから」
「は、はい……」
と言っても人見知りの激しい雪菜は相席だけでも緊張するのにこんなレストランに来た経験もないためオーダーを決めるのに時間を要する。
少女は雪菜が決まるのを待つ間、トラベルバッグとは別の小さな鞄から本を取り出した。
装丁に『芥川龍之介短編集』とある。
「あ」
同世代でこんな本を読む人に出会ったことのない雪菜はつい驚いた顔をした。
「ん?」
「ご、ごめんなさい。今時古典でも三島や太宰じゃなく、短編ばかりの芥川を読むなんて珍しいなって思って……」
「あぁ――ハルが好きだったんです、芥川の童話系の作品が。だから何となく私も読むようになっちゃって」
「そ、そうなんですか?」
「えぇ、特にハルは『杜子春』が好きで、よく読んでましたよ」
「あぁ……」
勿論雪菜も読んだことがある。ストーリーを思い出すと、確かに人間嫌いの初春が好きそうだと納得した。
「あ、あの――何で真っ先に図書館で神子柴くんを探そうと思ったんですか?」
「元々ハルの行動パターンは狭いですから。人と関わるのが苦手で東京でも大抵図書館に入り浸っていたし。だからこの町でもきっと図書館に通っているのかなぁ、と思って」
「……」
やっぱり東京から来たんだ、この人も。
それにこの観察眼や推理力も――人の行動予測に長けた神子柴くんそっくりだ。
でも……
「……」
そんな雪菜と少女の様子をデシャップで窺う紅葉。
本の話ができたこともあるが、この目の前の少女の纏う空気の何と穏やかなことだろう。あの人見知りの雪菜の緊張の空気が和らいでいる。
きっと初春の知り合いだと聞いて心穏やかではなかろうに、そんな空気さえ薄れさせてしまうような空気をあの少女は持っていた。
「でもあの娘――どこかで……」
紅葉が記憶を反芻させている頃、初春は何も知らずにキッチンで汗を拭ってグリドルと格闘を続けていた。
2時を過ぎるとこの町の人間は一斉に仕事に戻るため、客がゼロになることも珍しくない。
元々コンビニもなく、深夜に働く人もいないためここに住む人間の生活リズムはかなり画一的だ。皆が一斉に食事をし、皆が一斉に仕事に戻っていく。
「ふーっ」
初春もようやくピークを終え休憩室に戻ってくる頃にはもう顔が油でギトギトになっていた。
上の分厚いコック服を脱いで、黒のTシャツ1枚になっても暑い。氷水を飲み干すと、すぐに汗が体中から噴き出た。
「お疲れ様、神子柴くん」
紅葉も同じ時間に休憩に入ったため、控室で初春と鉢合わせた。
「――で、俺を訪ねてきた奴ってのは、まだいるわけ?」
「う、うん、ずっと待っていたわ。セツナと……」
「柳が連れてきたのか?」
ますます心当たりがなくて首を傾げるが。
「飯くらいゆっくり食わせてほしいんだがな……」
そう言いながら初春は紅葉の案内で全身黒ずくめのシンプルな恰好のまま、デシャップを抜けてもう雪菜と少女しかいないホールに出る。
「はあっ?」
その少女を見た瞬間、ここにいる誰もが聞いたことのないような声で初春の驚嘆の声が上がった。
「ハル……」
その姿を見た瞬間、少女は今までの柔和な空気を一変させ、不敵な笑みを浮かべた。
「ゆ――ユイ! 何でお前がここに!」
「……」
あの鉄面皮の初春が少女の顔を見るや否や、明らかに驚き狼狽したのが紅葉や雪菜も分かった。こんな初春を見るのは初めてだった。
「何で――それはこっちの台詞よ!」
つかつかと詰め寄ってくる結衣の目には涙が浮かんでいた。そのまま棒立ちの初春の胸に飛び込み、握り拳で初春の胸板を何度も叩いた。
「バカ! 何度も連絡したのに! 心配したんだから……電話くらい出なさいよ、バカ……」
はじめは怒気を孕んでいた言葉も、無事を確認できた安堵と嬉しさですぐに涙声に変わる。
「……」
もう客もいないとはいえ、こんな美少女が初春に会って、人前だというのに泣き出すなんて、初春を馬鹿にしているこのファミレスの連中も信じられないという面持ちで見つめていた。
紅葉達にとっても同様だった。自分達以外に初春のことを知るはずもないと思っていたのに、こんな娘が初春を心配で探しに来たなんて……
――また初春のことが分からなくなる。
また初春のことを、まだ何も知らないと思い知らされて――不安になる。
「……」
そんな結衣の体温を今肌で感じている初春は、そんな周りを気遣う余裕などまるでなく……
結衣が自分の胸の中にいるという現実に酷く狼狽していた。
少し前に心を抱きしめた時に感じたもの……
心を抱きしめた時、初春は思っていた。
もしこれと同じことを紅葉や雪菜と……
そして、結衣にしたら――俺はどんな思いに駆られるのだろうと。
そんなことを考え始めるようになった矢先の結衣との再会は、初春の封じ込めていた想いを一気に開かせる。
胸の鼓動が、目の前の女によって一気に速くなる。
この目の前の女を欲しいという欲望がふつふつと沸き起こり、体が昂揚する。
思想のない初春が、これほどに何かに心を動かされたことなどない。
もう結衣を『幼馴染』ではない、一人の『女性』としか見ることのできないという事実を初春にこれでもかというほど突き付けてくる。
初春にとって日下部結衣は、それだけの人間だったのである。




